第1章 年〜年

メイテックグループホールディングス:名古屋技術センターの設立とメイテックへの商号変更

1974年〜関西精器の倒産から出た七人の設計技術者と、資本金100万円の名古屋技術センター

関口房朗氏が経営していた機器メーカーの関西精器は、1973年に創業10年目で倒産した。研究所から請け負ったサッシ用バー材の連続加工装置は開発に2年を要し、受け取った開発費2,500万円に加えて8,000万円の持ち出しが生じた。次の事業は倒産しないものに限り、製作を伴うメーカーは避けるというのが関口房朗氏の結論だった。そこへ倒産会社の設計技術者7人が独立の相談に訪れ、関口房朗氏は以前から考えていた設計受託の案を示し、当座の資金も渡した。1974年7月、一般産業機械の設計請負を主業務とする名古屋技術センターが発足。所在地は名古屋市、資本金は100万円だった。工場も原材料も持たず技術者だけを資産とする業態は、倒産の再発を避けたい関口房朗氏の条件に合っていたのだろう。

  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [1]関西精器は受託した連続加工装置の開発が2年に延び開発費2,500万円に加え8,000万円を出費、1973年に創業10年目で倒産。関口房朗氏は次は倒産しない事業をと考えメーカーを避けた
    • [2]関西精器は受託した連続加工装置の開発が2年に延び開発費2,500万円に加え8,000万円を出費、1973年に創業10年目で倒産。関口房朗氏は次は倒産しない事業をと考えメーカーを避けた
    • [3]関西精器は受託した連続加工装置の開発が2年に延び開発費2,500万円に加え8,000万円を出費、1973年に創業10年目で倒産。関口房朗氏は次は倒産しない事業をと考えメーカーを避けた
  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
    • [4]倒産会社の従業員7人が新会社設立を相談、関口房朗氏は設計受託のアイデアを示し当座の資金を渡した
  • 証券アナリストジャーナル 29(4) 1991-03
    • [5]昭和49年7月、一般産業機械の設計請負を主業務とする名古屋技術センターとして発足
  • メイテックグループホールディングス 有価証券報告書「沿革」
    • [6]1974年7月、名古屋市に資本金1百万円で株式会社名古屋技術センターを設立

名古屋技術センターは技術者を揃えたものの、創業から5〜6年は受注の綱渡りを強いられた。メーカーは設計図面からの機密の漏洩を警戒し、名の通っていない新会社へ仕事を回さなかった。創業の1974年は石油ショック後の不況期にあたり、各社の技術部門でも人員の削減が進んでいた。それでも関口房朗氏は仕事量を上回る採用を続け、技術者は1975年の25人から1977年の79人まで増えた。仕事のない技術者には自宅で待機してもらい、給料は約束どおり払い続け、資金繰りには親から分与された資産を充てている。関西精器で給料の遅配から労働争議を招いた経験が、支払いの約束を何より優先させたとみられる。

  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
    • [7]機密保持を気にするメーカーが無名の名古屋技術センターに仕事を出さず、創業の74年は石油ショック後の不況で、綱渡りが5〜6年続いた
    • [8]機密保持を気にするメーカーが無名の名古屋技術センターに仕事を出さず、創業の74年は石油ショック後の不況で、綱渡りが5〜6年続いた
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [9]オイルショック後で技術部門にも人減らし。技術者は1975年25人・1976年31人・1977年79人。仕事のない時は自宅待機で給料は支払い、親から分けた資産をつぎ込んだ。関西精器では給料遅配で労働争議
    • [10]オイルショック後で技術部門にも人減らし。技術者は1975年25人・1976年31人・1977年79人。仕事のない時は自宅待機で給料は支払い、親から分けた資産をつぎ込んだ。関西精器では給料遅配で労働争議
    • [11]オイルショック後で技術部門にも人減らし。技術者は1975年25人・1976年31人・1977年79人。仕事のない時は自宅待機で給料は支払い、親から分けた資産をつぎ込んだ。関西精器では給料遅配で労働争議
参考文献[1]-[11]
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [1]関西精器は受託した連続加工装置の開発が2年に延び開発費2,500万円に加え8,000万円を出費、1973年に創業10年目で倒産。関口房朗氏は次は倒産しない事業をと考えメーカーを避けた
    • [2]関西精器は受託した連続加工装置の開発が2年に延び開発費2,500万円に加え8,000万円を出費、1973年に創業10年目で倒産。関口房朗氏は次は倒産しない事業をと考えメーカーを避けた
    • [3]関西精器は受託した連続加工装置の開発が2年に延び開発費2,500万円に加え8,000万円を出費、1973年に創業10年目で倒産。関口房朗氏は次は倒産しない事業をと考えメーカーを避けた
    • [9]オイルショック後で技術部門にも人減らし。技術者は1975年25人・1976年31人・1977年79人。仕事のない時は自宅待機で給料は支払い、親から分けた資産をつぎ込んだ。関西精器では給料遅配で労働争議
    • [10]オイルショック後で技術部門にも人減らし。技術者は1975年25人・1976年31人・1977年79人。仕事のない時は自宅待機で給料は支払い、親から分けた資産をつぎ込んだ。関西精器では給料遅配で労働争議
    • [11]オイルショック後で技術部門にも人減らし。技術者は1975年25人・1976年31人・1977年79人。仕事のない時は自宅待機で給料は支払い、親から分けた資産をつぎ込んだ。関西精器では給料遅配で労働争議
  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
    • [4]倒産会社の従業員7人が新会社設立を相談、関口房朗氏は設計受託のアイデアを示し当座の資金を渡した
    • [7]機密保持を気にするメーカーが無名の名古屋技術センターに仕事を出さず、創業の74年は石油ショック後の不況で、綱渡りが5〜6年続いた
    • [8]機密保持を気にするメーカーが無名の名古屋技術センターに仕事を出さず、創業の74年は石油ショック後の不況で、綱渡りが5〜6年続いた
  • 証券アナリストジャーナル 29(4) 1991-03
    • [5]昭和49年7月、一般産業機械の設計請負を主業務とする名古屋技術センターとして発足
  • メイテックグループホールディングス 有価証券報告書「沿革」
    • [6]1974年7月、名古屋市に資本金1百万円で株式会社名古屋技術センターを設立

1979年〜幹部へのダイレクトメールで開いた技術者派遣と、三菱重工業の航空機設計

苦境を破ったのは、大企業の幹部に宛てたダイレクトメールと、技術者派遣への業態転換の2つだった。名古屋の出張所で飛び込み営業を重ねて門前払いに遭った関口房朗氏は、窓口の担当者ではなく発注を決める立場の人へ直接訴える手段を選んだ。設計の外注が多いと見込んだ企業について組織と責任者を調べ、複写機で刷った手書きに近い文面を送り続けた。初回は1通100円、計5万円で500通を発送し、反応は約5割に上った。派遣という契約の形であれば機密保持の懸念も小さく、大企業からの受注の獲得に結びついた。図面を社外へ出す受託と違い、技術者が客先の中で働く派遣ならメーカーは機密を社内にとどめられたのだろう。

  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
    • [12]苦境突破に役立ったのは大企業幹部へのダイレクトメール作戦と技術者派遣への転換。派遣なら機密保持の問題が少なく大企業の受注につながった
    • [16]苦境突破に役立ったのは大企業幹部へのダイレクトメール作戦と技術者派遣への転換。派遣なら機密保持の問題が少なく大企業の受注につながった
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [13]飛び込み営業の苦労から意思決定者に届くDMに絞り、発注が多いと見込む企業の責任者へコピー器の手書きに近いDMを送付。初回500通・5万円で反応約5割
    • [14]飛び込み営業の苦労から意思決定者に届くDMに絞り、発注が多いと見込む企業の責任者へコピー器の手書きに近いDMを送付。初回500通・5万円で反応約5割
    • [15]飛び込み営業の苦労から意思決定者に届くDMに絞り、発注が多いと見込む企業の責任者へコピー器の手書きに近いDMを送付。初回500通・5万円で反応約5割

受注は自転車メーカーからの発注で動き出し、航空機メーカーからの発注を機に、抱えていた技術者が一斉に稼働を始めた。三菱重工業で航空機の設計責任者だった山田隆昭氏から見たメイテックは、『猫の手も借りたいときにメイテックを利用した』という存在である。石油ショックと円高を経て技術者不足が慢性化したメーカーの設計部門へ、即戦力の設計技術者を送り込むのが典型的なサービスとなった。三菱重工業やトヨタ自動車から派遣の要請が相次ぎ、人材の不足はむしろメイテックで深刻だった。1985年、関口房朗氏は全役員の反対を押し切り、工業高校の卒業生を給与付きで1〜2年かけて育てるメカトロ研修センターを名古屋に設けた。大学卒の技術者を採れない以上、高校卒の人材を自社で育て上げる以外に技術者を確保する手はないという判断だった。

  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [17]自転車メーカーからの発注で受注に火がつき、航空機メーカーからの発注で確保した人員が稼働
  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
    • [18]三菱重工業で航空機の設計責任者だった山田隆昭氏は人手が足りないときにメイテックを利用した
  • 日経ビジネス 1989-12-18 p66-69
    • [19]自動車・航空機メーカーの設計部門へ即戦力の設計技術者を派遣するのが典型サービス。石油ショックや円高以降の慢性的技術者不足のニーズに合致
  • 日経ビジネス 1992-06-29 p78-81
    • [20]技術者不足の三菱重工業・トヨタ自動車から派遣要請が相次ぎ、メイテックはより深刻な技術者不足。1985年に全役員の反対を押し切り工業高校卒を1〜2年教育するメカトロ研修センターを名古屋に設立
    • [21]技術者不足の三菱重工業・トヨタ自動車から派遣要請が相次ぎ、メイテックはより深刻な技術者不足。1985年に全役員の反対を押し切り工業高校卒を1〜2年教育するメカトロ研修センターを名古屋に設立
    • [22]技術者不足の三菱重工業・トヨタ自動車から派遣要請が相次ぎ、メイテックはより深刻な技術者不足。1985年に全役員の反対を押し切り工業高校卒を1〜2年教育するメカトロ研修センターを名古屋に設立

関口房朗氏は1980年に名古屋技術センターの社長に就任し、設立への参画者から経営の責任者へと立場を移した。これに先立つ1979年12月には、日本機械設計(のちのジエクス)を設立している。1984年12月に社名を株式会社メイテックへ改め、1985年1月からCIの導入と合わせて新しい商号を掲げた。売上高は1974年の設立以来、右上がりの曲線を描き続けた。1987年3月には名古屋証券取引所市場第二部へ株式を上場し、設立から13年で公開企業となった。社名から名古屋の地名を外したのは、地場の設計会社から全国の製造業を相手にする技術者集団へ広がる意思の表れと推察される。

  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [23]関口房朗氏は1980年に社長就任、85年1月メイテックに社名変更、87年3月名証2部上場
    • [28]関口房朗氏は1980年に社長就任、85年1月メイテックに社名変更、87年3月名証2部上場
  • メイテックグループホールディングス 有価証券報告書「沿革」
    • [24]1979年12月日本機械設計(ジエクス)設立、1984年12月社名を株式会社メイテックに変更
    • [25]1979年12月日本機械設計(ジエクス)設立、1984年12月社名を株式会社メイテックに変更
  • 証券アナリストジャーナル 29(4) 1991-03
    • [26]昭和60年1月にCIを導入して商号を株式会社メイテックに変更、昭和62年3月に名証2部上場
  • 日経ビジネス 1989-12-18 p66-69
    • [27]売上高は1974年の設立以来常に右上がり
参考文献[12]-[28]
  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
    • [12]苦境突破に役立ったのは大企業幹部へのダイレクトメール作戦と技術者派遣への転換。派遣なら機密保持の問題が少なく大企業の受注につながった
    • [16]苦境突破に役立ったのは大企業幹部へのダイレクトメール作戦と技術者派遣への転換。派遣なら機密保持の問題が少なく大企業の受注につながった
    • [18]三菱重工業で航空機の設計責任者だった山田隆昭氏は人手が足りないときにメイテックを利用した
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」
    • [13]飛び込み営業の苦労から意思決定者に届くDMに絞り、発注が多いと見込む企業の責任者へコピー器の手書きに近いDMを送付。初回500通・5万円で反応約5割
    • [14]飛び込み営業の苦労から意思決定者に届くDMに絞り、発注が多いと見込む企業の責任者へコピー器の手書きに近いDMを送付。初回500通・5万円で反応約5割
    • [15]飛び込み営業の苦労から意思決定者に届くDMに絞り、発注が多いと見込む企業の責任者へコピー器の手書きに近いDMを送付。初回500通・5万円で反応約5割
    • [17]自転車メーカーからの発注で受注に火がつき、航空機メーカーからの発注で確保した人員が稼働
    • [23]関口房朗氏は1980年に社長就任、85年1月メイテックに社名変更、87年3月名証2部上場
    • [28]関口房朗氏は1980年に社長就任、85年1月メイテックに社名変更、87年3月名証2部上場
  • 日経ビジネス 1989-12-18 p66-69
    • [19]自動車・航空機メーカーの設計部門へ即戦力の設計技術者を派遣するのが典型サービス。石油ショックや円高以降の慢性的技術者不足のニーズに合致
    • [27]売上高は1974年の設立以来常に右上がり
  • 日経ビジネス 1992-06-29 p78-81
    • [20]技術者不足の三菱重工業・トヨタ自動車から派遣要請が相次ぎ、メイテックはより深刻な技術者不足。1985年に全役員の反対を押し切り工業高校卒を1〜2年教育するメカトロ研修センターを名古屋に設立
    • [21]技術者不足の三菱重工業・トヨタ自動車から派遣要請が相次ぎ、メイテックはより深刻な技術者不足。1985年に全役員の反対を押し切り工業高校卒を1〜2年教育するメカトロ研修センターを名古屋に設立
    • [22]技術者不足の三菱重工業・トヨタ自動車から派遣要請が相次ぎ、メイテックはより深刻な技術者不足。1985年に全役員の反対を押し切り工業高校卒を1〜2年教育するメカトロ研修センターを名古屋に設立
  • メイテックグループホールディングス 有価証券報告書「沿革」
    • [24]1979年12月日本機械設計(ジエクス)設立、1984年12月社名を株式会社メイテックに変更
    • [25]1979年12月日本機械設計(ジエクス)設立、1984年12月社名を株式会社メイテックに変更
  • 証券アナリストジャーナル 29(4) 1991-03
    • [26]昭和60年1月にCIを導入して商号を株式会社メイテックに変更、昭和62年3月に名証2部上場

出典・参考

6件
出典・参考
  • メイテックグループホールディングス 有価証券報告書「沿革」
  • 日経ビジネス 1989-12-18 p66-69
  • 証券アナリストジャーナル 29(4) 1991-03
  • 日経ビジネス 1992-06-29 p78-81
  • 日経ビジネス 1995-10-16 p72-74
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「倒産の挫折で学んだ「嘘で逃げない経営」」

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