大阪製鐵:大鐵工業と大和製鋼の合併による大阪製鐵の設立
1978年〜石油ショックで行き詰まった平電炉2社を束ねる新会社と、最初の半期の売上159億円
1978年5月15日、大鐵工業と大和製鋼の2社を吸収合併するための新会社として、大阪製鐵が大阪市大正区南恩加島に設立された。出資は新日本製鐵が全額を担い、2社の筆頭株主だった新日本製鐵が合併を主導した。背景にあったのは、1973年に始まる第一次石油ショック後の建設投資の低迷。建設資材向けの小形棒鋼や中小形形鋼を主に生産する電炉各社は設備が余り、価格競争が激しくなった。新日鐵系列の平電炉メーカーだった2社もともに業績が悪化し、単独では存続の見通しが立たなかった。どちらか一方を存続会社にしなかったことで、2社を対等に新会社へ移す構図になったと考えられる。
- 日本企業要覧 1979年版「大阪製鐵株式会社」
- [1]設立は1978年5月15日、所在地は大阪市大正区南恩加島1丁目9番3号
- 証券 49(1)(574)「大阪製鐵株式会社」(新規上場会社紹介)
- [2]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [3]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [4]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [5]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [6]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- [7]新日鐵系列の平電炉メーカー大鐵工業と大和製鋼が第一次石油ショック後に経営難に陥り、1978年に親会社が大阪製鐵を設立して両社を吸収合併した
- 証券アナリストジャーナル 33-01 1994年12月(毛利良一社長)
- [8]1978年に新日鐵系列の平電炉メーカー大鐵工業と大和製鋼が合併して誕生した
1978年10月1日、大阪製鐵は大鐵工業と大和製鋼を吸収合併し、資本金9億1,000万円で営業を始めた。工場は大正区の恩加島と西成区の津守の2か所で、主力品目は中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールである。代表取締役社長には同年7月、新日本製鐵で本社技術サービス部長を務めた設楽齊氏が就任した。合併で上場会社だった2社の株式は上場廃止となり、発足時の自己資本比率は4%にとどまった。最初の決算は1978年10月から1979年3月までの6か月分で、生産は24万8,000トンだった。同じ期の売上高は159億3,000万円、経常利益は8億9,000万円。翌1980年3月期には生産55万4,000トン・売上高393億1,400万円・経常利益25億5,400万円を計上した。
- 日本企業要覧 1979年版「大阪製鐵株式会社」
- [9]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [10]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [11]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [13]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [14]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- [12]大鐵工業・大和製鋼はともに上場会社だったが吸収合併で上場廃止。発足時の自己資本比率は4%
- 日本企業要覧 1980年版「大阪製鐵株式会社」
- [15]1980年3月期は生産55万4千トン、売上高393億1,400万円、経常利益25億5,400万円
参考文献[1]-[15]
- 日本企業要覧 1979年版「大阪製鐵株式会社」
- [1]設立は1978年5月15日、所在地は大阪市大正区南恩加島1丁目9番3号
- [9]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [10]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [11]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [13]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- [14]1978年10月1日に大鉄工業・大和製鋼を吸収合併、資本金9億1,000万円。工場は恩加島(大正区)と津守(西成区)。中形形鋼・溝形鋼・軽レール・エレベータレールで有力。社長設楽齊は元新日本製鉄本社技術サービス部長で1978年7月就任。1979年3月期(実質6か月)は生産24万8,000トン、売上高159億3,000万円、経常利益8億9,000万円
- 証券 49(1)(574)「大阪製鐵株式会社」(新規上場会社紹介)
- [2]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [3]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [4]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [5]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- [6]第1次オイルショック後の建設投資低迷で電炉業界は設備過剰・過当競争となり、大鐵工業と大和製鋼は業績悪化で存続が危ぶまれ、筆頭株主の新日本製鐵の主導で合併。1978年5月、新日本製鐵の全額出資で受け皿会社を設立
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- [7]新日鐵系列の平電炉メーカー大鐵工業と大和製鋼が第一次石油ショック後に経営難に陥り、1978年に親会社が大阪製鐵を設立して両社を吸収合併した
- [12]大鐵工業・大和製鋼はともに上場会社だったが吸収合併で上場廃止。発足時の自己資本比率は4%
- 証券アナリストジャーナル 33-01 1994年12月(毛利良一社長)
- [8]1978年に新日鐵系列の平電炉メーカー大鐵工業と大和製鋼が合併して誕生した
- 日本企業要覧 1980年版「大阪製鐵株式会社」
- [15]1980年3月期は生産55万4千トン、売上高393億1,400万円、経常利益25億5,400万円
1980年〜日鐵鋼機から継いだ落石防護網と、熊本の西日本製鋼の経営権取得
1980年10月、大阪製鐵は新日本製鐵の全額出資会社だった日鐵鋼機を吸収合併し、同社の工場を津守工場へ移して加工製品工場とした。合併後の資本金は9億6,000万円。日鐵鋼機はガードレールや落石防護柵などをつくる鋼材の二次加工メーカーであり、合併で鋼材加工の事業が加わった。この部門は加工製品事業部として残り、1994年にはガードケーブル・落石防護網・柵などの道路防災用品で売上の5%を占めた。社長の毛利良一氏は1994年12月、同事業部の年間売上20億円程度を30億円程度へ引き上げ、主力製品に育てる方針を示した。発足から1996年までの18年間、大阪製鐵は第二次石油ショック・円高不況・平成不況を経ても赤字を計上しなかった。形鋼の市況に左右されにくい加工品を抱えたことが、浮き沈みの大きい電炉事業の収益を下支えしたとみられる。
- 有価証券報告書【沿革】
- [16]1980年10月、日鐵鋼機㈱を吸収合併し、同社工場を津守工場へ移転し加工製品工場とする
- 証券 49(1)(574)「大阪製鐵株式会社」(新規上場会社紹介)
- [17]1980年10月、新日本製鐵の全額出資会社でガードレール・落石防護柵など鋼材二次製品の加工メーカーだった日鐵鋼機を吸収合併し、鋼材加工事業を加えた
- [19]1980年10月、新日本製鐵の全額出資会社でガードレール・落石防護柵など鋼材二次製品の加工メーカーだった日鐵鋼機を吸収合併し、鋼材加工事業を加えた
- 日本企業要覧 1981年版「大阪製鐵株式会社」
- [18]1980年12月20日に日鐵鋼機を合併、資本金は9億6,000万円
- 証券アナリストジャーナル 33-01 1994年12月(毛利良一社長)
- [20]ガードケーブル・落石防護網・柵など道路防災用品等の二次加工品が売上の5%。加工製品事業部の年間売上20億円程度を30億円程度に伸ばし主力製品に育てる方針
- [21]ガードケーブル・落石防護網・柵など道路防災用品等の二次加工品が売上の5%。加工製品事業部の年間売上20億円程度を30億円程度に伸ばし主力製品に育てる方針
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- [22]発足以来18年、第二次石油ショック・円高不況・平成不況を経て一度も赤字を出していない
1989年3月、大阪製鐵は熊本県宇土市の西日本製鋼の経営権を取得した。西日本製鋼は鉄筋用の棒鋼を主力とするメーカーで、1994年12月時点で大阪製鐵の子会社5社の1社にあたる。大阪製鐵は、自社では効率が悪い小さいサイズの山形鋼を西日本製鋼に生産させ、空いた設備で得意なサイズをつくる分業を敷いた。子会社はいずれも黒字を保ち、連結と単体の倍率は1.5倍から1.6倍に及んだ。1995年6月1日、大阪製鐵は西日本製鋼を吸収合併し、棒鋼を生産品目に加えた。社長の毛利良一氏は1997年1月、この合併で装置産業の目安とされる年産100万トン規模の体制を確立したと説明した。子会社の段階で品種を分け合った経験が、のちの合併を生産体制の統合として進める下地になったと推察される。
- 有価証券報告書【沿革】
- [23]1989年3月、西日本製鋼㈱の経営権を取得
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- [24]西日本製鋼所は熊本県宇土市に所在。既に子会社化していた西日本製鋼を合併し、鉄鋼業の目安とされる年産100万トン規模体制を確立
- [30]西日本製鋼所は熊本県宇土市に所在。既に子会社化していた西日本製鋼を合併し、鉄鋼業の目安とされる年産100万トン規模体制を確立
- 証券アナリストジャーナル 33-01 1994年12月(毛利良一社長)
- [25]1994年12月時点で子会社は西日本製鋼・日本スチール・大阪物産・大阪新運輸・西鋼運輸の5社。西日本製鋼は鉄筋バーが主力で、大阪製鐵では効率の悪い小サイズの山形鋼を生産させ補完。子会社は全て黒字で連単倍率1.5〜1.6倍
- [26]1994年12月時点で子会社は西日本製鋼・日本スチール・大阪物産・大阪新運輸・西鋼運輸の5社。西日本製鋼は鉄筋バーが主力で、大阪製鐵では効率の悪い小サイズの山形鋼を生産させ補完。子会社は全て黒字で連単倍率1.5〜1.6倍
- [27]1994年12月時点で子会社は西日本製鋼・日本スチール・大阪物産・大阪新運輸・西鋼運輸の5社。西日本製鋼は鉄筋バーが主力で、大阪製鐵では効率の悪い小サイズの山形鋼を生産させ補完。子会社は全て黒字で連単倍率1.5〜1.6倍
- 証券 49(1)(574)「大阪製鐵株式会社」(新規上場会社紹介)
- [28]1995年6月、子会社の西日本製鋼を吸収合併し棒鋼を生産品目に加えた
- 証券アナリストジャーナル 1997年5月(屋敷治専務取締役)
- [29]1995年6月1日付で子会社の西日本製鋼を合併
参考文献[16]-[30]
- 有価証券報告書【沿革】
- [16]1980年10月、日鐵鋼機㈱を吸収合併し、同社工場を津守工場へ移転し加工製品工場とする
- [23]1989年3月、西日本製鋼㈱の経営権を取得
- 証券 49(1)(574)「大阪製鐵株式会社」(新規上場会社紹介)
- [17]1980年10月、新日本製鐵の全額出資会社でガードレール・落石防護柵など鋼材二次製品の加工メーカーだった日鐵鋼機を吸収合併し、鋼材加工事業を加えた
- [19]1980年10月、新日本製鐵の全額出資会社でガードレール・落石防護柵など鋼材二次製品の加工メーカーだった日鐵鋼機を吸収合併し、鋼材加工事業を加えた
- [28]1995年6月、子会社の西日本製鋼を吸収合併し棒鋼を生産品目に加えた
- 日本企業要覧 1981年版「大阪製鐵株式会社」
- [18]1980年12月20日に日鐵鋼機を合併、資本金は9億6,000万円
- 証券アナリストジャーナル 33-01 1994年12月(毛利良一社長)
- [20]ガードケーブル・落石防護網・柵など道路防災用品等の二次加工品が売上の5%。加工製品事業部の年間売上20億円程度を30億円程度に伸ばし主力製品に育てる方針
- [21]ガードケーブル・落石防護網・柵など道路防災用品等の二次加工品が売上の5%。加工製品事業部の年間売上20億円程度を30億円程度に伸ばし主力製品に育てる方針
- [25]1994年12月時点で子会社は西日本製鋼・日本スチール・大阪物産・大阪新運輸・西鋼運輸の5社。西日本製鋼は鉄筋バーが主力で、大阪製鐵では効率の悪い小サイズの山形鋼を生産させ補完。子会社は全て黒字で連単倍率1.5〜1.6倍
- [26]1994年12月時点で子会社は西日本製鋼・日本スチール・大阪物産・大阪新運輸・西鋼運輸の5社。西日本製鋼は鉄筋バーが主力で、大阪製鐵では効率の悪い小サイズの山形鋼を生産させ補完。子会社は全て黒字で連単倍率1.5〜1.6倍
- [27]1994年12月時点で子会社は西日本製鋼・日本スチール・大阪物産・大阪新運輸・西鋼運輸の5社。西日本製鋼は鉄筋バーが主力で、大阪製鐵では効率の悪い小サイズの山形鋼を生産させ補完。子会社は全て黒字で連単倍率1.5〜1.6倍
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- [22]発足以来18年、第二次石油ショック・円高不況・平成不況を経て一度も赤字を出していない
- [24]西日本製鋼所は熊本県宇土市に所在。既に子会社化していた西日本製鋼を合併し、鉄鋼業の目安とされる年産100万トン規模体制を確立
- [30]西日本製鋼所は熊本県宇土市に所在。既に子会社化していた西日本製鋼を合併し、鉄鋼業の目安とされる年産100万トン規模体制を確立
- 証券アナリストジャーナル 1997年5月(屋敷治専務取締役)
- [29]1995年6月1日付で子会社の西日本製鋼を合併
出典・参考
8件
- 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 33-01 1994年12月(毛利良一社長)
- 証券アナリストジャーナル 1997年1月号 別冊付録 大阪製鐵(毛利良一社長)
- 証券アナリストジャーナル 1997年5月(屋敷治専務取締役)
- 日本企業要覧 1979年版「大阪製鐵株式会社」
- 日本企業要覧 1980年版「大阪製鐵株式会社」
- 日本企業要覧 1981年版「大阪製鐵株式会社」
- 証券 49(1)(574)「大阪製鐵株式会社」(新規上場会社紹介)