長谷工コーポレーション:マンション事業への参入と首都圏シェア2割
1968年〜施主と組む共同事業として始めた自社マンション
1968年、長谷川工務店は自社マンションの第1号を着工してマンション事業へ参入した。翌1969年には日商岩井と業務提携を結び、1970年には長谷工不動産を設立している。1969年6月に本社機構を東京へ移し、1970年12月には名実ともに東京へ移った。単体の売上高は1970年3月期の110億円から1975年3月期の1,004億円へ伸び、この5年間で売上高は9.1倍、経常利益は12.5倍になった。貸ビル業から転じてほぼマンション専業に徹したことと、1970年から爆発的なブームが訪れたことが、伸びの二つの条件だった。
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [1]1968年 自社マンション第1号を着工しマンション事業へ参入
- [2]1969年 日商岩井と業務提携
- [3]1970年 長谷工不動産を設立
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [4]1969年6月 本社機構を東京へ移転・1970年12月に本社を東京へ移転
- [6]過去5年間で売上高9.1倍・経常利益12.5倍
- [7]昭和40年代に貸ビル業から転じマンション専業へ・1970年から爆発的なブーム
- 長谷川工務店 会社年鑑
- [5]単体売上高 1970年3月期110億円→1975年3月期1,004億円
建築業者が入札・受注・工事の手順を踏む請負形態を取るなかで、長谷川工務店は入札工事に一切参加せず、官公需の受注件数はゼロだった。水上芳美社長は、付き合いに費用がかかること、落札の可否がぎりぎりまで分からないこと、原価に適正利潤を上乗せする経営原則を守り切れない場合があることを理由に挙げている。代わりに採ったのは施主と完全に一体となる体制である。施主が商社であれば、どこにどんな需要があり何を建てるかを共同で練り、土地取得・開発行為・工事・販売までを共同で行った。企画・開発・建築工事・販売のそれぞれの原価を施主と話し合うため、建築工事だけを請け負う場合より付加価値は高まった。自社でマンションを建てて売る場合も、子会社をオーナーに立てて注文を受ける方式を採った。
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [8]入札工事に一切参加せず官公需の受注件数はゼロ
- [9]水上芳美社長は費用・落札の不確実性・適正利潤の確保を入札不参加の理由に挙げた
- [10]営業体制の特色は施主と完全に一体となる点
- [11]企画・土地取得・開発行為・工事・販売まで施主と共同で実施
- [12]各段階の原価を施主と協議するため建築工事のみの請負より付加価値が高い
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- [13]自社販売分は子会社を施主に立てて注文を受けた
共同事業が成り立つ前提として、工事費の入金条件を着工時から10か月の均等払いで通した。10億円の工事なら着工時から毎月1億円ずつの現金払いであり、前渡し・中間渡し・完工時渡しの3分割払いが通例だった一般の建築業とは条件が決定的に異なる。建設資金は着工時に少なく完成へ近づくほど急に増えるため資金需要は二次曲線を描くが、均等払いの入金は直線で積み上がり、その差が余剰資金となった。入金と支出金の相殺勘定は1975年まで10年にわたって受け取り超過を続けている。貸ビルの保証金を準自己資本とみなせば固定比率は100%を割るという見方も、社内では並行して立てられていた。
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [14]工事費の入金条件は着工時から10か月の均等払い
- [15]一般の建築業は前渡し・中間渡し・完工時渡しの3分割払い
- [16]資金需要は二次曲線・均等払いの入金は直線で、その差が余剰資金になる
- [17]入金と支出金の相殺勘定は10年来つねに受け取り超過
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- [18]貸ビルの保証金を準自己資本とみれば固定比率は100%を割る
参考文献[1]-[18]
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [1]1968年 自社マンション第1号を着工しマンション事業へ参入
- [2]1969年 日商岩井と業務提携
- [3]1970年 長谷工不動産を設立
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [4]1969年6月 本社機構を東京へ移転・1970年12月に本社を東京へ移転
- [6]過去5年間で売上高9.1倍・経常利益12.5倍
- [7]昭和40年代に貸ビル業から転じマンション専業へ・1970年から爆発的なブーム
- [8]入札工事に一切参加せず官公需の受注件数はゼロ
- [9]水上芳美社長は費用・落札の不確実性・適正利潤の確保を入札不参加の理由に挙げた
- [10]営業体制の特色は施主と完全に一体となる点
- [11]企画・土地取得・開発行為・工事・販売まで施主と共同で実施
- [12]各段階の原価を施主と協議するため建築工事のみの請負より付加価値が高い
- [14]工事費の入金条件は着工時から10か月の均等払い
- [15]一般の建築業は前渡し・中間渡し・完工時渡しの3分割払い
- [16]資金需要は二次曲線・均等払いの入金は直線で、その差が余剰資金になる
- [17]入金と支出金の相殺勘定は10年来つねに受け取り超過
- 長谷川工務店 会社年鑑
- [5]単体売上高 1970年3月期110億円→1975年3月期1,004億円
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- [13]自社販売分は子会社を施主に立てて注文を受けた
- [18]貸ビルの保証金を準自己資本とみれば固定比率は100%を割る
1974年〜石油ショック後の規格化と首都圏シェア約20%
1974年初め、長谷川工務店は首都圏の民間デベロッパー融資で第1号となる案件を出した。石油ショックを境にマンション不況が来て、売れ残り戸数は増加した。もっとも同社の完成在庫は、首都圏全体の平均に届かない水準にとどまった。それでも主なスポンサーと協議したうえで、同じ1974年初めには在庫を値下げして売り切ることを非常の措置として徹底的に実行した。1974年から1976年にかけての特別損は50億円見当にのぼったが、全額が償却された。固定比率も1974年5月期の284%から110%へ下がった。関係会社が手持ちする完成マンションは1975年6月の731戸・135億円から237戸・36億円へ減り、230億円ほどあった手持ち不動産投資も172億円に圧縮された。
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- [19]1974年初め 首都圏における民間デベロッパー融資の第1号を実行
- [21]1974年初め 主なスポンサーと協議し値引きによる滞貨一掃を断行
- [22]1974年から1976年にかけての特別損 約50億円を全額償却
- [23]固定比率 1974年5月期284%→110%
- [24]関係会社の手持ち完成マンション 1975年6月731戸135億円→237戸36億円
- [25]手持ち不動産投資 約230億円→172億円
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [20]不況局面でも完成品残の比率は首都圏平均より低かった
設計の力で大手総合建設会社に見劣りする点が、この会社の弱みだった。その埋め合わせも兼ねて営業戦略に加えられたもう一つの柱が、マンションの規格化である。住戸はまず都市型と郊外型に大別された。そのうえで2DKや3LDKなど七つの型にそろえた。階段などの共通コアを軸にこれらの型を組み合わせて重ね、外装だけを立地の周辺環境に応じて仕上げた。設計の合理化で10%、部材をまとめて発注したことで資材費の10%が、それぞれ浮いた。施主の図面どおりに建てるのではなく、自社で使う部材を前提に先に設計を済ませるので、着工の時期も施主の指示ではなく自社の作業の流れに合わせてもらっていた。粗利益率は1977年の12.6%から1980年の19.2%まで上がった。
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [26]規格化は設計能力で大手総合建設会社に劣ることへの対応でもあった
- [27]営業戦略の特色の一つはマンションの規格化
- [28]各戸を都市型と郊外型に分け七つのブロックへ統一し共通コアの周囲へ積み上げる
- [29]規格化で設計の合理化効果10%・資材費10%の節約
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻1号
- [30]自社が使用する部材に合わせて設計し着工時期も自社の工程へ合わせた
- [31]粗利益率 1977年12.6%→1980年19.2%
買い手の層も変わった。1974年初めに民間デベロッパー融資の第1号を出した際の購入者の年齢分析で、トップに初めて20歳代が現れた。会社はこれを異常現象と受け取ったが、1977年になっても年収200万円から350万円の層が購入者層のトップを形成し続けた。家を借りれば6万円から7万円の家賃を覚悟せねばならず、同じ額を払うなら自分のものになるマンションを買うという判断が働いていた。1976年6月から1977年5月までの総売上高は829億8,300万円、経常利益は51億4,500万円である。1981年には首都圏のマンション供給で約20%のシェアに達した。
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- [32]1974年初めの購入者年齢分析で20歳代が初めてトップに
- [33]会社は20歳代の購入者層化を異常現象と受け取った
- [34]1977年も年収200万〜350万円の層が購入者層のトップ
- [35]賃借なら家賃6万〜7万円が必要で同額ならマンション購入へ向かう
- [36]第60期(1976年6月〜1977年5月)総売上高829億8,300万円・経常利益51億4,500万円
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [37]1981年 首都圏マンションシェアが約20%に到達
参考文献[19]-[37]
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- [19]1974年初め 首都圏における民間デベロッパー融資の第1号を実行
- [21]1974年初め 主なスポンサーと協議し値引きによる滞貨一掃を断行
- [22]1974年から1976年にかけての特別損 約50億円を全額償却
- [23]固定比率 1974年5月期284%→110%
- [24]関係会社の手持ち完成マンション 1975年6月731戸135億円→237戸36億円
- [25]手持ち不動産投資 約230億円→172億円
- [32]1974年初めの購入者年齢分析で20歳代が初めてトップに
- [33]会社は20歳代の購入者層化を異常現象と受け取った
- [34]1977年も年収200万〜350万円の層が購入者層のトップ
- [35]賃借なら家賃6万〜7万円が必要で同額ならマンション購入へ向かう
- [36]第60期(1976年6月〜1977年5月)総売上高829億8,300万円・経常利益51億4,500万円
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- [20]不況局面でも完成品残の比率は首都圏平均より低かった
- [26]規格化は設計能力で大手総合建設会社に劣ることへの対応でもあった
- [27]営業戦略の特色の一つはマンションの規格化
- [28]各戸を都市型と郊外型に分け七つのブロックへ統一し共通コアの周囲へ積み上げる
- [29]規格化で設計の合理化効果10%・資材費10%の節約
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻1号
- [30]自社が使用する部材に合わせて設計し着工時期も自社の工程へ合わせた
- [31]粗利益率 1977年12.6%→1980年19.2%
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [37]1981年 首都圏マンションシェアが約20%に到達
1987年〜脱“マンションの長谷工”とホテル・リゾートへの拡張
1987年8月、合田耕平氏が社長に就任した。創業者の長谷川武彦氏、二代目の水上芳美氏に続く三代目であり、合田耕平氏の実姉二人がそれぞれ両名に嫁いでいる。建設業で大手5社に量で並ぶことは難しく、会社の成長は建設業以外の周辺業務をどこまで担えるかにかかっていた。創業50周年を機に社内を建設・開発・技術の三つの事業部門へ分け、建設事業部と不動産事業部は財務諸表を別々に作り始めている。売上の半分は不動産が占めており、会社の性格と社名が一致しなくなっていた。1988年、商号を長谷工コーポレーションへ変更した。
- Decide 1987年5巻9号
- [38]1987年8月28日の株主総会後の取締役会で合田耕平が社長に就任
- [39]合田耕平の実姉二人が創業者の長谷川武彦と二代目の水上芳美へ嫁いでいる
- [40]建設業で大手5社に量で並ぶのは困難であり周辺業務まで担う企業への転換が必要と述べた
- [41]創業50周年を機に建設・開発・技術の三部門へ分割し建設と不動産は財務諸表を分離
- [42]売上の半分は不動産であり会社の性格と社名が一致しなくなっていた
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [43]1988年 商号を長谷工コーポレーションへ変更
1988年7月、京都にブライトンホテルを開業した。マンション用地として1983年に買い入れた、大通りを離れた住宅街のなかの土地である。183室はいずれも通常のホテルのスイートルームほどの広さを取り、平均的なツインで42平方メートル、室料は2万4,000円前後に設定した。婚礼は1日10組の能力に対して多くとも6組に抑え、プールの入場者はデッキチェアの数に合わせて55人までに制限している。1989年3月期の初決算は売上高23億3,000万円と目標を約30%上回り、営業利益は目標の2倍に達した。土地を仕込んで上物を建てれば終わる短期回転の事業に対し、ホテルは工夫した分がすぐ跳ね返る事業として扱われた。
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [44]1988年7月 京都ブライトンホテルを開業
- [45]用地は1983年にマンション用地として買い入れた住宅街の土地
- [46]全183室・平均的なツインで42平方メートル・室料2万4,000円前後
- [47]婚礼は1日6組まで・プール入場は55人までに制限
- [48]1989年3月期の初決算は売上高23億3,000万円で目標を約30%上回り営業利益は目標の2倍
- 日経ビジネス 1991年11月18日号
- [49]短期回転の分譲に対しホテルは工夫がすぐ収益へ跳ね返る事業と位置づけた
1989年3月期の売上高4,337億円・経常利益271億円は当時の最高だった。しかしバブル期の建設ブームで職人が不足し、大工の日当は一時7万円へ跳ね上がって、年間1万戸を建てる会社ほど競争力を落とした。1992年、内装工事を多能工がこなす新工法M-2000を埼玉県三郷市の物件で初めて施工している。配線と配管を天井へ集めて金具で止め、コンクリートへ打ち込む工程をなくし、部材は工場で加工して現場から熟練の要る道具を減らした。同年4月には長谷工インテリア技術専門校を開校し、高卒者を1年かけて技能工に育てる体制を敷いた。1995年3月期の連結売上高は4,257億円、経常損益は8億円の赤字を計上した。
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [50]1989年3月期 売上高4,337億円・経常利益271億円で過去最高
- 日経ビジネス 1992年9月14日号
- [51]バブル期の職人不足で大工の日当は一時7万円へ上昇し年間1万戸を建てる同社の競争力が落ちた
- [52]1992年 新工法M-2000を埼玉県三郷市の物件で初施工
- [53]配線・配管を天井へ集約しコンクリート打ち込みを廃止・部材は工場加工
- [54]1992年4月 長谷工インテリア技術専門校を開校し高卒者を1年で技能工に育成
- 長谷川工務店 会社年鑑
- [55]1995年3月期 連結売上高4,257億円・経常損益8億円の赤字
参考文献[38]-[55]
- Decide 1987年5巻9号
- [38]1987年8月28日の株主総会後の取締役会で合田耕平が社長に就任
- [39]合田耕平の実姉二人が創業者の長谷川武彦と二代目の水上芳美へ嫁いでいる
- [40]建設業で大手5社に量で並ぶのは困難であり周辺業務まで担う企業への転換が必要と述べた
- [41]創業50周年を機に建設・開発・技術の三部門へ分割し建設と不動産は財務諸表を分離
- [42]売上の半分は不動産であり会社の性格と社名が一致しなくなっていた
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [43]1988年 商号を長谷工コーポレーションへ変更
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [44]1988年7月 京都ブライトンホテルを開業
- [45]用地は1983年にマンション用地として買い入れた住宅街の土地
- [46]全183室・平均的なツインで42平方メートル・室料2万4,000円前後
- [47]婚礼は1日6組まで・プール入場は55人までに制限
- [48]1989年3月期の初決算は売上高23億3,000万円で目標を約30%上回り営業利益は目標の2倍
- [50]1989年3月期 売上高4,337億円・経常利益271億円で過去最高
- 日経ビジネス 1991年11月18日号
- [49]短期回転の分譲に対しホテルは工夫がすぐ収益へ跳ね返る事業と位置づけた
- 日経ビジネス 1992年9月14日号
- [51]バブル期の職人不足で大工の日当は一時7万円へ上昇し年間1万戸を建てる同社の競争力が落ちた
- [52]1992年 新工法M-2000を埼玉県三郷市の物件で初施工
- [53]配線・配管を天井へ集約しコンクリート打ち込みを廃止・部材は工場加工
- [54]1992年4月 長谷工インテリア技術専門校を開校し高卒者を1年で技能工に育成
- 長谷川工務店 会社年鑑
- [55]1995年3月期 連結売上高4,257億円・経常損益8億円の赤字
筆者考察
マンションで長谷川工務店が取った位置は、建てる側と売る側のどちらでもなく、その両方を一つの工程として統合する立場だった。入札に参加せず官公需の受注をゼロに保ったのは、落札の可否が最後まで読めず、原価に適正利潤を乗せる原則が守れない場面があるからである。代わりに商社やデベロッパーと組み、用地の選定から企画・工事・販売までを共同で行った。工事費は着工時から10か月の均等払いで受け取る。資金需要は完成へ近づくほど急に増えるのに入金は直線で積み上がるから、その差額はそのまま手元に残る。請負の形を借りながら、資金の順序だけを自社に有利な向きへ変えた設計である。
規格化は、その延長で原価の側まで自社へ引き寄せる手だった。設計図を受け取って施工するのではなく、自社が使う部材に合わせて設計する。都市型と郊外型の七つのブロックを共通コアの周りに積み上げる方式は設計で10%、資材費で10%を削減し、粗利益率を1977年の12.6%から1980年の19.2%へ押し上げた。1981年に首都圏で約20%のシェアに達したのは、同じ市場で一社だけ違う原価表を持っていたからである。ただし、この構えは自社の工程に注文を合わせてもらえる事業でしか働かない。1988年の京都ブライトンホテルも蓼科・淡路島のリゾートも、建てて渡せば終わる事業ではなかった。
- 単体の数字。連結の売上高とは接続しない。
- 出所は会社年鑑。
1968年〜1995年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1968年03月期 | 単体 | 69 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 85 | +23.2% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 110 | +29.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 164 | +49.1% | n/a | 5 | 3.0% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 217 | +32.3% | n/a | 6 | 2.8% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 566 | +160.8% | n/a | 13 | 2.3% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 818 | +44.5% | n/a | 24 | 2.9% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,004 | +22.7% | n/a | 30 | 3.0% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 864 | ▲13.9% | n/a | 20 | 2.3% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 830 | ▲3.9% | n/a | 22 | 2.7% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,023 | +23.3% | n/a | 33 | 3.2% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 1,211 | +18.4% | n/a | 51 | 4.2% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 1,611 | +33.0% | n/a | 101 | 6.3% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 2,043 | +26.8% | n/a | 117 | 5.7% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 2,273 | +11.3% | n/a | 131 | 5.8% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 2,684 | +18.1% | n/a | 89 | 3.3% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 1,934 | ▲27.9% | n/a | 50 | 2.6% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | センチュリーライフを設立(1985/11) |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | フォリスを設立(1988/01) |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | ハセックを設立(1989/07) |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 5,627 | n/a | 254 | 54 | 1.0% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 5,340 | ▲5.1% | 95 | 6 | 0.1% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 4,333 | ▲18.9% | 55 | 10 | 0.2% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 4,257 | ▲1.8% | ▲8 | ▲46 | ▲1.1% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- 長谷川工務店 会社年鑑
- 日経ビジネス 1975年2月3日号
- 証券アナリストジャーナル 1977年15巻9号
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻1号
- Decide 1987年5巻9号
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- 日経ビジネス 1991年11月18日号
- 日経ビジネス 1992年9月14日号