アマダ:100億円の展示場と再建5社の分業
1979年〜流通マージンの置き換え ── 商談の8割を生んだ展示場
1979年3月期、アマダは過去最高の利益を計上した。単体の売上高は前期の497億円から607億円へ二割強伸びている。天田勇は、好調を支えているのは設備の更新需要だとしながらも、業界の体質には厳しい目を向けていた。戦前の工作機械業界には陸海軍という安定した買い手がおり、民間向けであっても客のほうが代金を携えてやって来た。良い品さえ作れば売れるという当時の前提が今も抜けきっていない、というのが天田の見立てである。自社の最大の弱みを販売力とみたのは、技術一筋で歩んできた天田自身であり、販売の仕組みづくりは義弟の江守龍治副社長に託されていた。代理店に任せれば、手数料が五分から一割では責任ある売り方をせず、一割五分から二割を払っても売った後は放っておかれ、上がってくる声も買い手ではなく代理店の都合に偏る。天田はそう見ており、流通に回していた費用を自前の販売設備へ振り替える判断はここから出てきた。
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [1]1979年3月期決算で過去最高の利益を計上
- [3]好調の理由として設備の更新需要の顕在化を挙げた(賃金・資材の上昇と円安で老朽設備が持たない)
- [4]工作機械業界は戦前に陸海軍という安定した需要先を持ち、いいものさえ作れば客が買いに来るという体質が残っていると天田勇が指摘
- [5]天田勇は自らを技術屋で売ることが最も弱いとし、義弟の江守副社長に売るシステムの構築を依頼した
- [6]代理店は5〜10%のマージンでは責任を持たず15〜20%でも売りっ放しで、入るのはユーザーニーズでなくディーラーニーズだと天田勇が語る
- 会社年鑑(アマダ 単体・3月期)
- [2]単体売上高は1978年3月期497億円、1979年3月期607億円
振り替えた先が、神奈川県伊勢原市の本社に設けた展示場である。1フロア9,240平方メートルに約200種類の機械を並べ、展示会は週末を中心に年間93日、東京芝浦電気グループなど特定の大企業グループ向けの催しを含めれば150〜160日開いた。日曜には1,000人以上が訪れ、各地区の担当者が本社の技術者と組んで性能と使い方を説明し、導入後の合理化効果まで計算して見せた。北海道から九州まで集まる顧客の交通費と宿泊費は原則としてアマダが負担し、箱根や熱海に宿を取って家族同伴の観光も組み込んだ。自社の宿泊施設も持っており、近隣のホテルと併せて使った。約3,000平方メートルのロビーには高級品の店と子供の遊び場を置いた。得意先の大半は中小・零細企業で、この場で成立した商談による売上高が全売上高の8割を占めた。
- 日経ビジネス(1980年2月11日号)企業前線 アマダの展示場商法
- [7]神奈川県伊勢原市の本社に大規模な展示場を設けた
- [8]展示場は1フロア9,240平方メートル・約200種類の機械、展示会は週末中心に年間93日、特別展示会を含め150〜160日
- [9]日曜には1,000人以上が訪れ、地区担当のセールスマンが本社技術者と組んで性能・使い方を説明し導入後の合理化効果まで計算した
- [10]全国から集まる顧客の交通費・宿泊費は原則アマダ負担、箱根や熱海に宿を取り家族同伴の観光も配慮
- [12]併設した約3,000平方メートルのロビーに海外の高級品を並べた店と子供の遊び場を設置
- [13]得意先の大半は中小・零細企業で、展示場で成立した商談による売上が全売上高の8割を占めた
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [11]招待客の宿泊には自社の宿泊施設と近隣(箱根・熱海)のホテルを使った
天田が{q1}と述べたとおり、アマダのシステムは機器を据え付けて終わりではなく、使い手が最も効率よく扱える方法を伝えるところまでを含んでいた。具体的には、機械を買った顧客を本社に招き、財団法人となったアマダスクールで無償の講習を受けさせ、所定の資格を取らせた。セットではなくシステムとして売る以上、使い手本人の学びが欠かせないという発想である。本社と展示場には建物・土地込みで約100億円が投じられたが、この金額は他社が追随できないところまでやり切るという方針から導かれたものだった。販売の面では超長期の割賦販売も武器にしており、資金力の乏しい買い手の手が届くところまで条件を寄せていた。機械の性能ではなく、買い手が機械を使えるようになるまでの距離のほうを競争の焦点に置き換えた設備だったのだろう。
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [14]システムはこれとこれを並べたものではなく、最も効率的な使い方を教えることもシステムに入ると天田勇が説明
- [15]機械を売るとユーザーを本社の財団法人アマダスクールに入校させ、無料で学ばせて一定の資格を持たせた
- [16]セット販売ではなくシステム販売である以上、使う人に勉強してもらわなければシステムのうちに入らないと述べた
- [17]本社・展示場の建物と土地を含めて約100億円を投じた
- [18]隣が新しいことを始めるとすぐ真似をされるため、そっくり真似ができないところまで徹底してやるという方針
- 日経ビジネス(1981年10月5日号)私の失敗哲学 天田勇・アマダ社長
- [19]販売力が強く、超長期の割賦販売を武器にしていた
参考文献[1]-[19]
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [1]1979年3月期決算で過去最高の利益を計上
- [3]好調の理由として設備の更新需要の顕在化を挙げた(賃金・資材の上昇と円安で老朽設備が持たない)
- [4]工作機械業界は戦前に陸海軍という安定した需要先を持ち、いいものさえ作れば客が買いに来るという体質が残っていると天田勇が指摘
- [5]天田勇は自らを技術屋で売ることが最も弱いとし、義弟の江守副社長に売るシステムの構築を依頼した
- [6]代理店は5〜10%のマージンでは責任を持たず15〜20%でも売りっ放しで、入るのはユーザーニーズでなくディーラーニーズだと天田勇が語る
- [11]招待客の宿泊には自社の宿泊施設と近隣(箱根・熱海)のホテルを使った
- [14]システムはこれとこれを並べたものではなく、最も効率的な使い方を教えることもシステムに入ると天田勇が説明
- [15]機械を売るとユーザーを本社の財団法人アマダスクールに入校させ、無料で学ばせて一定の資格を持たせた
- [16]セット販売ではなくシステム販売である以上、使う人に勉強してもらわなければシステムのうちに入らないと述べた
- [17]本社・展示場の建物と土地を含めて約100億円を投じた
- [18]隣が新しいことを始めるとすぐ真似をされるため、そっくり真似ができないところまで徹底してやるという方針
- 会社年鑑(アマダ 単体・3月期)
- [2]単体売上高は1978年3月期497億円、1979年3月期607億円
- 日経ビジネス(1980年2月11日号)企業前線 アマダの展示場商法
- [7]神奈川県伊勢原市の本社に大規模な展示場を設けた
- [8]展示場は1フロア9,240平方メートル・約200種類の機械、展示会は週末中心に年間93日、特別展示会を含め150〜160日
- [9]日曜には1,000人以上が訪れ、地区担当のセールスマンが本社技術者と組んで性能・使い方を説明し導入後の合理化効果まで計算した
- [10]全国から集まる顧客の交通費・宿泊費は原則アマダ負担、箱根や熱海に宿を取り家族同伴の観光も配慮
- [12]併設した約3,000平方メートルのロビーに海外の高級品を並べた店と子供の遊び場を設置
- [13]得意先の大半は中小・零細企業で、展示場で成立した商談による売上が全売上高の8割を占めた
- 日経ビジネス(1981年10月5日号)私の失敗哲学 天田勇・アマダ社長
- [19]販売力が強く、超長期の割賦販売を武器にしていた
1979年〜開発販売と生産の分離 ── 再建5社が担った製造
1979年までの6年間にアマダが傘下へ入れた国内機械メーカーは、いずれも業績不振の5社で、取得に至る道筋は社ごとに違った。淀川プレス製作所の場合は、アマダが技術提携を申し入れた相手が三洋電機の子会社だったため、井植薫社長を介して話をつけ、経営を引き受ける形で決着した。これに対し園池製作所は、三井物産の若杉社長の頼みで始まった案件で、個人の立場でしばらく支えても立て直せず、最後は経営権ごと引き取るよう求められて取得した。ワシノ機械の株式取得(1978年)もまた、第三者から持ち込まれた話だった。頼まれたか申し込んだかを問わず、天田が譲らなかったのは経営の主導権である。{q1}――銀行や商社などさまざまな出資者が入り、方針の違う者の集まりになった会社では、合議制では何も決まらないというのが理由だった。
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [20]1979年までの6年間に国内の業績不振の機械メーカー5社を傘下に入れて立て直した
- [21]淀川プレス製作所へはアマダから技術提携を申し込み、親会社である三洋電機の井植薫社長の了解を得て経営権を取得
- [22]園池製作所は三井物産の若杉社長(当時)に頼まれたのが発端で、個人で面倒を見ても好転せず会社ごと引き受けて経営権を取得
- [24]再建にあたっては経営の主導権をアマダが握ることを信念とした
- [25]銀行・商社など考え方の違う出資者が集まる会社では合議制では何もできないと天田勇が述べる
- アマダ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [23]1978年4月にワシノ機械の株式16.7%を取得(第三者に頼まれた案件で、経営の主導権はアマダが持つ)
園池製作所へは鷲尾寛一社長が1人で入り、生え抜きの社員となじませたうえで、大挙して乗り込むときには天田自身が会長となって、お前たちの骨はおれが拾うと言い、組合を納得させた。1978年に買収したワシノ機械には、翌年半ばの時点で販売担当と技術担当の2人しか行っていない。天田は再建の仕事を、言葉は悪いが洗脳教育だと呼んだ。致命傷は従業員の規律ではなくトップの方針が末端まで浸透していないことにあり、これまでのやり方が甘かったと全員に認めさせるまでに半年から1年かかる。まったく売れずに駄目になる会社は無く、売上がもう少し足りない、原価が高すぎるという程度の理由で赤字が積み上がるのだから、やり方を変えれば利益は出る。1981年には、アマダ本体が商品開発と販売に特化し、関連会社が生産に専念するグループの分業として形が定まった。
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [26]園池製作所へは鷲尾寛一社長1人を送り、プロパー社員となじませたうえで天田勇が会長として乗り込み、組合の納得を得た
- [27]1978年に買収したワシノ機械へは1979年半ばの時点で販売担当と技術担当の2人しか派遣していない
- [28]天田勇は再建の仕事を「言葉は悪いけれど洗脳教育」と表現
- [29]致命傷はトップのポリシーが末端まで浸透していないことにあり、やり方が甘かったと認めさせるのに半年から1年かかる
- [30]まったく売れなくて駄目になる会社はなく、売上不足やコスト高で赤字が累積するのだからやり方を変えれば利益は出る
- 日経ビジネス(1981年10月5日号)私の失敗哲学 天田勇・アマダ社長
- [31]アマダは商品開発・販売に特化し、関連企業は生産に専念するグループ戦略を進めている(1981年時点)
買収を重ねながら、天田は借入に頼らない財務を守った。原点は1965年の不況にある。帯鋸盤の単品経営のまま新製品の開発が遅れ、受注が1963年末から減り始めたのを見て、1964年の正月に増資と技術導入を同時に走らせた。増資で集めた7億4,300万円はそっくり銀行に預け、裏づけのない借金はしない方針を通した。1981年になってもユーザーからの手形700億円を、期日の来たものを取り立てるだけで割引にも他の取引にも回さずに抱えていられた。技術は導入で時間を買い、仏プロメカム・シッソン・レーマン社からプレスブレーキ、米ユー・エス・インダストリー社からトルクパックプレスの製造技術を入れて周辺技術を膨らませた。自前の開発だけでは時間も費用もかかりすぎるという割り切りが、販売力の会社という評価の裏側にあったのだろう。
- 日経ビジネス(1981年10月5日号)私の失敗哲学 天田勇・アマダ社長
- [32]裏づけのない借金はしない方針を取り、内部留保を厚くした
- [33]1963年末から受注が減り始めたのを見て1964年正月に全幹部へ業績の社外公表を禁じ、増資と技術導入を同時並行で進めた
- [34]有償倍額・無償2割の併行増資で7億4,300万円を集め、全額を銀行預金とした
- [35]1981年時点でユーザーからの手形は約700億円あり、銀行割引や他の取引に回さず抱えられるだけ内部留保が厚かった
- [36]仏プロメカム・シッソン・レーマン社とプレスブレーキ、米ユー・エス・インダストリー社とトルクパックプレスの技術援助契約を結んだ
- アマダ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [37]1965年に米US社とプレス、仏PSL社とプレスブレーキの技術提携を締結し同年中に両機種の製造を開始
参考文献[20]-[37]
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- [20]1979年までの6年間に国内の業績不振の機械メーカー5社を傘下に入れて立て直した
- [21]淀川プレス製作所へはアマダから技術提携を申し込み、親会社である三洋電機の井植薫社長の了解を得て経営権を取得
- [22]園池製作所は三井物産の若杉社長(当時)に頼まれたのが発端で、個人で面倒を見ても好転せず会社ごと引き受けて経営権を取得
- [24]再建にあたっては経営の主導権をアマダが握ることを信念とした
- [25]銀行・商社など考え方の違う出資者が集まる会社では合議制では何もできないと天田勇が述べる
- [26]園池製作所へは鷲尾寛一社長1人を送り、プロパー社員となじませたうえで天田勇が会長として乗り込み、組合の納得を得た
- [27]1978年に買収したワシノ機械へは1979年半ばの時点で販売担当と技術担当の2人しか派遣していない
- [28]天田勇は再建の仕事を「言葉は悪いけれど洗脳教育」と表現
- [29]致命傷はトップのポリシーが末端まで浸透していないことにあり、やり方が甘かったと認めさせるのに半年から1年かかる
- [30]まったく売れなくて駄目になる会社はなく、売上不足やコスト高で赤字が累積するのだからやり方を変えれば利益は出る
- アマダ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [23]1978年4月にワシノ機械の株式16.7%を取得(第三者に頼まれた案件で、経営の主導権はアマダが持つ)
- [37]1965年に米US社とプレス、仏PSL社とプレスブレーキの技術提携を締結し同年中に両機種の製造を開始
- 日経ビジネス(1981年10月5日号)私の失敗哲学 天田勇・アマダ社長
- [31]アマダは商品開発・販売に特化し、関連企業は生産に専念するグループ戦略を進めている(1981年時点)
- [32]裏づけのない借金はしない方針を取り、内部留保を厚くした
- [33]1963年末から受注が減り始めたのを見て1964年正月に全幹部へ業績の社外公表を禁じ、増資と技術導入を同時並行で進めた
- [34]有償倍額・無償2割の併行増資で7億4,300万円を集め、全額を銀行預金とした
- [35]1981年時点でユーザーからの手形は約700億円あり、銀行割引や他の取引に回さず抱えられるだけ内部留保が厚かった
- [36]仏プロメカム・シッソン・レーマン社とプレスブレーキ、米ユー・エス・インダストリー社とトルクパックプレスの技術援助契約を結んだ
1985年〜アフター市場の切り出しと、円高が止めた成長
アマダが市場として定義し直したのは、機械を納めた後の時間である。アマダ製の機械は1984年末までに全国で約13万台が納入され、1985年に入っても毎月1,000〜1,200台が市場へ出ていた。この既納入機を相手にする会社が、1975年9月に園池東部販売として設立された子会社で、1979年2月にアマダの技術サービス部門と園池製作所の金型製造部門を譲り受け、修理・保守と金型の製販一貫体制を整えた。以後、自動化ライン装置、既設機へNC装置を後付けするレトロフィット、電子機器・装置の製造へと業務を広げ、1983年1月にアマダメトレックスへ改称している。社長の新藤満三郎は{q1}と述べ、単なるアフターサービスの会社ではないと位置づけた。顧客との取引は97%を自社が直接行い、他の流通経路は3%にすぎない。
- 証券アナリストジャーナル(1985年)新藤満三郎
- [38]機械設置後にユーザー側で生じるあらゆる需要をアフター市場と定義し、その全需要に対応できる社内体制を敷いた
- [39]アマダ製の機械は1984年末までに全国で約13万台が納入され、1985年に入っても毎月1,000〜1,200台が市場に出ていた
- [42]新藤満三郎社長は単なるアフターサービスを行う会社ではないと位置づけた
- [43]顧客との取引は97%を同社が直接行い、他の流通経路は3%にすぎない
- 証券 新規上場会社紹介(1985年)株式会社アマダメトレックス
- [40]1975年9月に園池東部販売として設立、1979年2月にアマダの技術サービス部門と園池製作所の金型製造部門を譲り受けた
- [41]1979年10月に自動化ライン装置、1980年10月にレトロフィット、1982年10月に電子機器・装置の製造を開始し、1983年1月にアマダメトレックスへ商号変更
1985年7月10日、アマダメトレックスは東京証券取引所第二部へ上場した。公募300万株を加えて発行済株式総数は1,343万株となり、大株主はアマダが43.53%、園池製作所が17.53%を持った。1984年9月期の売上高313億3,600万円の内訳は、金型102億8,900万円、NC装置などの電子機器・装置92億9,900万円、修理・保守等77億5,900万円、自動化ライン22億1,900万円、工具17億7,000万円で、従業員は1,015人を数えた。営業所41とサービスセンター75で拠点は116に達し、3〜4年で200〜250へ増やす目標を掲げていた。一方で売上総利益率は1982年9月期の42.7%から1984年9月期の39.8%へ下がり、NC装置など電子機器の販売競争の激化が要因に挙げられている。
- 証券 新規上場会社紹介(1985年)株式会社アマダメトレックス
- [44]1985年7月10日に東京証券取引所市場第二部へ上場(電気機器・銘柄コード6959)
- [45]公募300万株を含め発行済株式総数1,343万株・資本組入総額85億3,150万円、大株主はアマダ43.53%・園池製作所17.53%
- [46]1984年9月期売上高313億3,600万円(金型102億8,900万円・電子機器装置92億9,900万円・修理保守等77億5,900万円・自動化ライン22億1,900万円・工具17億7,000万円)、従業員1,015人
- [48]売上総利益率は1982年9月期42.7%、1983年9月期41.1%、1984年9月期39.8%と低下し、電子機器の販売競争激化が要因
- 証券アナリストジャーナル(1985年)新藤満三郎
- [47]全国41営業所とサービスセンター75で拠点116、3〜4年で200〜250へ増やし顧客へ2時間以内に届ける体制を目標とした
1986年からの急速な円高が、この構図を揺さぶった。1981年に設けた米国現地法人で海外生産を進めており、輸出比率は15%にとどまっていた。それでも苦しんだのは、輸出に4割以上を頼る大隈鉄工所や森精機製作所が国内販売へ力を移したためで、1987年3月期と1988年3月期は2期連続の減収・営業減益に沈んだ。1983年に社長へ就いていた天田満明が選んだのは、展示会場での対話を加工ソフトの蓄積へ変える道で、ソフト開発にあたる技術者を増やし、2社の開発子会社を強化した。1989年3月期の売上高は前年度比34%増の1,296億円へ戻り、1985年3月期の1,176億円を上回って、パンチプレスで70%、シャーリングマシンで60%の国内シェアを占めた。売り場が集めた要望が、次の商品になった局面である。
- 日経ビジネス(1990年5月21日号)アマダ 弟社長
- [49]1986年から1987年にかけて急速に進んだ円高に苦しめられた
- [50]1981年に米国現地法人を設立して海外生産を進めており輸出比率は15%にとどまっていた
- [51]輸出比率40%以上の大隈鉄工所・森精機製作所などが国内販売に注力したため1987年3月期・1988年3月期は2期連続の減収・営業減益
- [52]1983年就任の天田満明社長は展示会商法を活用したソフト開発・蓄積の強化に向かい、SEを増員し2社のソフト開発子会社を強化した
- [53]1989年3月期の売上高は前年度比34%増の1,296億円、パンチプレスで70%・シャーリングマシンで60%の国内シェア
- 会社年鑑(アマダ 単体・3月期)
- [54]単体売上高は1985年3月期1,176億円
参考文献[38]-[54]
- 証券アナリストジャーナル(1985年)新藤満三郎
- [38]機械設置後にユーザー側で生じるあらゆる需要をアフター市場と定義し、その全需要に対応できる社内体制を敷いた
- [39]アマダ製の機械は1984年末までに全国で約13万台が納入され、1985年に入っても毎月1,000〜1,200台が市場に出ていた
- [42]新藤満三郎社長は単なるアフターサービスを行う会社ではないと位置づけた
- [43]顧客との取引は97%を同社が直接行い、他の流通経路は3%にすぎない
- [47]全国41営業所とサービスセンター75で拠点116、3〜4年で200〜250へ増やし顧客へ2時間以内に届ける体制を目標とした
- 証券 新規上場会社紹介(1985年)株式会社アマダメトレックス
- [40]1975年9月に園池東部販売として設立、1979年2月にアマダの技術サービス部門と園池製作所の金型製造部門を譲り受けた
- [41]1979年10月に自動化ライン装置、1980年10月にレトロフィット、1982年10月に電子機器・装置の製造を開始し、1983年1月にアマダメトレックスへ商号変更
- [44]1985年7月10日に東京証券取引所市場第二部へ上場(電気機器・銘柄コード6959)
- [45]公募300万株を含め発行済株式総数1,343万株・資本組入総額85億3,150万円、大株主はアマダ43.53%・園池製作所17.53%
- [46]1984年9月期売上高313億3,600万円(金型102億8,900万円・電子機器装置92億9,900万円・修理保守等77億5,900万円・自動化ライン22億1,900万円・工具17億7,000万円)、従業員1,015人
- [48]売上総利益率は1982年9月期42.7%、1983年9月期41.1%、1984年9月期39.8%と低下し、電子機器の販売競争激化が要因
- 日経ビジネス(1990年5月21日号)アマダ 弟社長
- [49]1986年から1987年にかけて急速に進んだ円高に苦しめられた
- [50]1981年に米国現地法人を設立して海外生産を進めており輸出比率は15%にとどまっていた
- [51]輸出比率40%以上の大隈鉄工所・森精機製作所などが国内販売に注力したため1987年3月期・1988年3月期は2期連続の減収・営業減益
- [52]1983年就任の天田満明社長は展示会商法を活用したソフト開発・蓄積の強化に向かい、SEを増員し2社のソフト開発子会社を強化した
- [53]1989年3月期の売上高は前年度比34%増の1,296億円、パンチプレスで70%・シャーリングマシンで60%の国内シェア
- 会社年鑑(アマダ 単体・3月期)
- [54]単体売上高は1985年3月期1,176億円
筆者考察
アマダが1980年代に太らせたのは機械そのものではなく、機械が売れる場所だった。代理店に委ねれば売上の一割五分から二割を手数料に取られ、しかも返ってくるのは買い手ではなく代理店の要望である。天田勇はその金を伊勢原の展示フロアと無料の技能学校へ振り向け、9,240平方メートルの床と約200種類の機械を、年に93日開く商談の装置に仕立てた。全売上高の8割がこの場で決まるようになったとき、流通に払う経費は、他社が真似できない自前の設備へ姿を変えていた。
売る場所を握った会社は、作る者を選べる。不振に陥った機械メーカー5社を6年で傘下に収めながら、送り込んだのは園池製作所へ社長1人、ワシノ機械へ2人にすぎない。本体は商品開発と販売だけを持ち、製造は再建した関連会社へ、納入後の保守と金型はアマダメトレックスへ預ける分業が1981年までに定まった。1986年からの円高で、輸出に4割を頼る同業が国内へ戻ってきたとき、アマダが持ち出したのも展示会場で集めた加工ソフトだった。売り場に集まる情報が、そのまま次の商品になる構造である。
- 1979〜1985年3月期は会社年鑑(単体)、1989年3月期は日経ビジネス1990年5月21日号の前年度比34%増・1,296億円による。
- 1986〜1988年3月期は手元の資料に数値が無い。
1979年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1979年03月期 | 単体 | 607 | n/a | 45 | 7.4% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 737 | +21.4% | 58 | 7.9% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 971 | +31.8% | 82 | 8.4% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 1,005 | +3.5% | 83 | 8.3% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 847 | ▲15.7% | 66 | 7.8% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 937 | +10.6% | 62 | 6.6% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 1,176 | +25.5% | 83 | 7.1% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
8件
- アマダ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 会社年鑑(アマダ 単体・3月期)
- 日経ビジネス(1979年6月4日号)編集長インタビュー 天田勇氏(アマダ社長)
- 日経ビジネス(1980年2月11日号)企業前線 アマダの展示場商法
- 日経ビジネス(1981年10月5日号)私の失敗哲学 天田勇・アマダ社長
- 証券アナリストジャーナル(1985年)新藤満三郎
- 日経ビジネス(1990年5月21日号)アマダ 弟社長
- 証券 新規上場会社紹介(1985年)株式会社アマダメトレックス