根津嘉一郎(初代)
経歴1905〜1940年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1905年主要役職の状況(推定含む目安)1940年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 東武鉄道 | 1905 | 取締役 | ||
| 1905 | 取締役 | ||||
| 1905 | 取締役社長 | ||||
| 1940 | 社長 死去 |
社長就任までの出自
出自
1860年に山梨県で生まれた。東京電灯と東京馬車鉄道の監査役、東京市街鉄道の取締役を務め、1904年3月には衆議院議員に当選している。東武鉄道に入ったのは、建設資金の行き詰まりで取締役が総辞職を申し出た1905年で、株主代表としてその撤回をまとめた5人のうちの一人だった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
東武鉄道は根津嘉一郎氏が興した会社ではない。1895年4月に川崎八右衛門氏ほか11名が創立願を出し、1897年11月に資本金265万円で設立された。設立時は社長を置かず、初代の専務取締役には末延道成氏が就任した。1899年8月に北千住・久喜間の40.1キロで営業を始めたものの、常磐線と東北線の駅を結ぶだけの路線で採算に乗らなかった。
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
- [4]明治28年4月 川崎八右衛門氏ほか11氏を発起人とする創立願提出。30年11月設立登記、資本金265万円、初代専務取締役に末延道成氏。32年8月北千住・久喜間40.1粁が開通
- [5]明治28年4月 川崎八右衛門氏ほか11氏を発起人とする創立願提出。30年11月設立登記、資本金265万円、初代専務取締役に末延道成氏。32年8月北千住・久喜間40.1粁が開通
- [6]明治28年4月 川崎八右衛門氏ほか11氏を発起人とする創立願提出。30年11月設立登記、資本金265万円、初代専務取締役に末延道成氏。32年8月北千住・久喜間40.1粁が開通
- [7]明治28年4月 川崎八右衛門氏ほか11氏を発起人とする創立願提出。30年11月設立登記、資本金265万円、初代専務取締役に末延道成氏。32年8月北千住・久喜間40.1粁が開通
- 実業の世界 1963年60巻10号
- [8]常磐線の北千住と東北線の久喜をつないだ鉄道にすぎず採算が悪く、父に引き受けないかという話があった。最初にやった仕事が利根川架橋で、上毛地方の機業地と都内の連絡がついて会社もよくなった(2代目根津嘉一郎の談)
1903年4月に利根川南岸の川俣まで達したところで、日露戦争に阻まれて北への工事が止まった。銀行の融資が縮小し、1905年2月には取締役が総辞職を申し出るまでに追い込まれる。この辞職を株主代表として撤回させた5人のなかに根津嘉一郎氏がいた。不振会社の株を買い集めて経営権を握る手法は当時ボロ買いと呼ばれ、東武も人から相手にされない会社の一つとみられていた。
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
- [9]36年4月には利根川南岸川俣に達した。川俣以北の工事は日露戦争のため一時停滞したが、40年8月創立当初の目的地足利に達した
- 東武鉄道六十五年史(1964)「資本金の推移」
- [10]銀行からの融資は引き締められ建設工事も遅れがちで、日露戦争で建設工事は延期された。明治38年2月に取締役の総辞職ということにまでなったが、株主代表根津嘉一郎ほか4名の労によってこれを撤回。明治38年4月21日の定時株主総会で根津嘉一郎・浅田正文が取締役に就任、5月6日に取締役互選で根津が専務取締役に就任
- [11]銀行からの融資は引き締められ建設工事も遅れがちで、日露戦争で建設工事は延期された。明治38年2月に取締役の総辞職ということにまでなったが、株主代表根津嘉一郎ほか4名の労によってこれを撤回。明治38年4月21日の定時株主総会で根津嘉一郎・浅田正文が取締役に就任、5月6日に取締役互選で根津が専務取締役に就任
- 証券 1950年1巻7号
- [12]ボロ会社をこっそり買い集めてその会社を物にするのが常套手段で、特に私鉄に力を注いだ。東武も当時は人から相手にされなかったボロ会社だった
根津嘉一郎氏は1905年4月の定時株主総会で取締役に選ばれ、5月に専務取締役となった。同年秋の定款変更で専務制を社長制に改め、11月に初代の取締役社長に就任した。経営を引き受けて最初に手がけたのは、資金が尽きて止まっていた利根川への架橋である。橋を渡って館林へ入り、足利・太田・伊勢崎へ線路を延ばすため、1906年10月に資本金を530万円へ倍にした。
- 東武鉄道六十五年史(1964)「資本金の推移」
- [13]銀行からの融資は引き締められ建設工事も遅れがちで、日露戦争で建設工事は延期された。明治38年2月に取締役の総辞職ということにまでなったが、株主代表根津嘉一郎ほか4名の労によってこれを撤回。明治38年4月21日の定時株主総会で根津嘉一郎・浅田正文が取締役に就任、5月6日に取締役互選で根津が専務取締役に就任
- [19]明治39年10月2日の臨時株主総会で資本金を倍額の530万円とし、足利・太田・伊勢崎経由の線路の建設費に充当。明治43年7月に浅草・伊勢崎間の主線が開通し、年間営業収入は100万円の大台に近づき、配当率も7分5厘から9分に上昇
- 東武鉄道六十五年史(1964)「定款」
- [14]定款の第2回の全面変更は明治38年10月で、この時それまでの専務制を社長制にし、初代社長に先代根津嘉一郎が就任した
- 東武鉄道六十五年史(1964)「歴代の役員 元役員表」
- [15]明治38年4月東武鉄道取締役、5月同専務取締役、11月同取締役社長
- 実業の世界 1963年60巻10号
- [16]常磐線の北千住と東北線の久喜をつないだ鉄道にすぎず採算が悪く、父に引き受けないかという話があった。最初にやった仕事が利根川架橋で、上毛地方の機業地と都内の連絡がついて会社もよくなった(2代目根津嘉一郎の談)
- 経済時代 1959年24巻4号 根津嘉一郎
- [17]父が引き受けたころは利根川まで行っていたが鉄橋をかける金がなく止まっていた。無理をして鉄橋をかけて館林に入り、足利・太田・伊勢崎まで伸ばした(2代目根津嘉一郎の談)
- [18]父が引き受けたころは利根川まで行っていたが鉄橋をかける金がなく止まっていた。無理をして鉄橋をかけて館林に入り、足利・太田・伊勢崎まで伸ばした(2代目根津嘉一郎の談)
1910年7月に浅草・伊勢崎間の幹線が全通すると、上毛の機業地と東京がつながり、年間の営業収入は100万円に近づいた。株主への配当率も7分5厘から9分へ上がっている。続いて本線に客と貨物を送り込む支線の取り込みに移り、1912年3月に佐野鉄道を合併し、翌1913年には太田軽便鉄道を買い取った。1920年には、創業時から東武の取締役が経営を兼ねていた東上鉄道を合併し、池袋から延びる路線を傘下に収めた。
- 実業の世界 1963年60巻10号
- [20]常磐線の北千住と東北線の久喜をつないだ鉄道にすぎず採算が悪く、父に引き受けないかという話があった。最初にやった仕事が利根川架橋で、上毛地方の機業地と都内の連絡がついて会社もよくなった(2代目根津嘉一郎の談)
- 東武鉄道六十五年史(1964)「資本金の推移」
- [21]明治39年10月2日の臨時株主総会で資本金を倍額の530万円とし、足利・太田・伊勢崎経由の線路の建設費に充当。明治43年7月に浅草・伊勢崎間の主線が開通し、年間営業収入は100万円の大台に近づき、配当率も7分5厘から9分に上昇
- [22]明治39年10月2日の臨時株主総会で資本金を倍額の530万円とし、足利・太田・伊勢崎経由の線路の建設費に充当。明治43年7月に浅草・伊勢崎間の主線が開通し、年間営業収入は100万円の大台に近づき、配当率も7分5厘から9分に上昇
- [25]東上鉄道の経営者は創業当時より当社の取締役が兼務し、事務関係も当本社内に置いていた
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
- [23]大正元年中に浅草・西新井間を複線化、同年3月佐野鉄道を合併、2年3月太田軽便鉄道を買収。9年1月に複線化・車輌増備・日光線建設の目的で2,000万円に増資し、同年東上鉄道を合併(資本的には東武の傍系)。日光線は最初から電化で工事を進め、昭和4年10月日光に観光電車を乗り入れた
- [24]大正元年中に浅草・西新井間を複線化、同年3月佐野鉄道を合併、2年3月太田軽便鉄道を買収。9年1月に複線化・車輌増備・日光線建設の目的で2,000万円に増資し、同年東上鉄道を合併(資本的には東武の傍系)。日光線は最初から電化で工事を進め、昭和4年10月日光に観光電車を乗り入れた
同じ1920年1月の増資では、複線化と車両の増備に並べて日光線の建設を目的に掲げた。日光線は当初から電化で建設し、1929年10月に日光へ電車を乗り入れた。根津嘉一郎氏がかねて望んでいた路線で、観光客を運ぶことを目的としていた。終点の先の鬼怒川・川治では、旅館が二、三軒しかなかった温泉地に鉄道を敷き、旅館の建設に資金を貸して観光地に育てた。
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
- [26]大正元年中に浅草・西新井間を複線化、同年3月佐野鉄道を合併、2年3月太田軽便鉄道を買収。9年1月に複線化・車輌増備・日光線建設の目的で2,000万円に増資し、同年東上鉄道を合併(資本的には東武の傍系)。日光線は最初から電化で工事を進め、昭和4年10月日光に観光電車を乗り入れた
- [27]大正元年中に浅草・西新井間を複線化、同年3月佐野鉄道を合併、2年3月太田軽便鉄道を買収。9年1月に複線化・車輌増備・日光線建設の目的で2,000万円に増資し、同年東上鉄道を合併(資本的には東武の傍系)。日光線は最初から電化で工事を進め、昭和4年10月日光に観光電車を乗り入れた
- 東武鉄道六十五年史(1964)「電化」
- [28]既設線の電化にとどまらず、かねて根津社長の素志であった日光線の開業までも一挙に実現した
- 経済時代 1959年24巻4号 根津嘉一郎
- [29]昭和の初めに日光線を観光目的で作った(2代目根津嘉一郎の談)
- 東邦経済 1960年30巻6号「対談 日光の開発を大いにやりますよ」根津嘉一郎
- [30]昭和の始めに鬼怒川も川治温泉も旅館は二、三軒しかなく、鉄道を敷いて宣伝し、旅館を作るのに金を貸した(2代目根津嘉一郎の談)
根津嘉一郎氏は生涯で72社の役員を兼ねたが、最も力を入れた会社の一つが東武で、鉄道王と呼ばれた。1940年1月に在任のまま没し、専務の吉野伝治氏が社長を継いだが翌2月に没した。会長に選ばれた原邦造氏が4月に社長を兼ね、後を襲った。1941年7月には長男の2代目根津嘉一郎氏が社長に就任し、根津家による経営はその後も続いた。
- 経済往来 1957年9巻4号「財界歳時記《第二回》根津嘉一郎」駒村雄三郎
- [31]根津は72の会社の重役・顧問・社長を務め、そのなかで最も力を入れたのは東武電車と富国徴兵で、鉄道王ともいわれた
- 東武鉄道六十五年史(1964)「年表」「歴代の役員 元役員表」
- [32]昭和15年1月 取締役の互選によって専務取締役吉野伝治が取締役社長に就任、2月 取締役社長吉野伝治死亡。取締役原邦造は昭和15年2月取締役会長、4月取締役社長
- [34]昭和15年1月 取締役の互選によって専務取締役吉野伝治が取締役社長に就任、2月 取締役社長吉野伝治死亡。取締役原邦造は昭和15年2月取締役会長、4月取締役社長
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
- [33]昭和15年1月根津嘉一郎氏が逝去し原邦造氏があとを襲い、16年7月二代根津嘉一郎氏が社長に就任
- [35]昭和15年1月根津嘉一郎氏が逝去し原邦造氏があとを襲い、16年7月二代根津嘉一郎氏が社長に就任
参考文献2件
参考文献
- 東武鉄道六十五年史(1964)「歴代の役員 元役員表」
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
事実根拠:出所(東武鉄道)