第1章 年〜年

稲畑産業:京都の染色業へ向けた染料の輸入販売

1890年〜28歳で京都に開いた稲畑染料店と、東京出張所・モスリン紡織会社への広がり

創業者の稲畑勝太郎氏は1890年10月、フランスのサンドニー染料薬品製造会社から人造染料を直接輸入する稲畑染料店を京都で開業した。稲畑勝太郎氏は1877年に京都府派遣の留学生として15歳で渡仏し、リヨンの工業学校と大学で約8年間染色を修め、1885年に帰国していた。帰国後は京都府を経て1887年創設の京都織物会社に移り、染物部の技師長として洋式工場の染色機械の購入を担った。ところが1890年9月、会社の内部事情を理由に突然解雇された。当時の輸入は開港地の外国商館を通す居留地貿易が中心で、日本の商人が直接輸入する例はほとんどなかった。解雇から1か月で開業した速さからみて、留学で得たフランスの染料会社との縁を自営で生かす算段が早くからあったとみられる。

  • 稲畑百年史(1991) 創業前史・草創期「稲畑染料店開業」
    • [1]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
    • [3]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
    • [4]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
    • [5]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [2]1877年15歳で京都府派遣留学生として渡仏、リヨンで約8年染料・染色を修得し1885年帰国、京都府・京都織物に奉職

稲畑染料店は1894年4月、東京市日本橋区本石町に仮出張所を設け、関東と上越方面への営業拠点とした。同年7月には馬喰町へ移転し、翌1895年に東京支店へ改めた。関東の織物業者とは、技術指導を通じた結び付きも生まれていた。桐生の日本織物会社は稲畑勝太郎氏を技術顧問に招き、リヨン黒染法を用いた「織姫繻子」を商品化して、ドイツ製の輸入黒繻子に対抗した。稲畑勝太郎氏が店を興した目的は、稲畑勝雄氏の1982年の講演によればフランスからの染料輸入にある。輸入染料の販売量を増やすには京都の染屋だけでは足りず、技術指導で得た関東の信用が開業4年目の東京進出を後押ししたと推察される。

  • 稲畑百年史(1991) 草創期(扉の要約・東京出張所)
    • [6]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
    • [7]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
    • [8]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
    • [9]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [10]1890年、フランスからの染料輸入を目的に個人経営の稲畑染料店として創業(稲畑勝雄の講演)

稲畑勝太郎氏は1895年、京都と大阪の有力業者を説得してモスリン紡織会社を設立し、監査役として工場の建設と運営の責任を負った。モスリンとは、当時大量に輸入されていた「唐ちりめん」と呼ばれる和服用の毛織物のことである。稲畑勝太郎氏はそれ以前から店の裏に織機を据え、技術者を雇って国産化の研究を続けていた。1896年には製法の調査と機械の購入のため単身で渡仏し、1898年に大阪府西成郡豊崎村へ工場を建てた。この渡仏でフランスのアルザス社の紡織機械を最良と判断したことに、稲畑商店と同社との取引の発端がある。リヨンで修めた染色の技術は、織物の国産化に関わる素地にもなった。毛織物の国産化は、国内で染める布を増やして染料の売り先を自ら育てる狙いも兼ねていたのだろう。

  • 稲畑百年史(1991) 草創期「モスリン紡織」
    • [11]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [12]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [13]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [14]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [15]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [16]稲畑勝太郎はリヨンの工業学校・大学で約8年、染料・染色技術を修得
参考文献[1]-[16]
  • 稲畑百年史(1991) 創業前史・草創期「稲畑染料店開業」
    • [1]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
    • [3]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
    • [4]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
    • [5]京都織物の染物部技師長を1890年9月に内部事情で解雇され、同年10月に京都でサンドニー社直輸入の稲畑染料店を開業。当時は居留地貿易で日本商人の直輸入は稀
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [2]1877年15歳で京都府派遣留学生として渡仏、リヨンで約8年染料・染色を修得し1885年帰国、京都府・京都織物に奉職
    • [10]1890年、フランスからの染料輸入を目的に個人経営の稲畑染料店として創業(稲畑勝雄の講演)
    • [16]稲畑勝太郎はリヨンの工業学校・大学で約8年、染料・染色技術を修得
  • 稲畑百年史(1991) 草創期(扉の要約・東京出張所)
    • [6]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
    • [7]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
    • [8]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
    • [9]1894年4月日本橋本石町に仮出張所(関東・上越の拠点)、7月馬喰町へ移転、翌年東京支店。桐生の日本織物が技術顧問に招き「織姫繻子」を商品化
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「モスリン紡織」
    • [11]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [12]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [13]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [14]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機
    • [15]1895年京阪の有力業者を説きモスリン紡織を創立し監査役。輸入品モスリンの国産化を狙い、1896年渡仏、1898年豊崎村に工場。アルザス社との取引の契機

1897年〜大阪へ移転した本店と稲畑染工場のカーキ染と、天津に開いた大陸の支店

1897年10月、稲畑勝太郎氏は国内最大の商都に拠点を置いて将来の飛躍を図るため、本店を大阪の南船場へ移した。京都の店は、このときから支店の扱い。日清戦争後の好況のなかで経営の基盤が固まり、店は染料に限らず多くの品目を扱う直輸貿易商へ育っていた。大阪移転と同時に、取扱品は工業薬品、紡織・染色用の機械、雑貨、洋酒にまで広がった。明治期を通じて、輸入品は金属、毛糸、医薬品、香料にも及んだ。1901年12月には東京支店を堀留町に新築し、1910年には本店近くの塩町に染料倉庫を新設した。欧州からの輸入品を全国の需要家へ配る起点として、京都より大阪が適していた。

  • 稲畑百年史(1991) 草創期「大阪本店」
    • [17]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [18]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [19]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [21]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [22]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [23]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
    • [20]1897年(明治30年)に店舗を大阪へ移すと同時に、染料のほか工業薬品・紡織染色用機械・雑貨・洋酒などを輸入

稲畑勝太郎氏は1897年5月、大阪府西成郡豊島村に稲畑染工場を創設し、染料の販売に加えて染色加工を自ら手掛けた。国内ではモスリンを染める技術が育っておらず、染色を海外に依存して染色の費用が高くついていたためである。染色技術の高度化に伴い、織りと染めを分ける考え方が広がっていたことも背景にある。工場は英・独・仏から染色機械を導入して最新の染料を使い、稲畑勝太郎氏が技師と職工を自ら養成した。大阪移転後の稲畑商店は紡織・染色用の機械も輸入しており、染料と機械の双方を自社の工場で試せる体制が整った。えび茶染は「稲畑染」の名で女学校の制服や婦人用の袴に使われた。日露戦争の際には軍服用のカーキ染を考案し、工場は1905年に合資会社へ改組された。

  • 稲畑百年史(1991) 草創期「稲畑染工場」「軍服のカーキ色」
    • [24]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [25]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [26]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [27]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [29]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [30]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
    • [28]大阪移転と同時に紡織・染色用諸機械などの輸入を開始

稲畑勝太郎氏は1908年、中国の天津に東華洋行を設立し、稲畑商店天津支店として現地の販路開拓を始めた。国内では日露戦争後の好況の反動で1907年ごろから景気が後退し、輸入染料が供給過剰となって市価が下がっていた。染料業者の倒産が相次ぎ、低迷は大正初期にまで及んだ。稲畑勝太郎氏はこの時期に初めて大陸各地を視察してから、天津への出店を決めた。明治末期の稲畑商店は取扱い分野を広げ、工業薬品や紡織用の機械も輸入していた。染料業界の記録は、東華洋行が華北の染色加工の発達に寄与し、昭和期の国産染料の大陸進出の先駆けになったと評した。値崩れの続く国内を離れ、染色業が興りつつあった華北に売り先を求めたと思われる。

  • 稲畑百年史(1991) 草創期「天津支店」
    • [31]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [32]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [33]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [34]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [36]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
    • [35]明治末期に取扱い分野を拡大し、工業薬品・紡織染色用機械などを輸入
参考文献[17]-[36]
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「大阪本店」
    • [17]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [18]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [19]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [21]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [22]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
    • [23]1897年10月、将来の飛躍を図り本店を大阪南船場へ移し京都の店を支店とした。1901年東京支店を堀留町に新築、1910年塩町に染料倉庫。明治期の輸入品目は機械・金属・毛糸・医薬品・香料に及ぶ
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
    • [20]1897年(明治30年)に店舗を大阪へ移すと同時に、染料のほか工業薬品・紡織染色用機械・雑貨・洋酒などを輸入
    • [28]大阪移転と同時に紡織・染色用諸機械などの輸入を開始
    • [35]明治末期に取扱い分野を拡大し、工業薬品・紡織染色用機械などを輸入
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「稲畑染工場」「軍服のカーキ色」
    • [24]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [25]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [26]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [27]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [29]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
    • [30]1897年5月豊島村に稲畑染工場を創設。モスリン紡織の染色が外国依存で染色費がかさんだため。英独仏の機械導入、えび茶染「稲畑染」、日露戦争時に軍服用カーキ染を考案、1905年合資会社。染織分業論の台頭も背景
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「天津支店」
    • [31]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [32]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [33]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [34]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立
    • [36]日露戦後の反動で1907年頃から輸入染料が供給過剰・市価下落・倒産続出。店主は大陸を視察し1908年天津に東華洋行(天津支店)を設立

1918年〜資本金100万円の株式会社稲畑商店と、7社で組んだ日染会の特約店

稲畑勝太郎氏は1918年6月10日、時代の変化に応じて企業の発展を図るため、個人商店を資本金100万円の株式会社稲畑商店に改め、取締役社長に就任した。第1次世界大戦で染料の輸入が途絶えると、政府は1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布し、1916年2月に政府補助の日本染料製造が設立された。稲畑勝太郎氏はその設立に発起人として加わり、監査役に就任した。改組時の人員は本店47名、東京支店36名、神戸支店19名、天津支店14名の計116名。組織は総務・染料・貿易の3部からなる。同じ1918年には1月に神戸支店、10月に染料を主に扱う京都支店を開設した。

  • 稲畑百年史(1991) 大正時代・設立期「株式会社稲畑商店設立」
    • [37]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [38]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [40]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [41]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [42]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [39]1916年設立の日本染料製造で稲畑勝太郎は設立発起人・監査役

株式会社稲畑商店は設立の直後に第1次世界大戦の休戦を迎え、1920年の戦後恐慌で苦境に陥った。稲畑商店は染料部門を縮小し、神戸支店を閉鎖して危機に対処した。休戦後はドイツから安い染料が再び流入し、日本染料製造も業績が悪化して解散論が出るほどであった。緊縮は数年続き、1922年には天津支店も閉鎖して、翌1923年にようやく恐慌の損失を埋めた。同じ1923年の関東大震災では東京支店が焼失した。稲畑勝太郎氏が1917年に創立委員長として設立した内外化学物産の解散も、1922年のことである。稲畑商店は休戦後に欧州の機械部品や栄養剤などの日本代理店契約を新たに結び、機械を中心とする貿易部門で染料の低調を補った。

  • 稲畑百年史(1991) 大正時代・設立期(扉の要約・神戸支店)
    • [43]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [44]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [46]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [47]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [48]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [49]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [45]戦後ドイツから安い染料が再流入し日本染料製造は業績不振、解散論が出た

日本染料製造は1926年9月、稲畑商店、長瀬商店など7社を特約店に指定し、7社は日染会を結成した。日染会の各社が負ったのは、硫化染料を除く同社の全染料について、国内の年間消費量に応じた一定量を引き取って販売する責任である。その直前の1926年8月、稲畑勝太郎氏が日本染料製造の社長に就任し、稲畑商店専務の稲畑二郎氏が同社の常務取締役となった。稲畑勝太郎氏は解散論の出た日本染料製造の存続を唱え、社長として社勢を立て直した。1927年には稲畑商店の取引先であるサンドニー社から染料製造の技術を導入し、設備の導入でも稲畑商店が役割を担った。日本染料製造はのちに国内最大の染料メーカーへ成長した。製造と販売の双方を稲畑勝太郎氏が率いた関係が、のちの医薬品の取扱いと住友化学工業との取引の起点になったと考えられる。

  • 稲畑百年史(1991) 大正時代「日染会の結成」
    • [50]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
    • [51]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
    • [52]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
    • [54]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [53]解散論が出た日本染料の維持を主唱し社長として社勢を復興
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
    • [55]日本染料は染料・医薬品を製造し染料ではその後日本最大のメーカーに発展
参考文献[37]-[55]
  • 稲畑百年史(1991) 大正時代・設立期「株式会社稲畑商店設立」
    • [37]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [38]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [40]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [41]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
    • [42]1918年6月10日個人商店を株式会社稲畑商店(資本金100万円、社長稲畑勝太郎)に改組。116名・3部。同年神戸・京都支店開設。1916年設立の日本染料製造で監査役
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)
    • [39]1916年設立の日本染料製造で稲畑勝太郎は設立発起人・監査役
    • [45]戦後ドイツから安い染料が再流入し日本染料製造は業績不振、解散論が出た
    • [53]解散論が出た日本染料の維持を主唱し社長として社勢を復興
  • 稲畑百年史(1991) 大正時代・設立期(扉の要約・神戸支店)
    • [43]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [44]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [46]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [47]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [48]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
    • [49]休戦後の1920年戦後恐慌で染料部門縮小・神戸支店閉鎖、1922年天津支店閉鎖、1923年関東大震災で東京支店焼失。機械など貿易部門で染料の低調を補った。1917年設立の内外化学物産は1922年解散
  • 稲畑百年史(1991) 大正時代「日染会の結成」
    • [50]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
    • [51]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
    • [52]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
    • [54]1926年8月稲畑勝太郎が日本染料製造社長、稲畑二郎が常務。同年9月稲畑商店など7社を特約店に指定し日染会結成、全染料(硫化除く)の一定量を引取販売。1927年サンドニー社から技術導入
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
    • [55]日本染料は染料・医薬品を製造し染料ではその後日本最大のメーカーに発展

出典・参考

11件
出典・参考
  • 稲畑百年史(1991) 創業前史・草創期「稲畑染料店開業」
  • 稲畑百年史(1991) 草創期(扉の要約・東京出張所)
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「モスリン紡織」
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「大阪本店」
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「稲畑染工場」「軍服のカーキ色」
  • 稲畑百年史(1991) 草創期「天津支店」
  • 稲畑百年史(1991) 大正時代・設立期「株式会社稲畑商店設立」
  • 稲畑百年史(1991) 大正時代・設立期(扉の要約・神戸支店)
  • 稲畑百年史(1991) 大正時代「日染会の結成」
  • 企業の歴史:明治百年(1968)「稲畑産業」
  • 証券アナリストジャーナル 1982年(稲畑勝雄)

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