第1章 年〜年

椿本チエイン:椿本説三の個人創業とローラチェーンの製造

1917年〜豊崎町南浜の自転車チェーン工場と、輸入に頼っていた機械用チェーンへの進出

1917年12月、椿本説三氏が大阪府西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。27歳の椿本説三氏は神戸高等商業学校を出て内外綿に入社し、5年で退社して独立した。直接のきっかけは、井田ゴム商店の支配人だった兄の椿本三七郎氏の窮地である。椿本三七郎氏はオーストラリア向け自転車チェーンの大口注文を受けたものの、生産を委託した南浜の田村鉄工所では量産できなかった。第1次世界大戦で輸入チェーンが途絶え、国内の需要が膨らんでいた。開業資金には上海勤務時代の仲立ち手数料約7万円を充当し、創業当初の月産約1万本は5割の利益を乗せても完売した。兄を助ける動機に、輸入途絶で生じた国産品の需要の読みが重なったのだろう。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [1]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [3]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [4]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [6]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
  • 野田経済 1960年12月5日号
    • [2]椿本説三は23歳で神戸高商を出て内外綿に勤め、27歳で独立したと回顧
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「椿本チヱイン製作所」
    • [5]第1次大戦で各種チェーンの輸入が杜絶し、国内需要に迫られて大正6年に南浜で町工場を構えた

椿本説三氏は1928年に自転車チェーンの製造をやめ、機械用チェーンへ転換した。第1次世界大戦後の反動不況で、1本4円だったチェーンは40銭まで下落し、生産も月5,000~6,000本の規模にとどまった。1921年には大日本自転車製造が南浜工場の設備一式を15万円で取得したいと申し入れた。椿本説三氏はこの申し入れを断り、紡績工場の給炭機に付いた外国製チェーンに目を付けた。海外のカタログで機械用チェーンの種類と用途の広さを知り、自らカタログを作った。最初の受注は呉海軍工廠のストーカー用ローラチェーンで、台湾の製糖用チェーンがコンベヤチェーンの第1号となった。機械用チェーンは大半を輸入品が占め、国産に置き換える余地の大きい市場である。自転車チェーンの値崩れが南浜の設備を別の需要へ振り向ける契機になったとみられる。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [7]1928年(昭和3年)に自転車用チェーンの製造をやめ機械用チェーンに転換。外国カタログを参考に商品目録を発送し、呉海軍工廠からストーカー用ローラチェーンを初受注。台湾向け製糖用チェーンが最初のコンベヤチェーン
    • [11]1928年(昭和3年)に自転車用チェーンの製造をやめ機械用チェーンに転換。外国カタログを参考に商品目録を発送し、呉海軍工廠からストーカー用ローラチェーンを初受注。台湾向け製糖用チェーンが最初のコンベヤチェーン
    • [12]1928年(昭和3年)に自転車用チェーンの製造をやめ機械用チェーンに転換。外国カタログを参考に商品目録を発送し、呉海軍工廠からストーカー用ローラチェーンを初受注。台湾向け製糖用チェーンが最初のコンベヤチェーン
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [8]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [9]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [10]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [13]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品

1928年、椿本商店は機構を改め、南浜工場を商店から切り離した。兄の椿本三七郎氏が店主を務める椿本商店は受注・販売・経理、南浜工場は生産という分担である。椿本説三氏は商店の支配人を退任し、工場主に就任した。工場の独立に合わせた、椿本チエインの商標の登録の出願。工場は1929年3月に椿本チエイン製作所と名称を改め、翌月から週1回の研究会「優品会」で製品と生産の技術を検討した。1931年には椿本商店から経営を独立させた。椿本説三氏は後年、平常は部下に任せ、難局や意見の対立の場面だけ社長が判断するという考えに38~40歳の頃に至ったと回顧した。販売を兄に委ねた分業は、任せる経営の出発点だったと推察される。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [14]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [16]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [17]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [18]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [19]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [15]分離後、兄三七郎を店主とする椿本商店がチェーンの受注・販売・経理を、南浜工場が生産を担当
  • 野田経済 1960年12月5日号
    • [20]平常は人に任せ、難航時や意見が割れたときに社長が舵を取るという心境になったのは38~40歳の頃と回顧
参考文献[1]-[20]
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [1]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [3]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [4]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [6]1917年12月、椿本説三(27歳)が西成郡豊崎町南浜に自転車チェーン製造の椿本工業所を設立。兄三七郎の豪州向け大量注文を田村鉄工所が量産できず、説三が約7万円を投じた。月産約1万本は5割の利益でも売れた
    • [8]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [9]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [10]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [13]反動不況でチェーン価格は1本4円から40銭へ、生産は5,000~6,000本へ縮小。大正10年に大日本自転車製造の15万円での買収申し入れを断る。紡績工場の給炭機の外国製チェーンが機械用チェーン進出の着想。機械用チェーンの大半は輸入品
    • [15]分離後、兄三七郎を店主とする椿本商店がチェーンの受注・販売・経理を、南浜工場が生産を担当
  • 野田経済 1960年12月5日号
    • [2]椿本説三は23歳で神戸高商を出て内外綿に勤め、27歳で独立したと回顧
    • [20]平常は人に任せ、難航時や意見が割れたときに社長が舵を取るという心境になったのは38~40歳の頃と回顧
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「椿本チヱイン製作所」
    • [5]第1次大戦で各種チェーンの輸入が杜絶し、国内需要に迫られて大正6年に南浜で町工場を構えた
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [7]1928年(昭和3年)に自転車用チェーンの製造をやめ機械用チェーンに転換。外国カタログを参考に商品目録を発送し、呉海軍工廠からストーカー用ローラチェーンを初受注。台湾向け製糖用チェーンが最初のコンベヤチェーン
    • [11]1928年(昭和3年)に自転車用チェーンの製造をやめ機械用チェーンに転換。外国カタログを参考に商品目録を発送し、呉海軍工廠からストーカー用ローラチェーンを初受注。台湾向け製糖用チェーンが最初のコンベヤチェーン
    • [12]1928年(昭和3年)に自転車用チェーンの製造をやめ機械用チェーンに転換。外国カタログを参考に商品目録を発送し、呉海軍工廠からストーカー用ローラチェーンを初受注。台湾向け製糖用チェーンが最初のコンベヤチェーン
    • [14]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [16]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [17]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [18]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立
    • [19]1928年に南浜工場を椿本商店から切り離し椿本チエイン工場とし、説三は商店支配人を退いて工場主に。1929年3月に椿本チエイン製作所へ改称、4月から優品会を週1回開催。1931年に椿本商店より経営を独立

1930年〜海軍省指定工場の決定と、生産高20万円から221万円への11倍

椿本チエイン製作所は1931年10月16日付で、海軍省経理局から指定工場の認可を受けた。海軍の定めでは、物品の購入先は購買名簿に載せた業者に限られる。椿本説三氏は登録願いを提出したうえで上京のたびに海軍省を訪れ、2年越しで認可を得た。同じ1931年9月には満州事変が起き、軍事費が恐慌下の産業界に流れ始めた。認可後も椿本説三氏は横須賀・呉・佐世保・舞鶴の海軍工廠を回り、艦艇の揚弾薬機用チェーンを納めた。海軍向けの注文はチェーン生産の半ば近くに達し、官庁や民間からの引き合いも増えた。個人経営の小工場にとって、海軍の指定は恐慌期の注文と信用を同時に得る手段だったと思われる。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [21]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [22]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [23]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [25]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [26]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [24]1931年9月に満州事変勃発、同年10月に海軍省指定工場となる

生産高は海軍指定工場となった1931年の20万円から、1938年には221万円へ11倍の増加。この間、炭鉱切羽用のC-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを相次いで製品にした。営業担当者は輸入機械を使う工場を訪ね、次のチェーン交換で椿本製への切り替えを求めた。外地へは、のちに第2代社長となる山中一郎氏を朝鮮と満州へ送り、京城の青木商会、大連の原田組本店と代理店の契約を結んだ。1936年12月には東北セメント大船渡工場向けに、総額17万円の大規模なコンベヤプラント一式を初めて受注した。チェーン単品から搬送設備一式へ受注の範囲を広げたことが221万円への増加を支えたと考えられる。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [27]生産高は昭和6年20万円から昭和13年221万円へ7年で11倍。C-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを開発。輸入チェーンを使う工場を訪ね国産への切り替えを営業の基本とした。山中一郎は第2代社長
    • [28]生産高は昭和6年20万円から昭和13年221万円へ7年で11倍。C-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを開発。輸入チェーンを使う工場を訪ね国産への切り替えを営業の基本とした。山中一郎は第2代社長
    • [29]生産高は昭和6年20万円から昭和13年221万円へ7年で11倍。C-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを開発。輸入チェーンを使う工場を訪ね国産への切り替えを営業の基本とした。山中一郎は第2代社長
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [30]山中一郎を朝鮮・満州へ派遣し京城の青木商会、大連の原田組本店と代理店契約。1936年12月、東北セメント大船渡工場向けに大規模なコンベヤプラント一式(総額17万円)を初受注
    • [31]山中一郎を朝鮮・満州へ派遣し京城の青木商会、大連の原田組本店と代理店契約。1936年12月、東北セメント大船渡工場向けに大規模なコンベヤプラント一式(総額17万円)を初受注

椿本説三氏は1936年、大阪市旭区(現鶴見区)鶴見町に新工場を建設すると決めた。1933年4月の出火で南浜工場の一部が焼け、復旧後の敷地は工場の建物で埋まっていた。増え続ける大口注文に応じる拡張の余地は、南浜には残っていなかった。最初の候補地の東淀川区加島町は地代のつり上げで断念し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収した。工事の開始は1937年7月で、本館事務所や組立工場が完成したのは1940年5月の第3期工事である。1940年6月に移転を終え、1942年2月に創業地の南浜工場を閉鎖した。建設の決定から移転の完了まで4年を要し、工事は3期に分けて進めた。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [32]昭和11年に鶴見町での工場建設が決定。昭和8年4月に南浜工場の一部が失火で焼失し、復興後は拡張余地がなく大量注文に応じられないことが移転動機
    • [33]昭和11年に鶴見町での工場建設が決定。昭和8年4月に南浜工場の一部が失火で焼失し、復興後は拡張余地がなく大量注文に応じられないことが移転動機
    • [34]昭和11年に鶴見町での工場建設が決定。昭和8年4月に南浜工場の一部が失火で焼失し、復興後は拡張余地がなく大量注文に応じられないことが移転動機
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [35]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
    • [36]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
    • [37]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
    • [38]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
参考文献[21]-[38]
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [21]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [22]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [23]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [25]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [26]1931年10月16日付で海軍省経理局から指定工場の正式認可。購買名簿登録業者以外からは購入しない定め。約2年の嘆願の末。各海軍工廠を歴訪。揚弾薬機用チェーンが主体で、海軍の注文はチェーン生産の半ば近くに
    • [27]生産高は昭和6年20万円から昭和13年221万円へ7年で11倍。C-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを開発。輸入チェーンを使う工場を訪ね国産への切り替えを営業の基本とした。山中一郎は第2代社長
    • [28]生産高は昭和6年20万円から昭和13年221万円へ7年で11倍。C-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを開発。輸入チェーンを使う工場を訪ね国産への切り替えを営業の基本とした。山中一郎は第2代社長
    • [29]生産高は昭和6年20万円から昭和13年221万円へ7年で11倍。C-60級チェーン、舶用チェーン、標準形ローラチェーンを開発。輸入チェーンを使う工場を訪ね国産への切り替えを営業の基本とした。山中一郎は第2代社長
    • [32]昭和11年に鶴見町での工場建設が決定。昭和8年4月に南浜工場の一部が失火で焼失し、復興後は拡張余地がなく大量注文に応じられないことが移転動機
    • [33]昭和11年に鶴見町での工場建設が決定。昭和8年4月に南浜工場の一部が失火で焼失し、復興後は拡張余地がなく大量注文に応じられないことが移転動機
    • [34]昭和11年に鶴見町での工場建設が決定。昭和8年4月に南浜工場の一部が失火で焼失し、復興後は拡張余地がなく大量注文に応じられないことが移転動機
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [24]1931年9月に満州事変勃発、同年10月に海軍省指定工場となる
    • [30]山中一郎を朝鮮・満州へ派遣し京城の青木商会、大連の原田組本店と代理店契約。1936年12月、東北セメント大船渡工場向けに大規模なコンベヤプラント一式(総額17万円)を初受注
    • [31]山中一郎を朝鮮・満州へ派遣し京城の青木商会、大連の原田組本店と代理店契約。1936年12月、東北セメント大船渡工場向けに大規模なコンベヤプラント一式(総額17万円)を初受注
    • [35]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
    • [36]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
    • [37]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖
    • [38]加島町は地代つり上げで挫折し、1936年12月に鶴見町の敷地1万m2を買収。1937年7月第1期工事着手、1940年5月第3期工事完了(本館事務所・組立工場等)、同年6月移転完了。1942年2月南浜工場閉鎖

1941年〜資本金300万円の株式会社椿本チヱイン製作所と、大阪大空襲の被災

椿本説三氏は1941年1月28日、創業から25年続いた個人経営をやめ、株式会社椿本チヱイン製作所を創立した。資本金300万円は全額払込みで、初代社長は椿本説三氏である。設立登記は1月31日に完了し、会社はこの日を設立日とした。改組の理由は、海軍向けの業務が膨らみ、個人商店の体制では事務処理が追いつかなくなったことにある。1940年に鶴見町の新工場を完成させた翌年の改組であり、工場の整備と会社組織の整備が続いた。椿本説三氏は株式会社化の後も株主の資金に依存せず、自己資金と自らが責任を負う借入金で事業を進めたと回顧した。改組は資金の調達より、事務と対外的な信用を整える措置だったと読み取れる。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [39]1941年1月28日創立総会、個人経営から株式会社椿本チヱイン製作所へ組織変更。理由は海軍関係の仕事量増加で個人経営では事務が渋滞。設立登記1月31日を会社設立日
    • [41]1941年1月28日創立総会、個人経営から株式会社椿本チヱイン製作所へ組織変更。理由は海軍関係の仕事量増加で個人経営では事務が渋滞。設立登記1月31日を会社設立日
    • [42]1941年1月28日創立総会、個人経営から株式会社椿本チヱイン製作所へ組織変更。理由は海軍関係の仕事量増加で個人経営では事務が渋滞。設立登記1月31日を会社設立日
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [40]1941年1月、創立総会・設立登記完了31日、資本金300万円全額払込済み、初代社長椿本説三就任
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「椿本チヱイン製作所」
    • [43]昭和15年に現在地に新工場を建設、翌16年に資本金300万円の株式会社として新発足
  • 野田経済 1960年12月5日号
    • [44]昭和16年の株式会社化に触れ、他人の資金を預からず自己資金と自分の責任の借入金で事業を行ったと回顧

株式会社となった直後の1941年5月、椿本チヱイン製作所は代理店経営者を招いて第1回代理店会「椿の会」を開催した。代理店の数は、満州や朝鮮などの外地を含めて30店を超える。会社組織への変更に合わせ、同年3月には代理店との契約を更改した。同年7月には満州と華北の販路開拓のため取締役の山中一郎氏を派遣し、9月に守谷商会と華北の総代理店契約を結んだ。直営の出先は1924年の千代田組本店への出張員駐在に始まり、台湾・東京・札幌・大阪・九州へ営業所や出張所を設けた。第2回の椿の会の開催は同年11月、場所は東京である。終戦前後に途切れた会は、1947年に再開した。代理店網を会の形で組織したことが会社の規模拡大に販売を追随させる仕組みになったとうかがえる。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [45]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [46]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [49]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [51]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [47]1941年3月に会社組織変更で代理店と契約更改、5月第1回椿の会、7月山中取締役を満州・華北へ派遣、9月守谷商会と華北総代理店契約、11月第2回椿の会(東京)
    • [48]1941年3月に会社組織変更で代理店と契約更改、5月第1回椿の会、7月山中取締役を満州・華北へ派遣、9月守谷商会と華北総代理店契約、11月第2回椿の会(東京)
    • [50]1941年3月に会社組織変更で代理店と契約更改、5月第1回椿の会、7月山中取締役を満州・華北へ派遣、9月守谷商会と華北総代理店契約、11月第2回椿の会(東京)

1944年4月、椿本チヱイン製作所は軍需大臣と海軍大臣から軍需会社法の軍需会社に指定された。陸軍のトラック向けに日産自動車が発注したサイレントチェーンや、航空機の操縦系統に使うチェーンを増産した。1945年3月10日の東京大空襲で東京営業所が全焼し、6月1日には大阪営業所も焼失に見舞われた。6月7日の空襲では本社第2工場前の防空壕が直撃を受け、動員学徒ら7人が犠牲となった。工場の被害は第2工場の製品倉庫の全焼にとどまった。終戦直後の従業員は約1,300人から400人近くに減少し、生産はくわやフライパンからの再開である。椿本説三氏は戦後の金融難の時期に、人員の半減や重役の減給を自ら指示したと回顧した。

  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [52]1944年4月、軍需大臣・海軍大臣より軍需会社に指定
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [53]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [54]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [55]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [56]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [57]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
  • 野田経済 1960年12月5日号
    • [58]終戦後の金融難の時期に、人員半減や重役の減給を自ら指示したと回顧
参考文献[39]-[58]
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
    • [39]1941年1月28日創立総会、個人経営から株式会社椿本チヱイン製作所へ組織変更。理由は海軍関係の仕事量増加で個人経営では事務が渋滞。設立登記1月31日を会社設立日
    • [41]1941年1月28日創立総会、個人経営から株式会社椿本チヱイン製作所へ組織変更。理由は海軍関係の仕事量増加で個人経営では事務が渋滞。設立登記1月31日を会社設立日
    • [42]1941年1月28日創立総会、個人経営から株式会社椿本チヱイン製作所へ組織変更。理由は海軍関係の仕事量増加で個人経営では事務が渋滞。設立登記1月31日を会社設立日
    • [45]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [46]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [49]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [51]代理店は満州・朝鮮を含め株式会社化の昭和16年に30店超。同年5月に代理店経営者を大阪本社に招き第1回椿の会を開催。大正13年に千代田組本店へ出張員、その後台湾・東京・札幌・大阪・九州に営業所・出張所。椿の会は終戦前後の一時中断を除き、昭和22年に再開
    • [53]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [54]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [55]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [56]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
    • [57]日産自動車発注のサイレントチェーン、航空機用チェーンを増産。1945年3月10日東京営業所全焼、6月1日大阪営業所焼失、6月7日本社第2工場前の防空壕直撃で学徒ら7人犠牲、工場被害は第2工場製品倉庫の全焼程度。終戦後従業員約1,300人から400人近くへ、くわ・火ばさみ・フライパンで生産再開
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
    • [40]1941年1月、創立総会・設立登記完了31日、資本金300万円全額払込済み、初代社長椿本説三就任
    • [47]1941年3月に会社組織変更で代理店と契約更改、5月第1回椿の会、7月山中取締役を満州・華北へ派遣、9月守谷商会と華北総代理店契約、11月第2回椿の会(東京)
    • [48]1941年3月に会社組織変更で代理店と契約更改、5月第1回椿の会、7月山中取締役を満州・華北へ派遣、9月守谷商会と華北総代理店契約、11月第2回椿の会(東京)
    • [50]1941年3月に会社組織変更で代理店と契約更改、5月第1回椿の会、7月山中取締役を満州・華北へ派遣、9月守谷商会と華北総代理店契約、11月第2回椿の会(東京)
    • [52]1944年4月、軍需大臣・海軍大臣より軍需会社に指定
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「椿本チヱイン製作所」
    • [43]昭和15年に現在地に新工場を建設、翌16年に資本金300万円の株式会社として新発足
  • 野田経済 1960年12月5日号
    • [44]昭和16年の株式会社化に触れ、他人の資金を預からず自己資金と自分の責任の借入金で事業を行ったと回顧
    • [58]終戦後の金融難の時期に、人員半減や重役の減給を自ら指示したと回顧

出典・参考

4件
出典・参考
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)第1編 1章「創業者椿本説三」
  • 椿本チエイン70年史 1917-1986(1987)資料編「年表」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「椿本チヱイン製作所」
  • 野田経済 1960年12月5日号

免責事項およびポリシー