第4章 年〜年

三菱電機:北岡隆社長の中期経営計画と汎用DRAM事業からの撤退

1992年〜半導体出身の北岡隆社長と、社内公募制を入れた事業本部の再編

半導体と情報通信に投資を重ねたまま1990年代に入った三菱電機は、1992年6月に北岡隆氏を社長に選んだ。北岡隆氏は稲沢製作所でエレベーターを担当したのち、1985年に北伊丹製作所長として半導体を率いた。三菱電機では重電出身の社長が続いており、半導体を担った人物の起用は初めてであった。前社長の志岐守哉氏が選考理由に挙げたのは、重電・ビル・半導体を経験した北岡隆氏のバランス感覚であった。北岡隆氏は社員への約束として、志岐守哉氏から継いだ情報通信の強化とグローバリゼーションの2点を掲げた。コンピュータ投資と家電のAVがそろって冷え込む局面で、一つの事業に偏らない経歴が評価されたと考えられる。

  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
    • [1]北岡隆は1992年6月に三菱電機社長に就任(1931年京都府生まれ、1955年入社、1987年取締役、1989年常務、1991年副社長)
    • [4]志岐守哉前社長は選考理由にバランス感覚・リーダーシップ・明るさを挙げた。北岡は重電・ビル事業・半導体デバイスを幅広く経験し、事業間の均衡を取れると期待された
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [2]北岡隆は稲沢製作所でエレベーター(ビル事業)を担当し、1985年に半導体の責任者として北伊丹製作所長に就任。1989年に常務・電子デバイス事業本部長
    • [5]北岡は社員への約束として情報通信事業の強化とグローバリゼーションの2つを挙げ、いずれも志岐前社長から受け継いだ基本方針と位置づけた
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [3]重電出身の社長が続いた三菱電機で、役員時代に半導体を担当した北岡隆はハイテク分野から出た初めての社長であった

変革を妨げているのは現場の課長・部長の意識だと北岡隆氏はみており、成果が表れるまでに5年から10年を見込んでいた。その北岡隆氏のもとで、1993年6月に6事業本部が9事業本部へ組み替えられ、本部長の投資決裁の上限は1億円から5億円に引き上げられ、1994年4月には立ち遅れていたマルチメディア分野に新組織が設けられて、社内公募制が初めて使われた。同時に、三菱電機グループとして解雇は少なくとも今世紀中は行わないと明言した。中期経営計画を初めて社外に公表した理由について、北岡隆氏は有言実行で責任を自覚するためと説明した。雇用を守る前提が、改革の速度を『漢方薬方式』に決めたと推察される。

  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [6]北岡は、手ごわいのは現場の課長・部長クラスの意識で、トップが具体的に指示しなければ変わらないと述べ、改革の成果が出るまで5〜10年かかるとみた
    • [9]北岡は人員の再配置はありうるが、三菱電機会社群として雇用は守り、解雇は少なくとも今世紀中は行わないと述べた
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [7]1993年6月に6事業本部から9事業本部(電力工業システム・社会システム・電子システム・情報通信システム・映像情報・住環境・FAシステム・自動車機器・半導体)へ再編。事業本部長の投資決裁枠を1億円から5億円に広げ、常務会の案件は6割減った
    • [8]1994年4月発足のマルチメディア事業推進プロジェクトグループで、陣容強化の要員を社内から公募する社内公募制を初めて導入
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [10]北岡は中期経営計画とビジョン22プロジェクトを初めて社外に発表した理由を、有言実行で責任を強く自覚し、社員への浸透と企業の透明化を図るためと説明した

北岡隆氏は、三菱電機本体よりも関係会社群に成長の余地が大きいとみていた。採算の合わない掃除機や炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移したところ、売上高が増えて利益も出るようになった。ただ、売上高の連結と単独の倍率は1994年時点で1.3倍で、日立製作所の2.0倍を下回った。音響の赤井電機では、1986年に三菱電機が第三者割当増資400万株を引き受けて筆頭株主となっていた。1992年11月期から赤字の続いた赤井電機は、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された。自ら育てる関係会社と外部の資本に委ねる関係会社の線引きが、本体の改革と並んで進んだのだろう。

  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [11]北岡は、最も成長の可能性が高いのは三菱電機そのものではなく関係会社群だとし、技術者を関係会社へ回して水平分業で拡大させる考えを示した
    • [12]赤字だった掃除機・炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移管し、売上が増え利益も出るようになった
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [13]売上高の連単倍率は三菱電機1.3倍に対し日立製作所2.0倍。成功した関連会社は三菱電機ホーム機器と三菱プレシジョンくらいと関連会社担当常務が述べた
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [14]赤井電機は1986年2月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当て、三菱電機が筆頭株主となった
  • 実業往来 1995年9月
    • [15]赤井電機は1992年11月期以来赤字が続き(1994年11月期は経常赤字22億円)、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された
参考文献[1]-[15]
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
    • [1]北岡隆は1992年6月に三菱電機社長に就任(1931年京都府生まれ、1955年入社、1987年取締役、1989年常務、1991年副社長)
    • [4]志岐守哉前社長は選考理由にバランス感覚・リーダーシップ・明るさを挙げた。北岡は重電・ビル事業・半導体デバイスを幅広く経験し、事業間の均衡を取れると期待された
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [2]北岡隆は稲沢製作所でエレベーター(ビル事業)を担当し、1985年に半導体の責任者として北伊丹製作所長に就任。1989年に常務・電子デバイス事業本部長
    • [5]北岡は社員への約束として情報通信事業の強化とグローバリゼーションの2つを挙げ、いずれも志岐前社長から受け継いだ基本方針と位置づけた
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [3]重電出身の社長が続いた三菱電機で、役員時代に半導体を担当した北岡隆はハイテク分野から出た初めての社長であった
    • [6]北岡は、手ごわいのは現場の課長・部長クラスの意識で、トップが具体的に指示しなければ変わらないと述べ、改革の成果が出るまで5〜10年かかるとみた
    • [9]北岡は人員の再配置はありうるが、三菱電機会社群として雇用は守り、解雇は少なくとも今世紀中は行わないと述べた
    • [11]北岡は、最も成長の可能性が高いのは三菱電機そのものではなく関係会社群だとし、技術者を関係会社へ回して水平分業で拡大させる考えを示した
    • [12]赤字だった掃除機・炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移管し、売上が増え利益も出るようになった
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [7]1993年6月に6事業本部から9事業本部(電力工業システム・社会システム・電子システム・情報通信システム・映像情報・住環境・FAシステム・自動車機器・半導体)へ再編。事業本部長の投資決裁枠を1億円から5億円に広げ、常務会の案件は6割減った
    • [8]1994年4月発足のマルチメディア事業推進プロジェクトグループで、陣容強化の要員を社内から公募する社内公募制を初めて導入
    • [13]売上高の連単倍率は三菱電機1.3倍に対し日立製作所2.0倍。成功した関連会社は三菱電機ホーム機器と三菱プレシジョンくらいと関連会社担当常務が述べた
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [10]北岡は中期経営計画とビジョン22プロジェクトを初めて社外に発表した理由を、有言実行で責任を強く自覚し、社員への浸透と企業の透明化を図るためと説明した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [14]赤井電機は1986年2月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当て、三菱電機が筆頭株主となった
  • 実業往来 1995年9月
    • [15]赤井電機は1992年11月期以来赤字が続き(1994年11月期は経常赤字22億円)、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された

1995年〜東南アジアへ公開した家電技術と、1000億円の赤字に至った汎用DRAMの撤退

超円高が定着して国内から運ぶ部材では採算が合わなくなり、三菱電機は関係会社の組み替えと並行して、1995年から家電の部材の調達先を東南アジアに探した。1995年1月にバンコクで開いた展示会では、東南アジアの部品メーカー400社を相手に、エアコンや冷蔵庫の部材を仕様書とともに示した。タイの子会社のルームエアコンでは、既存製品で60%程度だった現地調達率を、96年シーズンの新製品で80%まで高める計画だった。1995年6月29日付の組織改革では、海外営業本部が担っていた販売機能が各事業本部へ移された。円高で国内の部材に依存できなくなった調達に、事業本部ごとの組織を合わせたとみられる。

  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
    • [16]資材部海外調達センター長は、超円高の定着で国内から持ち込む部材ではコスト競争力を保てず、現地調達を増やすしかないと説明した
    • [17]三菱電機は東南アジアで自社の白物家電を分解展示して現地の安価な部材を募り、海外資材調達を拡大した
    • [18]1995年1月19・20日、バンコクでエアコン・冷蔵庫・洗濯機を分解した部材を仕様書付きで展示し、東南アジアの部品メーカー400社1000人が来場した。5月には香港でAV関連も公開
    • [19]タイの生産子会社MCPのルームエアコンの現地調達率は既存製品で60%程度、96年シーズン向け新製品で80%へ引き上げる
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [20]1995年6月29日付の組織改革で、海外営業本部が担当していた海外販売機能を各事業本部に統合し、国内外を一元的に担当させた

北岡隆氏は1994年から1996年にかけ、ウィンドウズ95で増えるパソコン需要を見込んで半導体に連結で3000億円近い投資を許可した。社長就任直後の1992年には、4メガビットDRAMへの過大な設備投資が償却負担を重くしていると自ら指摘していた。それでも95年3月期に半導体が3年ぶりに営業黒字を回復すると、北岡隆氏はDRAMへの投資をさらに増やした。1997年に米国のマイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投じて市況が急落すると、半導体は2年連続で600億円を超える営業損失を出した。1998年3月末の事業構造改革策で、三菱電機は汎用品ではなく、マイコンに埋め込むDRAMとシステムLSIを育てる方針に転じた。投資の重さを知りながら黒字回復の局面で汎用品を減らさなかったことが、読み違いの核心であったと推し量れる。

  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
    • [21]北岡は94〜96年に半導体事業へ連結で3000億円近い投資を許可した。ウィンドウズ95の発売でパソコン需要とDRAM需要が伸びるとみたため
    • [23]95年3月期に半導体事業が連結で3年ぶりに営業黒字を回復し、北岡はウィンドウズ95を前にDRAM事業の投資を増やした。本来は95年に脱DRAMを進めるべきだったと振り返った
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [22]1992年の時点で北岡は、半導体不況で苦しいのは4M DRAMへの設備投資が多すぎたことと16Mへの先行投資で償却負担が大きいためと分析した
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [24]97年に米マイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投入して市況が急激に低迷した。三菱電機の半導体事業は2年連続で600億円を超える営業損失を出した
    • [25]1998年3月末に事業構造改革のリストラ策をまとめ、半導体は自前主義にこだわらず他社との協力を増やす。DRAMは汎用品ではなくマイコンなどに埋め込むタイプを育て、システムLSIに期待をかける

1998年3月25日、三菱電機は北岡隆氏の取締役相談役への退任と、専務の谷口一郎氏の社長昇格を発表した。1998年3月期の連結当期純損失は1059億円に達した。単独決算も赤字で、三菱電機は上場以来初めて無配とした。北岡隆氏は会長に残って改革の行方を見届けることを望んでいた。しかし三菱グループの長老は、会長に残れば経営責任を取ったことにならないと北岡隆氏を諭した。改革を率いた社長を会長にも残さない人事で、三菱グループは赤字の責任の所在を明確にしたとうかがえる。

  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [26]三菱電機は1998年3月25日、北岡隆社長が取締役相談役に退き、谷口一郎専務が社長に昇格する人事を発表した
    • [29]北岡は代表権はなくても1年間は会長にとどまり、自ら進めた経営改革の行方を見届けようとした
    • [30]三菱グループの長老に「それでは経営責任をとったことにはならない」と諭され、北岡は取締役相談役に退くことになった
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [27]1998年3月期の連結当期純利益はマイナス1059億円(連結・JGAAP)
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
    • [28]98年3月期は連結で約1000億円の最終損失を計上し、単独決算も赤字で上場以来初の無配となった
参考文献[16]-[30]
  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
    • [16]資材部海外調達センター長は、超円高の定着で国内から持ち込む部材ではコスト競争力を保てず、現地調達を増やすしかないと説明した
    • [17]三菱電機は東南アジアで自社の白物家電を分解展示して現地の安価な部材を募り、海外資材調達を拡大した
    • [18]1995年1月19・20日、バンコクでエアコン・冷蔵庫・洗濯機を分解した部材を仕様書付きで展示し、東南アジアの部品メーカー400社1000人が来場した。5月には香港でAV関連も公開
    • [19]タイの生産子会社MCPのルームエアコンの現地調達率は既存製品で60%程度、96年シーズン向け新製品で80%へ引き上げる
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [20]1995年6月29日付の組織改革で、海外営業本部が担当していた海外販売機能を各事業本部に統合し、国内外を一元的に担当させた
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
    • [21]北岡は94〜96年に半導体事業へ連結で3000億円近い投資を許可した。ウィンドウズ95の発売でパソコン需要とDRAM需要が伸びるとみたため
    • [23]95年3月期に半導体事業が連結で3年ぶりに営業黒字を回復し、北岡はウィンドウズ95を前にDRAM事業の投資を増やした。本来は95年に脱DRAMを進めるべきだったと振り返った
    • [28]98年3月期は連結で約1000億円の最終損失を計上し、単独決算も赤字で上場以来初の無配となった
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [22]1992年の時点で北岡は、半導体不況で苦しいのは4M DRAMへの設備投資が多すぎたことと16Mへの先行投資で償却負担が大きいためと分析した
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [24]97年に米マイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投入して市況が急激に低迷した。三菱電機の半導体事業は2年連続で600億円を超える営業損失を出した
    • [25]1998年3月末に事業構造改革のリストラ策をまとめ、半導体は自前主義にこだわらず他社との協力を増やす。DRAMは汎用品ではなくマイコンなどに埋め込むタイプを育て、システムLSIに期待をかける
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [26]三菱電機は1998年3月25日、北岡隆社長が取締役相談役に退き、谷口一郎専務が社長に昇格する人事を発表した
    • [29]北岡は代表権はなくても1年間は会長にとどまり、自ら進めた経営改革の行方を見届けようとした
    • [30]三菱グループの長老に「それでは経営責任をとったことにはならない」と諭され、北岡は取締役相談役に退くことになった
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [27]1998年3月期の連結当期純利益はマイナス1059億円(連結・JGAAP)

1998年〜谷口一郎社長の半導体再編と、「ミツビシ」の名を捨てた携帯電話

社長の谷口一郎氏は防衛・宇宙の出身で、半導体を事業として熟知してはいなかった。谷口一郎氏が率いた最初の決算期である1999年3月期の連結経常損益は、1138億円の赤字であった。三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した。1999年6月には、台湾積体電路製造(TSMC)グループにDRAMの生産技術を有償で供与した。1999年に東芝と富士通、NECと日立製作所がDRAMで提携するなか、取締役の長澤紘一氏は三菱電機にも新たな提携が要る可能性を認めた。開発負担を他社と分け合う提携を重ねても、単独で生産規模を追う余地は狭まっていたように見える。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [31]1998年6月下旬から北岡を継ぐ谷口一郎専務は防衛・宇宙など三菱電機の得意分野を歩み、半導体もコンピューターも事業として熟知しているわけではない
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [32]1999年3月期の連結経常利益はマイナス1138億円(連結・JGAAP)
  • 日経ビジネス 1999年8月2日・9日号
    • [33]三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した
    • [34]1999年6月22日、台湾積体電路製造(TSMC)グループへDRAMの生産技術を有償で供与し、開発投資の負担軽減を図った
    • [35]1999年2月に東芝と富士通、6月末にNECと日立製作所がDRAMで提携。どちらの連合にも加わっていない三菱電機の長澤紘一取締役は「DRAM事業で新たな提携が必要になる可能性もある」と答えた

半導体で規模を追えなかった三菱電機が生産を増やしたのは欧州の携帯電話で、1996年の25万台から2000年3月期には約600万台となった。国内の携帯電話は普及率がすでに40%で、需要は買い替え中心の横ばいと予測されていた。撤退論も出ていた欧州事業を立て直すため、1996年7月に山中隆司氏がフランス法人のトップに就任した。欧州での三菱電機の認知度は2%にとどまったため、山中隆司氏は社名を外したトリウム(Trium)というブランドに切り替えた。欧州の開発者は1996年の30人から、2000年3月には250人に増員された。谷口一郎氏は1999年10月の中期経営計画で、携帯電話の販売拡大をIT分野の核に据えた。

  • 日経ビジネス 2000年4月3日号
    • [36]三菱電機の欧州の携帯電話生産は1996年に25万台、98年3月期62万台、99年3月期200万台、2000年3月期は前年の約3倍の約600万台
    • [37]国内の携帯電話の普及率は既に40%に達し、今後の需要は買い替え中心で年3000万〜3500万台の横ばいと予測された
    • [38]数十億円規模の赤字で撤退論もあった海外携帯電話事業の進退を任せるため、1996年7月に山中隆司がフランス法人のトップとして赴任した
    • [39]欧州の一般消費者の三菱電機に対する認知度は2%で、山中は三菱ブランドを捨て、現地社員の公募から生まれたトリウム(Trium)ブランドに切り替えた
    • [40]欧州の開発チームは96年まで30人だったが、2000年3月に250人となり、機種は1機種から6機種に増えた
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
    • [41]1999年10月、谷口社長は2002年3月期をゴールとする中期経営計画で、携帯電話の販売拡大とソリューション事業の強化などIT分野を核とする方針を示した

2000年3月期の連結当期純利益は248億円で、三菱電機は3年ぶりに黒字を回復した。谷口一郎氏が経費削減の17プロジェクトで掲げた3年で1000億円の固定費削減は、1年前倒しで達成する見込みとなった。2002年3月期を期限とする中期経営計画では、売上高4兆円以上の企業への成長を掲げた。それでもアナリストの間では、重電・産業機械とIT事業の相乗効果をどう生むかという全体像が見えないとの評価が残った。日立製作所や東芝が分社を進めるなか、三菱電機は組織改革にも執行役員制の導入にも着手していなかった。削減で業績は回復したものの、何で収益を得る会社になるかを示す課題は次の社長へ持ち越されたと読み取れる。

  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [42]2000年3月期の連結当期純利益は248億円(1998年3月期・1999年3月期は最終赤字)
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
    • [43]谷口社長は資材原価・物流費などテーマ別に経費削減の17プロジェクトを立ち上げ、「3年間で1000億円の固定費削減」を1年前倒しして99年度中に実現する見込みとなった
    • [44]1999年10月発表の中期経営計画は2002年3月期をゴールとし、IT分野を核に売上高4兆円以上の企業に成長する目標を掲げた
    • [45]アナリストの間では、IT事業と収益源の重電・産業機械事業とのシナジーをどう上げて成長するかという全体像が見えず、ビジョンが見えないという不満が残った
    • [46]日立や東芝が分社化を進めたのと対照的に、三菱電機は組織改革に手を付けず、執行役員制の導入などガバナンス改革も行っていなかった
参考文献[31]-[46]
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [31]1998年6月下旬から北岡を継ぐ谷口一郎専務は防衛・宇宙など三菱電機の得意分野を歩み、半導体もコンピューターも事業として熟知しているわけではない
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [32]1999年3月期の連結経常利益はマイナス1138億円(連結・JGAAP)
    • [42]2000年3月期の連結当期純利益は248億円(1998年3月期・1999年3月期は最終赤字)
  • 日経ビジネス 1999年8月2日・9日号
    • [33]三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した
    • [34]1999年6月22日、台湾積体電路製造(TSMC)グループへDRAMの生産技術を有償で供与し、開発投資の負担軽減を図った
    • [35]1999年2月に東芝と富士通、6月末にNECと日立製作所がDRAMで提携。どちらの連合にも加わっていない三菱電機の長澤紘一取締役は「DRAM事業で新たな提携が必要になる可能性もある」と答えた
  • 日経ビジネス 2000年4月3日号
    • [36]三菱電機の欧州の携帯電話生産は1996年に25万台、98年3月期62万台、99年3月期200万台、2000年3月期は前年の約3倍の約600万台
    • [37]国内の携帯電話の普及率は既に40%に達し、今後の需要は買い替え中心で年3000万〜3500万台の横ばいと予測された
    • [38]数十億円規模の赤字で撤退論もあった海外携帯電話事業の進退を任せるため、1996年7月に山中隆司がフランス法人のトップとして赴任した
    • [39]欧州の一般消費者の三菱電機に対する認知度は2%で、山中は三菱ブランドを捨て、現地社員の公募から生まれたトリウム(Trium)ブランドに切り替えた
    • [40]欧州の開発チームは96年まで30人だったが、2000年3月に250人となり、機種は1機種から6機種に増えた
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
    • [41]1999年10月、谷口社長は2002年3月期をゴールとする中期経営計画で、携帯電話の販売拡大とソリューション事業の強化などIT分野を核とする方針を示した
    • [43]谷口社長は資材原価・物流費などテーマ別に経費削減の17プロジェクトを立ち上げ、「3年間で1000億円の固定費削減」を1年前倒しして99年度中に実現する見込みとなった
    • [44]1999年10月発表の中期経営計画は2002年3月期をゴールとし、IT分野を核に売上高4兆円以上の企業に成長する目標を掲げた
    • [45]アナリストの間では、IT事業と収益源の重電・産業機械事業とのシナジーをどう上げて成長するかという全体像が見えず、ビジョンが見えないという不満が残った
    • [46]日立や東芝が分社化を進めたのと対照的に、三菱電機は組織改革に手を付けず、執行役員制の導入などガバナンス改革も行っていなかった

1992年〜2000年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1992年03月期 連結 33,433 n/a 1,084 361 1.1% n/a
1993年03月期 連結 32,603 ▲2.5% 796 285 0.9% n/a
1994年03月期 連結 31,054 ▲4.8% 715 207 0.7% n/a
1995年03月期 連結 32,509 +4.7% 911 421 1.3% n/a
1996年03月期 連結 35,114 +8.0% 1,285 592 1.7% n/a
1997年03月期 連結 37,252 +6.1% 679 85 0.2% n/a
1998年03月期 連結 38,013 +2.0% ▲525 ▲1,059 ▲2.8% n/a
1999年03月期 連結 37,941 ▲0.2% ▲1,138 ▲445 ▲1.2% n/a
2000年03月期 連結 37,742 ▲0.5% 403 248 0.7% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

15件
出典・参考
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
  • 日経ビジネス 1999年8月2日・9日号
  • 日経ビジネス 2000年4月3日号
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
  • 実業往来 1995年9月

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