理想科学工業:羽山昇氏の理想社開業と理想科学研究所の設立
1945年〜陸軍士官学校から日大哲学科へ転じた羽山昇氏の講義ノートと、世田谷の自宅に掲げた理想社の看板
羽山昇氏は1945年10月、東京・世田谷区若林の留守宅へ復員し、翌1946年5月に日本大学の哲学科へ入学した。羽山昇氏は陸軍士官学校の58期生として1945年6月に卒業し、8月1日に少尉へ任官した半月後に終戦。任地の三重県鳥羽で敗戦を迎えて進路を失った羽山昇氏は、教育者として出直すことを考え、母もその進学を勧めた。のちに公職追放令で元職業軍人は教職への道を閉ざされ、羽山昇氏は法学部へ転科した。入学後の課題は学資であり、父はすでに戦病死し、遺族扶助料も終戦後に途絶えていた。羽山昇氏は姉の退学の申し出を断り、母と姉を含む3人の生活費と学資を自ら稼ぐと決めた。
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [1]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [3]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [4]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [5]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [6]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- 実業往来 531 1996年9月
- [2]陸軍士官学校58期として1945年6月卒業、8月1日少尉任官、半月後に終戦。日本大学哲学科に入学
羽山昇氏が学資を得るために始めたのは、級友の講義ノートを借りて筆耕し、謄写版で刷って製本し、級友に売る仕事である。生活に追われて授業へ出られない学生が多く、刷った講義ノートは次々に売れた。羽山昇氏にとっては、筆耕の作業がそのまま講義の勉強にもなった。羽山昇氏は1946年5月の入学直後からガリ切りに励み、刷ったノートは級友に喜ばれ、稼ぎにもつながった。会社ものちに、講義を写して謄写印刷した冊子を学生に売ったことを創業の発端に挙げた。謄写版と鉄筆は教会から借りる手があり、資金を持たない復員学生でも始められる商売だったとみられる。
- 実業往来 531 1996年9月
- [7]級友から講義ノートを借り筆耕・印刷・製本して授業に出られない級友に販売。授業に出られない学生が多く飛ぶように売れた。収入と勉強を兼ねた
- [8]級友から講義ノートを借り筆耕・印刷・製本して授業に出られない級友に販売。授業に出られない学生が多く飛ぶように売れた。収入と勉強を兼ねた
- [9]級友から講義ノートを借り筆耕・印刷・製本して授業に出られない級友に販売。授業に出られない学生が多く飛ぶように売れた。収入と勉強を兼ねた
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [10]1946年5月の日大入学早々から謄写印刷の筆耕アルバイト。級友のノートを印刷・製本して販売し、喜ばれ稼ぎにもなった
- 証券アナリストジャーナル 1992年11月 別冊付録 理想科学工業(後藤正宏)
- [11]創業は1946年。講義をノートしガリ版を切って謄写印刷し学生に売ったのが発端
羽山昇氏は1946年9月、世田谷の自宅の軒先に「理想社」の看板を掲げ、社長1人が社員を兼ねる謄写印刷業を個人で始めた。看板を出した場所を自宅の門柱とする記録もあり、開業の背景には講義ノートの順調な受注があった。屋号の「理想」に込めたのは、日本の行く末が見通せない時代でも理想を失うまいとする羽山昇氏の思いである。羽山昇氏は後年、『どんなことをやるにしても理想を貫いていこうと決心したのです』と屋号の由来を説明した。営業そのものは、三田教会で借りた謄写版と鉄筆を使い、日本橋兜町の国際親善協会の空き机で始めたとする記録もある。看板を掲げた時点の理想社は届け出のない学生の屋号であり、事業として届け出るのは2年後だったと思われる。
- 実業往来 531 1996年9月
- [12]1946年9月、世田谷の自宅の軒先に「理想社」の看板を掲げ、社長兼社員一人の印刷業を開始。屋号に理想を貫く決心を込めた
- [15]1946年9月、世田谷の自宅の軒先に「理想社」の看板を掲げ、社長兼社員一人の印刷業を開始。屋号に理想を貫く決心を込めた
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [13]1946年9月に世田谷の自宅の門柱に「理想社」の看板。受注は順調。終戦直後で日本の行く末が見定まらない中で理想だけは失うまいと考えた
- [14]1946年9月に世田谷の自宅の門柱に「理想社」の看板。受注は順調。終戦直後で日本の行く末が見定まらない中で理想だけは失うまいと考えた
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [16]三田教会で謄写版と鉄筆を借り、兜町の証券会社内の国際親善協会の机を借りて営業を開始
参考文献[1]-[16]
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [1]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [3]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [4]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [5]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [6]1945年10月世田谷区若林の留守宅へ復員、教育者を志し1946年5月日大文学部哲学科入学。公職追放令で法学部へ転科。父は戦病死・遺族扶助料途絶、3人の生活費と学資をアルバイトで稼ぐと決意
- [16]三田教会で謄写版と鉄筆を借り、兜町の証券会社内の国際親善協会の机を借りて営業を開始
- 実業往来 531 1996年9月
- [2]陸軍士官学校58期として1945年6月卒業、8月1日少尉任官、半月後に終戦。日本大学哲学科に入学
- [7]級友から講義ノートを借り筆耕・印刷・製本して授業に出られない級友に販売。授業に出られない学生が多く飛ぶように売れた。収入と勉強を兼ねた
- [8]級友から講義ノートを借り筆耕・印刷・製本して授業に出られない級友に販売。授業に出られない学生が多く飛ぶように売れた。収入と勉強を兼ねた
- [9]級友から講義ノートを借り筆耕・印刷・製本して授業に出られない級友に販売。授業に出られない学生が多く飛ぶように売れた。収入と勉強を兼ねた
- [12]1946年9月、世田谷の自宅の軒先に「理想社」の看板を掲げ、社長兼社員一人の印刷業を開始。屋号に理想を貫く決心を込めた
- [15]1946年9月、世田谷の自宅の軒先に「理想社」の看板を掲げ、社長兼社員一人の印刷業を開始。屋号に理想を貫く決心を込めた
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [10]1946年5月の日大入学早々から謄写印刷の筆耕アルバイト。級友のノートを印刷・製本して販売し、喜ばれ稼ぎにもなった
- [13]1946年9月に世田谷の自宅の門柱に「理想社」の看板。受注は順調。終戦直後で日本の行く末が見定まらない中で理想だけは失うまいと考えた
- [14]1946年9月に世田谷の自宅の門柱に「理想社」の看板。受注は順調。終戦直後で日本の行く末が見定まらない中で理想だけは失うまいと考えた
- 証券アナリストジャーナル 1992年11月 別冊付録 理想科学工業(後藤正宏)
- [11]創業は1946年。講義をノートしガリ版を切って謄写印刷し学生に売ったのが発端
1948年〜卒業前に本業となった理想印刷社と、四谷の9万円の本店に入れた英国製電動謄写印刷機
羽山昇氏は1948年9月、社員5、6人の謄写印刷業に育った屋号を「理想社」から「理想印刷社」に改めた。羽山昇氏は大学3年の9月、理想印刷社の商号で正式な営業届を出した。それまでに羽山昇氏は神田の同業者に3か月弟子入りして技術を身につけ、見込んだ学生に仕事を分担させるうちに協力者が増えた。自宅では受注をこなしきれなくなり、羽山昇氏は日本橋兜町に営業所を開設した。大学4年の時点で、理想印刷社の陣容は正社員3人と外部の下請け約7人。羽山昇氏が1949年3月に日本大学法文学部を卒業した時点で、学資のために始めた印刷業はすでに本業の規模に達していた。
- 実業往来 531 1996年9月
- [17]1948年9月、社名を「理想印刷社」とした。自宅で受注をさばききれず兜町に営業所を開設
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [18]協力学生が増え、大学3年の9月に理想印刷社の商号で正式に営業届。1949年卒業時にはアルバイトが本業に成長
- [19]協力学生が増え、大学3年の9月に理想印刷社の商号で正式に営業届。1949年卒業時にはアルバイトが本業に成長
- [23]協力学生が増え、大学3年の9月に理想印刷社の商号で正式に営業届。1949年卒業時にはアルバイトが本業に成長
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [20]大学3年時に自宅で受注をさばき切れず兜町に営業所開設、理想印刷社と社名変更し営業届提出。4年時に正社員3人・外部下請け約7人
- [21]大学3年時に自宅で受注をさばき切れず兜町に営業所開設、理想印刷社と社名変更し営業届提出。4年時に正社員3人・外部下請け約7人
- 日経ビジネス 1993年7月5日号
- [22]略歴:1946年9月個人で理想社を創業、1949年3月日本大学法文学部卒業
羽山昇氏は1950年、それまで世田谷の自宅に置いていた本店を、東京・四谷に新築して移した。羽山昇氏は四谷の土地を取得せずに借り、建物も安普請で済ませた。敷地は20坪、建坪は6坪で、着工から7日で完成した簡素な社屋である。羽山昇氏は後年、この社屋を『トタン葺きよりひどいトントン葺きで、着工して七日で完成のちゃちな社屋』と振り返った。それでも建設費は総額9万円に上り、羽山昇氏が印刷業で蓄えてきたわずかな資金は尽きた。羽山昇氏は兜町の営業所を設けてなお増える受注に対し、蓄えを使い切ってでも都心に自前の店舗を構えることを優先したと推察される。
- 実業往来 531 1996年9月
- [24]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [26]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [27]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [28]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [25]1950年に四谷に土地を借り、安普請の建物で本店を新築
1952年、手動式ばかりで電動式の無かった業界に先駆けて、羽山昇氏は英国製の電動式謄写印刷機を導入。仕事が増えるにつれ、鉄筆で原紙を切る手作業では能率が上がらず、羽山昇氏自身も字があまり得意ではなかった。羽山昇氏は、印刷を手がける以上は活字に憧れがあったと語っている。この機械を英国から輸入した電動タイプ印刷機とする記録もあり、羽山昇氏はこれでタイプ印刷の営業を始めた。刷り上がりがきれいで顧客には好評だった一方、インクも英国製を使う必要があり、補充は思うように進まなかった。能率を求めた機械化は、消耗品のインクを海外に依存する弱みを同時に負う結果になったと考えられる。
- 実業往来 531 1996年9月
- [29]1952年、英国製電動式謄写印刷機を導入。当時は手動式ばかりで業界に先駆けての導入。インク不足に悩む
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [30]鉄筆の原紙切りでは能率が上がらず、活字への憧れから1952年に英国製電動タイプ印刷設備を輸入しタイプ印刷を開始。インクも英国製で補充が難しかった
- [31]鉄筆の原紙切りでは能率が上がらず、活字への憧れから1952年に英国製電動タイプ印刷設備を輸入しタイプ印刷を開始。インクも英国製で補充が難しかった
- [33]鉄筆の原紙切りでは能率が上がらず、活字への憧れから1952年に英国製電動タイプ印刷設備を輸入しタイプ印刷を開始。インクも英国製で補充が難しかった
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [32]1952年、業界に先駆けて電動タイプ印刷機を英国から輸入しタイプ印刷の営業を開始
参考文献[17]-[33]
- 実業往来 531 1996年9月
- [17]1948年9月、社名を「理想印刷社」とした。自宅で受注をさばききれず兜町に営業所を開設
- [24]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [26]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [27]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [28]1950年、四谷に本店を新築移転。敷地20坪・建坪6坪、着工7日で完成。総額9万円で蓄えが消えた
- [29]1952年、英国製電動式謄写印刷機を導入。当時は手動式ばかりで業界に先駆けての導入。インク不足に悩む
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [18]協力学生が増え、大学3年の9月に理想印刷社の商号で正式に営業届。1949年卒業時にはアルバイトが本業に成長
- [19]協力学生が増え、大学3年の9月に理想印刷社の商号で正式に営業届。1949年卒業時にはアルバイトが本業に成長
- [23]協力学生が増え、大学3年の9月に理想印刷社の商号で正式に営業届。1949年卒業時にはアルバイトが本業に成長
- [30]鉄筆の原紙切りでは能率が上がらず、活字への憧れから1952年に英国製電動タイプ印刷設備を輸入しタイプ印刷を開始。インクも英国製で補充が難しかった
- [31]鉄筆の原紙切りでは能率が上がらず、活字への憧れから1952年に英国製電動タイプ印刷設備を輸入しタイプ印刷を開始。インクも英国製で補充が難しかった
- [33]鉄筆の原紙切りでは能率が上がらず、活字への憧れから1952年に英国製電動タイプ印刷設備を輸入しタイプ印刷を開始。インクも英国製で補充が難しかった
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- [20]大学3年時に自宅で受注をさばき切れず兜町に営業所開設、理想印刷社と社名変更し営業届提出。4年時に正社員3人・外部下請け約7人
- [21]大学3年時に自宅で受注をさばき切れず兜町に営業所開設、理想印刷社と社名変更し営業届提出。4年時に正社員3人・外部下請け約7人
- [25]1950年に四谷に土地を借り、安普請の建物で本店を新築
- [32]1952年、業界に先駆けて電動タイプ印刷機を英国から輸入しタイプ印刷の営業を開始
- 日経ビジネス 1993年7月5日号
- [22]略歴:1946年9月個人で理想社を創業、1949年3月日本大学法文学部卒業
1953年〜英国からの輸入が止まって自製した国産初のRISOインクと、資本金100万円の理想科学研究所
羽山昇氏は1954年、国産初のエマルジョンインク「RISOインク」を完成させた。当時インクは英国から輸入しており、政府は外貨不足を理由に輸入を制限していた。そのうえインクを積んで英国を出た船が難破し、供給が途絶えた。在庫を譲り受けに向かう途中、羽山昇氏はスクーターで電柱に衝突して全治2か月の重傷を負い、入院中にインクの自製を決めた。化学の知識を持たない羽山昇氏は、米国アトラスパウダー社の基礎処方書を唯一の手がかりに、乳化液・水・カーボン・界面活性剤の調合を約2年重ねた。会社はのちに、RISOインクが市場に受け入れられたことを、企業として伸長する最初の契機に位置づけた。
- 実業往来 531 1996年9月
- [34]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [35]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [36]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [37]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [38]入院中にインク自製を決意。化学知識なく米アトラスパウダー社の基礎処方書を頼りに2年苦闘、1954年RISOインク発売
- 証券アナリストジャーナル 1992年11月 別冊付録 理想科学工業(後藤正宏)
- [39]1954年RISOインク。輸入品は手に入りにくく、社長が国産初のエマルジョンインクを開発。企業として伸長する最初の契機
羽山昇氏は1955年1月、理想印刷社を発展的に解消し、資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立した。RISOインクの完成を機に、事業は印刷の請負からインクを製造するメーカーへ移っていた。インクの成功で、会社は外からインク専業に見えるほどになった。新会社は『世界に類のないものを創ろう』という目標を掲げ、研究開発型のメーカーとして出発した。会社は1963年に理想科学工業へ社名を改め、設立年はこの1955年として数えられている。社名に「研究所」を入れたのは、請負の印刷業ではなく自ら製品を開発する会社であることを示す意図だったのだろう。
- 実業往来 531 1996年9月
- [40]インク完成を契機に理想印刷社を発展的に解消、1955年1月資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立、研究開発型メーカーとして出発
- [41]インク完成を契機に理想印刷社を発展的に解消、1955年1月資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立、研究開発型メーカーとして出発
- [43]インク完成を契機に理想印刷社を発展的に解消、1955年1月資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立、研究開発型メーカーとして出発
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [42]RISOインクの成功で理想科学はインキ屋の観を呈した
- 日経ビジネス 1993年7月5日号
- [44]略歴:1955年1月株式会社理想科学研究所を設立(1963年理想科学工業に社名変更)
- 日経ビジネス 1989年10月16日号
- [45]会社概要:設立1955年
参考文献[34]-[45]
- 実業往来 531 1996年9月
- [34]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [35]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [36]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [37]英国からの輸入インクは外貨不足で制限、さらに輸送船の難破で供給停止。在庫を受け取りに行く途中に事故で全治2か月。退院後研究部を設け2年後に国産初のエマルジョンインク(RISOインク)を完成、爆発的に売れた
- [40]インク完成を契機に理想印刷社を発展的に解消、1955年1月資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立、研究開発型メーカーとして出発
- [41]インク完成を契機に理想印刷社を発展的に解消、1955年1月資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立、研究開発型メーカーとして出発
- [43]インク完成を契機に理想印刷社を発展的に解消、1955年1月資本金100万円の株式会社理想科学研究所を設立、研究開発型メーカーとして出発
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- [38]入院中にインク自製を決意。化学知識なく米アトラスパウダー社の基礎処方書を頼りに2年苦闘、1954年RISOインク発売
- [42]RISOインクの成功で理想科学はインキ屋の観を呈した
- 証券アナリストジャーナル 1992年11月 別冊付録 理想科学工業(後藤正宏)
- [39]1954年RISOインク。輸入品は手に入りにくく、社長が国産初のエマルジョンインクを開発。企業として伸長する最初の契機
- 日経ビジネス 1993年7月5日号
- [44]略歴:1955年1月株式会社理想科学研究所を設立(1963年理想科学工業に社名変更)
- 日経ビジネス 1989年10月16日号
- [45]会社概要:設立1955年
出典・参考
6件
- 商工ジャーナル 6(6) 1980年6月
- 日経ビジネス 1989年10月16日号
- 日経ビジネス 1990年7月2日号
- 証券アナリストジャーナル 1992年11月 別冊付録 理想科学工業(後藤正宏)
- 日経ビジネス 1993年7月5日号
- 実業往来 531 1996年9月