第1章 年〜年

ニッタ:新田長次郎の製革業創業と国産初の動力伝動用革ベルト

1885年〜藤田組・大倉組の製革所で修業した新田長次郎氏と、難波村で開いた軍靴用皮革の工場

愛媛県松山市出身の新田長次郎氏は、少年期に大阪へ出て米屋で働いた。それ以前に福沢諭吉の「学問のすすめ」に感銘を受け、外国に学んで国益に寄与する仕事を志していた。転機は、近くの製革工場に近代化のため招かれていたドイツ人技師との出会いだった。技師から『製革業は文明社会に必要であり、かつ発展する事業である』と聞かされ、新田長次郎氏はその製革所に職を移した。その後、藤田組製革所と大倉組製革所で修業を重ね、製革の技術を身につけた。大倉組の皮革工場は和歌山で操業しており、新田長次郎氏はそこでも皮革産業の将来性をドイツ人技師から教えられた。少年期の志と技師の見立てが重なり、輸入技術で成り立つ新しい産業として製革を選んだとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [1]創業者は松山市出身。来日したドイツの皮革技術者から皮革技術の重要性を聞き、藤田組製革所・大倉組製革所で修業した
    • [6]創業者は松山市出身。来日したドイツの皮革技術者から皮革技術の重要性を聞き、藤田組製革所・大倉組製革所で修業した
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [2]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [3]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [4]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [5]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [7]創業者は大倉組が和歌山で操業する皮革工場に勤め、ドイツ人技師に皮革産業の重要性を教えられて独立した

新田長次郎氏は製革の技術を習得した後、1885年に独立した。1885年3月、大阪府西成郡難波村久保吉(現・大阪市浪速区)で製革業を開始。独立後に最初に手がけた製品は、軍靴用の皮革である。修業先の藤田組製革所と大倉組製革所で得た技術が、独立の元手となった。ニッタは現在も、この1885年3月を会社の起点として沿革に記している。社長の新田精一氏は1990年の説明会で、創業から105年になると紹介した。明治の軍備拡張で軍靴の需要は国が買い手となって安定しており、独立したばかりの製革所が最初の販路に選んだのだろう。

  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [8]新田長次郎氏は技術を習得した後、明治18年に独立し大阪市浪速区の地で製革事業を起こした
  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
    • [9]1885年3月、創業者新田長次郎が大阪府西成郡難波村久保吉(現 大阪市浪速区)で製革業を開始
    • [12]1885年3月、創業者新田長次郎が大阪府西成郡難波村久保吉(現 大阪市浪速区)で製革業を開始
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [10]藤田組・大倉組の製革所で修業したのち独立して軍靴用皮革の製造を開始。1990年時点で創業105年
    • [11]藤田組・大倉組の製革所で修業したのち独立して軍靴用皮革の製造を開始。1990年時点で創業105年
    • [13]藤田組・大倉組の製革所で修業したのち独立して軍靴用皮革の製造を開始。1990年時点で創業105年
参考文献[1]-[13]
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [1]創業者は松山市出身。来日したドイツの皮革技術者から皮革技術の重要性を聞き、藤田組製革所・大倉組製革所で修業した
    • [6]創業者は松山市出身。来日したドイツの皮革技術者から皮革技術の重要性を聞き、藤田組製革所・大倉組製革所で修業した
    • [10]藤田組・大倉組の製革所で修業したのち独立して軍靴用皮革の製造を開始。1990年時点で創業105年
    • [11]藤田組・大倉組の製革所で修業したのち独立して軍靴用皮革の製造を開始。1990年時点で創業105年
    • [13]藤田組・大倉組の製革所で修業したのち独立して軍靴用皮革の製造を開始。1990年時点で創業105年
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [2]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [3]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [4]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [5]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け国益に寄する仕事を志す。大阪の米屋で働き、近くの製革工場のドイツ人技師の言葉を聞いて製革所に入った
    • [8]新田長次郎氏は技術を習得した後、明治18年に独立し大阪市浪速区の地で製革事業を起こした
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [7]創業者は大倉組が和歌山で操業する皮革工場に勤め、ドイツ人技師に皮革産業の重要性を教えられて独立した
  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
    • [9]1885年3月、創業者新田長次郎が大阪府西成郡難波村久保吉(現 大阪市浪速区)で製革業を開始
    • [12]1885年3月、創業者新田長次郎が大阪府西成郡難波村久保吉(現 大阪市浪速区)で製革業を開始

1888年〜大阪紡績の英国製機械に納めた国産初の革ベルトと、紡績とともに増えた需要

1888年5月、新田長次郎氏の製革所は日本で最初の動力伝動用革ベルトを製造した。依頼主は、当時国内で最も近代的とされた大阪紡績(現・東洋紡)。大阪の財界人は綿糸布の需要が増えると見込み、国内に紡績業を興す必要を論じていた。大阪紡績はその先駆けとして、最新鋭の紡績機械を英国から導入した。ところが国内には機械の動力用ベルトを作れる所が無く、壊れると輸入品で補うしかなかった。そこで創業3年目の新田長次郎氏に、国産ベルトの開発が持ち込まれた。輸入の待ち時間は機械の停止に直結するため、大阪紡績は近くで修理と補充ができる製造元を必要としたと推察される。

  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
    • [14]1888年5月、日本で最初の動力伝動用革ベルトを製造
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [15]当時日本で最も近代的と言われた大阪紡績(現東洋紡)の依頼で、わが国初の動力伝動用革ベルトの本格的製造に成功
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [16]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [17]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [18]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [19]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た

大阪紡績に革ベルトを納めた1888年以降、大阪を中心に紡績と機械の産業が発達し、革ベルトの需要は増え続けた。この需要の増加によって、新田長次郎氏の事業の経営基盤が固まった。事業は工業化の進展とともに、動力伝動用ベルトと工業用革製品の専門メーカーとして進んだ。国産の革ベルトは、それまで輸入品に依存していた動力伝動用ベルトを国内で置き換えた。事業の成長は日本の工業化と歩調をそろえ、新田長次郎氏は一代で財産を築いた。当時の工場は1本の軸から多数の機械へ動力を分ける集団伝動が主流で、紡績工場が増えるほど長い革ベルトの注文も増えたと考えられる。

  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [20]明治21年に大阪紡績へ革ベルトを納品して以来、大阪中心の紡績・機械産業の発達とともに革ベルト需要が増大し経営基盤が固まった
    • [21]明治21年に大阪紡績へ革ベルトを納品して以来、大阪中心の紡績・機械産業の発達とともに革ベルト需要が増大し経営基盤が固まった
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [22]工業化の進展とともに動力伝動用ベルト・工業用革製品の専門メーカーとして事業を進めた
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [23]大阪紡績の依頼で動力伝動用革ベルトを製造し、輸入品依存から脱却した。のちに動力伝動方式は集団伝動から個別伝動へ変化
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [24]事業は日本の工業化と歩調を合わせて成長し、長次郎氏は一代で財産を築いた

新田長次郎氏は、革ベルトを輸入品に代わる国産品として位置づけ、国益に資する事業とみなした。創業者の基本理念は、『在来から日本にある仕事で過当競争をするのは愚の骨頂』とするものである。そのうえで、国外の先進技術を導入して国の利益に寄与する分野を選ぶ方針を掲げた。輸入に依存していた動力伝動用ベルトの国産化は、この方針に合う最初の製品となった。少年期に「学問のすすめ」から得た、外国に学んで国益に寄与するという志が方針の根にあった。社長の新田精一氏は1993年、自社の歩みを日本の工業が近代化していく過程に重ね、その役割を誇った。

  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [25]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
    • [27]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
    • [28]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
    • [31]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [26]日本初の動力伝動用革ベルトの本格的製造で輸入品依存から脱却し、日本の産業革命を支えた
    • [29]日本初の動力伝動用革ベルトの本格的製造で輸入品依存から脱却し、日本の産業革命を支えた
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [30]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け、外国に学び国益に寄する仕事を志した
参考文献[14]-[31]
  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
    • [14]1888年5月、日本で最初の動力伝動用革ベルトを製造
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [15]当時日本で最も近代的と言われた大阪紡績(現東洋紡)の依頼で、わが国初の動力伝動用革ベルトの本格的製造に成功
    • [22]工業化の進展とともに動力伝動用ベルト・工業用革製品の専門メーカーとして事業を進めた
    • [25]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
    • [27]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
    • [28]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
    • [31]創業者の基本理念:在来の仕事で過当競争をせず、海外から進んだ技術を採り入れて国益に寄与する。社長は近代工業化の一翼を担ったと自負
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [16]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [17]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [18]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [19]大阪財界で国内紡績振興の議論。大阪紡績が英国から機械を導入したが動力用ベルトの代替品がなく破損のたび海外から取り寄せ、創業3年目の長次郎氏にベルト開発の話が来た
    • [24]事業は日本の工業化と歩調を合わせて成長し、長次郎氏は一代で財産を築いた
    • [30]新田長次郎氏は学問のすすめに感銘を受け、外国に学び国益に寄する仕事を志した
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [20]明治21年に大阪紡績へ革ベルトを納品して以来、大阪中心の紡績・機械産業の発達とともに革ベルト需要が増大し経営基盤が固まった
    • [21]明治21年に大阪紡績へ革ベルトを納品して以来、大阪中心の紡績・機械産業の発達とともに革ベルト需要が増大し経営基盤が固まった
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [23]大阪紡績の依頼で動力伝動用革ベルトを製造し、輸入品依存から脱却した。のちに動力伝動方式は集団伝動から個別伝動へ変化
    • [26]日本初の動力伝動用革ベルトの本格的製造で輸入品依存から脱却し、日本の産業革命を支えた
    • [29]日本初の動力伝動用革ベルトの本格的製造で輸入品依存から脱却し、日本の産業革命を支えた

1906年〜北海道の原野で自給したタンニンと、合資会社新田帯革製造所

革ベルトの生産が増えると、革をなめすのに欠かせないタンニン剤の確保が課題になった。新田長次郎氏はタンニン剤を自給するため、北海道へ進出した。原料は柏の樹皮で、北海道に製造工場を設けてタンニンを採った。用地には北海道の広い原野を購入。工場の跡地では植林と、開拓民向けの農耕用牛馬や乳牛を飼う牧場の事業を始めた。同地では木材資源を使った合板の製造や開墾にも事業を広げた。なめし剤を外部から調達し続ければ革ベルトの原価と供給を他社に左右されるため、原料から自前で持つ判断に至ったと推測される。

  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [32]革なめしに不可欠のタンニン剤自給のため北海道に進出。同地で合板製造・開墾・牧畜・植林を事業化
    • [33]革なめしに不可欠のタンニン剤自給のため北海道に進出。同地で合板製造・開墾・牧畜・植林を事業化
    • [37]革なめしに不可欠のタンニン剤自給のため北海道に進出。同地で合板製造・開墾・牧畜・植林を事業化
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [34]革をなめすタンニンを柏の樹皮から採るため北海道に製造工場を設立し、跡地で植林と牧場事業に着手(現新田牧場)
    • [36]革をなめすタンニンを柏の樹皮から採るため北海道に製造工場を設立し、跡地で植林と牧場事業に着手(現新田牧場)
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [35]革なめし用タンニン採取のため北海道の原野を購入

新田長次郎氏は1909年6月、合資会社新田帯革製造所を設立した。背景には、『事業は一つのみでは極めて不安定である』という創業者の理念があった。幾つかの事業を組み合わせて経営を支え、しかも国内で未開拓の分野を選ぶという考えである。合資会社は革ベルト、ゴムベルト、膠・ゼラチンの3製造部門を収益源として事業を進めた。単一の合資会社で3部門を抱える体制は、1945年に部門ごとの株式会社へ分かれるまで続いた。個人の製革業のままでは部門ごとの資金と責任を整理しにくく、複数事業を1つの法人で営む形として合資会社を選んだと思われる。

  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
    • [38]1909年6月 (資)新田帯革製造所を設立。1945年2月 ㈱新田帯革製造所を設立
    • [43]1909年6月 (資)新田帯革製造所を設立。1945年2月 ㈱新田帯革製造所を設立
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [39]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [40]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [42]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [44]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [41]企業は1つの事業では不安定なので、未開拓分野を含む多くの事業を取り入れるべきという創業者のポリシー

革ベルトの周辺で、新田長次郎氏はゴムベルトと木綿ベルトの製造も始めた。ベルトの張り合わせには膠が必要で、膠の製造工場を設けた。膠は輸入品では入手が難しく、皮革の副産物を原料に製造を始めた。膠からはさらに、医薬品用、食用、写真用のゼラチンへ製品を広げた。大正の初めには、ゼラチン、ベニヤ板、各種ゴム製品の製造と牧場経営に進出し、最初の多角化の時期を迎えた。第2章で扱うゴムベルトと膠・ゼラチンの事業は、革ベルトの材料と副産物を起点に1917年までに芽を出していたと読める。

  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [45]ゴムベルト・木綿ベルトを製造。輸入品で入手困難な膠を皮革の副産物から製造し、医薬品・食用・写真用ゼラチンも製造
    • [47]ゴムベルト・木綿ベルトを製造。輸入品で入手困難な膠を皮革の副産物から製造し、医薬品・食用・写真用ゼラチンも製造
    • [48]ゴムベルト・木綿ベルトを製造。輸入品で入手困難な膠を皮革の副産物から製造し、医薬品・食用・写真用ゼラチンも製造
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [46]ベルトを張り合わせる膠が必要になり膠製造工場を設立(現新田ゼラチン)
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [49]大正の初めころゼラチン・ベニヤ板・各種ゴム製品の製造と牧場経営へ進出し、第一次の多角化の時代を迎えた
参考文献[32]-[49]
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
    • [32]革なめしに不可欠のタンニン剤自給のため北海道に進出。同地で合板製造・開墾・牧畜・植林を事業化
    • [33]革なめしに不可欠のタンニン剤自給のため北海道に進出。同地で合板製造・開墾・牧畜・植林を事業化
    • [37]革なめしに不可欠のタンニン剤自給のため北海道に進出。同地で合板製造・開墾・牧畜・植林を事業化
    • [41]企業は1つの事業では不安定なので、未開拓分野を含む多くの事業を取り入れるべきという創業者のポリシー
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
    • [34]革をなめすタンニンを柏の樹皮から採るため北海道に製造工場を設立し、跡地で植林と牧場事業に着手(現新田牧場)
    • [36]革をなめすタンニンを柏の樹皮から採るため北海道に製造工場を設立し、跡地で植林と牧場事業に着手(現新田牧場)
    • [46]ベルトを張り合わせる膠が必要になり膠製造工場を設立(現新田ゼラチン)
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
    • [35]革なめし用タンニン採取のため北海道の原野を購入
    • [39]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [40]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [42]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [44]事業は一つのみでは不安定との理念から明治42年に合資会社を設立し、革ベルト・ゴムベルト・膠ゼラチンの3製造部門で事業。昭和20年に各部門を株式会社に分けた
    • [45]ゴムベルト・木綿ベルトを製造。輸入品で入手困難な膠を皮革の副産物から製造し、医薬品・食用・写真用ゼラチンも製造
    • [47]ゴムベルト・木綿ベルトを製造。輸入品で入手困難な膠を皮革の副産物から製造し、医薬品・食用・写真用ゼラチンも製造
    • [48]ゴムベルト・木綿ベルトを製造。輸入品で入手困難な膠を皮革の副産物から製造し、医薬品・食用・写真用ゼラチンも製造
  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
    • [38]1909年6月 (資)新田帯革製造所を設立。1945年2月 ㈱新田帯革製造所を設立
    • [43]1909年6月 (資)新田帯革製造所を設立。1945年2月 ㈱新田帯革製造所を設立
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部
    • [49]大正の初めころゼラチン・ベニヤ板・各種ゴム製品の製造と牧場経営へ進出し、第一次の多角化の時代を迎えた

出典・参考

5件
出典・参考
  • ニッタ 有価証券報告書 2026年3月期 沿革
  • 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 新田精一(社長)
  • 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年11月 新田精一(社長)
  • 証券アナリストジャーナル 34(1) 1995年12月 雑賀英彦(社長)
  • 東海総研マネジメント 70 1994年2月「会社拝見――ニッタ株式会社」編集部

免責事項およびポリシー