第1章 年〜年

ダイヘン:大阪変圧器の柱上変圧器生産と終戦による工場閉鎖

1919年〜フォード式の柱上変圧器専門製作と、他社の半値に近い55円の値付け

大阪変圧器は1919年12月、資本金50万円で大阪府西成郡中津町に設立され、人員16名の工場で柱上用変圧器だけを量産する事業を始めた。創立者は毛布問屋を営む小林政治氏、技術者の小林愛三氏、品川家の養子となった弟の品川良造氏の3人、社長は小林政治氏。小林愛三氏は前職の大阪電機製造で、多品種を並行して手がけた工場が採算に乗らない経緯を見た。品目を絞らなければ研究が行き届かず原価も高くなると考え、数が最も多く出る変圧器を選んだ。当時の変圧器は形状・寸法・品質がメーカーごとにばらつき、標準品を量産する余地があった。小林愛三氏は、前職の失敗から専門化の効き目を最も大きく引き出せる品目を選んだのだろう。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [1]1919年12月、フォードの経営方式に倣い柱上用変圧器の専門多量製作を掲げて資本金50万円で創立。当時の変圧器は形状・寸法・品質が不均一。創業工場は西成郡中津町、人員16名
    • [5]1919年12月、フォードの経営方式に倣い柱上用変圧器の専門多量製作を掲げて資本金50万円で創立。当時の変圧器は形状・寸法・品質が不均一。創業工場は西成郡中津町、人員16名
  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [2]小林愛三氏は大阪電機製造の多品種工場の失敗から専門化を志向。兄(毛布問屋)が社長、愛三氏が常務、品川家の養子の弟が取締役支配人。最も品物の出る変圧器を選んだ
    • [3]小林愛三氏は大阪電機製造の多品種工場の失敗から専門化を志向。兄(毛布問屋)が社長、愛三氏が常務、品川家の養子の弟が取締役支配人。最も品物の出る変圧器を選んだ
    • [4]小林愛三氏は大阪電機製造の多品種工場の失敗から専門化を志向。兄(毛布問屋)が社長、愛三氏が常務、品川家の養子の弟が取締役支配人。最も品物の出る変圧器を選んだ

大阪変圧器は注文を受けてからつくる方式をとらず、計画に沿った流れ作業で柱上変圧器を生産して原価を引き下げた。容量1キロの変圧器は、東京の日立製作所や芝浦製作所の品が100円以上、関西の奥村電気や川北の品が70〜80円で取引されていた。大阪変圧器はこれを55円で売り出し、業界を驚かせた。同業が品物を分解して調べると品質はむしろ良く、注文は大阪変圧器へ急速に集まった。1968年刊の企業史も、価格の低さと短い納期を創業期の特徴に挙げている。創業から数年で、大阪変圧器は地元関西の需要の大半を受注するに至った。大手の半値近い価格に分解検査での品質の裏付けが加わり、需要家の信頼につながったとみられる。

  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [6]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
    • [7]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
    • [8]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
    • [9]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [10]創業時から短納期・低価格で生産し、数年のうちに関西の需要の大半を獲得
    • [11]創業時から短納期・低価格で生産し、数年のうちに関西の需要の大半を獲得

大阪変圧器は1922年に東京出張所を開設し、関東市場へ進出する拠点を設けた。創業直後には第1次大戦後の反動不況に見舞われたが、電力事業の発展と一体の事業だったため、営業は次第に安定した。1923年9月の関東大震災では、被災地の電気事業者の応援要請を受け、大阪変圧器が変圧器を緊急に生産。震災後の緊急供給を機に、大阪変圧器は東北・北海道でも取引先を得た。それからまもなく、全国の総需要の過半数を大阪変圧器が占めた。震災で一度に大量の標準品を求められた局面は、専門量産の工場の強みが最も生きる場面だったと思われる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [12]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
    • [14]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
    • [15]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
    • [16]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [13]創業後まもなく欧州大戦後の反動不況の影響を受けたが、電力事業と不可分の事業として漸次営業は軌道に乗った
参考文献[1]-[16]
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [1]1919年12月、フォードの経営方式に倣い柱上用変圧器の専門多量製作を掲げて資本金50万円で創立。当時の変圧器は形状・寸法・品質が不均一。創業工場は西成郡中津町、人員16名
    • [5]1919年12月、フォードの経営方式に倣い柱上用変圧器の専門多量製作を掲げて資本金50万円で創立。当時の変圧器は形状・寸法・品質が不均一。創業工場は西成郡中津町、人員16名
    • [10]創業時から短納期・低価格で生産し、数年のうちに関西の需要の大半を獲得
    • [11]創業時から短納期・低価格で生産し、数年のうちに関西の需要の大半を獲得
    • [12]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
    • [14]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
    • [15]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
    • [16]1922年東京出張所開設。1923年関東大震災で被災地の電気事業者の要請に応じ緊急生産。震災を機に東北・北海道へ進出し、全国総需要の過半数を占めた
  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [2]小林愛三氏は大阪電機製造の多品種工場の失敗から専門化を志向。兄(毛布問屋)が社長、愛三氏が常務、品川家の養子の弟が取締役支配人。最も品物の出る変圧器を選んだ
    • [3]小林愛三氏は大阪電機製造の多品種工場の失敗から専門化を志向。兄(毛布問屋)が社長、愛三氏が常務、品川家の養子の弟が取締役支配人。最も品物の出る変圧器を選んだ
    • [4]小林愛三氏は大阪電機製造の多品種工場の失敗から専門化を志向。兄(毛布問屋)が社長、愛三氏が常務、品川家の養子の弟が取締役支配人。最も品物の出る変圧器を選んだ
    • [6]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
    • [7]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
    • [8]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
    • [9]フォード式の計画的な流れ作業で原価を下げ、1キロの変圧器を55円で販売(日立・芝浦は100円以上、奥村電気・川北は70〜80円)。分解すると良質と分かり伸長
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [13]創業後まもなく欧州大戦後の反動不況の影響を受けたが、電力事業と不可分の事業として漸次営業は軌道に乗った

1928年〜酉島変圧器の中・大型専業と、全国需要の8割を占めて移った現在地の工場

大阪変圧器は1928年11月、大型変圧器を製造する傍系会社として酉島変圧器を設立した。設立は需要家筋の勧めによるもので、柱上用より容量の大きい75キロ以上の中・大型品を生産するためだった。大阪変圧器は中・大型品を自社の工場でつくらず、酉島変圧器を専門工場とした。酉島変圧器の役割は、大阪変圧器が受注した大型変圧器の製造である。受注は大阪変圧器が担い、製造だけを別会社に任せる分業となった。1941年11月に大阪変圧器が酉島変圧器を合併するまで、この体制は13年続いた。柱上用の流れ作業を乱さずに品目を加えるため、製造の場所を分けたと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [17]1928年11月、傍系に酉島変圧器を設立し大型変圧器を生産させた
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [18]1928年、需要家筋の勧めで75キロ以上の中・大型変圧器生産のため酉島変圧器を設立し専門工場とした
    • [19]1928年、需要家筋の勧めで75キロ以上の中・大型変圧器生産のため酉島変圧器を設立し専門工場とした
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
    • [20]1928年11月酉島変圧器設立、大阪変圧器受注の大型変圧器製造会社として発足。1941年11月に合併
    • [21]1928年11月酉島変圧器設立、大阪変圧器受注の大型変圧器製造会社として発足。1941年11月に合併
    • [22]1928年11月酉島変圧器設立、大阪変圧器受注の大型変圧器製造会社として発足。1941年11月に合併

昭和初期の金融恐慌で同業の多くが倒産するなか、大阪変圧器は1930年頃に全国総需要の8割以上を生産した。小林愛三氏によれば、原価の面で競争できなくなった同業は1929年から1930年頃にほとんどが生産をやめた。大阪変圧器の占める割合は国内生産の8割。生産の拡大で中津の工場は手狭となり、大阪変圧器は工場を中津から現在の本社所在地へ移して設備を拡充した。移転を1931年2月とする記録もあり、時期には1年ほどの幅がある。同業が撤退したあとの需要は、原価で優る専業の量産工場へそのまま集まり、工場の移転を促した。金融恐慌は、価格で劣る同業を市場から退かせ、専業の量産工場に需要を寄せる働きをしたと読み取れる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [23]金融恐慌で同業者の多くが倒産する中、1930年頃に全国総需要の8割以上を生産。工場狭隘のため中津から現在地へ移転し設備拡充
    • [26]金融恐慌で同業者の多くが倒産する中、1930年頃に全国総需要の8割以上を生産。工場狭隘のため中津から現在地へ移転し設備拡充
    • [28]金融恐慌で同業者の多くが倒産する中、1930年頃に全国総需要の8割以上を生産。工場狭隘のため中津から現在地へ移転し設備拡充
  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [24]1929〜1930年頃、コストで競争できず他社はほとんど撤退し、全生産の8割を占めた
    • [25]1929〜1930年頃、コストで競争できず他社はほとんど撤退し、全生産の8割を占めた
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [27]1931年2月、大阪工場を現本社所在地に移し設備を拡張

1931年から1937年頃まで、大阪変圧器は柱上変圧器で日立製作所と正面から競争した。日立製作所の対抗策は、大阪変圧器の量産方式を研究したうえで自らも専門工場を設けるというものである。ほかの同業はすでに撤退しており、終戦まで2社で全国生産の9割を製造した。小林愛三氏は1959年の対談で、競争を降りなかった理由を『こちらはこれ一つですからね、やめたらつぶれてしまいます。命がけです。』と振り返った。競争は双方にとって苦しく、1937年の支那事変で資材が統制され、価格で争う必要がなくなるまで続いた。戦時体制に入ると変圧器と溶接機の緊急需要が大幅に増えた一方、大阪変圧器は主要資材の入手難に悩まされた。

  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [29]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [30]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [31]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [32]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [33]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [34]戦時体制下で変圧器・溶接機の緊急需要が大幅に増えたが、主要資材の入手難に悩まされた
参考文献[17]-[34]
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [17]1928年11月、傍系に酉島変圧器を設立し大型変圧器を生産させた
    • [27]1931年2月、大阪工場を現本社所在地に移し設備を拡張
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [18]1928年、需要家筋の勧めで75キロ以上の中・大型変圧器生産のため酉島変圧器を設立し専門工場とした
    • [19]1928年、需要家筋の勧めで75キロ以上の中・大型変圧器生産のため酉島変圧器を設立し専門工場とした
    • [23]金融恐慌で同業者の多くが倒産する中、1930年頃に全国総需要の8割以上を生産。工場狭隘のため中津から現在地へ移転し設備拡充
    • [26]金融恐慌で同業者の多くが倒産する中、1930年頃に全国総需要の8割以上を生産。工場狭隘のため中津から現在地へ移転し設備拡充
    • [28]金融恐慌で同業者の多くが倒産する中、1930年頃に全国総需要の8割以上を生産。工場狭隘のため中津から現在地へ移転し設備拡充
    • [34]戦時体制下で変圧器・溶接機の緊急需要が大幅に増えたが、主要資材の入手難に悩まされた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
    • [20]1928年11月酉島変圧器設立、大阪変圧器受注の大型変圧器製造会社として発足。1941年11月に合併
    • [21]1928年11月酉島変圧器設立、大阪変圧器受注の大型変圧器製造会社として発足。1941年11月に合併
    • [22]1928年11月酉島変圧器設立、大阪変圧器受注の大型変圧器製造会社として発足。1941年11月に合併
  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [24]1929〜1930年頃、コストで競争できず他社はほとんど撤退し、全生産の8割を占めた
    • [25]1929〜1930年頃、コストで競争できず他社はほとんど撤退し、全生産の8割を占めた
    • [29]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [30]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [31]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [32]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた
    • [33]1931〜1937年頃、量産方式を研究した日立が専門工場で対抗し2社の正面競争に。終戦まで2社で全生産の9割。支那事変後の資材統制で競争の必要が消えた

1934年〜艦船・車両向けの電気溶接機と東京工場の無線機、終戦で閉じた京城・京都・池田の3工場

大阪変圧器は1934年3月に電気溶接機の生産を始め、艦船や車両の建造に用いる新型溶接機の開発に取り組んだ。これに先立つ1931年12月には、ネオン変圧器の生産を始めた。生産の増大に合わせ、大阪変圧器はネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪の製造にも参入した。溶接機の生産開始を1935年3月とする記録もあり、溶接機は変圧器に偏った収益を下支えする事業に育った。1955年4月期の売上高8億1000万円のうち、電気溶接機の割合は1割にあたる。溶接機は変圧器の巻線と鉄心の技術を応用でき、軍需の建造需要を取り込める製品だったと推察される。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [35]1934年に電気溶接機の専門生産を開始し、艦船・車両等の建造に要る新しい溶接機の開発に取り組んだ
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
    • [36]1931年12月ネオン変圧器の生産開始、1934年3月電気溶接機の生産開始
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [37]ネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪を製造。1935年3月開始の電気溶接機は収益に弾力性を与えた。1955年4月期売上高8億1000万円のうち溶接機1割
    • [38]ネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪を製造。1935年3月開始の電気溶接機は収益に弾力性を与えた。1955年4月期売上高8億1000万円のうち溶接機1割
    • [39]ネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪を製造。1935年3月開始の電気溶接機は収益に弾力性を与えた。1955年4月期売上高8億1000万円のうち溶接機1割

大阪変圧器は準戦時から戦時へ移る時期に事業を拡大し、時局に応じた製品をつくった。1939年4月には東京工場を開設し、無線通信機の製造を始めた。1941年11月には京城に工場を設け、同時に酉島変圧器を合併して大型変圧器の製造を本体に取り込んだ。資本金は1935年11月・1941年5月・同年11月に各50万円、1944年11月に200万円を増資し、400万円となった。1944年11月、大阪変圧器は東京工場を分離して三鷹無線工業へ譲渡した。京都工場の増設も同じ月で、1945年3月には池田分工場が加わった。無線機を切り離す一方で変圧器の工場を増やした経緯から、戦争の終盤には本業の増産を優先したと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [40]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [42]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [43]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [45]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
    • [41]1939年4月東京工場開設し無線通信機製造開始、1944年11月東京工場を分離し三鷹無線工業に譲渡
    • [44]1939年4月東京工場開設し無線通信機製造開始、1944年11月東京工場を分離し三鷹無線工業に譲渡

1945年8月の終戦で、大阪変圧器は京城・京都・池田の各工場を閉鎖した。ヒューズの製造は、同時に設立した大阪ヒユーズが引き継いだ。大阪の本社工場は戦災を免れ、大阪変圧器は戦後早い時期に操業を再開した。小林愛三氏は、変圧器と溶接機はいつでも平和産業向けに切り替えられる製品で、戦後もそのまま生産を続けられたと振り返った。事業は一時沈滞したが、1946年4月に商工省から石炭・化学肥料関係機器の工場に指定された。特別経理会社の指定も早くに解除され、大阪変圧器は立て直しへ向かった。電力の復旧に欠かせない変圧器を主力としたことが、軍需からの転換を短くしたと推測される。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
    • [46]1945年8月終戦で京城・京都・池田の各工場を閉鎖。同時に大阪ヒユーズを設立しヒューズ製造を移譲
    • [47]1945年8月終戦で京城・京都・池田の各工場を閉鎖。同時に大阪ヒユーズを設立しヒューズ製造を移譲
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [48]戦災を免れ、戦後いち早く操業を再開
  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [49]本社工場は戦災を受けず、変圧器・溶接機は平和産業に転換できる品で戦後もそのまま継続。特別経理会社の指定も早く解除
    • [51]本社工場は戦災を受けず、変圧器・溶接機は平和産業に転換できる品で戦後もそのまま継続。特別経理会社の指定も早く解除
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [50]終戦で京城・京都・池田工場を閉鎖し一時沈滞。1946年4月商工省から石炭・化学肥料関係機器工場に指定
参考文献[35]-[51]
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
    • [35]1934年に電気溶接機の専門生産を開始し、艦船・車両等の建造に要る新しい溶接機の開発に取り組んだ
    • [48]戦災を免れ、戦後いち早く操業を再開
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
    • [36]1931年12月ネオン変圧器の生産開始、1934年3月電気溶接機の生産開始
    • [41]1939年4月東京工場開設し無線通信機製造開始、1944年11月東京工場を分離し三鷹無線工業に譲渡
    • [44]1939年4月東京工場開設し無線通信機製造開始、1944年11月東京工場を分離し三鷹無線工業に譲渡
    • [46]1945年8月終戦で京城・京都・池田の各工場を閉鎖。同時に大阪ヒユーズを設立しヒューズ製造を移譲
    • [47]1945年8月終戦で京城・京都・池田の各工場を閉鎖。同時に大阪ヒユーズを設立しヒューズ製造を移譲
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
    • [37]ネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪を製造。1935年3月開始の電気溶接機は収益に弾力性を与えた。1955年4月期売上高8億1000万円のうち溶接機1割
    • [38]ネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪を製造。1935年3月開始の電気溶接機は収益に弾力性を与えた。1955年4月期売上高8億1000万円のうち溶接機1割
    • [39]ネオン管灯用変圧器・ヒューズ・自動車用点火線輪を製造。1935年3月開始の電気溶接機は収益に弾力性を与えた。1955年4月期売上高8億1000万円のうち溶接機1割
    • [40]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [42]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [43]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [45]準戦時〜戦時に事業膨張し時局製品を製造。1941年11月京城工場設置・酉島変圧器合併、1944年11月京都工場増設、1945年3月池田分工場開設。増資を重ね資本金400万円
    • [50]終戦で京城・京都・池田工場を閉鎖し一時沈滞。1946年4月商工省から石炭・化学肥料関係機器工場に指定
  • 野田経済 671 1959年8月17日号
    • [49]本社工場は戦災を受けず、変圧器・溶接機は平和産業に転換できる品で戦後もそのまま継続。特別経理会社の指定も早く解除
    • [51]本社工場は戦災を受けず、変圧器・溶接機は平和産業に転換できる品で戦後もそのまま継続。特別経理会社の指定も早く解除

出典・参考

4件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955)「大阪変圧器」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪変圧器」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大阪変圧器」
  • 野田経済 671 1959年8月17日号

免責事項およびポリシー