第1章 年〜年

フジッコ:富士昆布の創業と「ふじっ子」ブランドの誕生

1960年〜小倉屋柳本から独立した山岸八郎氏と、ポリセロ袋に詰めたとろろ昆布

1960年11月、山岸八郎氏は神戸市東灘区で株式会社富士昆布を設立し、とろろ昆布の製造と販売を始めた。山岸八郎氏は姫路市で教員を務めた後、友人の求めに応じて昆布加工の小倉屋柳本に入社し、そこから独立した。創業時の陣容は、山岸八郎氏と夫人の山岸英子氏、柏木義幸氏の3人。当時の昆布製造業では関西の老舗企業が市場占有率を握り、後発の富士昆布は同じ売り方では規模を広げにくかった。業者の多くは原料の昆布を北海道産から問屋経由で調達し、専門店や百貨店の名店街で目方を量って売る零細な家内工業だった。のれんを競う土俵を避け、とろろ昆布一品に絞って売り方の新しさで参入する出発だったのだろう。

  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
    • [1]1960年11月、山岸八郎が神戸市東灘区で株式会社富士昆布を設立し、とろろ昆布の製造販売を開始
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [2]山岸八郎は姫路市で教員勤務の後、友人に請われて昆布加工業者の小倉屋柳本に入社し、独立して富士昆布を設立。当時の業界は原料問屋から仕入れ専門店・百貨店名店街で計り売りする零細な家内工業
    • [5]山岸八郎は姫路市で教員勤務の後、友人に請われて昆布加工業者の小倉屋柳本に入社し、独立して富士昆布を設立。当時の業界は原料問屋から仕入れ専門店・百貨店名店街で計り売りする零細な家内工業
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [3]創業時の社員は山岸八郎・夫人の山岸英子・柏木義幸の3人。昆布製造業界は関西の老舗企業がシェアを握り、同じことでは事業拡大が望めなかった
    • [4]創業時の社員は山岸八郎・夫人の山岸英子・柏木義幸の3人。昆布製造業界は関西の老舗企業がシェアを握り、同じことでは事業拡大が望めなかった

富士昆布はとろろ昆布を小袋に詰めて包装し、総合食品卸問屋へ販売した。袋はセロハンにポリエチレンを重ねたポリセロ袋で、創業のころ簡易包装の食品向けに出回り始めた資材である。それまで昆布の加工品は、百貨店の地下売場や専門店で目方を量って売られていた。包装資材メーカーが開発したこの袋は湿気を通しにくく、とろろ昆布を衛生的に一定量ずつ封じて日持ちを良くできた。袋の登場によって昆布製品は量り売りから小袋へ移り、問屋を通じて流通させられる商品になった。包装によって保存と運搬の制約が外れたことが、問屋を通じて遠方へ出荷する富士昆布の販路の前提になったと考えられる。

  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [6]創業期にポリエチレンとセロハンを貼り合わせたポリセロ袋が出始め、これでプリパッケージした昆布を総合食品卸問屋へ販売。当時昆布加工品は専門店・百貨店地下で秤売り
    • [7]創業期にポリエチレンとセロハンを貼り合わせたポリセロ袋が出始め、これでプリパッケージした昆布を総合食品卸問屋へ販売。当時昆布加工品は専門店・百貨店地下で秤売り
    • [8]創業期にポリエチレンとセロハンを貼り合わせたポリセロ袋が出始め、これでプリパッケージした昆布を総合食品卸問屋へ販売。当時昆布加工品は専門店・百貨店地下で秤売り
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [9]包装資材メーカーが開発したポリエチレンと防湿セロファンのラミネート袋で、衛生的・定量・保存性の良いとろろ昆布を製造
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [10]量り売りだった昆布製品が袋の登場で小袋化し流通可能になったことを「包装革命」と記述

富士昆布は神戸から東へ向けて、中小都市の魚菜市場や卸市場を開拓した。大都市での卸先は、卸売市場の水産荷受けが持つ塩干部。他の昆布食品メーカーの取引先は小売店が中心だった。山岸八郎氏は東都水産などの水産荷受けや地域の食品問屋を経由する販路を選び、同業との違いにした。製品は各地の問屋から食料品店やスーパーへ渡り、伝統食品のとろろ昆布が即席食品の扱いで売場に並んだ。昭和40年代(1965〜1974年)は、チェーンストアが台頭した時期にあたる。問屋経由の富士昆布の商品も、販路の比重を専門店や百貨店からチェーンストアへ移した。小売店と直接取引しない販路は、3人で始めた新興企業でも製品を全国へ行き渡らせる仕組みになったとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [11]販路は神戸から東上して中小都市の魚菜市場・卸市場を開拓し、大都市では水産荷受人の塩干部へ卸した。問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [12]販路は神戸から東上して中小都市の魚菜市場・卸市場を開拓し、大都市では水産荷受人の塩干部へ卸した。問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [15]販路は神戸から東上して中小都市の魚菜市場・卸市場を開拓し、大都市では水産荷受人の塩干部へ卸した。問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [13]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
    • [14]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
    • [16]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
    • [17]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
参考文献[1]-[17]
  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
    • [1]1960年11月、山岸八郎が神戸市東灘区で株式会社富士昆布を設立し、とろろ昆布の製造販売を開始
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [2]山岸八郎は姫路市で教員勤務の後、友人に請われて昆布加工業者の小倉屋柳本に入社し、独立して富士昆布を設立。当時の業界は原料問屋から仕入れ専門店・百貨店名店街で計り売りする零細な家内工業
    • [5]山岸八郎は姫路市で教員勤務の後、友人に請われて昆布加工業者の小倉屋柳本に入社し、独立して富士昆布を設立。当時の業界は原料問屋から仕入れ専門店・百貨店名店街で計り売りする零細な家内工業
    • [9]包装資材メーカーが開発したポリエチレンと防湿セロファンのラミネート袋で、衛生的・定量・保存性の良いとろろ昆布を製造
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [3]創業時の社員は山岸八郎・夫人の山岸英子・柏木義幸の3人。昆布製造業界は関西の老舗企業がシェアを握り、同じことでは事業拡大が望めなかった
    • [4]創業時の社員は山岸八郎・夫人の山岸英子・柏木義幸の3人。昆布製造業界は関西の老舗企業がシェアを握り、同じことでは事業拡大が望めなかった
    • [10]量り売りだった昆布製品が袋の登場で小袋化し流通可能になったことを「包装革命」と記述
    • [13]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
    • [14]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
    • [16]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
    • [17]他の昆布食品メーカーは小売店と直接取引。富士昆布は東都水産のような荷受けや地域の食品問屋を通じて流通させた(山岸八郎)。40年代はチェーンストアへ販路の比重が移った
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [6]創業期にポリエチレンとセロハンを貼り合わせたポリセロ袋が出始め、これでプリパッケージした昆布を総合食品卸問屋へ販売。当時昆布加工品は専門店・百貨店地下で秤売り
    • [7]創業期にポリエチレンとセロハンを貼り合わせたポリセロ袋が出始め、これでプリパッケージした昆布を総合食品卸問屋へ販売。当時昆布加工品は専門店・百貨店地下で秤売り
    • [8]創業期にポリエチレンとセロハンを貼り合わせたポリセロ袋が出始め、これでプリパッケージした昆布を総合食品卸問屋へ販売。当時昆布加工品は専門店・百貨店地下で秤売り
    • [11]販路は神戸から東上して中小都市の魚菜市場・卸市場を開拓し、大都市では水産荷受人の塩干部へ卸した。問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [12]販路は神戸から東上して中小都市の魚菜市場・卸市場を開拓し、大都市では水産荷受人の塩干部へ卸した。問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [15]販路は神戸から東上して中小都市の魚菜市場・卸市場を開拓し、大都市では水産荷受人の塩干部へ卸した。問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ

1963年〜西宮に移転した本社工場と、昆布屋が打たなかったテレビCM

富士昆布は1963年11月、本社と工場を創業地の神戸市東灘区から兵庫県西宮市へ移転した。同じ1963年には東京営業所を開設し、ここを起点に営業拠点を各地へ広げた。富士昆布は各地の食料品卸を経由し、同じころに生まれたスーパーを主な売場として、一般の食料品店にも並ぶ全国規模の流通に着手した。西宮の本社工場は、1970年代の石油危機のころに研究開発の試験工場へ転用され、量産は地方の工場が受け持つ体制に移った。1991年時点の販売拠点は、東京営業所を起点に全国26カ所。東京営業所の開設と同じ年の移転は、東へ広がる注文に応える生産能力を確保するためだったと推察される。

  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
    • [18]1963年11月、兵庫県西宮市に本社及び工場(西宮工場)を移転
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [19]1963年(昭和38年)の東京営業所を皮切りに営業拠点を展開し、食料品卸等を通じ当時誕生したスーパーマーケット中心の全国流通を開始
    • [20]1963年(昭和38年)の東京営業所を皮切りに営業拠点を展開し、食料品卸等を通じ当時誕生したスーパーマーケット中心の全国流通を開始
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [21]石油危機当時、西宮の本社工場を研究開発試験工場とし、地方に単品量産工場を作る方針をとった。1991年時点で販売拠点は全国26カ所
    • [22]石油危機当時、西宮の本社工場を研究開発試験工場とし、地方に単品量産工場を作る方針をとった。1991年時点で販売拠点は全国26カ所

富士昆布は1963年、昆布製品のメーカーとしてテレビでの宣伝を始めた。昆布や大豆の製品は、消費者が味と価格で選ぶ傾向の強い商品である。製品にブランド名を付けてテレビCMで広告する販売手法は、それまでの昆布業界に無かった。老舗と同じ商売を続けても事業は広げにくく、富士昆布には販路と販売促進の新しい手法が要った。富士昆布は宣伝費のほぼ全額をテレビに集中する方針をその後も続けた。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%を占め、食品メーカーの明星食品の4.85%に近い水準である。差のつきにくい商品だからこそ、名前を先に覚えてもらう広告が消費者へ直接働きかける手段になったのだろう。

  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [23]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [24]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [26]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [27]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [28]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [25]製品にブランド名をつけテレビCMを活用する販売手法は昆布業界に従来見られなかった
参考文献[18]-[28]
  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
    • [18]1963年11月、兵庫県西宮市に本社及び工場(西宮工場)を移転
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [19]1963年(昭和38年)の東京営業所を皮切りに営業拠点を展開し、食料品卸等を通じ当時誕生したスーパーマーケット中心の全国流通を開始
    • [20]1963年(昭和38年)の東京営業所を皮切りに営業拠点を展開し、食料品卸等を通じ当時誕生したスーパーマーケット中心の全国流通を開始
    • [25]製品にブランド名をつけテレビCMを活用する販売手法は昆布業界に従来見られなかった
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [21]石油危機当時、西宮の本社工場を研究開発試験工場とし、地方に単品量産工場を作る方針をとった。1991年時点で販売拠点は全国26カ所
    • [22]石油危機当時、西宮の本社工場を研究開発試験工場とし、地方に単品量産工場を作る方針をとった。1991年時点で販売拠点は全国26カ所
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [23]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [24]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [26]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [27]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)
    • [28]1963年(昭和38年)からテレビ宣伝を開始。昆布・大豆製品は味や価格選好が強い。1987年8月期の宣伝費は売上高約229億円の約4%でほぼ全てをテレビに集中(明星食品は4.85%)

1966年〜「ふじっ子」ブランドと、京都で月20万〜30万個配った試供品

富士昆布は1966年、社員から案を募り、「ふじっ子」を商品名と商標に定めた。山岸八郎氏は、社名の富士昆布では消費者への訴求力が弱く、会社を代表するブランドが欲しかったと説明した。日常の実用品である昆布製品にブランド名を付けて売る例は、同業にはまだ無かった。富士昆布は「ふじっ子」をテレビ広告で消費者へ直接浸透させ、売上高を拡大した。ブランド名はのちに社名にも及び、1985年のCI導入で社名を富士昆布からフジッコへ改めた。CIは、昆布の印象を払拭する目的で導入したものである。社名とは別に親しみやすい名前を立てたことが、昆布屋の印象を超えて商品を覚えてもらう入口になったと思われる。

  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [29]1966年(昭和41年)に商標を社員から募集し、「ふじっ子」を商品名・商標に決定
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [30]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [32]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [33]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [34]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [31]製品にブランド名をつけテレビCMを活用する手法は昆布業界に従来見られなかった

富士昆布は「ふじっ子」を売り込むため、京都市を中心に商品を無料で配った。市内を9つの地域に分け、各地域で2〜3人ずつが車に乗り、1台あたり約50店を回った。配布量は月20万〜30万個に上った。山岸八郎氏は赤字を承知のうえで、問屋へ依頼するのと並行し、小売店から問屋へ注文が上がる流れを作る方が効くと判断した。富士昆布は同じ時期、スーパーを中心に一般食料品店まで届く全国流通を進めた。当時の製品は各地の問屋を経て食料品店やスーパーへ卸された。店頭で客が名前を覚えれば、小売店の注文が問屋の仕入れを動かす経路である。無料配布は、消費者と小売店の双方から「ふじっ子」の指名を引き出し、問屋の棚を確保する狙いだったようだ。

  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [35]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [36]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [37]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [38]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [39]スーパーマーケットを中心に一般食料品店を通じた全国流通を開始
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [40]製品は各地の問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [41]製品は各地の問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ

富士昆布は1968年8月、兵庫県美方郡浜坂町にフジコン食品株式会社(現浜坂工場)を設立した。業容の急拡大に合わせて年2回の増資に踏み切る時期もあり、株主割当だけでは資金が足りなかった。このため1969年の増資では、新株を大阪中小企業投資育成株式会社が引き受け、同社の持株比率は16%になった。大阪中小企業投資育成の三戸英博氏は1988年、昭和40年代の急成長の要因に包装革命と流通革命を挙げた。三戸英博氏は、マスマーケティングで時流に乗った点も成長の理由に数えた。商品は創業時のとろろ昆布から、おぼろ昆布、塩吹昆布、だし昆布へと昆布を原料とする領域に広がった。品目を広げても昆布という単一の原料に依存する構造は残り、それが昆布の外へ事業を広げる次の段階を促したと考えられる。

  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
    • [42]1968年8月、兵庫県美方郡浜坂町にフジコン食品株式会社(現浜坂工場)を設立
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [43]急速な業容拡大で年2回の増資もあり株主割当で賄えず、1969年(昭和44年)に大阪中小企業投資育成が増資新株を引受け発行済株式総数の16%を投資
    • [44]急速な業容拡大で年2回の増資もあり株主割当で賄えず、1969年(昭和44年)に大阪中小企業投資育成が増資新株を引受け発行済株式総数の16%を投資
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [45]大阪中小企業投資育成の三戸英博(業務第1部部長心得)は40年代の急成長を包装革命・流通革命とマスマーケティングによると分析
    • [46]大阪中小企業投資育成の三戸英博(業務第1部部長心得)は40年代の急成長を包装革命・流通革命とマスマーケティングによると分析
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [47]商品構成は創業当時とろろ昆布のみで、おぼろ昆布・塩吹昆布・だし昆布・佃煮昆布へ昆布原料の製品領域を拡大
参考文献[29]-[47]
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
    • [29]1966年(昭和41年)に商標を社員から募集し、「ふじっ子」を商品名・商標に決定
    • [40]製品は各地の問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [41]製品は各地の問屋から食料品店・スーパーへ卸され店頭に並んだ
    • [43]急速な業容拡大で年2回の増資もあり株主割当で賄えず、1969年(昭和44年)に大阪中小企業投資育成が増資新株を引受け発行済株式総数の16%を投資
    • [44]急速な業容拡大で年2回の増資もあり株主割当で賄えず、1969年(昭和44年)に大阪中小企業投資育成が増資新株を引受け発行済株式総数の16%を投資
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [30]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [32]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [33]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [34]1966年に「ふじっ子」ブランドを作り消費者へ直接浸透させて成長。富士昆布では訴える力が弱く会社を代表するブランドが欲しかった(山岸八郎)。1985年にCIを導入し社名をフジッコへ変更(昆布のイメージ払拭が目的)
    • [35]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [36]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [37]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [38]「ふじっ子」売り込みのため京都市を9地域に分け、各地域2〜3人が車に分乗し1台約50店を巡回して無料配布。月20万〜30万個。赤字覚悟で小売店から問屋へ要求が来る方が効果的と判断(山岸八郎)
    • [45]大阪中小企業投資育成の三戸英博(業務第1部部長心得)は40年代の急成長を包装革命・流通革命とマスマーケティングによると分析
    • [46]大阪中小企業投資育成の三戸英博(業務第1部部長心得)は40年代の急成長を包装革命・流通革命とマスマーケティングによると分析
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月
    • [31]製品にブランド名をつけテレビCMを活用する手法は昆布業界に従来見られなかった
    • [39]スーパーマーケットを中心に一般食料品店を通じた全国流通を開始
    • [47]商品構成は創業当時とろろ昆布のみで、おぼろ昆布・塩吹昆布・だし昆布・佃煮昆布へ昆布原料の製品領域を拡大
  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
    • [42]1968年8月、兵庫県美方郡浜坂町にフジコン食品株式会社(現浜坂工場)を設立

出典・参考

4件
出典・参考
  • フジッコ 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
  • 証券アナリストジャーナル 29巻2号 1991年2月(山岸八郎 説明会)
  • 証券 49巻2号(575号)1997年2月

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