第3章 年〜年

さくら銀行:フェニックス計画と太陽神戸銀行との対等合併

1980年〜フェニックス計画の地域一番店目標と、三井物産の大口融資に揺れた脱坊っちゃん銀行

1980年2月、三井銀行は三井物産向け融資の大口融資規制の超過分を、3月末の猶予期限までに解消することを断念した。同じ財閥系の三菱銀行は三菱商事向けの超過を期限内に解消するめどを付けており、三井側だけが取り残された。両行の実力差は融資枠で約386億円とされ、同じ努力をしても三井の方が超過額は多く残る事情もあった。物産向けの超過額は1980年3月末で約500億円とみられ、改正銀行法が施行される3年後をめどに圧縮する方針へ改めた。物産の常務は、三井銀行に資金が乏しいため取引先に言うべきことも言えないという見方を示していた。系列の大口先を資金量で支えきれない構図が、店頭の取引を広げる改革へ三井銀行を向かわせたのだろう。

  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
    • [1]三菱銀行が三菱商事向け超過融資の期限内解消を打ち出したのに対し、三井銀行は三井物産向けの期限内解消を断念した(1980年3月末が猶予期限)。三井と三菱の実力差は融資枠で約386億円
    • [2]三菱銀行が三菱商事向け超過融資の期限内解消を打ち出したのに対し、三井銀行は三井物産向けの期限内解消を断念した(1980年3月末が猶予期限)。三井と三菱の実力差は融資枠で約386億円
    • [3]三菱銀行が三菱商事向け超過融資の期限内解消を打ち出したのに対し、三井銀行は三井物産向けの期限内解消を断念した(1980年3月末が猶予期限)。三井と三菱の実力差は融資枠で約386億円
    • [4]物産向け超過分は1980年3月末で約500億円とみられ、改正銀行法施行の3年後をめどに解消する方針
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号
    • [5]三井物産の鬼頭誠一常務は、三井銀行は資金がないから企業に言いたいことも言えないとの見方を示した

1980年4月、三井銀行は第12次長期経営計画「フェニックス計画」を始めた。最終年度の1983年は三井両替商の創業300年にあたり、計画は資金量や利益の全行目標を置かなかった。常務の末松謙一氏は、数値目標は環境次第ですぐ変わり、見通しの利かない時代には意味が薄いとみていた。代わりに各支店へ地域で一番の店になる目標を課し、本部の事業部門には直上位行を抜くことを求めた。1981年3月期の店舗数は175店で、太陽神戸銀行や第一勧業銀行の約半分で、同じ財閥系の住友・三菱より約40店少なかった。店舗数で追いつけない以上、1店あたりの営業力を引き上げるほかに手がなかったとみられる。

  • 金融財政事情 34(25) 1983年 河野光雄
    • [6]年表: 1980年(昭和55年)4月、三井創業300年に向けてフェニックス計画スタート
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号
    • [7]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [8]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [9]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [10]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない

行員の意識を変える改革は、会長の小山五郎氏が方針を定め、社長の関正彦氏が現場で指揮を執った。小山氏は、行員が報告書を書くだけで何かをした気になり、店舗の少なさを理由に自ら諦める風土を問題視していた。1968年5月に社長、1974年に会長へ就任した小山氏は、1982年2月に会長を退任して代表取締役相談役へ移った。期末の株主総会を待たずに退任したのは、自分が支えに残れば後継者が育たず、自らも惰性で化石になりかねないと考えたためだった。同じ1982年2月には草場敏郎氏が社長に、関氏が会長に就任し、経営の顔ぶれが入れ替わった。改革の旗を後任の経営陣へ預けるための退任だったと推察される。

  • 日経ビジネス 1981年6月1日号
    • [11]三井銀行の「文化大革命」は小山五郎会長の大方針で、関正彦社長の直接の指揮で進められた。小山会長は行員が報告書を書いただけで何かやった気になると指摘。非力さの原因は店舗不足ではなく自分からあきらめてしまう甘えにあるとした
    • [12]三井銀行の「文化大革命」は小山五郎会長の大方針で、関正彦社長の直接の指揮で進められた。小山会長は行員が報告書を書いただけで何かやった気になると指摘。非力さの原因は店舗不足ではなく自分からあきらめてしまう甘えにあるとした
  • 日経ビジネス 1982年10月18日号
    • [13]小山五郎は1982年(昭和57年)2月に会長を退き取締役相談役へ。自分がつっかい棒でいたら後継者が育たない、自分も慣性にとらわれ化石化しているのではと考え、株主総会を待たずに退いた。1968年(昭和43年)5月社長、1974年(49年)会長
    • [14]小山五郎は1982年(昭和57年)2月に会長を退き取締役相談役へ。自分がつっかい棒でいたら後継者が育たない、自分も慣性にとらわれ化石化しているのではと考え、株主総会を待たずに退いた。1968年(昭和43年)5月社長、1974年(49年)会長
  • 金融財政事情 34(25) 1983年 河野光雄
    • [15]年表: 1982年(昭和57年)2月、社長草場敏郎・会長関正彦
参考文献[1]-[15]
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
    • [1]三菱銀行が三菱商事向け超過融資の期限内解消を打ち出したのに対し、三井銀行は三井物産向けの期限内解消を断念した(1980年3月末が猶予期限)。三井と三菱の実力差は融資枠で約386億円
    • [2]三菱銀行が三菱商事向け超過融資の期限内解消を打ち出したのに対し、三井銀行は三井物産向けの期限内解消を断念した(1980年3月末が猶予期限)。三井と三菱の実力差は融資枠で約386億円
    • [3]三菱銀行が三菱商事向け超過融資の期限内解消を打ち出したのに対し、三井銀行は三井物産向けの期限内解消を断念した(1980年3月末が猶予期限)。三井と三菱の実力差は融資枠で約386億円
    • [4]物産向け超過分は1980年3月末で約500億円とみられ、改正銀行法施行の3年後をめどに解消する方針
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号
    • [5]三井物産の鬼頭誠一常務は、三井銀行は資金がないから企業に言いたいことも言えないとの見方を示した
    • [7]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [8]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [9]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [10]第12次長期経営計画「フェニックス計画」は最終年度1983年が三井両替商創業300年目、全行的目標数値なし。各支店に地域一番店、本部事業部門に直上位行の追い抜きを課す。1981年3月期店舗数175店(太陽神戸・第一勧銀の約半分)。昭和37年入行組を1年早く支店長へ昇格。末松謙一常務は全行目標数値は環境条件次第ですぐ変わり意味が薄いと説明。住友・三菱より約40店少ない
    • [11]三井銀行の「文化大革命」は小山五郎会長の大方針で、関正彦社長の直接の指揮で進められた。小山会長は行員が報告書を書いただけで何かやった気になると指摘。非力さの原因は店舗不足ではなく自分からあきらめてしまう甘えにあるとした
    • [12]三井銀行の「文化大革命」は小山五郎会長の大方針で、関正彦社長の直接の指揮で進められた。小山会長は行員が報告書を書いただけで何かやった気になると指摘。非力さの原因は店舗不足ではなく自分からあきらめてしまう甘えにあるとした
  • 金融財政事情 34(25) 1983年 河野光雄
    • [6]年表: 1980年(昭和55年)4月、三井創業300年に向けてフェニックス計画スタート
    • [15]年表: 1982年(昭和57年)2月、社長草場敏郎・会長関正彦
  • 日経ビジネス 1982年10月18日号
    • [13]小山五郎は1982年(昭和57年)2月に会長を退き取締役相談役へ。自分がつっかい棒でいたら後継者が育たない、自分も慣性にとらわれ化石化しているのではと考え、株主総会を待たずに退いた。1968年(昭和43年)5月社長、1974年(49年)会長
    • [14]小山五郎は1982年(昭和57年)2月に会長を退き取締役相談役へ。自分がつっかい棒でいたら後継者が育たない、自分も慣性にとらわれ化石化しているのではと考え、株主総会を待たずに退いた。1968年(昭和43年)5月社長、1974年(49年)会長

1986年〜審査・業務・国際・証券経理の4本部制の解体と、2.5倍に増やした部長職

1986年4月1日、三井銀行は審査・業務・国際・証券経理の4本部を解き、市場ごとに部を並べる「ウィング型組織」へ改めた。旧組織は4本部と22の部室から成り、各本部の上に常務級の役員が立っていた。新組織は現業部門だけで5本部46部を置き、部長職は36増えて2.5倍に、最年少の部長は1966年入行組まで若返った。部長の決裁額は原則として上限を設けず、役員が持っていた権限を部長へ移した。社長の神谷健一氏の下で米マッキンゼー社に検討を頼み、10カ月かけて案を詰めた。証券の損切りまで経営会議にかけていた判断の遅さを、決裁の段数ごと削減し、顧客に近い部長が即断できるようにする狙いだった。

  • 日経ビジネス 1988年10月10日号
    • [16]1986年(昭和61年)4月の組織改革で、常務クラスが担当する審査・業務・国際・証券経理の4本部の総本部制を廃止。旧組織ではディーリングの損切りまで経営会議の決定を待った
    • [18]1986年(昭和61年)4月の組織改革で、常務クラスが担当する審査・業務・国際・証券経理の4本部の総本部制を廃止。旧組織ではディーリングの損切りまで経営会議の決定を待った
    • [23]1986年(昭和61年)4月の組織改革で、常務クラスが担当する審査・業務・国際・証券経理の4本部の総本部制を廃止。旧組織ではディーリングの損切りまで経営会議の決定を待った
  • 財政金融ジャーナル 26(6) 1986年「新たな機構改革で、新サービス業務を強化する三井銀行」
    • [17]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [19]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [20]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [21]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [22]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [24]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標

会長の草場敏郎氏が「革命」と呼んだ改組から2年で、経常収益は1986年3月期の1兆1778億円から1988年3月期の1兆5404億円へ増えた。営業利益も同じ2年で485億円から1590億円へ増えた。中小企業・個人向け融資の残高は2年で32%伸び、総貸出に占める比率は53.1%から61.3%へ上がった。ただ取締役の古舘昭氏は、他の都銀もそろって収益を拡大しており、三井だけが突出したわけではないとみていた。1989年8月には社長の末松謙一氏が、中位行の規模では当面はやれても将来に不安が残るという認識を示した。組織を変えて質を上げても、規模の差は単独では埋まらないと経営陣は判断したのではないか。

  • 日経ビジネス 1988年10月10日号
    • [25]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
    • [26]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
    • [27]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
    • [28]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
  • 金融財政事情 40(33) 1989年
    • [29]1989年8月29日の会見で末松社長は、いまの中位行としての規模ではとりあえずやっていけるが将来的には不安がないわけではないと述べた

のちの合併相手の太陽神戸銀行は、1973年10月に神戸銀行と太陽銀行が合併して生まれた。1979年に頭取へ就任した塩谷忠男氏は大蔵省の出身で、合併5年で基礎固めは終えたが合併行としての課題は残るとみていた。1983年6月に頭取へ就任した奥村輝之氏も、大蔵省の国際金融局長から神戸銀行へ入った人物だった。奥村氏は同年10月の発足10周年に、合併の成果を1足す1がようやく2になった段階だと評した。1986年6月には元大蔵事務次官の松下康雄氏が取締役に入り、1987年6月に頭取へ就任した。旧2行の融和を時間をかけて仕上げた経験が、再度の合併を受け入れる素地になったとうかがえる。

  • 日経ビジネス 1983年11月14日号
    • [30]太陽神戸銀行は1973年(昭和48年)10月発足。奥村輝之は大蔵省国際金融局長などを経て1972年11月に旧神戸銀行常務、1983年6月頭取。発足10周年の1983年10月1日、合併は1+1がちゃんと2になった、これからの10年で3にも4にもしなくてはと述べた
    • [32]太陽神戸銀行は1973年(昭和48年)10月発足。奥村輝之は大蔵省国際金融局長などを経て1972年11月に旧神戸銀行常務、1983年6月頭取。発足10周年の1983年10月1日、合併は1+1がちゃんと2になった、これからの10年で3にも4にもしなくてはと述べた
    • [33]太陽神戸銀行は1973年(昭和48年)10月発足。奥村輝之は大蔵省国際金融局長などを経て1972年11月に旧神戸銀行常務、1983年6月頭取。発足10周年の1983年10月1日、合併は1+1がちゃんと2になった、これからの10年で3にも4にもしなくてはと述べた
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [31]塩谷忠男(大蔵省出身)が1979年に頭取就任。石野頭取からの交代は合併5年で一応の基礎固めが終わったためとし、合併会社としての問題点は残ると述べた
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [34]松下康雄は1982年大蔵事務次官、84年退官、86年6月太陽神戸銀行取締役、87年6月頭取
参考文献[16]-[34]
  • 日経ビジネス 1988年10月10日号
    • [16]1986年(昭和61年)4月の組織改革で、常務クラスが担当する審査・業務・国際・証券経理の4本部の総本部制を廃止。旧組織ではディーリングの損切りまで経営会議の決定を待った
    • [18]1986年(昭和61年)4月の組織改革で、常務クラスが担当する審査・業務・国際・証券経理の4本部の総本部制を廃止。旧組織ではディーリングの損切りまで経営会議の決定を待った
    • [23]1986年(昭和61年)4月の組織改革で、常務クラスが担当する審査・業務・国際・証券経理の4本部の総本部制を廃止。旧組織ではディーリングの損切りまで経営会議の決定を待った
    • [25]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
    • [26]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
    • [27]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
    • [28]草場敏郎会長が改革を「革命」と呼んだ。経常収益は1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円、リテール融資残高は2年で32%増、総貸出比率53.1%→61.3%。古舘昭取締役は他の都銀も順調で三井だけが特別良いわけではないと説明。営業利益は485億円→1590億円
  • 財政金融ジャーナル 26(6) 1986年「新たな機構改革で、新サービス業務を強化する三井銀行」
    • [17]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [19]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [20]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [21]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [22]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
    • [24]4月1日実施の新組織。旧は4本部22部室、新は現業部門だけで5本部46部(うち5本部36部新設)。部長ポストは2.5倍・36増、部長の決済額は原則青天井。神谷健一社長の下、マッキンゼーに依頼し10カ月検討。「ウィング型組織」。最年少部長は昭和37年入行組から41年入行組へ若返り。取引先との接点で迅速に意思決定できる組織が目標
  • 金融財政事情 40(33) 1989年
    • [29]1989年8月29日の会見で末松社長は、いまの中位行としての規模ではとりあえずやっていけるが将来的には不安がないわけではないと述べた
  • 日経ビジネス 1983年11月14日号
    • [30]太陽神戸銀行は1973年(昭和48年)10月発足。奥村輝之は大蔵省国際金融局長などを経て1972年11月に旧神戸銀行常務、1983年6月頭取。発足10周年の1983年10月1日、合併は1+1がちゃんと2になった、これからの10年で3にも4にもしなくてはと述べた
    • [32]太陽神戸銀行は1973年(昭和48年)10月発足。奥村輝之は大蔵省国際金融局長などを経て1972年11月に旧神戸銀行常務、1983年6月頭取。発足10周年の1983年10月1日、合併は1+1がちゃんと2になった、これからの10年で3にも4にもしなくてはと述べた
    • [33]太陽神戸銀行は1973年(昭和48年)10月発足。奥村輝之は大蔵省国際金融局長などを経て1972年11月に旧神戸銀行常務、1983年6月頭取。発足10周年の1983年10月1日、合併は1+1がちゃんと2になった、これからの10年で3にも4にもしなくてはと述べた
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [31]塩谷忠男(大蔵省出身)が1979年に頭取就任。石野頭取からの交代は合併5年で一応の基礎固めが終わったためとし、合併会社としての問題点は残ると述べた
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [34]松下康雄は1982年大蔵事務次官、84年退官、86年6月太陽神戸銀行取締役、87年6月頭取

1989年〜太陽神戸銀行との対等合併で生まれた預金量2位の銀行と、さくら銀行への改称

1989年8月29日、三井銀行社長の末松謙一氏と太陽神戸銀行頭取の松下康雄氏は共同で会見し、対等合併を発表した。話は同年3月ごろに末松氏から持ちかけたもので、両氏には20年来の親交があった。末松氏は、自己資本比率の規制が強まるなかで国際的な銀行として生き残るには一定の規模が要るという理由を挙げた。三井グループのなかで三井銀行の位置が三菱や住友ほど高くなかったことも、合併へ動きやすい条件だった。1990年4月1日に太陽神戸三井銀行が発足し、行員は2万4000人を数えた。三井の名が行名から消える可能性も覚悟の上だとしており、名より規模を取った判断と考えられる。

  • 金融財政事情 40(33) 1989年
    • [35]1989年8月29日にホテルオークラで共同会見。合併話は同年3月ごろ末松社長から持ちかけ、松下頭取とは20年来の親交。自己資本比率規制を考えると国際的ユニバーサルバンクには適正規模が必要。三井の名が残らない可能性も覚悟の上
    • [36]1989年8月29日にホテルオークラで共同会見。合併話は同年3月ごろ末松社長から持ちかけ、松下頭取とは20年来の親交。自己資本比率規制を考えると国際的ユニバーサルバンクには適正規模が必要。三井の名が残らない可能性も覚悟の上
    • [37]1989年8月29日にホテルオークラで共同会見。合併話は同年3月ごろ末松社長から持ちかけ、松下頭取とは20年来の親交。自己資本比率規制を考えると国際的ユニバーサルバンクには適正規模が必要。三井の名が残らない可能性も覚悟の上
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [38]1990年4月に太陽神戸銀行と三井銀行が合併。三井銀行は三菱・住友に比べグループ内での位置が高くなく、合併に動きやすい環境にあった
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [39]1990年4月1日に太陽神戸三井銀行が発足、行員数2万4000人

合併の時点で名称の重なる店舗は80店あり、太陽神戸三井銀行は1990年10月から統廃合を始めた。第1次計画は1991年9月23日の船橋・平塚の統合で終わり、36店を18店にまとめた。1993年3月をめどとする第2次は40店程度が対象で、離れた店の一本化には顧客や取引先の反発が見込まれた。勘定系は富士通へ統一すると決め、旧三井の支店の移行が1992年10月に終わるまで首都圏の統合は止まった。1991年3月期の営業経費は4581億円で、資金量のほぼ同じ第一勧業銀行を約1000億円上回った。統合で浮いた人員は他店や本部へ配置転換したため、統合は人件費をすぐには下げなかった。

  • 金融財政事情 40(33) 1989年
    • [40]合併発表時、末松社長は名称がだぶっている店舗は80店に上ると述べた
  • 財政金融ジャーナル 32(8) 1992年「〈さくら銀行〉長期経営計画「ACTI」の仕上げでリーディングユニバーサルバンクへ邁進」
    • [41]店舗の統廃合計画は1990年10月にスタートし、1991年度末までに22カ所を統廃合、1992年度初めの店舗数は605店
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [42]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [43]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [44]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [45]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [46]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない

1992年4月1日、太陽神戸三井銀行は行名をさくら銀行へ改めた。改称は合併時に3年後をめどとしていたが、行員への意識調査で早期の変更を望む声が大半を占め、1年繰り上げた。旧行名を使わない申し合わせがあり、頭取の末松氏が三井の名にこだわらないと発言した際は三井グループの長老から異議も出た。1990年10月に始めた長期経営計画「ACTI」の下で、1日の来客数は旧両行の合計より3割多い100万人を超えた。さくら、あさひと平仮名の行名が続いたことは、銀行が預金者を重視する時代に入った表れとされた。ただ株価の下落は、合併直後の1990年春の時点で、株式含み益で首位だった太陽神戸三井銀行にも含み損を生んでいた。

  • 財政金融ジャーナル 32(8) 1992年「〈さくら銀行〉長期経営計画「ACTI」の仕上げでリーディングユニバーサルバンクへ邁進」
    • [47]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
    • [48]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
    • [49]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
    • [50]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [51]さくら、あさひという平仮名銀行の登場は、銀行が消費者・預金者を重視する時代に入ったことを示す
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [52]1990年4月時点で株価下落により、株式含み益トップの太陽神戸三井銀行でもかなりの含み損が発生していた
参考文献[35]-[52]
  • 金融財政事情 40(33) 1989年
    • [35]1989年8月29日にホテルオークラで共同会見。合併話は同年3月ごろ末松社長から持ちかけ、松下頭取とは20年来の親交。自己資本比率規制を考えると国際的ユニバーサルバンクには適正規模が必要。三井の名が残らない可能性も覚悟の上
    • [36]1989年8月29日にホテルオークラで共同会見。合併話は同年3月ごろ末松社長から持ちかけ、松下頭取とは20年来の親交。自己資本比率規制を考えると国際的ユニバーサルバンクには適正規模が必要。三井の名が残らない可能性も覚悟の上
    • [37]1989年8月29日にホテルオークラで共同会見。合併話は同年3月ごろ末松社長から持ちかけ、松下頭取とは20年来の親交。自己資本比率規制を考えると国際的ユニバーサルバンクには適正規模が必要。三井の名が残らない可能性も覚悟の上
    • [40]合併発表時、末松社長は名称がだぶっている店舗は80店に上ると述べた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [38]1990年4月に太陽神戸銀行と三井銀行が合併。三井銀行は三菱・住友に比べグループ内での位置が高くなく、合併に動きやすい環境にあった
    • [51]さくら、あさひという平仮名銀行の登場は、銀行が消費者・預金者を重視する時代に入ったことを示す
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [39]1990年4月1日に太陽神戸三井銀行が発足、行員数2万4000人
    • [52]1990年4月時点で株価下落により、株式含み益トップの太陽神戸三井銀行でもかなりの含み損が発生していた
  • 財政金融ジャーナル 32(8) 1992年「〈さくら銀行〉長期経営計画「ACTI」の仕上げでリーディングユニバーサルバンクへ邁進」
    • [41]店舗の統廃合計画は1990年10月にスタートし、1991年度末までに22カ所を統廃合、1992年度初めの店舗数は605店
    • [47]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
    • [48]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
    • [49]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
    • [50]1992年4月1日にさくら銀行へ行名変更。合併時は3年後をめどとしていたが、行員の意識調査で早期変更の意見が圧倒的となり1年繰り上げた。旧行名は使用しない申し合わせ。末松頭取の「三井の名にはこだわらない」発言に三井グループ長老から異議。1990年10月開始の第一次長期経営計画「ACTI」。1日平均来客数は100万人超で合併直前の旧両行合計の3割増
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [42]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [43]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [44]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [45]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない
    • [46]第1次店舗統合は1991年9月23日の船橋・平塚で完了し36店を18店に統合。第2次は1993年3月めどに40店程度。勘定系は富士通に統一、旧三井支店のシステム移行完了(1992年10月)まで首都圏の統合は据え置き。1991年3月期営業経費4581億円(第一勧銀3602億円)。余剰人員は他店・本部へ配置転換し人件費削減にはほとんど寄与しない

1980年〜1992年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1980年03月期 単体 6,619 n/a 226 123 1.9% n/a
1981年03月期 単体 9,170 +38.5% 295 184 2.0% n/a
1982年03月期 単体 12,081 +31.7% 456 230 1.9% n/a
1983年03月期 単体 12,048 ▲0.3% 671 248 2.1% n/a
1984年03月期 単体 11,309 ▲6.1% 625 330 2.9% n/a
1985年03月期 単体 13,406 +18.5% 742 350 2.6% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑(1986年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

13件
出典・参考
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号
  • 日経ビジネス 1982年10月18日号
  • 日経ビジネス 1983年11月14日号
  • 財政金融ジャーナル 26(6) 1986年「新たな機構改革で、新サービス業務を強化する三井銀行」
  • 日経ビジネス 1988年10月10日号
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
  • 財政金融ジャーナル 32(8) 1992年「〈さくら銀行〉長期経営計画「ACTI」の仕上げでリーディングユニバーサルバンクへ邁進」
  • 金融財政事情 34(25) 1983年 河野光雄
  • 金融財政事情 40(33) 1989年

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