第1章 年〜年

アインホールディングス:第一臨床検査センターの設立と受託臨床検査への後発参入

旭川市医師会の空白から北海道全域への営業網拡大

1969年〜5坪の薬店から旭川の受託臨床検査への転身

第一臨床検査センターは1969年8月、医師が診断を下す際の補助となる受託臨床検査を目的として、札幌市北区に資本金130万円で設立された。創業したのは大谷喜一氏の叔父であり、大谷氏自身が事業へ加わるのは10年以上あとになる。大谷氏は薬学部を出た薬剤師で、卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開いたばかりだった。その店を開いてまだ1年しか経たない1981年、30歳のときに叔父の勧めで旭川の臨床検査業へ乗り出し、同年11月には旭川市の第一臨床検査センターへ資本参加している。薬の小売から医療機関を相手にする受託業へ移ったことで、以後の取引先は個人の客ではなく病院と医師になった。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [1]1969年8月、受託臨床検査を目的として札幌市北区に資本金130万円で第一臨床検査センターが設立された
    • [5]1981年11月、北海道旭川市の第一臨床検査センターに資本参加した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [2]第一臨床検査センターの実質的な創業者は大谷喜一であり、会社そのものは叔父が創業していた
    • [3]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、大学卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開業していた
    • [4]大谷喜一が臨床検査を始めたのは1981年、30歳のときで、叔父の勧めで旭川の臨床検査業に乗り出した

旭川で待っていたのは、既に固まった取引関係だった。市内には旭川市医師会が直営する検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた。検査を受託できるかどうかは病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかで決まり、関係の出来ている先へ後から入る余地は乏しい。大谷氏は医師会の力が及びにくい郊外の小規模病院を1軒ずつ回り、受託を少しずつ積み上げた。当時の受託検査業は全国に約800の検査センターがひしめき、その大半は家内工業の域を出ず、従業員100人以上の事業者は10社から15社にとどまっていた。小さな事業者が各地に散在する構造は、後発が足を掛ける隙間を残していた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [6]臨床検査業界には参入の壁があり、旭川では既存の取引関係が固まっていた
    • [7]旭川には医師会直営の検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた
    • [8]臨床検査獲得の要点は病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかにあり、それができて初めて検査を回してもらえた
    • [9]旭川では医師会の力が弱い郊外の小規模病院を1軒1軒回り、仕事を少しずつ増やしていった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [10]全国に約800ある臨床検査センターのほとんどが家内工業的な会社で、従業員数100人以上は10〜15社程度だった

関係の次に効いたのは検査料の安さだった。病院が受け取る診療報酬は保険点数で定まっており、そこから外部へ払う受託検査料を引いた差額が病院の手元に残る。外注先を選ぶ基準は価格へ収斂し、受託側は大量の検体を集めて1件あたりの処理費用をどこまで下げられるかで競うことになった。大谷氏は後年、自社が毎日1万体ほどを処理するのに対し、病院の検査室は大きいところでも100から200検体にとどまり、費用効率が全く見合わないと述べている。量を確保できた者だけが価格を下げられ、価格を下げた者だけが量を集められる構造であり、参入の順番よりも処理量の順番が効いた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [11]検査を病院から受託するうえでものを言うのは検査料の安さだった
    • [12]診療報酬の保険点数と実際の受託検査料の差額が病院の利益になる
    • [13]大量の検査を集めていかにコストを引き下げるかが競争の要点だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [14]第一臨床検査センターは毎日1万体程度を処理していたのに対し、病院は大きいところでも100〜200検体で、コストパフォーマンスが見合わなかった
参考文献[1]-[14]
  • 有価証券報告書 沿革
    • [1]1969年8月、受託臨床検査を目的として札幌市北区に資本金130万円で第一臨床検査センターが設立された
    • [5]1981年11月、北海道旭川市の第一臨床検査センターに資本参加した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [2]第一臨床検査センターの実質的な創業者は大谷喜一であり、会社そのものは叔父が創業していた
    • [3]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、大学卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開業していた
    • [4]大谷喜一が臨床検査を始めたのは1981年、30歳のときで、叔父の勧めで旭川の臨床検査業に乗り出した
    • [6]臨床検査業界には参入の壁があり、旭川では既存の取引関係が固まっていた
    • [7]旭川には医師会直営の検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた
    • [8]臨床検査獲得の要点は病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかにあり、それができて初めて検査を回してもらえた
    • [9]旭川では医師会の力が弱い郊外の小規模病院を1軒1軒回り、仕事を少しずつ増やしていった
    • [11]検査を病院から受託するうえでものを言うのは検査料の安さだった
    • [12]診療報酬の保険点数と実際の受託検査料の差額が病院の利益になる
    • [13]大量の検査を集めていかにコストを引き下げるかが競争の要点だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [10]全国に約800ある臨床検査センターのほとんどが家内工業的な会社で、従業員数100人以上は10〜15社程度だった
    • [14]第一臨床検査センターは毎日1万体程度を処理していたのに対し、病院は大きいところでも100〜200検体で、コストパフォーマンスが見合わなかった

1983年〜札幌の事業を肩代わりして拡大した北海道全域の営業網

1983年、叔父が札幌で経営していた第一臨床検査センターが経営不振に陥った。大谷氏はこれを機に札幌の事業を肩代わりし、検査のエリアを旭川から札幌へ広げた。当時の受託検査市場では、家内工業並みの小さな事業者が価格を削り合う状態が続いており、量で原価を下げられない事業者から順に採算割れに陥っていった。苦しい事業を引き受けたとはいえ、原価が量で決まるこの事業では、道内最大の医療圏を得ることに意味があった。その後、支店と営業所を北海道全域に広げて受託件数そのものを増やし、件数が積み上がるほど競争上の立場も強まっていった。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [15]1983年、叔父が札幌で経営していた当時の第一臨床検査センターが経営不振に陥った
    • [16]大谷喜一は経営不振の札幌の会社を肩代わりし、臨床検査のエリアを旭川から札幌へ広げた
    • [19]検査の獲得件数を増やすため、北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
    • [20]検体の量を確保することで競争力は強まっていった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [17]臨床検査業界ではダンピング合戦が行われてきた
    • [18]臨床検査の受託料は価格競争にさらされ、価格体系の改定余地が残るほど水準が下がっていた

営業網の拡張と並行して、検査そのものの費用も削った。コンピューターによる検査データの精度管理を進め、処理を装置と手順へ載せ替えることで1件あたりの原価を下げている。検査は医師の診断の根拠になるため、費用を下げる過程で精度が落ちれば受託そのものを失う。大谷氏は最新技術の導入と精度管理、検査ネットワークの拡大を同時に進める方針を掲げていた。この組み合わせを回した結果、参入時に立ちはだかっていた旭川市医師会の検査を、後年には全面的に代行するまでになった。市場を握っていた側が、費用で見合わなくなった業務を外へ出す相手として、かつての後発を選んだ。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [21]臨床検査の伸びを支えたのは徹底した検査のコストダウンだった
    • [22]コンピューターによる精度管理など検査のシステム化に取り組んだ
    • [25]コスト競争に勝ち抜いた結果、旭川市医師会の検査を全面的に代行するまでになった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [23]臨床検査は医師が診断を下す際の重要な診断補助であり、人命にかかわる業務と位置づけられていた
    • [24]診断事業部では高度な最新技術の導入、コンピューターを駆使した検査データの精度管理、ネットワークの拡大を進める方針だった

業界の見方はこの動きと逆だった。検査料が保険点数で定まり、病院の数も増えない以上、新規参入の余地の無い成熟市場だという認識が業界に強かった。大谷氏はこの認識を取らなかった『厚生行政が競争原理を強めると、確かに価格は下がる。しかし、企業として戦略性を持てば十分にやっていけるし、高齢化社会を迎えて検査の需要は増える』。価格の下落は避けられないものとして受け入れ、下がった価格でも採算の合う原価をつくる側に回るという判断である。実際、大型の大学病院や官公立病院は、診療報酬の改定と人件費の高騰によって自前の検査が採算に合わなくなり、外注へ振り替えていった。臨床検査の市場規模は1994年の時点で推定6000億円を超え、外注率の上昇がその規模を押し上げていた。検査の外注化は、病院経営の合理化と高齢化による検査需要の増加という二つの流れに支えられていた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [26]当時は病院数が増えない一方で検査料は保険点数で決まっており、業界は競争のない市場だとみられていた
    • [27]臨床検査業界では新規参入などできない競争のない成熟した業界だという認識が強かった
    • [28]大谷喜一は、厚生行政が競争原理を強めても戦略性を持てば事業は成り立ち、高齢化社会を迎えて検査需要は増えるという確信を持っていた
    • [30]臨床検査の市場規模は1994年時点で推定6000億円を超えていた
    • [31]健康志向の高まりで検査需要が増え、病院経営の合理化の一環として検査の外注率が高まった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [29]大学病院や官公立病院が自前で行っていた検査を、診療報酬の改定と人件費の高騰により外注へ転換していた
参考文献[15]-[31]
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [15]1983年、叔父が札幌で経営していた当時の第一臨床検査センターが経営不振に陥った
    • [16]大谷喜一は経営不振の札幌の会社を肩代わりし、臨床検査のエリアを旭川から札幌へ広げた
    • [19]検査の獲得件数を増やすため、北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
    • [20]検体の量を確保することで競争力は強まっていった
    • [21]臨床検査の伸びを支えたのは徹底した検査のコストダウンだった
    • [22]コンピューターによる精度管理など検査のシステム化に取り組んだ
    • [25]コスト競争に勝ち抜いた結果、旭川市医師会の検査を全面的に代行するまでになった
    • [26]当時は病院数が増えない一方で検査料は保険点数で決まっており、業界は競争のない市場だとみられていた
    • [27]臨床検査業界では新規参入などできない競争のない成熟した業界だという認識が強かった
    • [28]大谷喜一は、厚生行政が競争原理を強めても戦略性を持てば事業は成り立ち、高齢化社会を迎えて検査需要は増えるという確信を持っていた
    • [30]臨床検査の市場規模は1994年時点で推定6000億円を超えていた
    • [31]健康志向の高まりで検査需要が増え、病院経営の合理化の一環として検査の外注率が高まった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [17]臨床検査業界ではダンピング合戦が行われてきた
    • [18]臨床検査の受託料は価格競争にさらされ、価格体系の改定余地が残るほど水準が下がっていた
    • [23]臨床検査は医師が診断を下す際の重要な診断補助であり、人命にかかわる業務と位置づけられていた
    • [24]診断事業部では高度な最新技術の導入、コンピューターを駆使した検査データの精度管理、ネットワークの拡大を進める方針だった
    • [29]大学病院や官公立病院が自前で行っていた検査を、診療報酬の改定と人件費の高騰により外注へ転換していた

1987年〜北海道ジャフコの増資が前倒しにした設備投資

検査の原価を下げる道は、装置への投資を先に済ませることだった。大谷氏は設備投資の資金を賄うため、日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコへ持ち込んだ。1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を引き出している。外部資本の受け入れは、1994年3月の株式公開から6年以上さかのぼる時期に行われた。その額は年商の7割近くに及び、売上高が7億円に満たない会社としては大きかった。持分が薄まるのを承知のうえで、設備を他社より早く導入することを優先した判断である。検査センターとしては後発だった同社が伸びた理由を、大谷氏は後年この資金に求めて『最後発の検査センターが大きく成長できたのはこの資金があったからだ』いる。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [32]設備投資資金を賄うために外部資本を求めた
    • [33]増資の引き受け手は日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコだった
    • [34]1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を調達した
    • [36]第三者割当増資の当時、売上高はまだ7億円に達していなかった
    • [37]大谷喜一は、最後発の検査センターが大きく成長できたのは北海道ジャフコからの資金があったからだと振り返った
  • 有価証券報告書 沿革
    • [35]1994年3月、日本証券業協会に株式を店頭登録した

臨床検査の営業網は、検査以外の業務も運んだ。企業や地方自治体の健康診断、医療廃棄物の収集と運搬が、病院を訪ねる同じ経路に沿って足されていった。一度つくった訪問の経路へ商材を重ねれば、営業の費用を増やさずに売上だけを増やせる。医療廃棄物の処理では北海道で首位のシェアを取り、検査で取りきれない医療機関との接点をここから作った。臨床検査そのものの道内シェアは1994年の時点でなお約10%にとどまり、検査単独で道内を覆う構図にはならなかった。大谷氏は住民検診と企業検診の血液検査を、予防医学の側から伸びる分野として最も期待できる市場に挙げていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [38]臨床検査の受託を中心とする診断事業に、調剤薬局、医療廃棄物の収集・運搬、企業や住民の健診などをリンクさせる事業を展開していた
    • [39]地方自治体による住民検診や企業の検診における血液検査部門を事業に組み込んでいた
    • [40]医療廃棄物処理では北海道でトップシェアを持っていた
    • [41]臨床検査の北海道内シェアは1994年時点で約10%だった
    • [42]予防医学の見地からの健康者の検査を最も期待するジャンルと位置づけ、住民検診や企業検診の血液検査部門は拡大の余地があるとみていた

1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併し、旭川と札幌に分かれていた検査事業が一つの会社にまとまった。同年10月には本社を札幌市東区へ移している。参入から7年で、道内を覆う検査の営業網と、それを支える外部資本の両方が揃った。この営業網は検査を受託する経路であると同時に、どの病院がどれだけの検査を出し、どの方針で動いているかが日々集まる経路でもあった。医療機関の内部事情が集まる会社は、医療機関を相手にする別の事業へ参入するとき、他社より早く動ける。翌1989年に会社が手を伸ばしたのは、検査とは客層も商流も異なる小売だった。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [43]1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併した
    • [44]1988年10月、本社を札幌市東区に移転した
    • [47]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継し、診断とリテールの事業部制を採用した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [45]旭川から札幌へエリアを広げ、その後も北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [46]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかむ体制をとっていた
参考文献[32]-[47]
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [32]設備投資資金を賄うために外部資本を求めた
    • [33]増資の引き受け手は日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコだった
    • [34]1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を調達した
    • [36]第三者割当増資の当時、売上高はまだ7億円に達していなかった
    • [37]大谷喜一は、最後発の検査センターが大きく成長できたのは北海道ジャフコからの資金があったからだと振り返った
    • [45]旭川から札幌へエリアを広げ、その後も北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
  • 有価証券報告書 沿革
    • [35]1994年3月、日本証券業協会に株式を店頭登録した
    • [43]1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併した
    • [44]1988年10月、本社を札幌市東区に移転した
    • [47]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継し、診断とリテールの事業部制を採用した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [38]臨床検査の受託を中心とする診断事業に、調剤薬局、医療廃棄物の収集・運搬、企業や住民の健診などをリンクさせる事業を展開していた
    • [39]地方自治体による住民検診や企業の検診における血液検査部門を事業に組み込んでいた
    • [40]医療廃棄物処理では北海道でトップシェアを持っていた
    • [41]臨床検査の北海道内シェアは1994年時点で約10%だった
    • [42]予防医学の見地からの健康者の検査を最も期待するジャンルと位置づけ、住民検診や企業検診の血液検査部門は拡大の余地があるとみていた
    • [46]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかむ体制をとっていた

筆者考察

後発が先発を追い越せる市場は、価格だけで選ばれる市場である。旭川市医師会の直営検査所が握っていた取引を、大谷喜一氏は関係の深さでは崩せなかった。残っていたのは原価だけである。病院にとって外注の検査料は、受け取る診療報酬から差し引かれる費用であり、安い相手を選ぶほど手元に残る額が増える。だから第一臨床検査センターは郊外の小規模病院から検体を1件ずつ集め、集めた量で1件あたりの処理費用を下げ、下げた価格でさらに量を集めた。毎日1万体という処理量は、病院が自前で抱える100から200検体とは費用の水準が違う。参入から十年余りで旭川市医師会の検査を全面的に代行するに至ったのは、市場を握っていた側が自前でやる理由を失ったからである。

売上7億円に届かない会社が4億8000万円の増資を受けたのは、装置を先に買うためである。受託臨床検査では検体が増えるほど1件あたりの費用が下がるが、その前提として処理する設備がなければ量そのものを受けられない。設備が先、量が後という順序は、稼ぎながら買い足す資金繰りと相性が悪い。大谷喜一氏が1987年と1988年に北海道ジャフコから受け入れた4億8000万円は、この順序を成り立たせる代金だった。株式の公開はその6年後であり、外部資本の受け入れのほうが公開より先に来ている。持分の希薄化を引き受けてでも設備を前倒しにした判断が、後発でありながら道内の処理量で上位に立つ条件を作った。

出典・参考

3件
出典・参考
  • 有価証券報告書 沿革
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演

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