J.フロント リテイリング:梅田店500億円と奥田務の利益第一主義
1980年〜主力4店の立地悪化と、梅田店500億円が招いた戦後初の赤字
低成長時代を立地の力に頼らず自社の力で乗り越え、1978年度から売上と利益をともに健全な状態へ戻す。大丸がそう打ち出したのは4年前のことである。ところが4年を経た1981年末になっても、伸びの鈍さを説明する材料として挙がったのは、店の立地がなお悪くなっているという事情だった。主力の店はほとんどがこの問題を抱えていた。心斎橋の大阪店がその典型で、この街はかつて大阪一の盛り場といわれながら、近年はキタとミナミの伸びに客を奪われ、じりじりと地盤を落としていた。四条通りに面する京都店、元町の神戸店、八重洲口に構える東京店にしても、度合いは違えど事情は変わらなかった。
- 臨時増刊東洋経済 1977年11月18日号「老大国大丸は復活前夜?」
- [1]下村正太郎副社長は立地という他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜けるとし、1978年度から売上・利益とも健全な姿になると述べていた
- 日経新聞(1981年12月15日)
- [2]大丸の成長力が大きく鈍化したのは店舗の立地条件の悪化が響いていた
- [3]1981年12月時点で大丸の主力店舗はほぼ軒並み立地条件が悪化していた
- [4]大阪店のある心斎橋はかつて大阪を代表する繁華街だったが、キタとミナミの発展に取り残されジリ貧になっていた
- [5]京都の四条通りの京都店、神戸・元町の神戸店、東京駅八重洲口の東京店も程度の差はあれ立地条件が悪化していた
1954年に東京へ戻ってからの大丸は、町田・和歌山・新長田と国内の店を増やし、各地に関係百貨店10社を設けていた。立地が悪くなった既存店への答えも、店を新しい場所へ出すことに置かれた。1980年の会社評によれば、3月に須磨店が開き、秋には国鉄芦屋駅ビルに店を出し、1983年春には国鉄大阪新駅ビルに大型店を構える段取りだった。国外ではシンガポールとタイの2号店を計画しており、拡大に積極的な会社と見られていた。約500億円をかけた梅田店が開いたのは1983年4月末で、社内で大冒険といわれたこの出店を実際に仕切ったのは、営業畑にいた奥田務だった。
- 日本企業要覧 1980年版「株式会社大丸」
- [6]大丸は1954年の東京復帰の後に町田・和歌山・新長田へ出店し、各地に関係百貨店10社を設立した
- [7]1980年時点で大丸は須磨店の開店、国鉄芦屋駅ビルおよび国鉄大阪新駅ビルへの出店など積極拡大策をとっていた
- [8]大丸は1980年3月に須磨店を開店し、同年秋に国鉄芦屋駅ビルへ出店、1983年春に国鉄大阪新駅ビルへ大型店を出店する計画だった
- [9]大丸は海外でもシンガポールとタイ2号店の出店計画を進めていた
- 読売新聞(1984年4月24日)
- [10]大丸は1983年4月末に約500億円を投じて梅田店を開設した
- 日経ビジネス 1997年3月10日号
- [11]奥田務は1983年に大冒険といわれた大阪・梅田店の開業を実質的に率いた
1984年2月期、大丸は戦後初の赤字に転落した。前年4月末に約500億円を投じて開いた梅田店に加え、大幅に改装した心斎橋店と東京店の売上が予想外に不振で、売上高は4,681億円と前年同期比7.7%の微増にとどまったのが最大の原因だった。大阪新店への投資が重荷になることは、その2年前から指摘されていた。30年前に東京駅八重洲口へ出たときは、国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて、荒れた裏口だった土地を先に押さえている。梅田店はその逆で、すでに大阪の中心になっていた場所へ自前の巨費を後から投じる出店だった。
- 読売新聞(1984年4月24日)
- [12]大丸は1984年2月期に戦後初の赤字に転落した
- [13]赤字の最大の原因は1983年4月末に約500億円を投じて開設した梅田店と、大幅改装した心斎橋店・東京店の売上が予想外に不振で、売上高が4,681億円と前年同期比7.7%の微増にとどまったことだった
- 日経新聞(1981年12月15日)
- [14]1981年12月時点で大丸の大阪新店への投資が重荷になると指摘されていた
- 野田経済 1961年3月号
- [15]東京進出時の八重洲口は外堀の埋め残しで荒涼としていたが、国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて着目した
参考文献[1]-[15]
- 臨時増刊東洋経済 1977年11月18日号「老大国大丸は復活前夜?」
- [1]下村正太郎副社長は立地という他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜けるとし、1978年度から売上・利益とも健全な姿になると述べていた
- 日経新聞(1981年12月15日)
- [2]大丸の成長力が大きく鈍化したのは店舗の立地条件の悪化が響いていた
- [3]1981年12月時点で大丸の主力店舗はほぼ軒並み立地条件が悪化していた
- [4]大阪店のある心斎橋はかつて大阪を代表する繁華街だったが、キタとミナミの発展に取り残されジリ貧になっていた
- [5]京都の四条通りの京都店、神戸・元町の神戸店、東京駅八重洲口の東京店も程度の差はあれ立地条件が悪化していた
- [14]1981年12月時点で大丸の大阪新店への投資が重荷になると指摘されていた
- 日本企業要覧 1980年版「株式会社大丸」
- [6]大丸は1954年の東京復帰の後に町田・和歌山・新長田へ出店し、各地に関係百貨店10社を設立した
- [7]1980年時点で大丸は須磨店の開店、国鉄芦屋駅ビルおよび国鉄大阪新駅ビルへの出店など積極拡大策をとっていた
- [8]大丸は1980年3月に須磨店を開店し、同年秋に国鉄芦屋駅ビルへ出店、1983年春に国鉄大阪新駅ビルへ大型店を出店する計画だった
- [9]大丸は海外でもシンガポールとタイ2号店の出店計画を進めていた
- 読売新聞(1984年4月24日)
- [10]大丸は1983年4月末に約500億円を投じて梅田店を開設した
- [12]大丸は1984年2月期に戦後初の赤字に転落した
- [13]赤字の最大の原因は1983年4月末に約500億円を投じて開設した梅田店と、大幅改装した心斎橋店・東京店の売上が予想外に不振で、売上高が4,681億円と前年同期比7.7%の微増にとどまったことだった
- 日経ビジネス 1997年3月10日号
- [11]奥田務は1983年に大冒険といわれた大阪・梅田店の開業を実質的に率いた
- 野田経済 1961年3月号
- [15]東京進出時の八重洲口は外堀の埋め残しで荒涼としていたが、国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて着目した
1991年〜松坂屋の拡大計画と、大丸・三越の業務提携
同じころ、名古屋の松坂屋は逆に拡大へ動いていた。1991年、直営店を2000年までに5店増やして14店にし、グループ年商を1990年度の6,500億円から1兆3,000億円へ拡大する長期計画を発表している。同年11月には12年ぶりの新店となる10店目の四日市店を開設し、80億円をかけて銀座店を大改装し、名古屋本店に南館を新設して売場面積日本一を達成した。1991年5月に社長となった齋藤喜幸は、積極出店とざん新な売場作りによって冒険のできる体質へ変えることを自らの役割としていた『これまでは石橋をたたいても渡らなかったが、今後は十分たたいた上で渡る』。2年後に社長を継いだ伊藤旺が最初の課題に置いたのは、批判にさらされて自信を失いつつある社員に自信を取り戻させることだった。
- 日経ビジネス 1992年2月3日号
- [16]松坂屋は堅実な風土の名古屋に本社を置き、同じ老舗の三越などに比べ事業展開に派手さはなかった
- [17]松坂屋は1991年に直営店を2000年までに5店増やして14店とし、グループ年商を1990年度の6,500億円から1兆3,000億円へ拡大する長期計画を発表した
- [18]松坂屋は1991年11月に12年ぶりの新店となる10店目の四日市店を開店し、80億円で銀座店を大改装し、名古屋本店に南館を新設して売場面積日本一を達成した
- [19]齋藤喜幸は積極出店やざん新な売り場作りなど冒険ができる体質にすることを自分の役割と心得ていた
- 日経ビジネス 1993年8月30日号
- [20]1993年5月に松坂屋社長となった伊藤旺は、百貨店マンが批判にさらされ自信喪失しつつあるとして、まず自信を取り戻すところから始めたいと述べた
大丸が選んだのは、店を増やすことではなく、仕入れでの他社との協力だった。決めた時期はバブル崩壊後の消費低迷で業績の持ち直しが見通せないころで、価格破壊を掲げるディスカウンターや安売り店を集めたパワーセンターが現れ、競う相手は百貨店に限られなくなっていた。1994年12月に三越と結んだ本格的な業務提携は、配送の協力という小さな話から出発し、自主企画商品の開発、海外製品の買い付け、共通取引先との関係強化にまで範囲を広げた。百貨店どうしが合わさっても買う力が一気に伸びるわけではないと大丸は見ており、合併ではなく提携にとどめ、単独資本での存続を選んだ。
- 日経ビジネス 1997年6月2日号
- [21]大丸は三越との業務提携で仕入れ力を高め、来店客が魅力を感じる独自の商品を売り場に揃えることを狙いとした
- [22]提携を決めた時期はバブル経済崩壊後の消費の落ち込みで業績回復の見通しが立たない時期と重なっていた
- [23]価格破壊を掲げるディスカウンターが台頭しパワーセンターも現れ、百貨店間だけでなく業態の枠を超えた競争時代に入ろうとしていた
- [24]三越と大丸が本格的な業務提携を結んだのは1994年12月である
- [25]提携は商品の配送面での協力から始まり、自主企画商品の開発や海外製品の買い付け、共通取引先との関係強化など商品政策まで踏み込んだ
- 日経ビジネス 1998年12月14日号
- [26]大丸は百貨店の場合は合併しても購買力が飛躍的に高まるわけではなく利点が少ないとして、三越とは業務提携にとどめ単独資本で生き残る方針を示した
両社の粗利益率はどちらも25〜26%台で、改善の幅は5年間を通じて1ポイントに届かなかった。提携から2年半がたっても、売上総利益率はほぼ動いていなかったのである。共同で企画・仕入れをしても取引条件をそろえる段階には至らず、重点取引先として共通する64社との仕入れ交渉さえ2社が別々に進めていた。共同開発品は40〜50%の粗利益が見込めたものの、売上高に占める割合は小さい。逆に売れ筋の海外ブランドは売場の管理を派遣社員に任せていたこともあって粗利が20%強にとどまり、共同開発の稼ぎを帳消しにしていた。1997年2月期の大丸はわずかな減収で売上高5,080億円、経常利益は前年比55%増の49億円まで回復したが、その大部分は人件費などの経費削減によるものだった。
- 日経ビジネス 1997年6月2日号
- [27]三越・大丸の売上総利益率はともに25〜26%台で、ここ数年の改善は5年間で1ポイント以下だった
- [28]三越・大丸の業務提携から2年半が経っても売上総利益率の向上につながる効果はみられなかった
- [29]共同企画や共同仕入れが取引条件の一本化に踏み込めておらず、共通する64社の重点取引先との仕入れ交渉は2社が別々に行われていた
- [30]共同開発商品では40〜50%の粗利益が期待できたが売上高に占める割合が小さく、売れ行きのよい海外ブランドは20%強の粗利にとどまり共同開発の効果を吐き出していた
- [31]1997年2月期の大丸は売上高5,080億円でわずかな減収、経常利益は前年比55%増の49億円に回復したが、大部分は人件費などの経費削減によるものだった
参考文献[16]-[31]
- 日経ビジネス 1992年2月3日号
- [16]松坂屋は堅実な風土の名古屋に本社を置き、同じ老舗の三越などに比べ事業展開に派手さはなかった
- [17]松坂屋は1991年に直営店を2000年までに5店増やして14店とし、グループ年商を1990年度の6,500億円から1兆3,000億円へ拡大する長期計画を発表した
- [18]松坂屋は1991年11月に12年ぶりの新店となる10店目の四日市店を開店し、80億円で銀座店を大改装し、名古屋本店に南館を新設して売場面積日本一を達成した
- [19]齋藤喜幸は積極出店やざん新な売り場作りなど冒険ができる体質にすることを自分の役割と心得ていた
- 日経ビジネス 1993年8月30日号
- [20]1993年5月に松坂屋社長となった伊藤旺は、百貨店マンが批判にさらされ自信喪失しつつあるとして、まず自信を取り戻すところから始めたいと述べた
- 日経ビジネス 1997年6月2日号
- [21]大丸は三越との業務提携で仕入れ力を高め、来店客が魅力を感じる独自の商品を売り場に揃えることを狙いとした
- [22]提携を決めた時期はバブル経済崩壊後の消費の落ち込みで業績回復の見通しが立たない時期と重なっていた
- [23]価格破壊を掲げるディスカウンターが台頭しパワーセンターも現れ、百貨店間だけでなく業態の枠を超えた競争時代に入ろうとしていた
- [24]三越と大丸が本格的な業務提携を結んだのは1994年12月である
- [25]提携は商品の配送面での協力から始まり、自主企画商品の開発や海外製品の買い付け、共通取引先との関係強化など商品政策まで踏み込んだ
- [27]三越・大丸の売上総利益率はともに25〜26%台で、ここ数年の改善は5年間で1ポイント以下だった
- [28]三越・大丸の業務提携から2年半が経っても売上総利益率の向上につながる効果はみられなかった
- [29]共同企画や共同仕入れが取引条件の一本化に踏み込めておらず、共通する64社の重点取引先との仕入れ交渉は2社が別々に行われていた
- [30]共同開発商品では40〜50%の粗利益が期待できたが売上高に占める割合が小さく、売れ行きのよい海外ブランドは20%強の粗利にとどまり共同開発の効果を吐き出していた
- [31]1997年2月期の大丸は売上高5,080億円でわずかな減収、経常利益は前年比55%増の49億円に回復したが、大部分は人件費などの経費削減によるものだった
- 日経ビジネス 1998年12月14日号
- [26]大丸は百貨店の場合は合併しても購買力が飛躍的に高まるわけではなく利点が少ないとして、三越とは業務提携にとどめ単独資本で生き残る方針を示した
1997年〜売上至上主義を捨てた奥田務の利益第一主義
1997年3月、奥田務が大丸の社長に就任した。1964年3月に慶應義塾大学法学部を卒業して同年4月に大丸へ入社し、30代前半の係長時代にニューヨークへ社費留学して、卒業後は高級百貨店のブルーミングデールズで研修を積んでいる。香港・タイ・フランスからの撤退、直営和歌山店の閉鎖、希望退職者の募集は、いずれも社長に就いてから続けざまに打ち出した施策である。これに先立ち、1991年開業の大丸オーストラリアに、準備期から社長を務めた時期まで合わせて7年間携わった。日本へ戻ったのは1995年だった。希望退職に応じて会社を去った人数は、1998年12月30日付で746人に上る。穏やかで伝統を大事にする社風の会社として知られていた。それだけに、社内では反発も出た。
- 日経ビジネス 1997年3月10日号
- [32]奥田務は1997年3月に大丸の社長に就任した
- [33]奥田務は1964年3月に慶應義塾大学法学部を卒業して同年4月に大丸へ入社し、30代前半の係長時代にニューヨークへ社費留学した後、ブルーミングデールズで研修を積んだ
- [35]奥田務は1991年開業の大丸オーストラリアで準備期間から社長時代まで7年を過ごし、1995年に帰国した
- 日経ビジネス 1998年12月14日号
- [34]奥田務は1997年3月の社長就任後、香港・タイ・フランスからの撤退、直営の和歌山店の閉鎖、希望退職者の募集を矢継ぎ早に打ち出した
- [36]大丸の希望退職では1998年12月30日に746人が退職した
- [37]大丸は老舗でおっとりした社風で知られ、改革に対して社内からの反発もあった
顧客調査の結果が改革の起点になった。老舗の格や高級感、接客のよさでは大丸は高く評価されていたが、若い女性を中心に、買い物の楽しさ・流行への強さ・親しみやすさの点では点数が伸びず、各店が別々に営業を重ねてきたために会社全体の像がはっきりしないという課題も見えてきた。そこで狙う客を、20代後半が中心の若い女性と、50代が中心の中年女性の2層に絞った。約7,000人の社員の半数、約3,500人が管理職か準管理職で、その人件費の重さから販売・外商の現場に人を回しきれていなかったため、階層を減らして販売員を増やし、成果を上げた販売員に報いる形へ改めた。
- 日経ビジネス 1998年12月14日号
- [38]大丸は顧客調査の結果をもとに自社の課題を特定した
- [39]顧客調査で伝統がある・一流のイメージ・サービスがよいの評価は高い一方、買い物が楽しい・ファッションに強い・親しみを感じるの項目は若い女性を中心に評価が低かった
- [42]大丸の社員約7,000人のうち半分の約3,500人が管理職・準管理職で、販売員や外商係員に人件費が回らない状態にあったため、組織をスリムにして販売員を増やし成果に見合う報酬を出す制度へ改めた
- 証券アナリストジャーナル 1999年4月26日 会社説明会
- [40]各店がそれぞれ独自の営業活動を行ってきた結果、トータルとしての企業イメージが不鮮明という課題があった
- [41]大丸は重点対象顧客層を50代を中心とする中年女性と20代後半を中心とするヤング女性層に設定した
1999年から2001年度までの中期経営計画で大丸が掲げた最終年度の単体目標は、売上高4,100億円、営業利益80億円、粗利益率28.0%であり、1999年度からの3年間は売上高を減らしていく計画だった。売上目標を抑えた理由には、商務事業部と装工事業部を切り離すことや和歌山店を閉めることといった特殊な事情のほか、利益を徹底して重んじ、効率を追う経営を目指したことがあった。1999年度上期に売上至上主義を捨てて利益第一主義へ大きく舵を切ると、中間期の営業利益は前年同期比236.4%増の30億円となり、売上総利益率も0.96ポイント改善の27.26%と過去最高の水準に達した。外商も、23万口座を販売員1人あたり約200口座で抱える体制から1人70〜100口座へ絞り込む方向へ変えた。売上の日本一を争った会社が、売上を追わないと決めた期から数字が戻り始めた。
- 証券アナリストジャーナル 1999年4月26日 会社説明会
- [43]中期経営計画の最終年度2001年度の単体業績目標は売上高4,100億円、営業利益80億円、経常利益75億円、粗利益率28.0%、営業利益率2.0%だった
- [44]大丸は1999年度から2001年度の中期経営計画で売上高を低く設定した
- [45]売上高を低く設定したのは商務事業部・装工事業部の切り離しと和歌山店閉鎖という特殊要因に加え、徹底した利益志向と効率経営の追求を目指したためだった
- 証券アナリストジャーナル 1999年10月20日 会社説明会
- [46]1999年度上期に大丸は売上至上主義から徹底した利益第一主義へ経営方針を大きく転換した
- [47]1999年度中間期の営業利益は前年同期比236.4%増の30億円、売上総利益率は27.26%で前年同期比0.96ポイント改善し過去最高の水準になった
- [48]外商は約23万口座を販売員1人当たり約200口座で担当していたが、1人70〜100口座をめどに絞り込む方針とした
参考文献[32]-[48]
- 日経ビジネス 1997年3月10日号
- [32]奥田務は1997年3月に大丸の社長に就任した
- [33]奥田務は1964年3月に慶應義塾大学法学部を卒業して同年4月に大丸へ入社し、30代前半の係長時代にニューヨークへ社費留学した後、ブルーミングデールズで研修を積んだ
- [35]奥田務は1991年開業の大丸オーストラリアで準備期間から社長時代まで7年を過ごし、1995年に帰国した
- 日経ビジネス 1998年12月14日号
- [34]奥田務は1997年3月の社長就任後、香港・タイ・フランスからの撤退、直営の和歌山店の閉鎖、希望退職者の募集を矢継ぎ早に打ち出した
- [36]大丸の希望退職では1998年12月30日に746人が退職した
- [37]大丸は老舗でおっとりした社風で知られ、改革に対して社内からの反発もあった
- [38]大丸は顧客調査の結果をもとに自社の課題を特定した
- [39]顧客調査で伝統がある・一流のイメージ・サービスがよいの評価は高い一方、買い物が楽しい・ファッションに強い・親しみを感じるの項目は若い女性を中心に評価が低かった
- [42]大丸の社員約7,000人のうち半分の約3,500人が管理職・準管理職で、販売員や外商係員に人件費が回らない状態にあったため、組織をスリムにして販売員を増やし成果に見合う報酬を出す制度へ改めた
- 証券アナリストジャーナル 1999年4月26日 会社説明会
- [40]各店がそれぞれ独自の営業活動を行ってきた結果、トータルとしての企業イメージが不鮮明という課題があった
- [41]大丸は重点対象顧客層を50代を中心とする中年女性と20代後半を中心とするヤング女性層に設定した
- [43]中期経営計画の最終年度2001年度の単体業績目標は売上高4,100億円、営業利益80億円、経常利益75億円、粗利益率28.0%、営業利益率2.0%だった
- [44]大丸は1999年度から2001年度の中期経営計画で売上高を低く設定した
- [45]売上高を低く設定したのは商務事業部・装工事業部の切り離しと和歌山店閉鎖という特殊要因に加え、徹底した利益志向と効率経営の追求を目指したためだった
- 証券アナリストジャーナル 1999年10月20日 会社説明会
- [46]1999年度上期に大丸は売上至上主義から徹底した利益第一主義へ経営方針を大きく転換した
- [47]1999年度中間期の営業利益は前年同期比236.4%増の30億円、売上総利益率は27.26%で前年同期比0.96ポイント改善し過去最高の水準になった
- [48]外商は約23万口座を販売員1人当たり約200口座で担当していたが、1人70〜100口座をめどに絞り込む方針とした
筆者考察
立地で伸びた会社が立地で止まったとき、大丸はもう一度立地で取り返そうとして失敗した。1983年4月末に約500億円を投じて開いた梅田店は、心斎橋店と東京店の大幅改装と重なって売上を押し上げず、1984年2月期に戦後初の赤字を招く。八重洲口のときは国鉄が建てる建物へ入り、人の流れが変わる前に場所を押さえた。梅田店はその逆で、すでに大阪の中心になっていた場所へ、自前の巨費を後から投じる出店だった。同じ会社が同じ出店策をとったつもりで、順番だけが入れ替わっていた。
次に大丸が試したのは、店ではなく仕入れを他社と組むことである。1994年12月に始めた三越との業務提携は共同配送から自主企画商品の開発まで広がったが、共通する64社の重点取引先との交渉は2社が別々に続き、粗利益率は25〜26%台から5年で1ポイントも動かなかった。1997年に社長となった奥田務が変えたのは相手ではなく指標だった。香港・タイ・フランスからの撤退と和歌山店の閉鎖、746人の希望退職を進めたうえで、1999年度上期に売上至上主義を捨てて利益第一主義を掲げる。売上を追わないと決めた期に、営業利益は前年同期の3.4倍になった。
- 1984年2月期は梅田店開設の翌期で、大丸が戦後初の赤字を計上した期にあたる。
- 出所は読売新聞(1984年4月24日)、日経ビジネス 1997年6月2日号、証券アナリストジャーナル 1999年4月26日の会社説明会。
出典・参考
12件
- 野田経済 1961年3月号
- 臨時増刊東洋経済 1977年11月18日号「老大国大丸は復活前夜?」
- 日経ビジネス 1992年2月3日号
- 日経ビジネス 1993年8月30日号
- 日経ビジネス 1997年3月10日号
- 日経ビジネス 1997年6月2日号
- 日経ビジネス 1998年12月14日号
- 証券アナリストジャーナル 1999年4月26日 会社説明会
- 証券アナリストジャーナル 1999年10月20日 会社説明会
- 日経新聞(1981年12月15日)
- 読売新聞(1984年4月24日)
- 日本企業要覧 1980年版「株式会社大丸」