津田駒工業:津田駒次郎の金沢での創業と絹・人絹織機の製造
1909年〜東京麻布の松尾鉄工所で動力織機を学んだ津田駒次郎氏と、金沢茨木町の織機工場
津田駒次郎氏は1909年(明治42年)3月、金沢市茨木町に個人経営の工場を設け、織機の生産を始めた。金沢の織物業は、明治維新のころに旧藩主の前田侯が士族の殖産興業として羽二重の機業を起こしたことに端を発した。当時の機屋は、木製の手織機を手と足で操って羽二重を織っていた。津田駒次郎氏は日露戦争の終結後に上京し、動力織機を考案していた東京麻布の松尾鉄工所で技術を学んだ。羽二重の生産を動力で近代化することが、郷里に戻って工場を設けた狙いだった。以上は、1963年に社長の越馬徳治氏が対談で明かした経緯。津田駒次郎氏は、郷里の機業が手織りから動力へ移る局面で、機屋に織機を供給する事業を選んだのだろう。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- [1]1909年(明治42年)3月、津田駒次郎氏が個人経営で創業し織機の生産を開始。創業の地は金沢市茨木町
- 野田経済 860 1963年3月4日号
- [2]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [3]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [4]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [5]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [6]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
津田駒次郎氏の工場は創業後、津田式絹人絹織機の製造と販売を事業の中心に据えた。常務取締役の西田昭二氏は1984年の寄稿で、創業の事業を金沢での絹人絹織機の製造と記した。西田昭二氏は同じ寄稿で、金沢が加賀藩の時代から羽二重を代表とする絹織物の産地であり、気候も織物に適していたと述べた。昭和の初めには、国内にレーヨン(人絹)が登場。北陸の機屋が織る糸は、その後、絹から人絹を経て戦後の合成繊維へと移った。越馬徳治氏は1963年時点で、生産する織機の80%が合成繊維向けになったと語った。羽二重向けの織機を人絹にも対応させたことで、津田駒次郎氏の工場は北陸の産地の糸の転換に追随できたとみられる。
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- [7]1909年の創業以来、津田式絹人絹織機の製造販売を続けた
- 証券アナリストジャーナル 22(9) 1984年(西田昭二)
- [8]西田昭二常務(1984年):明治42年に金沢で個人経営で絹人絹織機の製造を開始。金沢は加賀藩時代から羽二重など絹織物との関係が深く、気候も適していた
- [9]西田昭二常務(1984年):明治42年に金沢で個人経営で絹人絹織機の製造を開始。金沢は加賀藩時代から羽二重など絹織物との関係が深く、気候も適していた
- 野田経済 860 1963年3月4日号
- [10]越馬徳治氏(1963年):昭和初めにレーヨンが日本に現れ、戦後はナイロン等へ。織機は絹から人絹を経て合成繊維へ移った。1963年時点で生産の80%は合成繊維の織機
- [11]越馬徳治氏(1963年):昭和初めにレーヨンが日本に現れ、戦後はナイロン等へ。織機は絹から人絹を経て合成繊維へ移った。1963年時点で生産の80%は合成繊維の織機
- [12]越馬徳治氏(1963年):昭和初めにレーヨンが日本に現れ、戦後はナイロン等へ。織機は絹から人絹を経て合成繊維へ移った。1963年時点で生産の80%は合成繊維の織機
参考文献[1]-[12]
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- [1]1909年(明治42年)3月、津田駒次郎氏が個人経営で創業し織機の生産を開始。創業の地は金沢市茨木町
- 野田経済 860 1963年3月4日号
- [2]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [3]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [4]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [5]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [6]越馬徳治氏(1963年):前田侯が維新期に士族の殖産興業として羽二重の機業を起こした。当時は木製の手足操作の手織機。津田駒次郎氏は日露戦争後に上京し麻布の松尾鉄工所で動力織機を学び、羽二重産業の近代化のため金沢に戻り工場を設立
- [10]越馬徳治氏(1963年):昭和初めにレーヨンが日本に現れ、戦後はナイロン等へ。織機は絹から人絹を経て合成繊維へ移った。1963年時点で生産の80%は合成繊維の織機
- [11]越馬徳治氏(1963年):昭和初めにレーヨンが日本に現れ、戦後はナイロン等へ。織機は絹から人絹を経て合成繊維へ移った。1963年時点で生産の80%は合成繊維の織機
- [12]越馬徳治氏(1963年):昭和初めにレーヨンが日本に現れ、戦後はナイロン等へ。織機は絹から人絹を経て合成繊維へ移った。1963年時点で生産の80%は合成繊維の織機
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- [7]1909年の創業以来、津田式絹人絹織機の製造販売を続けた
- 証券アナリストジャーナル 22(9) 1984年(西田昭二)
- [8]西田昭二常務(1984年):明治42年に金沢で個人経営で絹人絹織機の製造を開始。金沢は加賀藩時代から羽二重など絹織物との関係が深く、気候も適していた
- [9]西田昭二常務(1984年):明治42年に金沢で個人経営で絹人絹織機の製造を開始。金沢は加賀藩時代から羽二重など絹織物との関係が深く、気候も適していた
1933年〜茨木町から移転・拡張した工場と、資本金30万円の合資会社への改組
津田駒次郎氏は1933年(昭和8年)、工場を創業の地の金沢市茨木町から現在地へ移し、規模を拡大した。1909年の創業から24年後の移転。1963年の対談で越馬徳治氏は、創業当初の工場を町工場と認めたうえで、茨木町からの移転を昭和8年と振り返った。移転の時期は、昭和の初めに国内でレーヨンが現れ、織機の対象が絹から人絹へ移り始めた後にあたる。1955年の社史の記録は、創業以来の津田式絹人絹織機について、その後の需要の増大を事業の拡大の背景に挙げた。茨木町の町工場の敷地では人絹織機の注文に応じきれなくなり、津田駒次郎氏は移転による拡張を選んだと推察される。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- [13]1933年(昭和8年)、創業の地金沢市茨木町から現在地に工場を移転拡張
- [14]1933年(昭和8年)、創業の地金沢市茨木町から現在地に工場を移転拡張
- 野田経済 860 1963年3月4日号
- [15]越馬徳治氏(1963年):最初は町工場で、昭和8年に茨木町から現在地へ移った。その間に昭和初めのレーヨン登場
- [16]越馬徳治氏(1963年):最初は町工場で、昭和8年に茨木町から現在地へ移った。その間に昭和初めのレーヨン登場
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- [17]津田式絹人絹織機の需要の増大に伴い、1939年12月に株式会社へ改組
津田駒次郎氏は1936年(昭和11年)3月、個人経営で営んできた工場を資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組した。1909年の創業から27年間、事業は津田駒次郎氏の個人経営のもとにあった。改組は、1933年に茨木町から現在地へ工場を移し、規模を拡大した3年後にあたる。合資会社は3年余りで次の改組を迎え、1939年(昭和14年)12月に資本金250万円の株式会社となり、社名を津田駒工業に改めた。1955年の社史はこの株式会社化の理由として、津田式絹人絹織機の需要の増大を挙げた。拡張した工場の資金を個人の信用だけで賄うことが難しくなり、段階を踏んで会社組織を整えたと思われる。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- [18]1936年(昭和11年)3月、資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組。1939年12月、社名を津田駒工業とし資本金250万円の株式会社に改組
- [20]1936年(昭和11年)3月、資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組。1939年12月、社名を津田駒工業とし資本金250万円の株式会社に改組
- [21]1936年(昭和11年)3月、資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組。1939年12月、社名を津田駒工業とし資本金250万円の株式会社に改組
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- [19]1909年に津田駒次郎氏が個人経営で創業。津田式絹人絹織機の需要増大に伴い1939年12月に資本金250万円で株式会社に改組
- [22]1909年に津田駒次郎氏が個人経営で創業。津田式絹人絹織機の需要増大に伴い1939年12月に資本金250万円で株式会社に改組
津田駒次郎工場は1937年(昭和12年)、精密工作機械に用いる万能割出台・円テーブル・マシンバイスの製造を始めた。同じ時期には、航空機の部品と弾丸の製作も手がけた。越馬徳治氏は1961年の対談で、日中戦争と太平洋戦争の期間は軍需品を手がけ、それ以外の時期は繊維機械を主力としてきたと振り返った。1939年(昭和14年)には繊維機械製造制限令によって、津田駒工業は織機の製造を中止した。生産は工作機械用の精密完成部品と精密螺子工具に切り替わり、終戦まで続いた。工作機械の付属品は戦後も残り、越馬徳治氏は1961年時点でフライス盤のアタッチメントを繊維機械以外の事業に挙げた。織機の部品加工で培った精度が、割出台をはじめとする工作機械の付属品へ転用されたと考えられる。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- [23]1937年(昭和12年)、精密工作機械用の万能割出台・円テーブル・マシンバイスの製造を開始し、航空機部品と弾丸も製作
- [24]1937年(昭和12年)、精密工作機械用の万能割出台・円テーブル・マシンバイスの製造を開始し、航空機部品と弾丸も製作
- 野田経済 761 1961年5月1日号
- [25]越馬徳治氏(1961年):日支事変・太平洋戦争期は軍需品、それ以外は繊維機械が主力。1961年時点でフライス盤のアタッチメント等も手がける
- [28]越馬徳治氏(1961年):日支事変・太平洋戦争期は軍需品、それ以外は繊維機械が主力。1961年時点でフライス盤のアタッチメント等も手がける
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- [26]1939年の繊維機械製造制限令で織機製造を中止し、工作機械用精密完成部品・精密螺子工具に転換、終戦まで生産
- [27]1939年の繊維機械製造制限令で織機製造を中止し、工作機械用精密完成部品・精密螺子工具に転換、終戦まで生産
参考文献[13]-[28]
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- [13]1933年(昭和8年)、創業の地金沢市茨木町から現在地に工場を移転拡張
- [14]1933年(昭和8年)、創業の地金沢市茨木町から現在地に工場を移転拡張
- [18]1936年(昭和11年)3月、資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組。1939年12月、社名を津田駒工業とし資本金250万円の株式会社に改組
- [20]1936年(昭和11年)3月、資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組。1939年12月、社名を津田駒工業とし資本金250万円の株式会社に改組
- [21]1936年(昭和11年)3月、資本金30万円の合資会社津田駒次郎工場に改組。1939年12月、社名を津田駒工業とし資本金250万円の株式会社に改組
- [23]1937年(昭和12年)、精密工作機械用の万能割出台・円テーブル・マシンバイスの製造を開始し、航空機部品と弾丸も製作
- [24]1937年(昭和12年)、精密工作機械用の万能割出台・円テーブル・マシンバイスの製造を開始し、航空機部品と弾丸も製作
- 野田経済 860 1963年3月4日号
- [15]越馬徳治氏(1963年):最初は町工場で、昭和8年に茨木町から現在地へ移った。その間に昭和初めのレーヨン登場
- [16]越馬徳治氏(1963年):最初は町工場で、昭和8年に茨木町から現在地へ移った。その間に昭和初めのレーヨン登場
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- [17]津田式絹人絹織機の需要の増大に伴い、1939年12月に株式会社へ改組
- [19]1909年に津田駒次郎氏が個人経営で創業。津田式絹人絹織機の需要増大に伴い1939年12月に資本金250万円で株式会社に改組
- [22]1909年に津田駒次郎氏が個人経営で創業。津田式絹人絹織機の需要増大に伴い1939年12月に資本金250万円で株式会社に改組
- [26]1939年の繊維機械製造制限令で織機製造を中止し、工作機械用精密完成部品・精密螺子工具に転換、終戦まで生産
- [27]1939年の繊維機械製造制限令で織機製造を中止し、工作機械用精密完成部品・精密螺子工具に転換、終戦まで生産
- 野田経済 761 1961年5月1日号
- [25]越馬徳治氏(1961年):日支事変・太平洋戦争期は軍需品、それ以外は繊維機械が主力。1961年時点でフライス盤のアタッチメント等も手がける
- [28]越馬徳治氏(1961年):日支事変・太平洋戦争期は軍需品、それ以外は繊維機械が主力。1961年時点でフライス盤のアタッチメント等も手がける
出典・参考
5件
- 会社銀行八十年史 1955年「津田駒工業」
- 企業の歴史 明治百年 1968年「津田駒工業」
- 証券アナリストジャーナル 22(9) 1984年(西田昭二)
- 野田経済 761 1961年5月1日号
- 野田経済 860 1963年3月4日号