日立精機:国産精機の設立と日立精機への商号変更
1936年〜渋谷で村上正輔氏が興した国産精機と、国産初のタレット旋盤
1936年7月8日、国産工業の会長の鮎川義介氏と社長の村上正輔氏は、工作機械の国産化を目指して国産精機を設立した。資本金は100万円で、事業の目的はタレット旋盤をはじめとする精密工作機械の製作である。当時の日本は機械産業の土台となる工作機械の大半を輸入品で賄い、国内での製造は技術の壁と販路の狭さから採算を確保しにくかった。国産精機は国産工業の子会社として発足し、東京・渋谷にある東亜電機製作所の建物を借りて工場とした。完成した機械は日産コンツェルンの関係会社に販売を任せる構想で、社長は村上正輔氏、常務は本儀正氏とW・R・ゴーハム氏。鮎川義介氏は、採算の見込みにくい工作機械を子会社に担わせ、日産系の機械工業へ工作機械を自前で供給しようとしたとみられる。
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [1]1936年7月8日、国産工業会長の鮎川義介と社長の村上正輔の構想で国産精機が設立された
- [3]当時の日本は工作機械のほとんどを輸入しており、高度な技術が要り販路も狭く採算が合わなかった
- [5]初代社長は村上正輔、常務は本儀正とW・R・ゴーハムで、完成した機械は日産コンツェルン関係会社に販売を任せる構想だった
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [2]国産精機はタレット旋盤ほか精密機械の製作を目的に資本金100万円で設立された
- 証券 1954
- [4]国産精機は国産工業の子会社で、工場は渋谷の国産工業東亜電機製作所から借りた建物だった
国産精機は設立の目的の筆頭にタレット旋盤を掲げ、最初に手がける製品にも同じ機種を選んだ。設計は国産工業戸塚工場の一角を借りて先に始め、米国ワーナー&スエジー社の2番形を手本にした。技術を率いた常務のW・R・ゴーハム氏は米国出身で、鮎川義介氏に招かれて戸畑鋳物に入社した人物である。W・R・ゴーハム氏は、製品になってからの手直しは損失が大きいとして、図面の段階で修正を何度も重ねさせた。1937年4月に2番形タレット旋盤1台が完成し、5月には3番形2台が続いて、計3台が国産第1号となった。主軸をモーターで直接駆動する方式を採り、4段変速のモーターは後に社長となる佐野茂氏が設計した。設立から9カ月での完成は、修正の手間を図面の段階で負った設計の進め方に支えられたのだろう。
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [6]設立の目的はタレット旋盤をはじめ各種精密機械の製作だった
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [7]設計は国産工業戸塚工場の一部を借りて始め、ワーナー&スエジー社の2番形を参考にした
- [8]常務W・R・ゴーハムは鮎川に招かれ戸畑鋳物に入社した米国人技術者で、製品化後の変更を避けるため図面を繰り返し直させた
- [9]常務W・R・ゴーハムは鮎川に招かれ戸畑鋳物に入社した米国人技術者で、製品化後の変更を避けるため図面を繰り返し直させた
- [10]1937年4月に2番形タレット旋盤1台、5月に3番形2台が完成し国産第1号となった。モータースピンドル形で4段変速モーターは佐野茂の設計
- [11]1937年4月に2番形タレット旋盤1台、5月に3番形2台が完成し国産第1号となった。モータースピンドル形で4段変速モーターは佐野茂の設計
1937年5月、日立製作所が親会社の国産工業を合併し、国産精機も日立製作所の傘下に入った。鮎川義介氏は満州重工業の設立で多忙となり、国産工業を日立製作所に預ける判断を下した。国産第1号のタレット旋盤は陸軍造兵廠の試験で欧米製と同等の性能を認められ、軍からの注文が相次いだ。従業員は設立時の10数人から1938年には200人近くに増え、渋谷工場では月20台を超える生産に対応できなくなった。国産精機は1938年6月に資本金を500万円に増やし、足立工場を建ててタレット旋盤と自動盤の量産に入った。日立製作所の傘下に入ったことで、日産系の販路を前提にした当初の構想は、軍需に応える量産を主にするものへ変わったと推察される。
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [12]1937年5月、国産工業の日立製作所への合併に伴い国産精機は日立製作所の子会社となった
- [14]国産第1号タレット旋盤は陸軍造兵廠の試験で欧米製品に劣らぬ性能と認められ軍の注文が続き、従業員は1938年に200人近くとなった
- [15]国産第1号タレット旋盤は陸軍造兵廠の試験で欧米製品に劣らぬ性能と認められ軍の注文が続き、従業員は1938年に200人近くとなった
- 経済時代 18(5) 1953
- [13]国産精機は鮎川義介の構想で作られ、鮎川が満州重工業総裁となる際に日立に預けられた
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [16]1938年6月に資本金を500万円に増資し足立工場を建設、タレット旋盤と自動盤を量産した
参考文献[1]-[16]
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [1]1936年7月8日、国産工業会長の鮎川義介と社長の村上正輔の構想で国産精機が設立された
- [3]当時の日本は工作機械のほとんどを輸入しており、高度な技術が要り販路も狭く採算が合わなかった
- [5]初代社長は村上正輔、常務は本儀正とW・R・ゴーハムで、完成した機械は日産コンツェルン関係会社に販売を任せる構想だった
- [7]設計は国産工業戸塚工場の一部を借りて始め、ワーナー&スエジー社の2番形を参考にした
- [8]常務W・R・ゴーハムは鮎川に招かれ戸畑鋳物に入社した米国人技術者で、製品化後の変更を避けるため図面を繰り返し直させた
- [9]常務W・R・ゴーハムは鮎川に招かれ戸畑鋳物に入社した米国人技術者で、製品化後の変更を避けるため図面を繰り返し直させた
- [10]1937年4月に2番形タレット旋盤1台、5月に3番形2台が完成し国産第1号となった。モータースピンドル形で4段変速モーターは佐野茂の設計
- [11]1937年4月に2番形タレット旋盤1台、5月に3番形2台が完成し国産第1号となった。モータースピンドル形で4段変速モーターは佐野茂の設計
- [12]1937年5月、国産工業の日立製作所への合併に伴い国産精機は日立製作所の子会社となった
- [14]国産第1号タレット旋盤は陸軍造兵廠の試験で欧米製品に劣らぬ性能と認められ軍の注文が続き、従業員は1938年に200人近くとなった
- [15]国産第1号タレット旋盤は陸軍造兵廠の試験で欧米製品に劣らぬ性能と認められ軍の注文が続き、従業員は1938年に200人近くとなった
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [2]国産精機はタレット旋盤ほか精密機械の製作を目的に資本金100万円で設立された
- [6]設立の目的はタレット旋盤をはじめ各種精密機械の製作だった
- [16]1938年6月に資本金を500万円に増資し足立工場を建設、タレット旋盤と自動盤を量産した
- 証券 1954
- [4]国産精機は国産工業の子会社で、工場は渋谷の国産工業東亜電機製作所から借りた建物だった
- 経済時代 18(5) 1953
- [13]国産精機は鮎川義介の構想で作られ、鮎川が満州重工業総裁となる際に日立に預けられた
1941年〜日立工作機と篠原機械を併せた日立精機と、我孫子工場・川崎工場の行方
1941年12月、国産精機は日立工作機と篠原機械を吸収合併し、資本金を3000万円として社名を日立精機に改めた。日立工作機は川崎工場と大森工場を、篠原機械は習志野工場を持ち込んだ。日立工作機の前身は東京瓦斯電気工業の造機部で、篠原機械は1940年に経営が破綻して日立製作所の傘下にあった。合併は増大する工作機械の需要に対応して事業を拡張する狙いで、軍が統制を強めるために進めた企業合同の一つにもあたる。合併に先立ち1940年に資本金を1500万円へ増やして千葉県我孫子に新工場を計画し、約7万坪の用地を1941年夏までに取得。我孫子工場は1941年11月に第一期工場が完成し、資材不足で遅れた全施設も1942年12月末に完成した。
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [17]1941年12月に日立工作機(川崎・大森工場)と篠原機械(習志野工場)を吸収合併し資本金3000万円、社名を日立精機に改めた。1940年9月に1500万円へ増資し我孫子工場を建設
- [18]1941年12月に日立工作機(川崎・大森工場)と篠原機械(習志野工場)を吸収合併し資本金3000万円、社名を日立精機に改めた。1940年9月に1500万円へ増資し我孫子工場を建設
- [23]1941年12月に日立工作機(川崎・大森工場)と篠原機械(習志野工場)を吸収合併し資本金3000万円、社名を日立精機に改めた。1940年9月に1500万円へ増資し我孫子工場を建設
- 企業の歴史 明治百年 1968「日立精機」
- [19]日立工作機は旧東京瓦斯電気工業造機部
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [20]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [22]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [24]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [25]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- 証券 1954
- [21]合併は増大する工作機械需要に対応した事業拡張のためだった
1945年1月、日立精機は兵器の緊急増産を求める当局の要請を受け、日立製作所へ川崎工場を譲渡した。同年5月には大森工場を日立航空機へ移し、3月の空襲で被災した墨田工場は閉鎖。5月24日には渋谷の本社社屋も、29日には大森工場の一部も空襲で焼け、従業員の出勤率の低下と材料不足で生産は減少した。敗戦後の9月、社長の斎藤浩介氏を委員長とする再建対策委員会は、習志野工場の閉鎖と足立・我孫子両工場での生産再開を決めた。その後、足立工場と習志野工場は賠償工場の指定を受け、日立精機は唯一動かせる我孫子工場に生産を集中した。戦時の工場譲渡と戦後の賠償指定が重なり、日立精機は我孫子の1工場から出直すことになったと思われる。
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [26]1945年1月に兵器緊急増産の当局要請で川崎工場を日立製作所へ、同年5月に大森工場を日立航空機へ譲渡し、墨田工場は3月の戦災で閉鎖
- [27]1945年1月に兵器緊急増産の当局要請で川崎工場を日立製作所へ、同年5月に大森工場を日立航空機へ譲渡し、墨田工場は3月の戦災で閉鎖
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [28]1945年5月24日に本社社屋が焼失。9月に斎藤社長を委員長とする再建対策委員会を設け、習志野工場閉鎖と足立・我孫子での生産再開を決めた
- [29]1945年5月24日に本社社屋が焼失。9月に斎藤社長を委員長とする再建対策委員会を設け、習志野工場閉鎖と足立・我孫子での生産再開を決めた
- 証券 1954
- [30]戦後、足立・習志野工場は賠償工場に指定され、生産設備を我孫子工場に集中した
- 企業の歴史 明治百年 1968「日立精機」
- [31]足立・習志野工場の賠償指定で生産を我孫子工場に集中した
参考文献[17]-[31]
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- [17]1941年12月に日立工作機(川崎・大森工場)と篠原機械(習志野工場)を吸収合併し資本金3000万円、社名を日立精機に改めた。1940年9月に1500万円へ増資し我孫子工場を建設
- [18]1941年12月に日立工作機(川崎・大森工場)と篠原機械(習志野工場)を吸収合併し資本金3000万円、社名を日立精機に改めた。1940年9月に1500万円へ増資し我孫子工場を建設
- [23]1941年12月に日立工作機(川崎・大森工場)と篠原機械(習志野工場)を吸収合併し資本金3000万円、社名を日立精機に改めた。1940年9月に1500万円へ増資し我孫子工場を建設
- [26]1945年1月に兵器緊急増産の当局要請で川崎工場を日立製作所へ、同年5月に大森工場を日立航空機へ譲渡し、墨田工場は3月の戦災で閉鎖
- [27]1945年1月に兵器緊急増産の当局要請で川崎工場を日立製作所へ、同年5月に大森工場を日立航空機へ譲渡し、墨田工場は3月の戦災で閉鎖
- 企業の歴史 明治百年 1968「日立精機」
- [19]日立工作機は旧東京瓦斯電気工業造機部
- [31]足立・習志野工場の賠償指定で生産を我孫子工場に集中した
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [20]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [22]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [24]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [25]篠原機械は1940年に破綻し日立製作所傘下に入っていた。合併は軍の統制強化の手段でもあった。我孫子の用地は約7万坪、第一期工場は1941年11月、全施設完成は1942年12月末
- [28]1945年5月24日に本社社屋が焼失。9月に斎藤社長を委員長とする再建対策委員会を設け、習志野工場閉鎖と足立・我孫子での生産再開を決めた
- [29]1945年5月24日に本社社屋が焼失。9月に斎藤社長を委員長とする再建対策委員会を設け、習志野工場閉鎖と足立・我孫子での生産再開を決めた
- 証券 1954
- [21]合併は増大する工作機械需要に対応した事業拡張のためだった
- [30]戦後、足立・習志野工場は賠償工場に指定され、生産設備を我孫子工場に集中した
1946年〜米第八軍の許可で製造した車輪旋盤と、朝鮮特需の専用機で迎えた株式公開
終戦直後の日立精機は、工場の土地や山林を処分し、ねじ転造機や脱穀機、製釘機を作って当座の資金を賄った。国鉄の車両は戦時の輸送強化と補修の遅れで老朽化し、脱線をはじめとする事故が多発していた。連合軍と日本政府は国鉄の幹線を急いで立て直す方針を国策とし、車両関連の産業を財政で支援した。日立精機は1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を受け、戦後第1号機を京成電鉄に納めた。復興金融公庫から長期の運転資金1000万円を初めて借り入れられたのは、国鉄の発注を背景に銀行の信用を得たためである。車輪旋盤は国鉄のほか小田急や東急にも納入され、1948年8月には我孫子工場が商工省から工作機械生産の重要工場に指定された。
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [32]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [33]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [34]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [35]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [36]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- 経済時代 18(5) 1953
- [37]車輪旋盤は国鉄のほか小田急・京成・東急に納入された
- 企業の歴史 明治百年 1968「日立精機」
- [38]1948年8月、我孫子工場が商工省から工作機械生産の重要工場に指定された
1946年8月の戦時補償の打ち切りで軍需生産に伴う政府向けの債権が無価値となり、日立精機は特別経理会社の指定を受けた。斎藤浩介氏の後任の社長は、1948年9月に就任した技術者出身の佐野茂氏である。1949年のドッジ・ラインで国鉄関連の財政支出が止まり、月1台を見込んだ車輪旋盤の生産は年4台に減った。日立精機は1949年5月、従業員830人を600人とする人員整理を含む合理化案を示し、労働組合は反対した。争議は法廷に持ち込まれ、裁判での和解と希望退職の募集を経て、130日で収まった。争議の後も国鉄向けの受注減と不況が重なり、賃金の遅配と欠配が続いた。国鉄向けの車輪旋盤に依存した収益の構造が、財政の引き締めで経営の危機に直結したと考えられる。
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [39]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [41]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [42]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [43]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [44]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- 経済時代 18(5) 1953
- [40]佐野茂は1948年9月に斎藤社長の後を受けて社長に就任した技術者
企業再建整備計画を終えた日立精機は、1950年末に特別経理会社の指定が解かれた。1949年には日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、1953年までに30〜40台を納めた。1950年の朝鮮動乱の特需で自動車各社が設備を高度化し、日産やいすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は、前年の6475万円から半減した車両用工作機の3047万円に対し、専用工作機が2510万円である。1951年1月に持株整理委員会の許可を得て全株式の公開が決まり、3月末までに役員と従業員、縁故者の277人へ60万株を分譲した。自動車向けの専用機という新しい需要が、次の株式上場と新機種の開発を支える足場になったと推測される。
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [45]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [46]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [48]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [49]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [50]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- 経済時代 18(5) 1953
- [47]日野ジーゼルに30〜40台、日産自動車にも専用機を納入した(1953年時点)
参考文献[32]-[50]
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- [32]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [33]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [34]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [35]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [36]終戦直後は資産処分とねじ転造機・脱穀機・製釘機で資金を得た。国鉄車両の老朽化で事故が頻発し、連合軍と政府が車両関連産業を財政支援。1946年3月に米軍第八軍から車輪旋盤の生産許可を得て第1号機を京成電鉄に納入、復興金融公庫から1000万円を借り入れた
- [39]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [41]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [42]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [43]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [44]1946年8月の戦時補償打ち切りで政府債権がゼロになり、特別経理会社に指定。ドッジ・ラインで国鉄関係の仕事が止まり車輪旋盤は月1台計画から年4台に。1949年5月に830人を600人とする整理案を発表し、130日の争議は裁判の和解と希望退職で解決
- [45]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [46]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [48]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [49]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- [50]1950年末に特別経理会社の指定解除。1949年に日野ヂーゼルから戦後初の専用機を受注し、特需で日産・いすゞからも専用機の注文が続いた。1950年の生産高は車両用工作機3047万円(前年6475万円)、専用工作機2510万円。1951年1月に持株整理委員会の許可で全株式公開が決まり、3月末までに277人へ60万株を分譲
- 経済時代 18(5) 1953
- [37]車輪旋盤は国鉄のほか小田急・京成・東急に納入された
- [40]佐野茂は1948年9月に斎藤社長の後を受けて社長に就任した技術者
- [47]日野ジーゼルに30〜40台、日産自動車にも専用機を納入した(1953年時点)
- 企業の歴史 明治百年 1968「日立精機」
- [38]1948年8月、我孫子工場が商工省から工作機械生産の重要工場に指定された
出典・参考
5件
- 会社銀行八十年史 1955「日立精機」
- 企業の歴史 明治百年 1968「日立精機」
- ポケット社史 1971『日立精機 省力化のシステムデザイナー』
- 経済時代 18(5) 1953
- 証券 1954