パイオラックス:加藤発條の創業と日産・日立向けばねの量産
1936年〜東京・本所に4人で始めたばね工場と、得意先を追った保土ケ谷移転
加藤発條の起こりは、1933年に東京・本所菊川町で開業した加藤発条製作所である。東京生まれの創業者、加藤三郎氏は19歳でばね販売の津田発条商会に勤め、店主の放漫な経営を見限って独立した。開業時の加藤三郎氏は21歳で、従業員4人で切り盛りする町工場だった。独立を支えた得意先の東亜電機製作所が1936年に横浜・戸塚へ新工場を建てると、加藤三郎氏も近くの保土ケ谷へ工場を移した。移転当時の従業員は7人で、保土ケ谷駅に近い京浜国道沿いでただ1つのばね工場だった。設備も信用も乏しい町工場にとって、主要な得意先の近くに構えることが受注を保つ条件だったとみられる。
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [1]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [2]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [5]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [7]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- [3]1933年創業時、社長は21歳で4人の町工場。1936年に保土ケ谷へ進出
- [6]1933年創業時、社長は21歳で4人の町工場。1936年に保土ケ谷へ進出
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- [4]1933年に東京本所で従業員4〜5名で創業し、1936年に横須賀線保土ケ谷駅近くの国道沿いへ移った
- [8]1933年に東京本所で従業員4〜5名で創業し、1936年に横須賀線保土ケ谷駅近くの国道沿いへ移った
保土ケ谷に移った翌年の1937年、自動車製造(のちの日産自動車)との取引が始まった。加藤三郎氏は横浜で組立工場を営む日本フォードにも自ら注文を取りに出向き、日本フォードが撤退するまで下請取引を続けた。東亜電機製作所は1937年に日立製作所へ合併されて日立製作所戸塚工場となり、自動車と通信機の大手が得意先に並んだ。受注の拡大を受けて、1939年9月24日に株式会社へ改組し、資本金は10万円。戦時に入ると軍需生産の拡大で業容が広がり、従業員は100人に達した。創業から数年で成長産業の大手と取引を結んだことが、戦後に事業を広げる足場になったと推察される。
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [9]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [10]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [11]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [13]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [14]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- 証券 50(6) 1998年(新規上場会社紹介)
- [12]パイオラックスの設立年月日は1939年9月24日
参考文献[1]-[14]
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [1]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [2]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [5]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [7]1933年に東京・本所菊川町で加藤発条製作所を創業。東京生まれの加藤三郎氏は19歳で津田発条商会に勤め、店主の放漫経営を見限り独立。得意先の東亜電機製作所が支援し、1936年に同社の戸塚新工場建設に伴い保土ケ谷へ移転、当時の従業員7人。京浜国道で唯一のスプリング工場
- [9]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [10]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [11]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [13]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- [14]1937年に自動車製造(日産自動車の前身)と取引開始。加藤三郎氏が横浜の日本フォードへ飛び込みで受注し、フォード撤退まで下請関係。東亜電機は1937年に日立製作所に合併され日立戸塚工場に。1939年に株式会社へ改組(資本金10万円)、戦時に従業員100人
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- [3]1933年創業時、社長は21歳で4人の町工場。1936年に保土ケ谷へ進出
- [6]1933年創業時、社長は21歳で4人の町工場。1936年に保土ケ谷へ進出
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- [4]1933年に東京本所で従業員4〜5名で創業し、1936年に横須賀線保土ケ谷駅近くの国道沿いへ移った
- [8]1933年に東京本所で従業員4〜5名で創業し、1936年に横須賀線保土ケ谷駅近くの国道沿いへ移った
- 証券 50(6) 1998年(新規上場会社紹介)
- [12]パイオラックスの設立年月日は1939年9月24日
1957年〜日産・日立の伸びに乗った横浜・戸塚の2工場と、配当1割で積んだ10年14倍の成長
戦後の加藤発條は、1945年9月にGHQの承認を得て自動車部品用ばねの製造を再開した。1948年に工場が全焼し、1949年にはドッジ・ラインの不況で受注が半減して人員の4割を整理。1951年には通産大臣から優良自動車部品A級工場の認定を受け、1954年からは3年ごとの合理化計画で工程の自動化に投資した。品種は小物ばねに絞り、日産自動車と日立製作所の需要拡大に量産で応えた。生産の中心は1957年新設の横浜工場へ移り(1959年の記事は1958年9月完成)、1964年には戸塚工場を加えた。従業員は1956〜57年頃の100名前後から1961年に400名を超え、西ドイツ製の自動巻線機も1958〜59年に入れた。
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [15]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [16]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [17]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [19]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [20]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- [18]横浜工場は1958年9月完成の新設工場。1951年に優良自動車部品A級の認定。従業員は5年間で数倍に
- [21]横浜工場は1958年9月完成の新設工場。1951年に優良自動車部品A級の認定。従業員は5年間で数倍に
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- [22]1956〜57年頃に100名前後だった従業員が1961年に400名を突破。1958〜59年に西独カールハック社の万能自動巻線機を導入
加藤発條は1956年以降、収益の良い期でも配当を1割に抑え続けた。社長の加藤三郎氏が、経営者個人の富の追求を退けることを経営の信条に据えていたためである。加藤三郎氏は『会社は社会からおあずかりしている』という考えを日頃から従業員に示していた。抑えた配当の分は内部留保として設備投資に充当され、1969年時点で総資本10億円の90%を社内留保が占めた。資本金は1959年の200万円から1969年の4千万円となり、1968年度の売上高は約20億円、従業員は約450名に達した。1961年に年間生産額が6億円を超え、売上高は1969年までの10年間で14倍となった。
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [23]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [24]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [26]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [28]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [30]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- [25]1959年時点で資本金200万円・従業員270名。社長は会社は社会から預かっているものと説く
- [27]1959年時点で資本金200万円・従業員270名。社長は会社は社会から預かっているものと説く
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- [29]1961年時点で年間生産額6億円超
人を急に増やすなかで、加藤三郎氏は同族に依存しない経営陣を組んだ。1959年時点で取締役5人のうち親族は1人で、経営者を社外から迎えていた。1947年に結成された労働組合はストライキを一度も起こさず、1958年秋からは労使懇談会を月2回開いた。幹部の不足には、課長が1か月交替で部長職を見習う一月部長制度を1958年に設けて対処した。1968年には、国の検定では測れない特殊な技能に合わせて、19職種の社内技能検定制度を設けた。同じ記事が材料の革新と電子工業への販路拡大を次の課題に挙げており、ばね専業の技術の幅が問われ始めたのだろう。
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- [31]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- [32]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- [33]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- [35]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- [34]労働組合は1947年8月結成、自労連傘下。毎月労使の懇談を持つ
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [36]1958年に社長発案で一月部長制度。1968年に社内技能検定制度が発足(国の検定を使えず19職種の基準を作成)。今後の課題は材料革新と電子工業などへの販路拡大
- [37]1958年に社長発案で一月部長制度。1968年に社内技能検定制度が発足(国の検定を使えず19職種の基準を作成)。今後の課題は材料革新と電子工業などへの販路拡大
参考文献[15]-[37]
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- [15]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [16]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [17]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [19]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [20]1945年9月GHQ承認で自動車部品用スプリング製造再開、1948年工場全焼、1949年ドッジ・ラインで受注半減・4割人員整理。1951年優良自動車部品A級工場。1954年以降3年単位の合理化計画で自動化投資。小物ばねに集中し量産、日産・日立戸塚工場の需要拡大に乗る。1957年横浜工場、1964年戸塚工場を新設
- [23]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [24]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [26]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [28]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [30]加藤三郎氏は経営者個人の富の追求を排する信条で、1956年以降毎期配当を1割に止めた。総資本10億円の90%が社内留保で、留保が設備投資を可能にした。資本金4千万円、1968年度売上高約20億円、従業員約450名、10年で売上高14倍。新工場を建設中
- [36]1958年に社長発案で一月部長制度。1968年に社内技能検定制度が発足(国の検定を使えず19職種の基準を作成)。今後の課題は材料革新と電子工業などへの販路拡大
- [37]1958年に社長発案で一月部長制度。1968年に社内技能検定制度が発足(国の検定を使えず19職種の基準を作成)。今後の課題は材料革新と電子工業などへの販路拡大
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- [18]横浜工場は1958年9月完成の新設工場。1951年に優良自動車部品A級の認定。従業員は5年間で数倍に
- [21]横浜工場は1958年9月完成の新設工場。1951年に優良自動車部品A級の認定。従業員は5年間で数倍に
- [25]1959年時点で資本金200万円・従業員270名。社長は会社は社会から預かっているものと説く
- [27]1959年時点で資本金200万円・従業員270名。社長は会社は社会から預かっているものと説く
- [31]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- [32]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- [33]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- [35]取締役5人中親族は1名で、経営者を社外から迎える。労働組合は1947年結成、自労連加盟、結成以来ストなし。1958年秋から労使懇談会を月2回。1958年に一月部長制度(課長12人を1か月交替で部長に任命)
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- [22]1956〜57年頃に100名前後だった従業員が1961年に400名を突破。1958〜59年に西独カールハック社の万能自動巻線機を導入
- [29]1961年時点で年間生産額6億円超
- [34]労働組合は1947年8月結成、自労連傘下。毎月労使の懇談を持つ
出典・参考
4件
- 労務研究 12(9) 1959年9月号「大企業の盲点をつくモデル中企業の労務管理 加藤發條・横浜工場」(溝井雅人)
- 婦人と年少者 9(7) 1961年7月号「温かい人間関係で発展する中小企業――加藤発条のばあい」(海老原利章)
- 近代中小企業 4(33) 1969年6月号(堀越充)
- 証券 50(6) 1998年(新規上場会社紹介)