第1章 年〜年

東京鐵鋼:東京鐵鋼の設立と普通鋼鋼塊の製造開始

1939年〜大和製鉄の設備を継いだ足立の銑鉄工場と、可鍛鋳鉄で出直した戦後

東京鐵鋼は1939年6月23日、足立区にあった大和製鉄の設備などを譲り受けて設立され、銑鉄を造り始めた。有価証券報告書の沿革も、1939年6月を東京都足立区での設立と銑鉄・鋳鉄の製造開始の時点に置く。引き継いだ大和製鉄は、資本金19万8千円の会社だった。発足の母体には、創業者の吉原敏氏が個人経営の時代に積んだ電気機械と電気工事の実績があった。そこへ、のちに社長となる吉原貞敏氏が研究で得た高級鋳鉄の精練技術が加わった。電気と冶金の技術を持つ個人事業が、既存の製鉄設備を受け継ぐことで、銑鉄の製造に短い期間で参入したとみられる。

  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [1]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [3]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [4]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [5]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1939年6月 東京都足立区に設立、銑鉄及び鋳鉄の製造を開始

発足翌年の1940年10月、東京鐵鋼は銑鉄の製造から鋳造までを社内で一貫して手がけるようにし、社名も東京鉄鋼に改めた。設立時の1939年6月から、銑鉄とあわせて鋳鉄の製造も始めていた。一貫生産に移った後は、軍に鋳物を納める工場として伸びた。1944年3月には隣の二興製作所を合併して、機械加工の部門を厚くした。銑鉄を造るだけでなく鋳物と加工まで社内で受け持つことで、戦時の軍需に応える範囲を広げたのだろう。

  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [6]1940年10月 銑鉄から鋳造までの一貫生産体制を確立し社名を東京鉄鋼に変更、鋳物の軍需工場として発展。1944年3月 隣接の二興製作所を吸収合併し機械加工部門を充実
    • [8]1940年10月 銑鉄から鋳造までの一貫生産体制を確立し社名を東京鉄鋼に変更、鋳物の軍需工場として発展。1944年3月 隣接の二興製作所を吸収合併し機械加工部門を充実
    • [9]1940年10月 銑鉄から鋳造までの一貫生産体制を確立し社名を東京鉄鋼に変更、鋳物の軍需工場として発展。1944年3月 隣接の二興製作所を吸収合併し機械加工部門を充実
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1939年6月 設立とともに銑鉄及び鋳鉄の製造を開始

1945年の終戦で軍需が消え、東京鐵鋼は一時操業を止めた。再開にあたっては、製品を製粉機やパン焼器といった民生機器に切り替えた。1948年3月、製品の中心を可鍛鋳鉄品へ移行。鋳鉄は1939年の設立時から手がけてきた製品だった。戦後は鋳物の用途を軍需から民需の可鍛鋳鉄品へ替えて、事業をつないだ。その後の1950年代半ばまで、業績は順調に向上した。設立以来の鋳鉄の技術を残したまま、売り先を軍から民間へ替えたことが再出発を支えたと推察される。

  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [10]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [11]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [12]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [14]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [15]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1939年6月 設立とともに銑鉄及び鋳鉄の製造を開始
参考文献[1]-[15]
  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [1]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [3]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [4]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [5]1939年6月23日、吉原敏の電気機械・電気工事の実績と吉原貞敏の高級鋳鉄精練の技術を母体に、大和製鉄(資本金19万8千円)の設備を引き継いで発足し銑鉄の製造を開始
    • [6]1940年10月 銑鉄から鋳造までの一貫生産体制を確立し社名を東京鉄鋼に変更、鋳物の軍需工場として発展。1944年3月 隣接の二興製作所を吸収合併し機械加工部門を充実
    • [8]1940年10月 銑鉄から鋳造までの一貫生産体制を確立し社名を東京鉄鋼に変更、鋳物の軍需工場として発展。1944年3月 隣接の二興製作所を吸収合併し機械加工部門を充実
    • [9]1940年10月 銑鉄から鋳造までの一貫生産体制を確立し社名を東京鉄鋼に変更、鋳物の軍需工場として発展。1944年3月 隣接の二興製作所を吸収合併し機械加工部門を充実
    • [10]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [11]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [12]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [14]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
    • [15]1945年 終戦で一時操業を中止、製品を民生機器(製粉機・パン焼器)に転換して再発足、1948年3月 可鍛鋳鉄品の製造を開始、以後業績は順調に向上
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1939年6月 東京都足立区に設立、銑鉄及び鋳鉄の製造を開始
    • [7]1939年6月 設立とともに銑鉄及び鋳鉄の製造を開始
    • [13]1939年6月 設立とともに銑鉄及び鋳鉄の製造を開始

1958年〜高炉と輸入銑に押された1958年の無配転落と、普通鋼鋼塊で果たした1965年の復配

1958年11月期、東京鐵鋼は無配に転落した。1958年ごろから神武景気の反動で需要が減り、大手メーカーは高炉を完成させて自家用の銑鉄を造り始めた。安価な輸入銑も出回り、銑鉄を売る事業の足場が揺らいだ。東京鐵鋼は体質を改めるため、新製品の技術開発に力を注いだ。製品化にこぎつけたのは、普通鋼鋼塊と直接鋳造品に限られた。そのうち普通鋼鋼塊の製造開始は1959年4月。開発費と試験研究費の負担が増え、業績は悪化した。高炉を持つ大手と輸入銑の双方に価格で劣位に置かれ、銑鉄だけでは収益を保てなくなったと思われる。

  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [16]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [17]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [18]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [19]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [20]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [22]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1959年4月 普通鋼鋼塊の製造を開始

1965年11月期、東京鐵鋼は配当を再開した。立て直しの軸は、開発の成果である普通鋼鋼塊を量産に移したことだった。普通鋼鋼塊の製造は1959年4月に始まった。立て直しの過程では、吉原貞敏氏の社長就任をはじめとして、経営を担う管理者層を若返らせた。あわせて設備の合理化を進め、業績の回復を図った。1958年11月期の無配から7年で、配当を出せる収益まで回復した。銑鉄に代わる製品を鋼塊に見いだし、経営陣の世代交代と設備の手直しを同時に進めたことが復配の要因になったといえる。

  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [23]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [24]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [26]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [27]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [28]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1959年4月 普通鋼鋼塊の製造を開始

1966年、東京鐵鋼は銑鉄の溶銑から直接鋳造する方法を採用し、生産性を高めた。それでも需要は伸び悩んだ。鋼塊は本社工場で造り、棒鋼や構造用鋼材の原料向けに、単圧メーカーへ全量を販売していた。1969年、東京鐵鋼の小型棒鋼への進出。同年3月に栃木県小山市で小山工場の製鋼工場を完成させ、5月には圧延工場も完成させて棒鋼の生産を始めた。1970年11月期の売上構成は、普通鋼鋼塊が43.3%、棒鋼が38.9%だった。鋼塊を単圧メーカーへ販売するだけでは需要の伸び悩みに左右されるため、鋼を溶かして棒鋼に圧延するまでを自社で受け持つ体制へ移ったと考えられる。

  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [29]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [30]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [31]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [32]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [34]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1969年3月 栃木県小山市に小山工場製鋼工場を完成、同年5月 圧延工場完成・棒鋼の生産を開始
参考文献[16]-[34]
  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)
    • [16]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [17]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [18]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [19]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [20]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [22]1958年ごろ 神武景気の反動で需要減退、大手が高炉を完成し自家銑を製造、安価な輸入銑が登場。新製品開発に注力したが製品化は普通鋼鋼塊・直接鋳造品のみ、開発費・試験研究費の負担増で1958年11月期に無配転落
    • [23]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [24]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [26]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [27]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [28]1959年から普通鋼鋼塊の生産を開始、吉原貞敏の社長就任をはじめ経営管理者層の若返り・設備合理化で業績回復を図り、1965年11月期に復配
    • [29]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [30]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [31]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [32]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
    • [34]1966年 銑鉄の溶銑による直接鋳造法を採用し生産性向上、需要の伸び悩みで1969年に小型棒鋼へ進出。鋼塊は本社工場で生産し単圧メーカーへ全量販売。1970年11月期の売上構成は普通鋼鋼塊43.3%・棒鋼38.9%
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1959年4月 普通鋼鋼塊の製造を開始
    • [25]1959年4月 普通鋼鋼塊の製造を開始
    • [33]1969年3月 栃木県小山市に小山工場製鋼工場を完成、同年5月 圧延工場完成・棒鋼の生産を開始

出典・参考

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出典・参考
  • 東京鐵鋼 有価証券報告書【沿革】
  • 証券 1971年6月号(新規上場会社の紹介)

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