第1章 年〜年

帝国ホテル:渋沢栄一・大倉喜八郎による帝国ホテルの開業

1887年〜外務大臣井上馨氏の求めと、内山下町に建った有限責任帝国ホテル会社の客館

1887年初め、外務大臣の井上馨氏は『本邦ノ首府ニシテ外来賓客ノ需ニ応スヘキ壮大ノ客館ナキハ国際上缺典ナリ』との意見を持ち、のちに株主となる財界人へ客館の建設を諮った。政府は条約改正を有利に運ぶため1884、85年ごろから欧化政策をとり、鹿鳴館に外国の賓客を招いていた。ところが外国人向けの宿は築地明石町のメトロポールなど数軒しかなく、賓客を迎えるたびに宿泊所の確保が課題となった。井上馨氏の狙いは、外交の用務で来日した外国人の生命と財産を守る設備を備えた一大ホテルの建設。説得の相手は、大蔵省時代に井上馨氏の部下だった渋沢栄一氏と、政商の大倉喜八郎氏の2人である。国家の体面にかかわる設備を官営にせず、民間の資本に担わせる考えだったとみられる。

  • 帝国ホテル百年史 1890-1990(帝国ホテル、1990年)コマ39-54
    • [1]1887年初め外務大臣井上馨が首都に壮大な客館が無いのは国際上の欠典との意見で株主らに建設を諮った。来遊外人の生命財産を安全にする一大ホテルの建設を必要とし渋沢栄一・大倉喜八郎を説いた。渋沢は大蔵省で井上の部下、大倉は政商
    • [4]1887年初め外務大臣井上馨が首都に壮大な客館が無いのは国際上の欠典との意見で株主らに建設を諮った。来遊外人の生命財産を安全にする一大ホテルの建設を必要とし渋沢栄一・大倉喜八郎を説いた。渋沢は大蔵省で井上の部下、大倉は政商
    • [5]1887年初め外務大臣井上馨が首都に壮大な客館が無いのは国際上の欠典との意見で株主らに建設を諮った。来遊外人の生命財産を安全にする一大ホテルの建設を必要とし渋沢栄一・大倉喜八郎を説いた。渋沢は大蔵省で井上の部下、大倉は政商
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [2]明治17、8年ごろ政府は条約改正のため欧化政策をとり鹿鳴館時代が現出。外人の宿泊設備は築地明石町のメトロポールほか僅かで、政府は賓客を迎えるたびに宿泊所に困った
    • [3]明治17、8年ごろ政府は条約改正のため欧化政策をとり鹿鳴館時代が現出。外人の宿泊設備は築地明石町のメトロポールほか僅かで、政府は賓客を迎えるたびに宿泊所に困った

発起人たちは日本橋坂本町の東京銀行集会所で協議を重ね、発起人総代に渋沢栄一氏と大倉喜八郎氏の2人を選んで創立の事務を委ねた。1887年11月28日、両氏は連署で有限責任東京ホテル会社の「会社創立御願」を東京府知事あてに提出した。株金は総額26万円、1株5,000円とする組み立て。宮内省も10株5万円を引き受け、敷地と持株の斡旋には井上馨氏が動いた。1890年7月の臨時株主総会では、日比谷に同名のホテルがあったため社名を有限責任帝国ホテル会社に改め、1株の金額を1,000円に下げた。同じ月に株金の払い込みを終え、資本金26万円の会社が整っている。株主21人のうち宮内省の持分が2割強を占め、民間の会社に国策の性格が重なったのだろう。

  • 帝国ホテル百年史 1890-1990(帝国ホテル、1990年)コマ39-54
    • [6]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [7]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [8]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [9]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [10]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [11]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
  • 会社銀行八十年史(1955年)日本会社史 ホテル・観光「帝国ホテル」
    • [12]1887年(明治20年)渋沢栄一・大倉喜八郎らの発起で資本金26万円の有限責任帝国ホテル会社として設立
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
    • [13]明治維新後に来朝外国人が増えたが宿泊施設が無く、渋沢栄一・大倉喜八郎の発起で設立。1890年7月、資本金26万円で創立

建設地は鹿鳴館に隣る官有地、麹町区内山下町1丁目1番地の旧阿部屋敷跡で、1887年8月に外務省の所轄となった直後に会社が借用を願い出た。ドイツ人建築家による煉化石造4層の当初案は、地盤が砂地で見込みが立たず、見直しを迫られた。1888年9月、発起人は設計と監理を工学士の渡辺譲氏に委嘱し、10月に工事を再開した。渡辺譲氏は最上階を除いて3層とし、煉化石に木材を交えて建物の重量を軽くしている。地震による災害の防止と経費の節減の両立を狙った設計変更とみることができる。建物は1890年11月に落成し、工費約23万円・客室70の木骨煉瓦造3階建てのホテルとして開業した。

  • 帝国ホテル百年史 1890-1990(帝国ホテル、1990年)コマ39-54
    • [14]建設地は鹿鳴館隣の麹町区内山下町一丁目一番地の旧阿部屋敷跡。1887年8月2日に外務省へ地券授与、直後に会社が拝借地所として使用を願い出た
    • [15]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
    • [16]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
    • [17]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
    • [18]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [19]工費約23万円、室数70、3階建ての建物が1890年11月に落成・開業
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
    • [20]1890年、木骨煉瓦造り3階建てのホテルが落成開業
参考文献[1]-[20]
  • 帝国ホテル百年史 1890-1990(帝国ホテル、1990年)コマ39-54
    • [1]1887年初め外務大臣井上馨が首都に壮大な客館が無いのは国際上の欠典との意見で株主らに建設を諮った。来遊外人の生命財産を安全にする一大ホテルの建設を必要とし渋沢栄一・大倉喜八郎を説いた。渋沢は大蔵省で井上の部下、大倉は政商
    • [4]1887年初め外務大臣井上馨が首都に壮大な客館が無いのは国際上の欠典との意見で株主らに建設を諮った。来遊外人の生命財産を安全にする一大ホテルの建設を必要とし渋沢栄一・大倉喜八郎を説いた。渋沢は大蔵省で井上の部下、大倉は政商
    • [5]1887年初め外務大臣井上馨が首都に壮大な客館が無いのは国際上の欠典との意見で株主らに建設を諮った。来遊外人の生命財産を安全にする一大ホテルの建設を必要とし渋沢栄一・大倉喜八郎を説いた。渋沢は大蔵省で井上の部下、大倉は政商
    • [6]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [7]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [8]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [9]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [10]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [11]発起人は東京銀行集会所で協議し、総代に渋沢栄一・大倉喜八郎を選任。1887年11月28日に両名連署で有限責任東京ホテル会社の会社創立御願を提出。株金26万円・1株5000円。宮内省が10株5万円を所有、井上が敷地と持株を斡旋。1890年7月7日の臨時総会で有限責任帝国ホテル会社へ改称し1株1000円に。同月全額払込み。株主21人で宮内省分は20%強
    • [14]建設地は鹿鳴館隣の麹町区内山下町一丁目一番地の旧阿部屋敷跡。1887年8月2日に外務省へ地券授与、直後に会社が拝借地所として使用を願い出た
    • [15]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
    • [16]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
    • [17]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
    • [18]1888年9月、ドイツ人建築家に代えて渡辺譲に設計監理を委嘱し10月再着工。地盤不良と地震を理由に最上階を除き3層、煉化石に木材を交え、重量を軽くして震災を防ぎ経費を節減。日本土木会社が請負い1890年11月落成、総工費23万円
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [2]明治17、8年ごろ政府は条約改正のため欧化政策をとり鹿鳴館時代が現出。外人の宿泊設備は築地明石町のメトロポールほか僅かで、政府は賓客を迎えるたびに宿泊所に困った
    • [3]明治17、8年ごろ政府は条約改正のため欧化政策をとり鹿鳴館時代が現出。外人の宿泊設備は築地明石町のメトロポールほか僅かで、政府は賓客を迎えるたびに宿泊所に困った
    • [19]工費約23万円、室数70、3階建ての建物が1890年11月に落成・開業
  • 会社銀行八十年史(1955年)日本会社史 ホテル・観光「帝国ホテル」
    • [12]1887年(明治20年)渋沢栄一・大倉喜八郎らの発起で資本金26万円の有限責任帝国ホテル会社として設立
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
    • [13]明治維新後に来朝外国人が増えたが宿泊施設が無く、渋沢栄一・大倉喜八郎の発起で設立。1890年7月、資本金26万円で創立
    • [20]1890年、木骨煉瓦造り3階建てのホテルが落成開業

1891年〜メトロポールホテル合併で120万円となった資本金と、フランク・ロイド・ライト氏に託した新館

1907年1月、帝国ホテルは株式会社メトロポールホテルを合併し、資本金120万円の株式会社へ組織を改めた。前年の1906年11月には資本金を40万円に増やし、延べ460坪・40室の別館を完成させていた。それでも大正期に入ると建物と設備の旧式化が進み、改築を求める声が強まった。新館はフランク・ロイド・ライト氏の設計で1917年12月に着工したものの、料理場の形と設備を決められる人が社内にいなかった。そこで常務兼支配人の林愛作氏が、ニューヨークで修業中の犬丸徹三氏に招きの手紙を送っている。犬丸徹三氏は1919年1月に帰国し、社長の大倉喜八郎氏から副支配人の辞令を受けて、最初に料理場の設計を担った。

  • 会社銀行八十年史(1955年)日本会社史 ホテル・観光「帝国ホテル」
    • [21]1906年11月資本金40万円に増資、1907年1月株式会社メトロポールホテルを合併し資本金120万円の株式組織に変更
    • [23]1906年11月資本金40万円に増資、1907年1月株式会社メトロポールホテルを合併し資本金120万円の株式組織に変更
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [22]1906年に延べ460坪40室の別館完成、メトロポールホテルを合併して株式会社に。建物設備が旧式化し大正期に改築論。起工段階で料理場の形と設備を知る者がいなかった
    • [24]1906年に延べ460坪40室の別館完成、メトロポールホテルを合併して株式会社に。建物設備が旧式化し大正期に改築論。起工段階で料理場の形と設備を知る者がいなかった
    • [25]1906年に延べ460坪40室の別館完成、メトロポールホテルを合併して株式会社に。建物設備が旧式化し大正期に改築論。起工段階で料理場の形と設備を知る者がいなかった
    • [26]ニューヨーク滞在中に常務兼支配人林愛作から招きの手紙。1919年1月13日横浜着、社長大倉喜八郎から副支配人の辞令、1月20日出勤。最初の仕事は料理場の設計。新館はライト設計で1917年12月着工、料理場だけ空白
    • [27]ニューヨーク滞在中に常務兼支配人林愛作から招きの手紙。1919年1月13日横浜着、社長大倉喜八郎から副支配人の辞令、1月20日出勤。最初の仕事は料理場の設計。新館はライト設計で1917年12月着工、料理場だけ空白

1919年6月、帝国ホテルは資本金を120万円から300万円に増やし、新館の建設資金に充てた。第一次世界大戦を経て日本が列強の一角に数えられると来朝者が急増し、収容力と設備の改善が欠かせなくなっていた。宮内省と大蔵省の支援の下、新館はフランク・ロイド・ライト氏の設計で建設が進んだ。しかしフランク・ロイド・ライト氏の理想主義が工事予定を大きく狂わせ、資金繰りの悪化を招いた。社長の大倉喜八郎氏ら経営陣が踏み切った倍額増資により、1922年6月には資本金600万円。なお不足する工事費には、第一銀行と三十四銀行の両取引銀行から各70万円の融資を受けて充当した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)日本会社史 ホテル・観光「帝国ホテル」
    • [28]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
    • [30]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
    • [31]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
    • [34]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [29]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [33]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [35]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [36]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
    • [32]宮内省・大蔵省などの支援でフランク・ロイド・ライト設計の新館建設を開始、1919年に資本金300万円

1922年4月16日、帝国ホテルの旧館が出火し、全焼した。家具職人が禁を破って吸ったたばこの火がカボック綿に燃え移り、来日中の英国皇太子の随員も館内に泊まっていた。新館が未完成だったため、ホテルは宿泊客を別館に移して営業を続けた。同じ年、ライト式の新館は一部が完成して開業している。焼けた預け荷物に3万8,000円の弁償を求める訴訟も起こされ、副支配人の犬丸徹三氏は日本ホテル協会の調査委員として損害賠償の扱いを調べた。工事の遅れと予算超過の責任を取り、林愛作氏は支配人を辞任した。旧館と現場の責任者を同時に失い、新館の完成と経営の立て直しが犬丸徹三氏の世代に託されたと推察される。

  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [37]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [38]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [39]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [41]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [42]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
    • [40]1922年に本館が焼失、同年ライト式新館の一部が完成し開業
参考文献[21]-[42]
  • 会社銀行八十年史(1955年)日本会社史 ホテル・観光「帝国ホテル」
    • [21]1906年11月資本金40万円に増資、1907年1月株式会社メトロポールホテルを合併し資本金120万円の株式組織に変更
    • [23]1906年11月資本金40万円に増資、1907年1月株式会社メトロポールホテルを合併し資本金120万円の株式組織に変更
    • [28]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
    • [30]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
    • [31]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
    • [34]来朝者の急増で収容・設備改善が迫られ、宮内・大蔵両省支援のもと米国人ライトの設計で本館を建設。資本金は1919年6月300万円、1922年6月600万円
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)
    • [22]1906年に延べ460坪40室の別館完成、メトロポールホテルを合併して株式会社に。建物設備が旧式化し大正期に改築論。起工段階で料理場の形と設備を知る者がいなかった
    • [24]1906年に延べ460坪40室の別館完成、メトロポールホテルを合併して株式会社に。建物設備が旧式化し大正期に改築論。起工段階で料理場の形と設備を知る者がいなかった
    • [25]1906年に延べ460坪40室の別館完成、メトロポールホテルを合併して株式会社に。建物設備が旧式化し大正期に改築論。起工段階で料理場の形と設備を知る者がいなかった
    • [26]ニューヨーク滞在中に常務兼支配人林愛作から招きの手紙。1919年1月13日横浜着、社長大倉喜八郎から副支配人の辞令、1月20日出勤。最初の仕事は料理場の設計。新館はライト設計で1917年12月着工、料理場だけ空白
    • [27]ニューヨーク滞在中に常務兼支配人林愛作から招きの手紙。1919年1月13日横浜着、社長大倉喜八郎から副支配人の辞令、1月20日出勤。最初の仕事は料理場の設計。新館はライト設計で1917年12月着工、料理場だけ空白
    • [29]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [33]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [35]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [36]120万円を300万円に増資しライトを招いて新館工事。ライトの理想主義で工事予定が狂い資金窮迫、大倉社長以下が倍額増資、第一・三十四の両取引銀行から各70万円の融資
    • [37]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [38]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [39]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [41]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
    • [42]1922年4月16日旧館全焼。家具職人の喫煙がカボック綿に引火、英国皇太子来日中で随員が宿泊。新館未完成のため別館で営業継続。預け荷物の焼失に3万8000円の賠償訴訟、日本ホテル協会の調査委員に犬丸。林愛作は工事遅延と予算超過の責任を取り支配人を辞任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
    • [32]宮内省・大蔵省などの支援でフランク・ロイド・ライト設計の新館建設を開始、1919年に資本金300万円
    • [40]1922年に本館が焼失、同年ライト式新館の一部が完成し開業

出典・参考

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出典・参考
  • 帝国ホテル百年史 1890-1990(帝国ホテル、1990年)コマ39-54
  • 会社銀行八十年史(1955年)日本会社史 ホテル・観光「帝国ホテル」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「帝国ホテル」
  • 私の履歴書 経済人4「犬丸徹三」(日本経済新聞社、1980年)

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