カルビー:松尾糧食工業の設立と「かっぱえびせん」の発売
1949年〜広島の松尾糧食工業と、キャンディー6割を捨てて集中した小麦あられ
松尾糧食工業所は1949年4月に法人へ改組し、広島市で松尾糧食工業として発足した。源流は、広島名産のかきようかんを製造した1905年創業の菓子店。戦前は雑穀と製粉を営み、終戦前後には代用食を作ったのち、加工食品へ段階的に移って乳菓やキャンディーを製造した。キャラメルやあめ菓子も手がけたこの家業を、創業家の3代目にあたる松尾孝氏が小麦粉の菓子へ導いた。社名のカルビーはカルシウムとビタミンBを組み合わせた語で、栄養食品を作るという戦前からの構想に由来する。配給と代用食の需要が縮む時期に法人へ改組したことが、菓子へ戻るための元手をまとめる準備になったとみられる。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [1]1949年4月、松尾糧食工業所を法人に改組し松尾糧食工業(広島県広島市)を設立
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [2]創業は明治38年(1905年)でかきようかんの菓子メーカー。穀粉・代用食・キャラメルあめ菓子を経て、3代目の松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功
- [4]創業は明治38年(1905年)でかきようかんの菓子メーカー。穀粉・代用食・キャラメルあめ菓子を経て、3代目の松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73
- [3]戦前は雑穀・製粉業、終戦前後に代用食、その後乳菓・キャンディーへ移行。社名はカルシウムとビタミンBの栄養食品を作る戦前からの構想に由来(松尾雅彦副社長の回顧)
- [5]戦前は雑穀・製粉業、終戦前後に代用食、その後乳菓・キャンディーへ移行。社名はカルシウムとビタミンBの栄養食品を作る戦前からの構想に由来(松尾雅彦副社長の回顧)
松尾孝氏は1954年に小麦粉を原料とするあられの製造に成功し、「かっぱあられ」の名で発売した。意匠は当時隆盛だった漫画家の清水崑氏の「かっぱ天国」から採り、依頼したのは子供らしいかわいいかっぱの図案である。副社長の松尾雅彦氏は1985年に、酒造の黄桜が使う大人びたかっぱと描き分けたと振り返った。翌1955年5月、商号をカルビー製菓へ変更。続いて東京・名古屋・福岡に営業所を置き、広島の外で売る拠点を持った。かっぱの名は、1964年に出す主力の新商品にも引き継がれた。米を使わず、代用食の時代から扱い慣れた小麦粉を菓子の原料に振り向けたことが、戦後の再出発にかかる投資を小さく抑えたと推察される。
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [6]昭和29年(1954年)に松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功し「かっぱあられ」として発売。その後東京・名古屋・福岡に営業所を設置し、昭和39年に「かっぱえびせん」を発売
- [10]昭和29年(1954年)に松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功し「かっぱあられ」として発売。その後東京・名古屋・福岡に営業所を設置し、昭和39年に「かっぱえびせん」を発売
- [11]昭和29年(1954年)に松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功し「かっぱあられ」として発売。その後東京・名古屋・福岡に営業所を設置し、昭和39年に「かっぱえびせん」を発売
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73
- [7]昭和29年、清水崑「かっぱ天国」の隆盛期に子供のかっぱの意匠を依頼。黄桜の色っぽいかっぱと区別(松尾雅彦副社長の回顧)
- [8]昭和29年、清水崑「かっぱ天国」の隆盛期に子供のかっぱの意匠を依頼。黄桜の色っぽいかっぱと区別(松尾雅彦副社長の回顧)
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [9]1955年5月、カルビー製菓に社名変更
カルビー製菓はかっぱあられの発売から7〜8年後、売上の6割を占めていたキャンディーの製造をやめた。人と設備を集中させた先は、売上の4割にとどまっていた小麦あられ。松尾雅彦氏は1985年、多数派のキャンディーを迷わず切り捨てたと回顧した。当時の資金繰りは厳しく、かっぱえびせんが出るまで金の工面に追われ続けたというのが、1976年の専務の松尾雅彦氏の述懐である。絞り込んだ小麦あられの生地は、のちに小えびの風味を加える商品の土台になった。品目の多いキャンディーは同業との競争も激しく、伸びている小麦あられに経営資源を寄せる方が、資金に乏しい会社には理にかなっていたと思われる。
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73
- [12]かっぱあられ発売の7〜8年後にキャンディーを廃止。当時キャンディー6割・小麦あられ4割で、4割の側に集中(松尾雅彦副社長の回顧)
- [13]かっぱあられ発売の7〜8年後にキャンディーを廃止。当時キャンディー6割・小麦あられ4割で、4割の側に集中(松尾雅彦副社長の回顧)
- [14]かっぱあられ発売の7〜8年後にキャンディーを廃止。当時キャンディー6割・小麦あられ4割で、4割の側に集中(松尾雅彦副社長の回顧)
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [15]かっぱえびせんが出るまでは資金の苦労が続いた(松尾雅彦専務)。かっぱえびせんは「かっぱあられ」に小えびの香りと味を加えて開発
- [16]かっぱえびせんが出るまでは資金の苦労が続いた(松尾雅彦専務)。かっぱえびせんは「かっぱあられ」に小えびの香りと味を加えて開発
参考文献[1]-[16]
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [1]1949年4月、松尾糧食工業所を法人に改組し松尾糧食工業(広島県広島市)を設立
- [9]1955年5月、カルビー製菓に社名変更
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [2]創業は明治38年(1905年)でかきようかんの菓子メーカー。穀粉・代用食・キャラメルあめ菓子を経て、3代目の松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功
- [4]創業は明治38年(1905年)でかきようかんの菓子メーカー。穀粉・代用食・キャラメルあめ菓子を経て、3代目の松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功
- [6]昭和29年(1954年)に松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功し「かっぱあられ」として発売。その後東京・名古屋・福岡に営業所を設置し、昭和39年に「かっぱえびせん」を発売
- [10]昭和29年(1954年)に松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功し「かっぱあられ」として発売。その後東京・名古屋・福岡に営業所を設置し、昭和39年に「かっぱえびせん」を発売
- [11]昭和29年(1954年)に松尾孝社長が小麦粉のあられ製造に成功し「かっぱあられ」として発売。その後東京・名古屋・福岡に営業所を設置し、昭和39年に「かっぱえびせん」を発売
- [15]かっぱえびせんが出るまでは資金の苦労が続いた(松尾雅彦専務)。かっぱえびせんは「かっぱあられ」に小えびの香りと味を加えて開発
- [16]かっぱえびせんが出るまでは資金の苦労が続いた(松尾雅彦専務)。かっぱえびせんは「かっぱあられ」に小えびの香りと味を加えて開発
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73
- [3]戦前は雑穀・製粉業、終戦前後に代用食、その後乳菓・キャンディーへ移行。社名はカルシウムとビタミンBの栄養食品を作る戦前からの構想に由来(松尾雅彦副社長の回顧)
- [5]戦前は雑穀・製粉業、終戦前後に代用食、その後乳菓・キャンディーへ移行。社名はカルシウムとビタミンBの栄養食品を作る戦前からの構想に由来(松尾雅彦副社長の回顧)
- [7]昭和29年、清水崑「かっぱ天国」の隆盛期に子供のかっぱの意匠を依頼。黄桜の色っぽいかっぱと区別(松尾雅彦副社長の回顧)
- [8]昭和29年、清水崑「かっぱ天国」の隆盛期に子供のかっぱの意匠を依頼。黄桜の色っぽいかっぱと区別(松尾雅彦副社長の回顧)
- [12]かっぱあられ発売の7〜8年後にキャンディーを廃止。当時キャンディー6割・小麦あられ4割で、4割の側に集中(松尾雅彦副社長の回顧)
- [13]かっぱあられ発売の7〜8年後にキャンディーを廃止。当時キャンディー6割・小麦あられ4割で、4割の側に集中(松尾雅彦副社長の回顧)
- [14]かっぱあられ発売の7〜8年後にキャンディーを廃止。当時キャンディー6割・小麦あられ4割で、4割の側に集中(松尾雅彦副社長の回顧)
1964年〜瀬戸内の小えびを原料にしたかっぱえびせんと、単品100億円が呼んだ宇都宮・千歳の工場
カルビー製菓は1964年1月に「かっぱえびせん」を発売した。原料の瀬戸内の小えびは味と栄養に優れながら、当時は調味料や魚の餌に使われる程度で値が安く、漁の対象にもなっていない素材である。松尾孝氏は研究を重ね、かっぱあられの生地にえびの風味を損なわずに練り込む製法を完成させた。発売時の年間売上高は6億円で、7年後の1971年には単品で100億円の大台を超えた。松尾雅彦氏は1985年に、塩せんべいやえびせんべいの先行品がある中で、品質・価格・宣伝の3点で消費者に受け入れられたと振り返った。値の付かない原料を量の出る大衆菓子に変えたことで、価格と味の両面で先行品に対する競争優位を得たのだろう。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [17]1964年1月、「かっぱえびせん」発売
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [18]瀬戸内の小えびは調味料や魚のエサ程度の用途で安価。松尾孝社長がかっぱあられに小えびの香りと味を加える製法を開発。発売当時の年間売上高6億円、昭和46年(1971年)に100億円
- [19]瀬戸内の小えびは調味料や魚のエサ程度の用途で安価。松尾孝社長がかっぱあられに小えびの香りと味を加える製法を開発。発売当時の年間売上高6億円、昭和46年(1971年)に100億円
- [20]瀬戸内の小えびは調味料や魚のエサ程度の用途で安価。松尾孝社長がかっぱあられに小えびの香りと味を加える製法を開発。発売当時の年間売上高6億円、昭和46年(1971年)に100億円
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73
- [21]先行の塩せんべい・えびせんべいがある中、品質・価格・宣伝で受け入れられた。昭和45年に単品100億円(松尾雅彦副社長の回顧)
カルビー製菓は1968年4月に栃木県の宇都宮工場、1969年11月に北海道の千歳工場を相次いで操業した。スナック菓子は体積の割に軽く、遠くへ運ぶほど中身の少ない荷に運賃を払う構造を抱える。このため消費地の近くに工場を置き、各地の営業所や原料センターと連携させて配送の費用を抑えた。1976年時点の工場は千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に及び、全国を縦に結ぶ配置となる。北海道にはじゃがいもの集荷センターを4カ所持ち、社員が農村へ出向いて原料を一括で買い付けた。関東の市場と北海道の原料をそれぞれ近くで押さえた配置が、のちのポテトチップスの量産を支える前提になったと考えられる。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [22]1968年4月宇都宮工場、1969年11月千歳工場(現北海道工場)操業開始
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [23]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- [24]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- [25]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- [26]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
カルビー製菓は1970年3月、米国カリフォルニア州にCalbee America, Inc.を設立した。国内では前年11月に千歳工場が操業したばかりで、海外の拠点は国内の工場網づくりと並行して置かれた。ポテトチップスは約100年前に米国で生まれた商品で、日本には戦後に入ってきた。カルビーは1967年ごろからポテトチップスの商品計画を検討し、計画が浮上した時点から水面下で研究に着手していた。国内の市場は1975年まで100億円に満たず、製造の担い手は地方の小規模なメーカーにすぎない。設立の目的を記した資料は手元に無く、研究中の商品が生まれた本場に情報の窓口を置いたものと推測される。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [27]1970年3月、Calbee America, Inc.(米国カリフォルニア州、連結子会社)を設立。前年1969年11月に千歳工場操業
- [28]1970年3月、Calbee America, Inc.(米国カリフォルニア州、連結子会社)を設立。前年1969年11月に千歳工場操業
- 日経ビジネス 1987年8月31日号 p11-24
- [29]ポテトチップスは約100年前に米国で誕生し戦後日本に入った。カルビーは昭和42年(1967年)頃から商品計画を検討し研究を開始。昭和50年の発売まで国内市場は100億円未満でローカルメーカー中心
- [30]ポテトチップスは約100年前に米国で誕生し戦後日本に入った。カルビーは昭和42年(1967年)頃から商品計画を検討し研究を開始。昭和50年の発売まで国内市場は100億円未満でローカルメーカー中心
- [31]ポテトチップスは約100年前に米国で誕生し戦後日本に入った。カルビーは昭和42年(1967年)頃から商品計画を検討し研究を開始。昭和50年の発売まで国内市場は100億円未満でローカルメーカー中心
参考文献[17]-[31]
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [17]1964年1月、「かっぱえびせん」発売
- [22]1968年4月宇都宮工場、1969年11月千歳工場(現北海道工場)操業開始
- [27]1970年3月、Calbee America, Inc.(米国カリフォルニア州、連結子会社)を設立。前年1969年11月に千歳工場操業
- [28]1970年3月、Calbee America, Inc.(米国カリフォルニア州、連結子会社)を設立。前年1969年11月に千歳工場操業
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [18]瀬戸内の小えびは調味料や魚のエサ程度の用途で安価。松尾孝社長がかっぱあられに小えびの香りと味を加える製法を開発。発売当時の年間売上高6億円、昭和46年(1971年)に100億円
- [19]瀬戸内の小えびは調味料や魚のエサ程度の用途で安価。松尾孝社長がかっぱあられに小えびの香りと味を加える製法を開発。発売当時の年間売上高6億円、昭和46年(1971年)に100億円
- [20]瀬戸内の小えびは調味料や魚のエサ程度の用途で安価。松尾孝社長がかっぱあられに小えびの香りと味を加える製法を開発。発売当時の年間売上高6億円、昭和46年(1971年)に100億円
- [23]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- [24]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- [25]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- [26]かさばるスナック菓子の輸送は空気を運ぶようなもので、消費地近接型の工場を千歳・小清水・宇都宮・名古屋・広島・鹿児島に配置。北海道にじゃがいも集荷センター4カ所、産地直結で一括購入(1976年時点)
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73
- [21]先行の塩せんべい・えびせんべいがある中、品質・価格・宣伝で受け入れられた。昭和45年に単品100億円(松尾雅彦副社長の回顧)
- 日経ビジネス 1987年8月31日号 p11-24
- [29]ポテトチップスは約100年前に米国で誕生し戦後日本に入った。カルビーは昭和42年(1967年)頃から商品計画を検討し研究を開始。昭和50年の発売まで国内市場は100億円未満でローカルメーカー中心
- [30]ポテトチップスは約100年前に米国で誕生し戦後日本に入った。カルビーは昭和42年(1967年)頃から商品計画を検討し研究を開始。昭和50年の発売まで国内市場は100億円未満でローカルメーカー中心
- [31]ポテトチップスは約100年前に米国で誕生し戦後日本に入った。カルビーは昭和42年(1967年)頃から商品計画を検討し研究を開始。昭和50年の発売まで国内市場は100億円未満でローカルメーカー中心
1973年〜東京・北区へ移転したカルビーの本社と、8年温めたポテトチップス
カルビー製菓は1973年6月に本社を東京都北区へ移し、同年12月に商号をカルビーに改めた。社長の松尾孝氏は、自動車や電機のような道具の企業に代わり、暮らしに近い食品の企業が基幹産業になるという信念を説いていた。1976年4月には東京と広島に置いていた2つの本社を東京本社に一本化した。1976年の報道は、この一本化を全国規模のナショナルメーカーへの飛躍を狙った措置と伝えた。1976年3月期の売上高は287億円で、自己資本比率は50%に達し、原料の仕入れも手形を使わず現金で支払っていた。発祥の広島から最大の消費地へ本社を移し社名を短くした一連の措置は、全国の食品企業へ看板を掛け替える意図の表れだった可能性が高い。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [32]1973年6月本社を東京都北区に移転、同年12月カルビー㈱に社名変更
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [33]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [34]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [35]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [36]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
カルビーは1975年9月、茨城県の下妻工場の操業と同じ月にポテトチップスを発売した。商品計画は1967年ごろからあったものの、かっぱえびせんが倍々の勢いで伸び、新製品を出す余力が無かったと松尾雅彦氏は1987年に振り返った。発売の前には経営陣を含む社員が小売店を回り、売り場の位置と値段と味を調べた。油が日数や日光で劣化し、味が損なわれて売れ残る悪循環が、既存品の販売を妨げていたと結論づけた。そこでカルビーは『ポテトチップスは生鮮品として扱わなければならない。これが可能になれば十分商売になる』という方針を立てた。全国に販売網を持つメーカーとして初めての参入で、100億円とされた市場は160億円に広がった。8年の待機は、鮮度という競争の焦点を先に見定める準備期間になったとうかがえる。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [37]1975年9月、下妻工場(茨城県下妻市)操業開始。ポテトチップス発売
- 日経ビジネス 1987年8月31日号 p11-24
- [38]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [39]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [40]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [41]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [42]1975年秋、全国販売網を持つメーカーとして初めてポテトチップ市場に参入。市場規模は100億円から160億円に拡大
ポテトチップスの販売拡大に合わせ、カルビーは1976年5月に宇都宮第2工場、同年11月に滋賀工場を操業した。滋賀の工場はポテトチップスの専用工場として1976年7月に建設を始め、関西市場への本格進出を担った。同じ時期にはヤマザキ・ナビスコの成型ポテトチップ「チップスター」と競合し、プロクター・アンド・ギャンブルも日本での生産を狙っていた。社長の松尾孝氏は1976年、自社の目標を『原料生産から最終商品までを一貫して手にする“食品企業”をめざしている』と表現した。原料では、鮮度の高い馬鈴薯を年間を通じて確保するため、全国の農家と順次契約を結んだ。1987年時点の調達は5〜6月に九州産、6〜7月に関東産と産地を北上させる方式で、端境期を短くする。芋を切らさない調達を自前で組む必要が、原料の手当てを専門に担う会社を別に設ける動機になったと読める。
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [43]1976年5月宇都宮第2工場、同年11月滋賀工場(滋賀県湖南市、現関西びわこ工場)操業開始
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [44]1976年7月から滋賀県にポテトチップ専用工場を建設し関西市場へ本格進出。ヤマザキ・ナビスコ「チップスター」、P&Gの成型ポテトチップと競合
- [45]1976年7月から滋賀県にポテトチップ専用工場を建設し関西市場へ本格進出。ヤマザキ・ナビスコ「チップスター」、P&Gの成型ポテトチップと競合
- [46]1976年7月から滋賀県にポテトチップ専用工場を建設し関西市場へ本格進出。ヤマザキ・ナビスコ「チップスター」、P&Gの成型ポテトチップと競合
- 日経ビジネス 1987年8月31日号 p11-24
- [47]年間を通じ新鮮な馬鈴薯を確保するため全国3万軒の農家と順次契約。九州産5〜6月、関東産6〜7月と産地を北上させ端境期を短縮(1987年時点)
- [48]年間を通じ新鮮な馬鈴薯を確保するため全国3万軒の農家と順次契約。九州産5〜6月、関東産6〜7月と産地を北上させ端境期を短縮(1987年時点)
参考文献[32]-[48]
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [32]1973年6月本社を東京都北区に移転、同年12月カルビー㈱に社名変更
- [37]1975年9月、下妻工場(茨城県下妻市)操業開始。ポテトチップス発売
- [43]1976年5月宇都宮第2工場、同年11月滋賀工場(滋賀県湖南市、現関西びわこ工場)操業開始
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- [33]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [34]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [35]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [36]松尾孝社長は食品企業が基幹産業になるとの信念。1976年4月に東京・広島の両本社制を東京本社のみとし、ナショナルメーカーへの飛躍をめざす。1976年3月期売上高287億円、自己資本比率50%、仕入れは現金払い
- [42]1975年秋、全国販売網を持つメーカーとして初めてポテトチップ市場に参入。市場規模は100億円から160億円に拡大
- [44]1976年7月から滋賀県にポテトチップ専用工場を建設し関西市場へ本格進出。ヤマザキ・ナビスコ「チップスター」、P&Gの成型ポテトチップと競合
- [45]1976年7月から滋賀県にポテトチップ専用工場を建設し関西市場へ本格進出。ヤマザキ・ナビスコ「チップスター」、P&Gの成型ポテトチップと競合
- [46]1976年7月から滋賀県にポテトチップ専用工場を建設し関西市場へ本格進出。ヤマザキ・ナビスコ「チップスター」、P&Gの成型ポテトチップと競合
- 日経ビジネス 1987年8月31日号 p11-24
- [38]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [39]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [40]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [41]昭和42年頃から計画したが、かっぱえびせんが倍々で伸び新製品に手が回らなかった(松尾雅彦副社長)。小売店を調べ、油の劣化で売れない悪循環を把握し、生鮮品として扱う方針を決定
- [47]年間を通じ新鮮な馬鈴薯を確保するため全国3万軒の農家と順次契約。九州産5〜6月、関東産6〜7月と産地を北上させ端境期を短縮(1987年時点)
- [48]年間を通じ新鮮な馬鈴薯を確保するため全国3万軒の農家と順次契約。九州産5〜6月、関東産6〜7月と産地を北上させ端境期を短縮(1987年時点)
出典・参考
4件
- カルビー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1976年10月25日号 p85-86
- 日経ビジネス 1987年8月31日号 p11-24
- 総合食品 8(12) 1985年「インタビュー ザ・メーカー カルビー副社長松尾雅彦氏に聞く」p68-73