第一製薬:アーセミン商会の創立と震災・戦災による工場焼失
1915年〜サルバルサンの輸入途絶から生まれたアーセミン商会と、資本金50万円の株式会社
第一製薬の前身であるアーセミン商会は、1915年10月1日に医薬品の国産化を目的とする匿名組合として発足した。第一次世界大戦でドイツがサルバルサンの輸出を禁じ、梅毒の治療薬を輸入に依存していた日本は供給の途絶に直面。満鉄中央試験所衛生科長の慶松勝左衛門氏は部下と研究を重ね、1915年のはじめに国産サルバルサンの試製に成功した。出資は計3万円で、慶松勝左衛門氏の出資のうち1万円は「アーセミン」の発明に対する報償を出資とみなしたものである。満鉄総裁の中村是公氏らも資金を出したものの、公職にあったため組合員として名を公表しなかった。出資者の氏名を伏せたまま資金を受け入れられる匿名組合は、満鉄の人脈から資金を得るために選ばれた組織形態だったのだろう。
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [1]欧州大戦で医薬品の輸入が杜絶し、1915年10月に医薬品の創製・国産化を目的として匿名組合アーセミン商会を創立
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 序章
- [2]第一次世界大戦の勃発でドイツはサルバルサンの輸出を禁止し、駆梅療法を進めていた日本に打撃となった
- [3]満鉄中央試験所衛生科長の慶松勝左衛門が中橋末吉・池田文次らと研究し、1915年初めにサルバルサンの試製に成功
- [5]満鉄総裁中村是公・理事田中清次郎・沼田政二郎も出資したが、公職にあったため氏名を公表しなかった
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 資料編 一章 創業関係資料(匿名組合契約書)
- [4]1915年10月1日の匿名組合契約書で出資は計3万円、慶松勝左衛門の1万3千円のうち1万円はアーセミン発明の報償対価を出資とみなしたもの
アーセミン商会は1916年3月、製造開始から4か月で東京の薬種問屋を赤坂の料亭に招き、「アーセミン」の発売披露会を開催。官立伝染病研究所の動物試験で副作用の強さを指摘され、副作用の少ない「ネオ・ネオ・アーセミン」を並行して製造することにした。問屋は国産品の品質を疑って取り扱いに消極的だったため、商会は薬剤師の社員を「プロパー」として病医院へ巡回させ、文献と試供品を配った。医家からの返り注文が問屋を動かし、1917年のはじめには小包便に加えて鉄道便でも出荷するようになった。1916年12月には合資会社へ改組し、代表社員には津村順天堂の津村重舎氏が就任している。1917年3月期の利益は4万6390円で、出資金5万500円に対して初めて年20%の配当を出した。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 序章
- [6]1916年3月、製造開始後4か月で東京の薬種問屋を赤坂の料亭に招待しアーセミン発売披露会を開催
- [7]伝染病研究所の動物試験でアーセミンは副作用が強いとされ、副作用の少ないネオ・ネオ・アーセミンを並行製造(1916年9月に小分け第1回完成)
- [8]問屋は国産品に消極的で、薬剤師の社員をプロパーとして医家に直接宣伝し、病医院を巡回して文献・試供品を提供するプロパー方式を採用
- [11]1917年3月決算の利益金4万6390円、出資金総額5万500円に対し利益率92%、年20%の初配当
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 第一製薬株式会社の誕生
- [9]ネオ・ネオ・アーセミンの需要増で1917年初めから鉄道便も発送に使い、地方問屋との取引も始まった
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- [10]1916年12月31日に合資会社アーセミン商会が設立され、無限責任社員の津村重舎が代表社員となった
合資会社アーセミン商会は1918年1月31日に解散し、権利義務を資本金50万円の第一製薬株式会社へ引き継いだ。製品の需要が伸び続ける見通しが立ち、合資会社への改組から1年を経ずに組織を広げる声が上がった。慶松勝左衛門氏は満鉄総裁の中村是公氏らに新会社への出資を求めたものの、同意を得られなかった。そこで染料商の田沢又右衛門氏の仲介で同業の柴田清之助氏が加わり、創立総会は柴田清之助氏を取締役社長に選んだ。定款の事業目的には医療用に加えて工業用薬品の製造販売を掲げ、翌1919年4月には津村重舎氏が2代社長に就任した。金融力を備えた染料・顔料の商人が、出資を見送った満鉄関係者に代わる資本の担い手になったとみられる。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 第一製薬株式会社の誕生
- [12]1918年1月31日、合資会社アーセミン商会は権利義務を引き継がせて解散し、資本金50万円(4分の1払込み)の第一製薬株式会社が創立
- [13]アーセミン・ネオ・ネオ・アーセミンの好評と需要増の見通しから、合資会社への改組後1年を経ずに組織拡張の声が起きた
- [14]慶松勝左衛門は中村是公満鉄総裁らに新会社への出資を要請したが同意を得られなかった
- [15]榊原常吉・田沢又右衛門を通じて染料商の柴田清之助が参加し創立委員長となり、創立総会で取締役社長に選任
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [16]医薬品および工業薬品の製造販売を目的に設立、初代社長柴田清之助、1919年4月に津村重舎が2代社長に就任
参考文献[1]-[16]
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [1]欧州大戦で医薬品の輸入が杜絶し、1915年10月に医薬品の創製・国産化を目的として匿名組合アーセミン商会を創立
- [16]医薬品および工業薬品の製造販売を目的に設立、初代社長柴田清之助、1919年4月に津村重舎が2代社長に就任
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 序章
- [2]第一次世界大戦の勃発でドイツはサルバルサンの輸出を禁止し、駆梅療法を進めていた日本に打撃となった
- [3]満鉄中央試験所衛生科長の慶松勝左衛門が中橋末吉・池田文次らと研究し、1915年初めにサルバルサンの試製に成功
- [5]満鉄総裁中村是公・理事田中清次郎・沼田政二郎も出資したが、公職にあったため氏名を公表しなかった
- [6]1916年3月、製造開始後4か月で東京の薬種問屋を赤坂の料亭に招待しアーセミン発売披露会を開催
- [7]伝染病研究所の動物試験でアーセミンは副作用が強いとされ、副作用の少ないネオ・ネオ・アーセミンを並行製造(1916年9月に小分け第1回完成)
- [8]問屋は国産品に消極的で、薬剤師の社員をプロパーとして医家に直接宣伝し、病医院を巡回して文献・試供品を提供するプロパー方式を採用
- [11]1917年3月決算の利益金4万6390円、出資金総額5万500円に対し利益率92%、年20%の初配当
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 資料編 一章 創業関係資料(匿名組合契約書)
- [4]1915年10月1日の匿名組合契約書で出資は計3万円、慶松勝左衛門の1万3千円のうち1万円はアーセミン発明の報償対価を出資とみなしたもの
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 第一製薬株式会社の誕生
- [9]ネオ・ネオ・アーセミンの需要増で1917年初めから鉄道便も発送に使い、地方問屋との取引も始まった
- [12]1918年1月31日、合資会社アーセミン商会は権利義務を引き継がせて解散し、資本金50万円(4分の1払込み)の第一製薬株式会社が創立
- [13]アーセミン・ネオ・ネオ・アーセミンの好評と需要増の見通しから、合資会社への改組後1年を経ずに組織拡張の声が起きた
- [14]慶松勝左衛門は中村是公満鉄総裁らに新会社への出資を要請したが同意を得られなかった
- [15]榊原常吉・田沢又右衛門を通じて染料商の柴田清之助が参加し創立委員長となり、創立総会で取締役社長に選任
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- [10]1916年12月31日に合資会社アーセミン商会が設立され、無限責任社員の津村重舎が代表社員となった
1919年〜国産製薬所を合わせた資本金200万円の会社と、震災の全焼から半額減資で開いた京都分工場
第一製薬は1920年3月1日に資本金150万円の第二製薬株式会社を設立し、同年6月の臨時株主総会でこれを吸収合併すると決めた。当時の商法は払込みを終えない株式会社の増資を認めず、別会社の合併は4分の1払込みのまま資本金を200万円とするための手順である。第二製薬の発起人には国産製薬所代表の藤永義之氏が加わり、第一製薬は合併から5日後の7月1日に国産製薬所の事業を取得した。国産製薬所は武田長兵衛氏ら4氏の共同出資で、サルバルサン剤「ネオ・タンワルサン」を製造していた。同年12月には抜染剤「アルバライトC」「アルバライトZ」を発売し、駆梅剤と工業薬品の2部門をそろえた。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 第一製薬株式会社の誕生
- [17]1920年3月1日に資本金150万円の第二製薬を創立し、6月25日の臨時株主総会で同社の吸収合併を決定
- [19]国産製薬所代表の藤永義之が第二製薬の発起人に参加し、合併後5日目の1920年7月1日に国産製薬所を買収して事業を継承
- [20]国産製薬所は武田長兵衛・塩野義三郎・田辺五兵衛・藤永義之の共同出資で、ネオ・タンワルサンと純ネオ・タンワルサンを製造
- [21]試製済みの抜染剤アルバライトC・アルバライトZを1920年12月から発売
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [18]第二製薬を即日吸収合併し資本金は200万円となった
1923年9月の関東大震災で本社と工場の大半を失い、柳島工場で焼け残ったのは事務所や製品倉庫などにとどまった。焼け跡の整理が進まない東京だけに工場を置くのは不利とみて、京都市下京区の遊休織物工場を借り、11月10日に生産を再開した。損害は32万円余りに上り、火災保険金の支払いは見込めなかった。11月20日の臨時株主総会は資本金200万円を100万円へ半減し、損失のうち25万円を減資で、残りを積立金と繰越金で埋めると決めた。本社事務所は12月に完成し、柳島工場も1924年7月に再開した。損失を翌期へ持ち越さない処理を先に済ませたことが、配当を続けながら再建を進める余地を生んだと考えられる。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 三章 関東大震災と不況の克服
- [22]関東大震災で類焼を免れたのは柳島工場の事務所・製品倉庫・研究室・氷庫・汽缶室だけで、損害は32万円
- [23]東京だけに工場を置くのは不利との見方から、京都市下京区壬生相合町の遊休織物工場を借り、震災後70日目の11月10日に生産体制を整えた
- [24]被害総額32万2千余円、火災保険金の支払いは期待できなかった
- [25]1923年11月20日の臨時株主総会で資本金200万円を100万円に減資し、損害のうち25万円を減資、残りを別途積立金と前期繰越金で補填
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [26]1923年12月に本社事務所が完成、1924年7月に柳島工場が再開
1927年の金融恐慌のもとで、第一製薬は生産費と経費を切り詰め、輸入品に対抗するため輸入税の引き上げを政府に陳情している。1929年4月26日には東京府亀戸町にあった江東製薬の工場を買収し、亀戸工場とした。江東製薬は津村重舎氏が社長を務めるコカインメーカーで、静岡の富士工場へ生産を集約して亀戸の工場を売却している。亀戸工場は柳島工場から抜染剤「アルバライト」や漂白剤「ハイドロサルファイト」の製造を引き継ぎ、京都分工場と合わせて3工場となった。亀戸ではのちにビタミン剤「アベリーB」や皮膚病治療剤「スカボール」も生産した。社長が兼ねる関係会社の工場を取得したことで、新設より少ない負担で工業薬品を柳島から切り離せたと思われる。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 四章 金融恐慌下の着実な発展
- [27]金融恐慌下で生産費の引下げと経費節減を進め、輸入サルバルサン剤や抜染剤に対し輸入税引上げを政府に陳情
- [28]1929年4月26日、東京府南葛飾郡亀戸町の江東製薬の工場を買収して亀戸工場とした
- [30]亀戸工場は柳島工場で製造していたアルバライト・ハイドロサルファイトなどの工業薬品を担い、柳島・京都分工場とあわせ3工場となった
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- [29]津村重舎は1920年3月から江東製薬社長。江東製薬は塩酸コカインの製造が主で、富士製薬を合併して富士工場とし、亀戸工場を売却
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [31]亀戸工場はその後ビタミン剤アベリーB、皮膚病治療剤スカボールなどを生産
参考文献[17]-[31]
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 第一製薬株式会社の誕生
- [17]1920年3月1日に資本金150万円の第二製薬を創立し、6月25日の臨時株主総会で同社の吸収合併を決定
- [19]国産製薬所代表の藤永義之が第二製薬の発起人に参加し、合併後5日目の1920年7月1日に国産製薬所を買収して事業を継承
- [20]国産製薬所は武田長兵衛・塩野義三郎・田辺五兵衛・藤永義之の共同出資で、ネオ・タンワルサンと純ネオ・タンワルサンを製造
- [21]試製済みの抜染剤アルバライトC・アルバライトZを1920年12月から発売
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [18]第二製薬を即日吸収合併し資本金は200万円となった
- [26]1923年12月に本社事務所が完成、1924年7月に柳島工場が再開
- [31]亀戸工場はその後ビタミン剤アベリーB、皮膚病治療剤スカボールなどを生産
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 三章 関東大震災と不況の克服
- [22]関東大震災で類焼を免れたのは柳島工場の事務所・製品倉庫・研究室・氷庫・汽缶室だけで、損害は32万円
- [23]東京だけに工場を置くのは不利との見方から、京都市下京区壬生相合町の遊休織物工場を借り、震災後70日目の11月10日に生産体制を整えた
- [24]被害総額32万2千余円、火災保険金の支払いは期待できなかった
- [25]1923年11月20日の臨時株主総会で資本金200万円を100万円に減資し、損害のうち25万円を減資、残りを別途積立金と前期繰越金で補填
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 四章 金融恐慌下の着実な発展
- [27]金融恐慌下で生産費の引下げと経費節減を進め、輸入サルバルサン剤や抜染剤に対し輸入税引上げを政府に陳情
- [28]1929年4月26日、東京府南葛飾郡亀戸町の江東製薬の工場を買収して亀戸工場とした
- [30]亀戸工場は柳島工場で製造していたアルバライト・ハイドロサルファイトなどの工業薬品を担い、柳島・京都分工場とあわせ3工場となった
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- [29]津村重舎は1920年3月から江東製薬社長。江東製薬は塩酸コカインの製造が主で、富士製薬を合併して富士工場とし、亀戸工場を売却
1931年〜満州事変後の軍需景気で出したサルファ剤テラポールと、空襲で焼けた本社と柳島・亀戸工場
1931年の満州事変のあと、政府の積極財政と外国製品の値上がりを背景に、国産医薬品メーカーは需要の回復を迎えた。朝鮮・台湾・中国向けの駆梅剤の出荷が増え、京都分工場は手狭となった。第一製薬は水利と労働力に恵まれ、東海道線の駅にも近い大阪府高槻町を新工場の用地に選んだ。1933年12月に高槻工場が完成し、京都分工場の設備を移してサルバルサン剤を中心に操業を始めた。1934年6月には資本金を300万円へ増やし、各工場の設備を拡充。大陸では1935年の奉天駐在所を足がかりに天津・上海へ拠点を広げ、輸出統制が強まると1941年3月に奉天で満州第一製薬を設立した。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 一章 軍需景気と営業規模の拡大
- [32]満州事変後の財政支出拡大と金輸出再禁止で景気が回復し、外国製品の価格騰貴もあって国産医薬品メーカーが活気づいた
- [33]ネオ・ネオ・アーセミンやネオ・タンワルサンの朝鮮・台湾・中国への進出で、京都分工場は手狭になった
- [34]水利・豊富な労働力・東海道線高槻駅に近い交通の便から化学工業の立地として大阪府高槻を選び、1932年9月に用地を取得
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [35]1933年12月高槻工場が完成し、京都分工場の設備一切を移転してサルバルサン剤を主体に操業
- [36]1934年6月資本金を300万円に増額し各工場の設備拡充に充当
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 三章 内外に拡大しつづける第一製薬
- [37]1935年奉天駐在所、1938年天津出張所、1939年上海駐在所を開設し、輸出制限と配給統制の強化を受け1941年3月14日に資本金200万円の満州第一製薬を奉天に設立
1937年7月、第一製薬は国産初のサルファ剤「テラポール」を発売した。ドイツ発の赤色プロントジルは1936年に輸入されたものの、量が少なく高価で、製法特許のため国内各社は製品化できずにいた。1937年2月、来社した外国人が「アンベジッド」のアンプルを示し、技師長の篠田淳三氏が分析すると白色プロントジルの溶液だった。成分が判明すれば製法は既知で、新潟医大での臨床試験が良好だったため7月5日に製造届を出した。篠田淳三氏は1934年に津村重舎社長が徳島高等工業学校教授から技師長に招いた人物である。研究を続けていた技術者を先に招いていたことが、偶然の手がかりを製品に換える速さにつながったと推察される。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 脚光あびた「テラポール」の登場
- [38]1937年7月、国産サルファ剤第1号テラポールを製造発売
- [39]赤色プロントジルは1936年に神戸ヘキスト商社に輸入されたが、量が少なく高価で、製法特許に規制され各社とも製品化できなかった
- [40]1937年2月、来社した外国人がアンベジッドのアンプルを示し、技師長篠田淳三が柳島工場で分析すると白色プロントジル(パラアミノベンゾールスルホンアミド)の溶液だった
- [41]製法は既知で試製し、新潟医大橋本喬教授のもとの臨床実験が良好で、1937年7月5日に警視庁へ製造届を提出
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- [42]津村重舎は1934年に徳島高工教授の篠田淳三を技師長として招聘
1945年3月10日の東京大空襲で日本橋の本社はほぼ全焼し、柳島工場は約8割を焼失した。これに先立つ1941年4月に津村重舎社長が死去し、専務の池田文次氏が社長を代行したのち、1944年5月19日に3代社長に就任している。戦時下の資本金は1942年に600万円、1944年に1000万円へ増え、その充当先は平井工場の新設や船堀工場の拡張である。空襲で平井工場は半焼し、亀戸工場は汽缶室と危険物倉庫を残すだけとなり、6月には大阪支店も全焼した。新鋭の船堀工場と高槻工場は被災を免れ、生産を続けた。震災に続く2度目の焼失でも、東西に分けた生産拠点のうち高槻と船堀が残ったことが、戦後の再建の起点になったといえるだろう。
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 四章 戦争末期の苦難に耐えて
- [43]1945年3月10日の東京大空襲で日本橋の本社はほぼ全焼、柳島工場は約8割を焼失
- [44]1941年4月28日に津村重舎社長が死去、専務池田文次が社長を代行し、1944年5月19日に第3代社長に就任
- [46]平井工場は半焼、亀戸工場は汽缶室と危険物倉庫1棟を残すのみ、大阪支店は1945年6月15日の空襲で全焼
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [45]1942年10月平井工場新設のため資本金600万円、1944年4月藤井化学工業の事業継承と船堀工場の設備拡大のため1000万円に増資
- [47]船堀・高槻両工場は無事で生産を続行
参考文献[32]-[47]
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 一章 軍需景気と営業規模の拡大
- [32]満州事変後の財政支出拡大と金輸出再禁止で景気が回復し、外国製品の価格騰貴もあって国産医薬品メーカーが活気づいた
- [33]ネオ・ネオ・アーセミンやネオ・タンワルサンの朝鮮・台湾・中国への進出で、京都分工場は手狭になった
- [34]水利・豊富な労働力・東海道線高槻駅に近い交通の便から化学工業の立地として大阪府高槻を選び、1932年9月に用地を取得
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」
- [35]1933年12月高槻工場が完成し、京都分工場の設備一切を移転してサルバルサン剤を主体に操業
- [36]1934年6月資本金を300万円に増額し各工場の設備拡充に充当
- [45]1942年10月平井工場新設のため資本金600万円、1944年4月藤井化学工業の事業継承と船堀工場の設備拡大のため1000万円に増資
- [47]船堀・高槻両工場は無事で生産を続行
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 三章 内外に拡大しつづける第一製薬
- [37]1935年奉天駐在所、1938年天津出張所、1939年上海駐在所を開設し、輸出制限と配給統制の強化を受け1941年3月14日に資本金200万円の満州第一製薬を奉天に設立
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 脚光あびた「テラポール」の登場
- [38]1937年7月、国産サルファ剤第1号テラポールを製造発売
- [39]赤色プロントジルは1936年に神戸ヘキスト商社に輸入されたが、量が少なく高価で、製法特許に規制され各社とも製品化できなかった
- [40]1937年2月、来社した外国人がアンベジッドのアンプルを示し、技師長篠田淳三が柳島工場で分析すると白色プロントジル(パラアミノベンゾールスルホンアミド)の溶液だった
- [41]製法は既知で試製し、新潟医大橋本喬教授のもとの臨床実験が良好で、1937年7月5日に警視庁へ製造届を提出
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- [42]津村重舎は1934年に徳島高工教授の篠田淳三を技師長として招聘
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 四章 戦争末期の苦難に耐えて
- [43]1945年3月10日の東京大空襲で日本橋の本社はほぼ全焼、柳島工場は約8割を焼失
- [44]1941年4月28日に津村重舎社長が死去、専務池田文次が社長を代行し、1944年5月19日に第3代社長に就任
- [46]平井工場は半焼、亀戸工場は汽缶室と危険物倉庫1棟を残すのみ、大阪支店は1945年6月15日の空襲で全焼
出典・参考
11件
- 津村順天堂『津村順天堂七十年史』(1964年) 第六章 第一製薬その他の役員就任
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 序章
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 資料編 一章 創業関係資料(匿名組合契約書)
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 第一製薬株式会社の誕生
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 三章 関東大震災と不況の克服
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 四章 金融恐慌下の着実な発展
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 一章 軍需景気と営業規模の拡大
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 三章 内外に拡大しつづける第一製薬
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 二章 脚光あびた「テラポール」の登場
- 第一製薬『第一製薬五十年史』(1966年) 四章 戦争末期の苦難に耐えて
- 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「第一製薬」