第2章 年〜年

三菱自動車:クライスラーとの合弁解消による資本自立と東証上場

基本契約の廃棄による自立からRV依存の拡大路線へ

1983年〜工販統合と基本契約廃棄による合弁会社からの脱皮

工販の責任のなすり合いを統合で断つ

国内販売が振るわない時期になると、自工は相手の販売力を、自販は相手の商品力をそれぞれ弱いと言い立て、互いに責任を押しつけ合ってきた。1983年6月末に社長となった舘豊夫は、最初の仕事として三菱自動車工業と、1964年に設けられた三菱自動車販売を一つにまとめることに取りかかった。開発・生産・販売・輸出・管理を同じ会社が通して担えば、責任の所在が一本になるというのが舘の考えである。クライスラーの持株比率が変わる合併を選べば、三菱重工業とクライスラーの基本契約に触れて手間取るため、自販の営業権を自工へ譲り渡す統合の形をとった。1984年1月、舘はロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して了承を得てから国内の根回しに移り、統合は同年10月に実施された。たたき台は第一線の社員十人ほどのプロジェクト・チームが作った。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [1]国内で車が売れないとき自工は「販売力が弱いから」、自販は「商品力が弱いから」と責任逃れをする悪弊があった
    • [2]舘豊夫は1983年6月末に三菱自動車工業の社長へ就任した
    • [3]舘豊夫が社長就任後まず着手したのは三菱自動車工業と三菱自動車販売(1964年設立)の一体化だった
    • [4]一体化により開発から生産・販売・輸出・管理まで一貫した責任体制を取ることが統合の狙いだった
    • [5]合併方式を避けたのはクライスラーの持株比率に影響が出て三菱重工業・クライスラーの基本契約に関連し時間がかかるためだった
    • [6]一体化は合併ではなく統合で、三菱自動車販売が営業権を三菱自動車工業へ譲渡する方法を取った
    • [7]1984年1月に舘豊夫がロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して統合の理解を得、国内の根回しを経て1984年10月に実施した
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [8]自工・自販の統合、米国の現地生産、株式上場はいずれも第一線の社員10人ほどで編成したプロジェクト・チームにたたき台を作らせた
17年前の基本契約を破棄させる

古い基本契約書を取り寄せてその場で破ったのはアイアコッカで、調印を済ませた直後のことだったと舘豊夫は書き残している。調印は1985年4月、アイアコッカ会長の来日に合わせて行われ、契約は2つあった。1つ目は、三菱重工業とクライスラーが17年前に交わした基本契約を廃するものだった。これにより、外に閉じた合弁会社の立場を少しずつ抜け出して株式を上場し、普通の公開会社になる道が開けた。もう1つは、折半の投資でイリノイ州に乗用車の組立工場を設ける契約である。建設資金は約6億ドル、年産は24万台という構想だった。1985年10月に設立されたダイヤモンド・スター・モーターズがこれにあたり、生産車はクライスラーの販売網と三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めになっていた。同じ1985年、クライスラーは出資比率を15%から20%へ引き上げている。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [9]調印を終えるとアイアコッカ会長が分厚い古い基本契約書を取り寄せ、その場で破いた
    • [10]1985年4月 アイアコッカ会長の来日を機に三菱自動車工業とクライスラーは2つの新契約に調印した
    • [11]新契約の1つは17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約を廃棄するもので、閉ざされた合弁会社から漸次脱皮し株式を上場して公開会社を指向する道を開いた
    • [12]もう1つの契約は米国イリノイ州に三菱自動車工業・クライスラー折半投資の乗用車組立工場を設立するもので、建設資金約6億ドル・設備能力年24万台の構想だった
    • [14]ダイヤモンド・スター・モーターズの生産車はクライスラーの販売チャンネルと三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めだった
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1985年10月 クライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立
  • 有価証券報告書
    • [15]1985年 クライスラーが三菱自動車への出資比率を15%から20%に引き上げ
株主構成を組み替えて上場にこぎつける

基本契約の廃棄は、株主構成の組み替えとして現れた。1987年3月末までに三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ下がり、クライスラー20%、三菱商事10%、三菱銀行5%をはじめ株主数は118社を数えるに至る。経営の体裁も変えた。舘豊夫は本社の課制を廃してほぼ全社をグループ制へ移し、部長の下にグループ長を置く構造へ組み替えている。1986年度は売上台数が128万台、売上高が1兆5587億円だった。1ドル163円まで円高が進んで約1700億円の差損が生じたが、そのうち1600億円は採算の改善で吸収した。舘は、公募増資で自己資本比率が高まったことが、社外に閉じた会社という自己認識を脱するきっかけになったと述べている。上場を果たしたのは1988年12月で、東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式が並んだ。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [16]1987年3月末で三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ減少し、クライスラー20%・三菱商事10%・三菱銀行5%をはじめ株主数は118社となった
    • [18]1986年度は売上台数128万台(国内51万台・輸出77万台)・売上高1兆5587億円。前年度平均1ドル230円に対し163円の円高による差損約1700億円のうち1600億円を採算改善ではね返した
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [17]舘豊夫は本社の課制を廃止し約90%をグループ制へ移行させ、部長の下にグループ長を置く体制へ組み替えた
    • [19]1988年12月の上場時の公募増資で自己資本比率を改善、「上場によって一人前になった」と舘豊夫会長
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1988年12月 東京・大阪・名古屋各証券取引所の市場第一部に株式上場
参考文献[1]-[20]
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [1]国内で車が売れないとき自工は「販売力が弱いから」、自販は「商品力が弱いから」と責任逃れをする悪弊があった
    • [2]舘豊夫は1983年6月末に三菱自動車工業の社長へ就任した
    • [3]舘豊夫が社長就任後まず着手したのは三菱自動車工業と三菱自動車販売(1964年設立)の一体化だった
    • [4]一体化により開発から生産・販売・輸出・管理まで一貫した責任体制を取ることが統合の狙いだった
    • [5]合併方式を避けたのはクライスラーの持株比率に影響が出て三菱重工業・クライスラーの基本契約に関連し時間がかかるためだった
    • [6]一体化は合併ではなく統合で、三菱自動車販売が営業権を三菱自動車工業へ譲渡する方法を取った
    • [7]1984年1月に舘豊夫がロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して統合の理解を得、国内の根回しを経て1984年10月に実施した
    • [9]調印を終えるとアイアコッカ会長が分厚い古い基本契約書を取り寄せ、その場で破いた
    • [10]1985年4月 アイアコッカ会長の来日を機に三菱自動車工業とクライスラーは2つの新契約に調印した
    • [11]新契約の1つは17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約を廃棄するもので、閉ざされた合弁会社から漸次脱皮し株式を上場して公開会社を指向する道を開いた
    • [12]もう1つの契約は米国イリノイ州に三菱自動車工業・クライスラー折半投資の乗用車組立工場を設立するもので、建設資金約6億ドル・設備能力年24万台の構想だった
    • [14]ダイヤモンド・スター・モーターズの生産車はクライスラーの販売チャンネルと三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めだった
    • [16]1987年3月末で三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ減少し、クライスラー20%・三菱商事10%・三菱銀行5%をはじめ株主数は118社となった
    • [18]1986年度は売上台数128万台(国内51万台・輸出77万台)・売上高1兆5587億円。前年度平均1ドル230円に対し163円の円高による差損約1700億円のうち1600億円を採算改善ではね返した
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [8]自工・自販の統合、米国の現地生産、株式上場はいずれも第一線の社員10人ほどで編成したプロジェクト・チームにたたき台を作らせた
    • [17]舘豊夫は本社の課制を廃止し約90%をグループ制へ移行させ、部長の下にグループ長を置く体制へ組み替えた
    • [19]1988年12月の上場時の公募増資で自己資本比率を改善、「上場によって一人前になった」と舘豊夫会長
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1985年10月 クライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立
    • [20]1988年12月 東京・大阪・名古屋各証券取引所の市場第一部に株式上場
  • 有価証券報告書
    • [15]1985年 クライスラーが三菱自動車への出資比率を15%から20%に引き上げ

1989年〜クライスラーの株式売却とRVブームの絶頂

提携先に株を手放される

資本関係は、提携先の事情によって先に薄まった。1989年7月、クライスラーは将来の設備資金の確保を理由に保有株7500万株を売却し、持株比率は21.8%から12.1%へ下がった。市場の混乱を避けるため既存株主である金融機関25社が引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上がって株主構成は一般の上場企業並みになる。クライスラー出身の役員は多いときで6人いたが、上場を決めた際に2人へ減り、1989年6月の株主総会で非常勤の1人となった。舘豊夫は、経営面での干渉はすでになく実質的に対等だった関係が形の上でも対等になったと説明している。1991年には合弁で設立したダイヤモンド・スター・モーターズのクライスラー持分を取得し、完全子会社としている。

  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [21]1989年7月 クライスラーが保有する7500万株を売却し持株比率は21.8%から12.1%へ低下(設備資金確保が理由と説明)
    • [22]売却株は既存株主の金融機関25社が買い増して引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上昇
    • [23]クライスラー出身の役員は多い時で6人いたが上場を決めた際に2人となり、1989年6月末の株主総会で非常勤の1人になった
    • [24]舘豊夫会長は経営面での干渉はなく実質的なイコール・パートナーシップだったものが形の上でもそうなったと説明
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [25]1991年 クライスラーの全持ち株を買い取りダイヤモンド・スター・モーターズを100%子会社化
パジェロで開拓した市場を独走する

1989年6月に社長へ就任した中村裕一は、三菱重工業と三菱自動車で一貫してエンジン開発に携わった技術者である。危なげな開発に金を使うのかという社内の反対を押し、3人のチームで4気筒エンジンの振動音を抑えるサイレントシャフトを開発した。1975年に実用化すると、サーブ・ボルボ・ポルシェが相次いでこの技術の導入を求めてきた。中村のもとで三菱自動車はRVブームの波に乗る。1991年度、同社のRVは販売を7割近く伸ばし、翌年にも3割の上積みが見込まれた。この追い風を最も大きく受け止めたのは販売会社だった。販社全体の1991年度の経常利益は610億円で、トヨタ系に続く2位につけ、売上高経常利益率は3%に届いた。三菱重工業時代にさかのぼれば自社のRVには半世紀以上の蓄積があり、それを拠り所に、中村はこの分野での首位は当分動かないと判断していた。

  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
    • [26]中村裕一は三菱重工業・三菱自動車工業で一貫して自動車エンジンの開発に携わり、1989年6月に社長へ就任した
    • [27]中村裕一はエンジン設計課長時代に「危なげな開発に金を使うのか」という社内の反対のなか3人のチームでサイレントシャフトを開発した
    • [28]サイレントシャフトは1975年に実用化され、スウェーデンのサーブ・ボルボと西ドイツのポルシェが相次いでこの技術を買いに来た
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [29]1991年度に三菱のRVは70%弱伸び、1992年もさらに30%の伸びを見込むと中村裕一社長
    • [30]1991年度の三菱系販売会社全体の経常利益610億円はトヨタ系に次ぐ第2位、売上高経常利益率3%
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [31]中村裕一社長は自社のRVが三菱重工業から半世紀を軽く超える歴史を持つとし、業界首位の立場はしばらく揺るがないと語った
規模の不足を欧州で埋めにいく

好調のさなかでも、規模の不足は経営陣の共通認識だった。1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位にとどまり、国際競争に生き残るには足りないと中村裕一は述べている。中村は1991年の9月と10月の2か月だけで5回渡欧し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた。好調といっても絶対値が小さいので、いい時に飛躍しなければならないという危機感を口にしている。欧州進出は前任の舘豊夫の代から複数社と検討が続き、日本各社がこぞって選んだ英国には手を付けず大陸を見るという方針が取られていた。ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する案は、採算が得られず見送られている。

  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [32]1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位で、規模が足りないと中村裕一社長
  • DECIDE 1991年12月号
    • [33]中村裕一社長は1991年9月・10月の2か月間に5回ヨーロッパへ出張し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた
    • [34]中村裕一社長は好調でも絶対値が小さいとして、いい時に飛躍しなければならないと述べた
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [35]舘豊夫会長は欧州進出について数社とスタディを進めており、日本メーカーが集中した英国はノータッチで大陸を見る方針だと述べた
    • [36]ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する事業は前年まで検討したが採算が得られず見送られた
参考文献[21]-[36]
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [21]1989年7月 クライスラーが保有する7500万株を売却し持株比率は21.8%から12.1%へ低下(設備資金確保が理由と説明)
    • [22]売却株は既存株主の金融機関25社が買い増して引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上昇
    • [23]クライスラー出身の役員は多い時で6人いたが上場を決めた際に2人となり、1989年6月末の株主総会で非常勤の1人になった
    • [24]舘豊夫会長は経営面での干渉はなく実質的なイコール・パートナーシップだったものが形の上でもそうなったと説明
    • [35]舘豊夫会長は欧州進出について数社とスタディを進めており、日本メーカーが集中した英国はノータッチで大陸を見る方針だと述べた
    • [36]ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する事業は前年まで検討したが採算が得られず見送られた
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [25]1991年 クライスラーの全持ち株を買い取りダイヤモンド・スター・モーターズを100%子会社化
    • [29]1991年度に三菱のRVは70%弱伸び、1992年もさらに30%の伸びを見込むと中村裕一社長
    • [30]1991年度の三菱系販売会社全体の経常利益610億円はトヨタ系に次ぐ第2位、売上高経常利益率3%
    • [32]1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位で、規模が足りないと中村裕一社長
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
    • [26]中村裕一は三菱重工業・三菱自動車工業で一貫して自動車エンジンの開発に携わり、1989年6月に社長へ就任した
    • [27]中村裕一はエンジン設計課長時代に「危なげな開発に金を使うのか」という社内の反対のなか3人のチームでサイレントシャフトを開発した
    • [28]サイレントシャフトは1975年に実用化され、スウェーデンのサーブ・ボルボと西ドイツのポルシェが相次いでこの技術を買いに来た
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [31]中村裕一社長は自社のRVが三菱重工業から半世紀を軽く超える歴史を持つとし、業界首位の立場はしばらく揺るがないと語った
  • DECIDE 1991年12月号
    • [33]中村裕一社長は1991年9月・10月の2か月間に5回ヨーロッパへ出張し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた
    • [34]中村裕一社長は好調でも絶対値が小さいとして、いい時に飛躍しなければならないと述べた

1994年〜G作戦の拡大投資とRV独占の崩壊

2000年の世界シェア5%へ投資を張る

1994年から1997年にかけて、三菱自動車は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指すG作戦を推し進めた。米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場と合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させている。1995年7月にはダイヤモンド・スター・モーターズを、ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカへ改称した。1997年8月にはタイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得している。ただしこの拡大には土台がなかった。1980年代後半からの新工場建設競争で他社が痛手を負ったとき、三菱自動車だけが過剰投資を免れた。だがそれは需要の減退を読んだからではなく、十分な資金がなく建てたくても建てられなかった結果にすぎない。他社に4〜5年遅れて、同じ道を歩くことになった。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [37]三菱自動車工業は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指す「G作戦」を推し進めた
    • [38]米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場や合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させた
    • [41]1980年代後半から1990年代初めの新工場建設競争で他社が痛手を負うなか、三菱自動車工業だけが新工場建設を見送り過剰投資を免れた
    • [42]新工場を建設しなかったのは経営戦略ではなく、当時十分な資金がなくしたくてもできなかった結果だった
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [39]1995年7月 ダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ社名変更
    • [40]1997年8月 タイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得
開拓した市場を乗用車ベースのRVに奪われる

ライバル各社はセダン系の乗用車に手を加えたRVを相次いで出し、同社の独占は崩れていった。その代表が本田技研工業のオデッセイで、既存車種の車台を使った乗用車ベースのRVとして1994年10月に登場し、1995年に12万5559台を販売した。これに対抗するシャリオグランディスを三菱自動車が投入したのは、3年遅れの1997年10月だった。同社の国内シェアは1995年の11.9%を頂点に1997年には10.1%まで下がり、1991年の水準に逆戻りした。開発の責任者だった遠山智常務は、河原や山道にまで分け入れる四輪駆動車こそがRVだという作り手の思い込みから脱せなかったと認めた。1995年6月に社長へ就任した塚原董久は、国内需要の伸びを微増と見て、他社からのシェア奪取を前提とする中期計画に自信を見せていた。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [43]ライバル各社がセダン系の乗用車を手直ししたRVを市場に投入すると三菱自動車工業の独壇場は崩れた
    • [44]本田技研工業が1994年10月に投入したオデッセイは主力車種アコードからの車台転用で、1995年に12万5559台を記録した
    • [45]三菱自動車工業はオデッセイ発売から3年遅れの1997年10月に対抗車種シャリオグランディスを発売した
    • [46]1995年に11.9%まで高まった国内シェアは1997年には10.1%と1991年と同じ水準まで低下した
    • [47]開発を統括する遠山智常務は、河原や山の中まで入っていける四輪駆動こそRVというメーカー主導の考えから離れられなかったと認めた
  • 日経ビジネス 1995年11月20日号
    • [48]1995年6月に社長就任した塚原董久は国内需要の伸びを微増とみたうえで、他社のシェア奪取を前提にした中期計画の達成に自信を見せた
相次ぐ社長交代のなかで赤字へ落ちる

1996年度に経常最高益を記録した三菱自動車は、翌1997年度に一転する。国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱にとどまった。1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円と前期を上回りながら、連結最終損益は1100億円と上場以来初めての赤字に転じる。商法違反を機に企業イメージが傷ついたことも加わり、社長は3年間で3回入れ替わった。1997年11月に社長となった河添克彦は常務からの昇格で、年次が上の役員13人を追い越しての就任だった。河添は振り返って、何を売るのかという方針が定まっていなかったことを認め、作った車は販売側が黙ってさばけばいいという独りよがりな空気が技術陣を覆っていたとも語った。技術に偏り、身の丈を超えて広げたことの代償は、その後10年にわたる資本の組み替えにまで及ぶことになる。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [49]三菱自動車工業は1996年度に経常最高益を記録した
    • [50]1997年度の国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱に低迷した
    • [52]1998年3月期の連結最終損益は1100億円の赤字で、上場以来初めての赤字転落だった
    • [53]商法違反に端を発した企業イメージの低下と業績の急降下のなか、3年間に3回の社長交代が起きた
    • [54]1997年11月 先輩役員13人を抜いて常務から河添克彦が社長へ就任
    • [55]河添克彦社長は当社に商品戦略と呼べるものはなかったと述べた
    • [56]河添克彦社長は、技術陣に自分たちが作ったクルマを販売が黙って売っていればいいという独善的な雰囲気が蔓延していたと述べた
  • 会社年鑑
    • [51]1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円
参考文献[37]-[56]
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [37]三菱自動車工業は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指す「G作戦」を推し進めた
    • [38]米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場や合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させた
    • [41]1980年代後半から1990年代初めの新工場建設競争で他社が痛手を負うなか、三菱自動車工業だけが新工場建設を見送り過剰投資を免れた
    • [42]新工場を建設しなかったのは経営戦略ではなく、当時十分な資金がなくしたくてもできなかった結果だった
    • [43]ライバル各社がセダン系の乗用車を手直ししたRVを市場に投入すると三菱自動車工業の独壇場は崩れた
    • [44]本田技研工業が1994年10月に投入したオデッセイは主力車種アコードからの車台転用で、1995年に12万5559台を記録した
    • [45]三菱自動車工業はオデッセイ発売から3年遅れの1997年10月に対抗車種シャリオグランディスを発売した
    • [46]1995年に11.9%まで高まった国内シェアは1997年には10.1%と1991年と同じ水準まで低下した
    • [47]開発を統括する遠山智常務は、河原や山の中まで入っていける四輪駆動こそRVというメーカー主導の考えから離れられなかったと認めた
    • [49]三菱自動車工業は1996年度に経常最高益を記録した
    • [50]1997年度の国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱に低迷した
    • [52]1998年3月期の連結最終損益は1100億円の赤字で、上場以来初めての赤字転落だった
    • [53]商法違反に端を発した企業イメージの低下と業績の急降下のなか、3年間に3回の社長交代が起きた
    • [54]1997年11月 先輩役員13人を抜いて常務から河添克彦が社長へ就任
    • [55]河添克彦社長は当社に商品戦略と呼べるものはなかったと述べた
    • [56]河添克彦社長は、技術陣に自分たちが作ったクルマを販売が黙って売っていればいいという独善的な雰囲気が蔓延していたと述べた
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [39]1995年7月 ダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ社名変更
    • [40]1997年8月 タイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得
  • 日経ビジネス 1995年11月20日号
    • [48]1995年6月に社長就任した塚原董久は国内需要の伸びを微増とみたうえで、他社のシェア奪取を前提にした中期計画の達成に自信を見せた
  • 会社年鑑
    • [51]1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円

筆者考察

合弁の枠組みを解くのに、三菱自動車は3つの手を順に打った。1984年10月に三菱自動車販売の営業権を引き取って開発から販売までを一つの責任へ統合し、1985年4月には17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約そのものを廃棄し、1988年12月に株式を公開する。三菱重工業の持株は85%から32.62%へ下がり、クライスラー出身の役員は6人から1人になった。1971年に借りた資本と販売網を、17年かけて返したことになる。合弁を解いた相手のクライスラーは、1989年に保有株の4割強を自らの設備資金のために手放した。

自立が与えた自由は、しかし規模の不足という古い問題をそのまま引き継いでいた。1991年度の国内シェアは10.5%、販売台数は世界10位。パジェロが作ったRV市場の独走は、その不足を埋めてくれるように見えた。三菱自動車は2000年に世界シェア5%を掲げて海外生産を4〜5年でほぼ倍増させたが、他社が乗用車の車台でRVを作り始めると独壇場は崩れ、国内シェアは1995年の11.9%から1997年に10.1%へ戻る。他社の過剰投資を横で見ていながら、4〜5年遅れて同じ道を歩いた。

売上高(連結) 1992年3月期〜1997年3月期(億円)

30,871 92.3 31,804 93.3 29,469 94.3 34,141 95.3 35,370 96.3 36,720 97.3
  • 売上は伸び続けたが、国内シェアは1995年の11.9%を頂に1997年には10.1%へ戻った。
  • 出所は会社年鑑。

1983年〜1997年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1983年03月期 単体 10,613 n/a 126 1.2% n/a
1984年03月期 単体 11,736 +10.6% 55 0.5% n/a
1985年03月期 単体 14,083 +20.0% 66 0.5% n/a
1986年03月期 単体 15,788 +12.1% 253 1.6% n/a
1987年03月期 単体 15,586 ▲1.3% 144 0.9% n/a
1988年03月期 単体 17,526 +12.4% 110 0.6% n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 30,871 n/a 295 1.0% n/a
1993年03月期 連結 31,804 +3.0% 258 0.8% n/a
1994年03月期 連結 29,469 ▲7.3% 55 0.2% n/a
1995年03月期 連結 34,141 +15.9% 126 0.4% n/a
1996年03月期 連結 35,370 +3.6% 127 0.4% n/a
1997年03月期 連結 36,720 +3.8% 115 0.3% 十勝研究所を新設(1996/11)

出所:証券41(1)、会社年鑑

出典・参考

10件
出典・参考
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
  • 有価証券報告書
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
  • DECIDE 1991年12月号
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
  • 日経ビジネス 1995年11月20日号
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」

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