アインホールディングス:第一薬局の開局と臨床検査から調剤への主力交代
オータニ吸収合併の物販から臨床検査の営業譲渡へ
1989年〜オータニ吸収合併で入った物販と大型薬店の多店舗展開
1989年5月、第一臨床検査センターはオータニを吸収合併し、ドラッグストアの事業を承継した。同時に診断とリテールの事業部制を採り、検査と小売を並べて置く体制へ変えている。北海道ジャフコから受け入れた資金は、この物販部門の強化に充てられた。承継した店は「オータニドラッグ」の名で大型薬店の多店舗展開に入り、検査で作った北海道全域の網の上へ小売の店が重なっていった。検査は病院から受託する事業で、薬店は個人客に売る事業であり、客も商流も重ならない。それでも薬剤師を抱えて医薬品を扱う点では、5坪の薬店から出発した大谷氏の原点に近い事業だった。
- 有価証券報告書 沿革
- [1]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継した
- [2]オータニ吸収合併にあわせて診断とリテールの事業部制を採用した
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [3]北海道ジャフコから調達した資金を物販部門の強化に投じた
- [4]1989年に薬店事業を合併し、「オータニドラッグ」として大型薬店の多店舗展開に乗り出した
- [5]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、臨床検査に入る前に札幌で5坪の薬店を開いていた
物販が伸びた背景には、大規模小売店舗法の規制緩和があった。規制が緩んだことで新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増え、第一臨床検査センターはそこへキーテナントとして入った。自前で商圏を開くのではなく、開発する側が用意した集客の上へ店を載せる形であり、出店の速度は土地の取得ではなく交渉の速度で決まる。1990年代に入ると大型薬店を中心とする大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店も始めた。扱う商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がり、薬店の枠を越えていった。家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けている。
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [6]大店法の規制緩和により、新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増えた
- [7]近隣型ショッピングセンターへキーテナントとして出店し、成果を上げていた
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [8]1990年代に入り、大型薬店を中心とした大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店を始めた
- [9]大型ディスカウントストアで販売する商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がった
- [10]家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けることになった
小売へ大きく乗り出したきっかけは、身近な成功例だった。食品ディスカウンターのカウボーイを率いる中野晃氏は大谷氏の遠い親戚にあたり、その成長を目の当たりにしたことが動機になった。大型ディスカウントストアの展開ではカウボーイと組み、苫小牧や新潟へ出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上へ大型化していった。急拡大した会社の社員は250人、平均年齢は28歳と若く、小売の経験は社内に蓄積されていなかった。そこで取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採った。検査の会社が小売の人材を外から入れたのは、内部で育てる時間より出店の速度を優先したためだろう。
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [11]小売りに大きく乗り出したきっかけはカウボーイの成功を目の当たりにしたことだった
- [12]食品ディスカウンター・カウボーイの中野晃社長と大谷喜一は遠い親戚で、昔からよく知る間柄だった
- [13]大型ディスカウントストアではカウボーイと組んで苫小牧や新潟に出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上と大型化していた
- [14]急速に拡大したため、250人いる社員の平均年齢は28歳と若かった
- [15]小売りのノウハウを得るため取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採用した
参考文献[1]-[15]
- 有価証券報告書 沿革
- [1]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継した
- [2]オータニ吸収合併にあわせて診断とリテールの事業部制を採用した
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [3]北海道ジャフコから調達した資金を物販部門の強化に投じた
- [4]1989年に薬店事業を合併し、「オータニドラッグ」として大型薬店の多店舗展開に乗り出した
- [5]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、臨床検査に入る前に札幌で5坪の薬店を開いていた
- [8]1990年代に入り、大型薬店を中心とした大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店を始めた
- [9]大型ディスカウントストアで販売する商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がった
- [10]家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けることになった
- [11]小売りに大きく乗り出したきっかけはカウボーイの成功を目の当たりにしたことだった
- [12]食品ディスカウンター・カウボーイの中野晃社長と大谷喜一は遠い親戚で、昔からよく知る間柄だった
- [13]大型ディスカウントストアではカウボーイと組んで苫小牧や新潟に出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上と大型化していた
- [14]急速に拡大したため、250人いる社員の平均年齢は28歳と若かった
- [15]小売りのノウハウを得るため取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採用した
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [6]大店法の規制緩和により、新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増えた
- [7]近隣型ショッピングセンターへキーテナントとして出店し、成果を上げていた
1993年〜セリオ野幌の逆向きの門前と売上構成の逆転
1993年6月、札幌市の郊外にあたる野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した。門前薬局は、医師が診療所を開く段になって薬店に声がかかり生まれるのが普通だが、ここでは薬店の出店が先に決まっていた。借り切った建物の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、売場の一角をガラスで区切って調剤薬局を設けた。上の2階に入る小児科と歯科については、大学病院に籍を置いたまま独立を検討する医師を第一臨床検査センターが自分で見つけてきた。処方箋を手にした患者が2階から1階へ下りる流れは開業前から設計の前提となっており、診療所を後から呼び込むこの逆の順序によって、診療所の開設が自社に客を集める仕掛けとして働いた。
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [16]1993年6月、北海道札幌市郊外の野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した
- [17]通常は医師が診療所を開く際に薬店へ声を掛ける門前薬局が多いが、セリオ野幌ではまず薬店の出店が先に決まっていた
- [18]セリオ野幌の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、店舗の一角をガラスで区切った調剤薬局が置かれた
- [19]第一臨床検査センターが借り切った建物の2階部分に小児科と歯科を誘致し、大学病院で開業を考えていた医師を探してきた
- [20]2階の小児科を出た患者が処方箋を手に1階の薬店へ入り、調剤薬局で薬を調合してもらう動線になっていた
この出店には三つの資源が要った。強みとして挙がるのは、開業医を探し当てる人脈、調剤薬局を運営してきた経験、家庭雑貨まで扱う小売の知見であり、このうち人脈は、検査部門の営業担当が北海道内の病院をくまなく訪ねるなかで培ったものだった。三つが組み合わさると、診療所の開業を後押しして検査を受注し、そこで発行される処方箋を自社の調剤薬局に取り込み、通院客で薬店の売上も増やすという流れが生まれる。こうした出店の方法は他社にはまねのできないものだと、大谷氏は述べている『一見簡単に見えるが、これはうちにしかできない出店方法だ』。当時の急速な伸びは、検査・薬局・物販の三つを一体として動かした結果だった。
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [21]セリオ野幌型の出店には、医師を探すネットワーク、調剤薬局のキャリア、薬店で家庭雑貨などを扱う小売の三つのノウハウが必要だった
- [22]三つの事業が一体となる相乗効果は大きいと位置づけられていた
- [24]診療所開設を助けることで臨床検査を受託でき、調剤薬局は診療所からの処方箋を獲得でき、患者の出入りで薬店の物販も伸びた
- [25]大谷喜一は、セリオ野幌型の出店を自社にしかできない出店方法だとしていた
- [26]「検査」「薬局」「物販」の三つの事業を一体で手がけることで急速に成長した
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [23]診断事業部門の営業担当が病院を回り、医療機関の動きをつかむ体制を持っていた
業績は小売の拡大とともに跳ねた。1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった。翌1994年4月期は71億9300万円と前年から36%増え、経常利益は4億500万円へ拡大している。医薬品などの物販が54%、臨床検査が41%というのが1994年4月期の売上構成で、この3年間に両者の比重は逆転した。検査の売上が縮んだわけではない。物販の伸びが検査を上回る速さだったため、創業事業の比率が半分を下回ったのである。費用面では固定費を低く抑えていた。大谷氏は、上場企業のなかで一番安いと銀行から指摘された『公開会社で日本一安いと銀行に言われる』ことがあると、自身の報酬について語っていた。
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [27]物販の拡大によって急成長を遂げた
- [28]1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった
- [29]1994年4月期の売上高は71億9300万円で前年比36%増、経常利益は4億500万円だった
- [30]1994年4月期の売上高のうち臨床検査は41%、医薬品などの物販は54%で、売上構成は3年間で逆転した
- [31]固定費の低さが競争力に直結しており、大谷喜一は自らの報酬を公開会社で日本一安いと銀行に言われると語っていた
参考文献[16]-[31]
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [16]1993年6月、北海道札幌市郊外の野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した
- [17]通常は医師が診療所を開く際に薬店へ声を掛ける門前薬局が多いが、セリオ野幌ではまず薬店の出店が先に決まっていた
- [18]セリオ野幌の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、店舗の一角をガラスで区切った調剤薬局が置かれた
- [19]第一臨床検査センターが借り切った建物の2階部分に小児科と歯科を誘致し、大学病院で開業を考えていた医師を探してきた
- [20]2階の小児科を出た患者が処方箋を手に1階の薬店へ入り、調剤薬局で薬を調合してもらう動線になっていた
- [21]セリオ野幌型の出店には、医師を探すネットワーク、調剤薬局のキャリア、薬店で家庭雑貨などを扱う小売の三つのノウハウが必要だった
- [22]三つの事業が一体となる相乗効果は大きいと位置づけられていた
- [24]診療所開設を助けることで臨床検査を受託でき、調剤薬局は診療所からの処方箋を獲得でき、患者の出入りで薬店の物販も伸びた
- [25]大谷喜一は、セリオ野幌型の出店を自社にしかできない出店方法だとしていた
- [26]「検査」「薬局」「物販」の三つの事業を一体で手がけることで急速に成長した
- [27]物販の拡大によって急成長を遂げた
- [28]1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった
- [29]1994年4月期の売上高は71億9300万円で前年比36%増、経常利益は4億500万円だった
- [30]1994年4月期の売上高のうち臨床検査は41%、医薬品などの物販は54%で、売上構成は3年間で逆転した
- [31]固定費の低さが競争力に直結しており、大谷喜一は自らの報酬を公開会社で日本一安いと銀行に言われると語っていた
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [23]診断事業部門の営業担当が病院を回り、医療機関の動きをつかむ体制を持っていた
1993年〜調剤薬局への主力移動と創業事業の営業譲渡
1993年5月、旭川市に「第一薬局」を開局し、調剤薬局の事業へ参入した。翌1994年3月には日本証券業協会に株式を店頭登録している。大谷氏が調剤へ傾いた理由は利益の構造にあった。調剤薬局の粗利益率は45%程度で、しかも代金の請求先は国であるため、臨床検査のような値引き競争が起こらない。収益のほとんどが技術料で構成されており、保険点数の改定には晒されるが、取引先ごとの価格交渉からは解放される。欧米で定着していた医薬分業が、日本でも医療行政の改革によって進み始めていた。
- 有価証券報告書 沿革
- [32]1993年5月、北海道旭川市に「第一薬局」を開局し薬局事業に参入した
- [33]1994年3月18日、日本証券業協会に株式を店頭登録した
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [34]医薬分業の進展による将来性が大きいとして、調剤薬局の分野に最も注力していた
- [35]調剤薬局の粗利益率は45%程度で、国に請求するためダンピングの必要が全くなかった
- [36]調剤薬局の収益はほぼ技術料であり、収益面から拡充すべき分野と位置づけられていた
- [37]欧米では100%の分業体制だが、日本では薬価差による利益があったため病院が自ら調剤しており、医療行政の改革で分業体制が推進され始めた
調剤薬局の出店では、場所の確保が競争そのものだった。第一臨床検査センターは、どの病院が院外処方へ切り替えるかを診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、その近隣の場所を直ちに押さえる体制を取った。臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方へ切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になる。検査の6倍を超える売上が同じ病院から生まれる計算であり、検査の営業網は調剤の出店網として二度使えた。先に押さえられた場所へ後から出ても採算は合わず、一番乗りすることが肝心で、それは資金力の競争になる。北海道内には当時、手強い競争相手がいなかった。
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [38]調剤薬局の出店では場所の確保が先行投資であり、資金力がものを言った
- [39]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、近隣の場所を直ちに確保する体制を取っていた
- [40]臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方に切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になるとみていた
- [41]先手を打たれた場所へ後から出ても採算は合わないため、一番乗りすることが肝心だとしていた
- [42]北海道内には当時、調剤薬局の出店で手強い競争相手がいなかった
主力の交代は数年で起きた。1994年5月に薬局の名称を「アイン薬局」へ統一し、翌1995年5月には薬局事業を物販事業部から分離して医薬事業部を新設している。1994年6月には三井物産と組み、80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して、東京周辺での調剤薬局の展開に乗り出した。道内に閉じていた会社が本州へ出るにあたり、資本と商流を大手商社から借りた形である。大谷氏は店頭公開の時点で、調剤薬局の売上高が臨床検査を追い抜くまで5年を越すことはないとみていた『5年を越すことはあるまい』。実際には1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーへ営業譲渡し、翌11月に商号をアインファーマシーズへ改めた。追い抜かれる前に、追い抜かれる側を手放した。
- 有価証券報告書 沿革
- [43]1994年5月、薬局の名称を「アイン薬局」に統一した
- [44]1995年5月、薬局事業を物販事業部から分離し医薬事業部を新設した
- [48]1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーに営業譲渡し、同年11月にアインファーマシーズへ商号を変更した
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [45]1994年6月、三井物産と提携し80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して東京周辺で調剤薬局の展開に乗り出した
- [46]関東での調剤薬局展開には基盤となる臨床検査事業が必要なため、東京の臨床検査所との提携も検討していた
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [47]大谷喜一は、調剤薬局の売上高が臨床検査の売上高を追い抜く時期について5年を越すことはないとみていた
参考文献[32]-[48]
- 有価証券報告書 沿革
- [32]1993年5月、北海道旭川市に「第一薬局」を開局し薬局事業に参入した
- [33]1994年3月18日、日本証券業協会に株式を店頭登録した
- [43]1994年5月、薬局の名称を「アイン薬局」に統一した
- [44]1995年5月、薬局事業を物販事業部から分離し医薬事業部を新設した
- [48]1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーに営業譲渡し、同年11月にアインファーマシーズへ商号を変更した
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
- [34]医薬分業の進展による将来性が大きいとして、調剤薬局の分野に最も注力していた
- [35]調剤薬局の粗利益率は45%程度で、国に請求するためダンピングの必要が全くなかった
- [36]調剤薬局の収益はほぼ技術料であり、収益面から拡充すべき分野と位置づけられていた
- [37]欧米では100%の分業体制だが、日本では薬価差による利益があったため病院が自ら調剤しており、医療行政の改革で分業体制が推進され始めた
- [38]調剤薬局の出店では場所の確保が先行投資であり、資金力がものを言った
- [39]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、近隣の場所を直ちに確保する体制を取っていた
- [40]臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方に切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になるとみていた
- [41]先手を打たれた場所へ後から出ても採算は合わないため、一番乗りすることが肝心だとしていた
- [42]北海道内には当時、調剤薬局の出店で手強い競争相手がいなかった
- [47]大谷喜一は、調剤薬局の売上高が臨床検査の売上高を追い抜く時期について5年を越すことはないとみていた
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [45]1994年6月、三井物産と提携し80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して東京周辺で調剤薬局の展開に乗り出した
- [46]関東での調剤薬局展開には基盤となる臨床検査事業が必要なため、東京の臨床検査所との提携も検討していた
筆者考察
病院を回る営業は、検査を売る経路であると同時に、その病院がいつ院外処方へ切り替えるかを最初に知る経路でもある。第一臨床検査センターが調剤薬局で先行できた理由はここにある。月300万円の検査を受託している病院が院外処方に踏み切れば、その近くの調剤薬局には月2000万円の売上が立つ。同じ相手から6倍を超える売上が生まれる以上、大谷喜一氏は検査のために作った営業網を、調剤の出店網としてもう一度使った。場所の確保は一番乗りが決め、後から出た薬局には採算が残らない。切り替えの時期を誰より早く知る会社が、誰より早く土地を押さえられる。1993年6月のセリオ野幌で、薬店の出店を先に決めてから医師を誘致したのも、同じ順序の反転である。
創業事業を手放す判断は、追い抜かれる前に下されている。大谷喜一氏は1994年3月の株式公開の時点で、調剤薬局の売上高が臨床検査を追い抜くまで5年もかからないと見ていた。調剤の粗利益率は45%で、代金の請求先は国であり、臨床検査のような値引き競争が起こらない。同じ医療機関を相手にしながら、一方は価格を削り合い、他方は技術料を受け取る。1994年4月期に臨床検査41%・物販54%と売上構成が入れ替わった時点で、検査はすでに会社の主力ではなくなっていた。1998年10月に臨床検査事業の全部を営業譲渡し、翌月アインファーマシーズへ商号を改めたのは、収益の順位が確定したあとの整理である。
- 1993年4月期の52億9300万円は5年間で7.2倍の水準。1994年4月期は前年比36%増。
- 出所は日経ビジネス 1994年10月17日号。
出典・参考
3件
- 有価証券報告書 沿革
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演