第1章 年〜年

ゴールドウイン:津沢メリヤスの野球ストッキングとゴールドウインへの改称

1950年〜資本金50万円の津沢メリヤス製造所と、肌着をやめて選んだ野球ストッキング

1951年12月、西田東作氏は富山県西砺波郡津沢町に株式会社津沢メリヤス製造所を資本金50万円で設立した。西田東作氏は小矢部の出身で、会社を起こした津沢は郷里にあたる。創業時の国内のスポーツ用品小売店は1,000社ほどで、1981年の1万8,000社の18分の1にとどまった。設立当初の事業は、ニット製品とメリヤス雑貨の製造・販売。1981年時点でも戸籍上の本社と生産拠点は富山県小矢部市にあり、販売の機能だけを東京に置いた。西田東作氏は1981年の講演で、昭和26年の創業から30年間ユニフォームづくりを続けてきたと振り返った。資本金50万円の工場にとって、肌着や雑貨のメリヤスは郷里の人手と編み機で始められる手近な品目だったと思われる。

  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [1]1951年12月 株式会社津沢メリヤス製造所を設立(資本金50万円、富山県西砺波郡津沢町)
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [2]西田東作社長は小矢部出身。本社・生産拠点は富山県小矢部市、本社機能の一部を東京へ移した(1981年時点)
    • [5]西田東作社長は小矢部出身。本社・生産拠点は富山県小矢部市、本社機能の一部を東京へ移した(1981年時点)
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [3]西田東作社長が1981年2月の講演で昭和26年創業以来ユニフォームづくり一筋30年と説明。創業時のスポーツ用品小売店は約1,000社、1981年は1万8,000社
    • [6]西田東作社長が1981年2月の講演で昭和26年創業以来ユニフォームづくり一筋30年と説明。創業時のスポーツ用品小売店は約1,000社、1981年は1万8,000社
  • 証券 44(2) 1992年
    • [4]設立当初はニット製品・メリヤス雑貨の製造販売

1952年7月、津沢メリヤス製造所は野球ストッキングを中心とするスポーツウエアの全面生産へ転換した。設立からわずか7カ月後の決定であり、一般のメリヤス雑貨の製造からの撤退を伴う決断である。転換後の主な品目は、野球用ソックスとスキーセーター。背景には、戦時中に中断したプロ野球の復活をはじめとするスポーツの振興があった。西田東作氏は1991年、全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動したことも専業化の動機だったと説明した。戦後の荒廃のなかで、スポーツで国民に希望を与える事業に役立とうと考えたという。再開した野球で需要が見込める靴下に絞れば、メリヤスの編み立て設備をそのまま生かせたのだろう。

  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [7]1952年7月 野球ストッキングを中心にスポーツウエアの全面生産に転換
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [8]昭和27年に一般メリヤス雑貨からスポーツウエアへ全面転換。全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動し、スポーツ振興に役立とうと考えた
    • [11]昭和27年に一般メリヤス雑貨からスポーツウエアへ全面転換。全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動し、スポーツ振興に役立とうと考えた
    • [12]昭和27年に一般メリヤス雑貨からスポーツウエアへ全面転換。全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動し、スポーツ振興に役立とうと考えた
  • 証券 44(2) 1992年
    • [9]昭和27年に野球用ソックス・スキーセーター中心のスポーツウエアへ全面転換。背景にプロ野球の復活などスポーツ振興
    • [10]昭和27年に野球用ソックス・スキーセーター中心のスポーツウエアへ全面転換。背景にプロ野球の復活などスポーツ振興
参考文献[1]-[12]
  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [1]1951年12月 株式会社津沢メリヤス製造所を設立(資本金50万円、富山県西砺波郡津沢町)
    • [7]1952年7月 野球ストッキングを中心にスポーツウエアの全面生産に転換
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [2]西田東作社長は小矢部出身。本社・生産拠点は富山県小矢部市、本社機能の一部を東京へ移した(1981年時点)
    • [5]西田東作社長は小矢部出身。本社・生産拠点は富山県小矢部市、本社機能の一部を東京へ移した(1981年時点)
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [3]西田東作社長が1981年2月の講演で昭和26年創業以来ユニフォームづくり一筋30年と説明。創業時のスポーツ用品小売店は約1,000社、1981年は1万8,000社
    • [6]西田東作社長が1981年2月の講演で昭和26年創業以来ユニフォームづくり一筋30年と説明。創業時のスポーツ用品小売店は約1,000社、1981年は1万8,000社
  • 証券 44(2) 1992年
    • [4]設立当初はニット製品・メリヤス雑貨の製造販売
    • [9]昭和27年に野球用ソックス・スキーセーター中心のスポーツウエアへ全面転換。背景にプロ野球の復活などスポーツ振興
    • [10]昭和27年に野球用ソックス・スキーセーター中心のスポーツウエアへ全面転換。背景にプロ野球の復活などスポーツ振興
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [8]昭和27年に一般メリヤス雑貨からスポーツウエアへ全面転換。全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動し、スポーツ振興に役立とうと考えた
    • [11]昭和27年に一般メリヤス雑貨からスポーツウエアへ全面転換。全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動し、スポーツ振興に役立とうと考えた
    • [12]昭和27年に一般メリヤス雑貨からスポーツウエアへ全面転換。全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動し、スポーツ振興に役立とうと考えた

1956年〜大阪・東京の2営業所と、日紡貝塚の選手が求めたユニフォーム

津沢メリヤス製造所は1956年4月に大阪営業所を、1958年2月に東京営業所を開設した。1958年には優勝した者を意味する「ゴールドウイン」の名で自社ブランド製品の生産も始めた。地名の社名とは別に、競技着のブランドを打ち出した。生産は富山に残し、販売の拠点だけを大都市に置く分担である。その後も1970年9月に札幌、1971年12月に福岡、1972年6月に名古屋に営業所を開設した。1972年までに営業所は大阪・東京・札幌・福岡・名古屋の5カ所となり、1979年6月には東京営業所を東京本社に改めた。販売と情報収集の必要から、本社機能の一部を東京へ移した。富山の工場から遠い都市の問屋や実業団の注文を受けるには、現地に常駐する拠点が要ったと推察される。

  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [13]1956年4月大阪営業所、1958年2月東京営業所、1970年9月札幌、1971年12月福岡、1972年6月名古屋に営業所開設。1979年6月東京営業所を東京本社に改称
    • [17]1956年4月大阪営業所、1958年2月東京営業所、1970年9月札幌、1971年12月福岡、1972年6月名古屋に営業所開設。1979年6月東京営業所を東京本社に改称
    • [18]1956年4月大阪営業所、1958年2月東京営業所、1970年9月札幌、1971年12月福岡、1972年6月名古屋に営業所開設。1979年6月東京営業所を東京本社に改称
  • 証券 44(2) 1992年
    • [14]昭和33年に自社ブランド「ゴールドウイン」(優勝者の意)の製品生産を開始
    • [15]昭和33年に自社ブランド「ゴールドウイン」(優勝者の意)の製品生産を開始
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [16]販売・情報収集の必要から本社機能の一部を東京へ移し、生産拠点は富山に置く
    • [19]販売・情報収集の必要から本社機能の一部を東京へ移し、生産拠点は富山に置く

津沢メリヤス製造所は、日紡貝塚の女子バレーボールチームのためにNK式ユニフォームを開発した。きっかけは、海外の大会に出た選手が先進国のユニフォームを持ち帰り、日本人に合う品を作るよう申し入れたことだった。レスリングの笹原正三氏も、申し入れた選手の一人である。戦後しばらくの物不足で、日本選手の競技着は試合中に破れるなど機能の不備を抱えていた。女子バレーの選手は布帛のブルマで国際試合に出ており、十分に動けないため素材をニットに改めた。日紡貝塚の監督は、商品開発の相談相手も務めた。メリヤスの編み立てから出発した工場にとって、ニットへの切り替えは手持ちの技術を生かせる改良だったとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [20]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [21]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [22]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [23]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [24]女子バレーボール選手は布帛のブルマでは国際試合で動けずニットへ切り替え
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [25]女子バレーの大松監督が商品開発の相談相手になった時期があった

選手の申し入れには、ローマ・オリンピック大会の体操で金メダルを獲得した選手も加わった。津沢メリヤス製造所は、海外で試合をした選手が持ち帰った各国の競技着を参考にし、選手の意見を聞いて改良を重ねた。西田東作氏は、海外の製品を見よう見まねで作っても思うような品にならなかったと1981年に振り返った。体操では倒立の際にパンツが脚に密着しないと採点に響いた。レスリングのユニフォームは試合が激しく破れやすかった。トレーニングウエアでは、スライディングの瞬間の熱で普通の繊維が溶けたり破れたりした。1962年には富山に新しい工場を建て、その塀に記したのは世界制覇を掲げる標語。競技ごとの不具合を選手から直接聞き取る作り方が、一流選手の間で受注を広げたと考えられる。

  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [26]ローマ五輪体操の金メダル選手も依頼者の一人。昭和37年に富山に新工場、塀に『世界を制覇す…』の標語。海外品を見よう見まねで作ってもうまくいかなかった
    • [28]ローマ五輪体操の金メダル選手も依頼者の一人。昭和37年に富山に新工場、塀に『世界を制覇す…』の標語。海外品を見よう見まねで作ってもうまくいかなかった
    • [32]ローマ五輪体操の金メダル選手も依頼者の一人。昭和37年に富山に新工場、塀に『世界を制覇す…』の標語。海外品を見よう見まねで作ってもうまくいかなかった
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [27]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
    • [29]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
    • [30]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
    • [31]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
参考文献[13]-[32]
  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [13]1956年4月大阪営業所、1958年2月東京営業所、1970年9月札幌、1971年12月福岡、1972年6月名古屋に営業所開設。1979年6月東京営業所を東京本社に改称
    • [17]1956年4月大阪営業所、1958年2月東京営業所、1970年9月札幌、1971年12月福岡、1972年6月名古屋に営業所開設。1979年6月東京営業所を東京本社に改称
    • [18]1956年4月大阪営業所、1958年2月東京営業所、1970年9月札幌、1971年12月福岡、1972年6月名古屋に営業所開設。1979年6月東京営業所を東京本社に改称
  • 証券 44(2) 1992年
    • [14]昭和33年に自社ブランド「ゴールドウイン」(優勝者の意)の製品生産を開始
    • [15]昭和33年に自社ブランド「ゴールドウイン」(優勝者の意)の製品生産を開始
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [16]販売・情報収集の必要から本社機能の一部を東京へ移し、生産拠点は富山に置く
    • [19]販売・情報収集の必要から本社機能の一部を東京へ移し、生産拠点は富山に置く
    • [25]女子バレーの大松監督が商品開発の相談相手になった時期があった
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [20]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [21]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [22]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [23]笹原正三選手らが海外のユニフォームを持ち帰り日本選手に合う品を依頼。日紡貝塚のユニフォームは同社開発のNK式。戦後の物不足で試合中に破れる等の不備
    • [26]ローマ五輪体操の金メダル選手も依頼者の一人。昭和37年に富山に新工場、塀に『世界を制覇す…』の標語。海外品を見よう見まねで作ってもうまくいかなかった
    • [28]ローマ五輪体操の金メダル選手も依頼者の一人。昭和37年に富山に新工場、塀に『世界を制覇す…』の標語。海外品を見よう見まねで作ってもうまくいかなかった
    • [32]ローマ五輪体操の金メダル選手も依頼者の一人。昭和37年に富山に新工場、塀に『世界を制覇す…』の標語。海外品を見よう見まねで作ってもうまくいかなかった
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [24]女子バレーボール選手は布帛のブルマでは国際試合で動けずニットへ切り替え
    • [27]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
    • [29]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
    • [30]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題
    • [31]海外で試合をした選手が持ち帰ったウエアを参考に選手の意見を聞いて研究。体操パンツの密着、レスリングの破れ、スライディング時の熱の問題

1963年〜小矢部への本社移転とゴールドウインへの改称と、旧日東物産との額面変更の合併

1963年6月、津沢メリヤス製造所は本社を富山県小矢部市清沢へ移し、商号を株式会社ゴールドウインに改めた。社名はブランドに合わせたもので、1958年から使ってきた自社ブランドの名と同じである。オリンピックに備えた合宿で選手と競技着を相談した際、選手からブランド名に津沢の地名は合わないとの指摘を受けた。西田東作氏はGOLDを黄金、WINを勝利とし、ユニフォームでも金メダルを取るという願いを込めた。社名の由来を西田東作氏は{q1}と表した。1964年の東京オリンピックで日本が獲得した金メダル16個のうち、12個は同社製のユニフォームを着た選手によるものだった。地名の社名を捨てたことで、選手の評判をそのまま商品の名に結びつけられたと推測される。

  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [33]1963年6月 本社を富山県小矢部市清沢へ移転、社名をブランドにあわせ株式会社ゴールドウインと改称
    • [34]1963年6月 本社を富山県小矢部市清沢へ移転、社名をブランドにあわせ株式会社ゴールドウインと改称
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [35]五輪に備えた合宿で選手から『津沢』のブランド名はよくないと言われゴールドウインとした。東京五輪の金メダル16個中12個が同社製ユニフォーム着用
    • [38]五輪に備えた合宿で選手から『津沢』のブランド名はよくないと言われゴールドウインとした。東京五輪の金メダル16個中12個が同社製ユニフォーム着用
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [36]GOLD=黄金、WIN=勝利。ユニフォームの金メダルを取る願いを社名に込めた
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [37]西田東作社長が社名に託した思いを語った(1981年)

スキーは1952年の全面転換の時点から品目に入っており、当初はスキーセーターだった。1963年にはスキーウエアが全日本スキー連盟の推薦品に指定された。1970年にはフランスのフザルプ社と技術提携し、初めて海外ブランドを導入した。ニット素材に限られていた国内のスキーウエアに、布帛のウエアを持ち込んだ。提携には世界の23社が名乗りを上げ、西田東作氏は1週間以上交渉して契約を得た。1975年10月に米国のチャンピオンプロダクツ社、1976年8月にイタリアのエレッセ社とも技術提携した。1980年6月期の品目別売上高構成比で、スキー用品の比率は28.6%である。ニットの一品目から始めたスキーを、海外の縫製技術で布帛の主力品目へ育てたのだと思われる。

  • 証券 44(2) 1992年
    • [39]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
    • [40]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
    • [41]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
    • [42]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [43]フザルプ社の提携には23社が申し入れ、西田社長が1週間以上交渉。1980年6月期(54年6月21日~55年6月20日)スキー用品28.6%
    • [45]フザルプ社の提携には23社が申し入れ、西田社長が1週間以上交渉。1980年6月期(54年6月21日~55年6月20日)スキー用品28.6%
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [44]昭和50年10月チャンピオンプロダクツ社、昭和51年8月エレッセ社と技術提携

1977年6月、ゴールドウインは株式の額面金額を変えるため、旧日東物産株式会社であった株式会社ゴールドウインと合併した。これに先立つ1968年頃、資本金3,000万円ほどの時期に、その3倍ほどの不良債権を抱えて倒産寸前に追い込まれた。業界では1969年頃から新規参入による過剰生産が続いていた。ゴールドウインは地区ごとに小売店と代理店がチームを編成し、注文に基づいて生産する方式で過剰生産を防いだ。1978年6月期の売上高は114億円、経常利益は4.1億円だった。1979年6月には生産部門をトヤマゴールドウインへ分離した。1981年2月の名古屋証券取引所への上場は、その1年半余り後にあたる。額面の変更は、株式の公開を見据えて株式の単位を整える準備だった可能性がある。

  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [46]1977年6月 株式額面金額変更のため株式会社ゴールドウイン(旧日東物産株式会社)と合併。1979年6月 生産部門を分離しトヤマゴールドウインに譲渡
    • [51]1977年6月 株式額面金額変更のため株式会社ゴールドウイン(旧日東物産株式会社)と合併。1979年6月 生産部門を分離しトヤマゴールドウインに譲渡
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [47]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
    • [48]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
    • [49]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
    • [52]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
  • 会社年鑑 ゴールドウイン 1978年6月期 損益
    • [50]1978年6月期 売上高114億円・経常利益4.1億円(単体)
参考文献[33]-[52]
  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
    • [33]1963年6月 本社を富山県小矢部市清沢へ移転、社名をブランドにあわせ株式会社ゴールドウインと改称
    • [34]1963年6月 本社を富山県小矢部市清沢へ移転、社名をブランドにあわせ株式会社ゴールドウインと改称
    • [46]1977年6月 株式額面金額変更のため株式会社ゴールドウイン(旧日東物産株式会社)と合併。1979年6月 生産部門を分離しトヤマゴールドウインに譲渡
    • [51]1977年6月 株式額面金額変更のため株式会社ゴールドウイン(旧日東物産株式会社)と合併。1979年6月 生産部門を分離しトヤマゴールドウインに譲渡
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
    • [35]五輪に備えた合宿で選手から『津沢』のブランド名はよくないと言われゴールドウインとした。東京五輪の金メダル16個中12個が同社製ユニフォーム着用
    • [38]五輪に備えた合宿で選手から『津沢』のブランド名はよくないと言われゴールドウインとした。東京五輪の金メダル16個中12個が同社製ユニフォーム着用
    • [44]昭和50年10月チャンピオンプロダクツ社、昭和51年8月エレッセ社と技術提携
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
    • [36]GOLD=黄金、WIN=勝利。ユニフォームの金メダルを取る願いを社名に込めた
    • [43]フザルプ社の提携には23社が申し入れ、西田社長が1週間以上交渉。1980年6月期(54年6月21日~55年6月20日)スキー用品28.6%
    • [45]フザルプ社の提携には23社が申し入れ、西田社長が1週間以上交渉。1980年6月期(54年6月21日~55年6月20日)スキー用品28.6%
    • [47]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
    • [48]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
    • [49]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
    • [52]昭和43年頃資本金3,000万円の時に約3倍の焦げ付きで倒産寸前。44年頃から過剰生産。『ザ・チーム』で受注生産。1981年2月5日名証上場
  • 実業往来 353 1981年6月
    • [37]西田東作社長が社名に託した思いを語った(1981年)
  • 証券 44(2) 1992年
    • [39]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
    • [40]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
    • [41]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
    • [42]昭和27年の転換時の品目に野球用ソックス・スキーセーター。昭和38年スキーウエアが全日本スキー連盟推薦品。昭和45年フザルプ社と技術提携、初の海外ブランド導入。ニットに限られていたスキーウエアに布帛を紹介
  • 会社年鑑 ゴールドウイン 1978年6月期 損益
    • [50]1978年6月期 売上高114億円・経常利益4.1億円(単体)

1950年〜1978年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年06月期 単体 71 n/a 3 4.4% 1 n/a
1977年06月期 単体 101 +42.3% 5 5.5% 1 n/a
1978年06月期 単体 114 +12.9% 4 3.6% 2 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

6件
出典・参考
  • ゴールドウイン 有価証券報告書「沿革」
  • 会社年鑑 ゴールドウイン 1978年6月期 損益
  • 証券アナリストジャーナル 19(3) 1981年3月(西田東作 講演)
  • 証券アナリストジャーナル 30(2) 1991年12月
  • 実業往来 353 1981年6月
  • 証券 44(2) 1992年

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