ムニノバホールディングス:福田吉孝の消費者金融創業とアイフルへの改称
1967年〜資本金50万円で京都に創設した松原産業と、1年間の療養で始めた業務のシステム化
福田吉孝氏は1967年4月、京都市上京区で消費者向けの貸金業を個人経営で始めた。屋号は松原産業とし、会社組織を持たない福田吉孝氏個人の商店として出発した。1947年10月14日生まれの福田吉孝氏は当時19歳で、元手は資本金50万円だった。福田吉孝氏は1997年の寄稿で、創業以来、社会に支持される会社を目指して三者総繁栄を経営理念に置いてきたと振り返った。福田吉孝氏が最初の法人である株式会社大朝を設立したのは1976年2月で、個人経営の期間は約9年に及んだ。少ない元手で始めた若い創業者にとって、法人化の手続きより店の運営を固めることが先決だったとみられる。
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [1]1967年(昭和42年)4月、福田吉孝が京都市上京区で個人経営の消費者金融業として創業
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- [2]福田吉孝は1947年10月14日生まれ。1967年4月に松原産業を創設し個人経営の消費者金融業を開始、1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長
- [3]福田吉孝は1947年10月14日生まれ。1967年4月に松原産業を創設し個人経営の消費者金融業を開始、1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長
- [6]福田吉孝は1947年10月14日生まれ。1967年4月に松原産業を創設し個人経営の消費者金融業を開始、1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)
- [4]福田吉孝は1967年、19歳のときに資本金50万円で事業を開始。経営理念は三者総繁栄
- [5]福田吉孝は1967年、19歳のときに資本金50万円で事業を開始。経営理念は三者総繁栄
福田吉孝氏は創立6年目に体調を崩し、1年間の療養生活に入った。福田吉孝氏は後年、この療養をアイフルにとって最初の転換点に数えた。療養で得たものについて、福田吉孝氏は『闘病生活によって人に仕事を任せるということを学び』と記した。1973年1月には、福田吉孝氏と同じ1947年生まれの川北太一氏が松原産業に入店し、のちに丸高の代表取締役社長となった。福田吉孝氏は療養を経て、業務のマニュアル化とコンピュータ化を軸に、事業の仕組みを整える作業に着手。創業者1人の采配に依存していた個人商店は、この療養を機に、社員が同じ手順で店を運営できる組織への移行を始めたと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)
- [7]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [8]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [9]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [11]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- [10]川北太一は1947年8月27日生まれ。1973年1月に松原産業(福田吉孝の個人経営)に入店し、1978年2月に株式会社丸高の代表取締役社長
福田吉孝氏は創業後、京都に本拠を置いたまま、営業の主な基盤を九州地区に定めて事業を拡大した。1978年の法人設立時点でも、4店のうち3店が北九州地区にあり、京都市の店は1店にとどまった。事業の規模を示す融資残高は、1975年当時で7億円である。福田吉孝氏は、療養を機に進めた仕組みの整備がその後の発展の基盤になったと総括した。店舗はその後も増え、1984年の業界の混乱の直前には182店に到達。マニュアルとコンピュータで業務の手順をそろえたことが、創業者が常駐しない九州の店でも京都と同じ水準の審査と回収を続ける条件になったと思われる。
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [12]創業後、九州地区を主な営業基盤に事業を拡大。1978年2月の丸高設立時は北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始
- [13]創業後、九州地区を主な営業基盤に事業を拡大。1978年2月の丸高設立時は北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)
- [14]1975年(昭和50年)当時の融資残高は7億円。インフラ整備が発展の基盤づくりに成功したと福田吉孝が総括。1984年のサラ金パニック前の店舗数は182店
- [15]1975年(昭和50年)当時の融資残高は7億円。インフラ整備が発展の基盤づくりに成功したと福田吉孝が総括。1984年のサラ金パニック前の店舗数は182店
- [16]1975年(昭和50年)当時の融資残高は7億円。インフラ整備が発展の基盤づくりに成功したと福田吉孝が総括。1984年のサラ金パニック前の店舗数は182店
参考文献[1]-[16]
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [1]1967年(昭和42年)4月、福田吉孝が京都市上京区で個人経営の消費者金融業として創業
- [12]創業後、九州地区を主な営業基盤に事業を拡大。1978年2月の丸高設立時は北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始
- [13]創業後、九州地区を主な営業基盤に事業を拡大。1978年2月の丸高設立時は北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- [2]福田吉孝は1947年10月14日生まれ。1967年4月に松原産業を創設し個人経営の消費者金融業を開始、1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長
- [3]福田吉孝は1947年10月14日生まれ。1967年4月に松原産業を創設し個人経営の消費者金融業を開始、1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長
- [6]福田吉孝は1947年10月14日生まれ。1967年4月に松原産業を創設し個人経営の消費者金融業を開始、1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長
- [10]川北太一は1947年8月27日生まれ。1973年1月に松原産業(福田吉孝の個人経営)に入店し、1978年2月に株式会社丸高の代表取締役社長
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)
- [4]福田吉孝は1967年、19歳のときに資本金50万円で事業を開始。経営理念は三者総繁栄
- [5]福田吉孝は1967年、19歳のときに資本金50万円で事業を開始。経営理念は三者総繁栄
- [7]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [8]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [9]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [11]創立6年目に福田吉孝が体調を崩し1年間療養。これを第一の転換点とし、仕事を人に任せることを学び、業務のシステム化・マニュアル化・コンピュータ化に着手
- [14]1975年(昭和50年)当時の融資残高は7億円。インフラ整備が発展の基盤づくりに成功したと福田吉孝が総括。1984年のサラ金パニック前の店舗数は182店
- [15]1975年(昭和50年)当時の融資残高は7億円。インフラ整備が発展の基盤づくりに成功したと福田吉孝が総括。1984年のサラ金パニック前の店舗数は182店
- [16]1975年(昭和50年)当時の融資残高は7億円。インフラ整備が発展の基盤づくりに成功したと福田吉孝が総括。1984年のサラ金パニック前の店舗数は182店
1976年〜北九州3店と京都1店で法人化した丸高と、3社を吸収合併して名乗ったアイフル
福田吉孝氏の事業は1978年2月、京都市左京区での株式会社丸高の設立により法人となった。設立の目的は、個人経営から法人経営へ移り、企業としての信用力を高めることにあった。丸高は北九州地区で3店、京都市で1店の計4店で営業を始めた。丸高の代表取締役社長には、松原産業の社員だった川北太一氏が就任した。福田吉孝氏はこれに先立つ1976年2月に株式会社大朝を設立し、その代表取締役社長に就任していた。丸高は1980年1月に本店を京都市西京区へ移し、同年4月には福田吉孝氏が丸高・丸東・山勝産業の取締役を兼ねた。店舗を複数の法人に分けて持つ体制は、法人ごとに借入先の信用を積み上げる狙いがあったのだろう。
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [17]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [18]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [19]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [22]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- [20]福田吉孝は1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長、1980年4月に丸高・丸東・山勝産業の取締役。川北太一は1978年2月に丸高の代表取締役社長
- [21]福田吉孝は1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長、1980年4月に丸高・丸東・山勝産業の取締役。川北太一は1978年2月に丸高の代表取締役社長
- [23]福田吉孝は1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長、1980年4月に丸高・丸東・山勝産業の取締役。川北太一は1978年2月に丸高の代表取締役社長
1982年5月、丸高は存続会社として大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併した。合併と同時に商号をアイフル株式会社に改め、本店も京都市右京区へ移転。合併の目的は、増える資金需要に見合う資本の調達力を備えることと、事業を全国へ広げることにあった。合併後は福田吉孝氏がアイフルの代表取締役社長に就任し、丸高の社長だった川北太一氏は代表取締役常務となった。福田吉孝氏が1981年5月に代表取締役社長に就任した大朝地所は、この3社の合併に含まれなかった。4社に分かれていた貸付と資金の調達を1つの法人に統合したことで、金融機関から見た与信の単位が大きくなったと考えられる。
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [24]1982年5月、資金需要の増加に伴う資本調達力の強化と全国への事業展開のため、丸高(存続会社)が大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併し、商号をアイフル株式会社に変更、本店を京都市右京区へ移転
- [25]1982年5月、資金需要の増加に伴う資本調達力の強化と全国への事業展開のため、丸高(存続会社)が大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併し、商号をアイフル株式会社に変更、本店を京都市右京区へ移転
- [26]1982年5月、資金需要の増加に伴う資本調達力の強化と全国への事業展開のため、丸高(存続会社)が大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併し、商号をアイフル株式会社に変更、本店を京都市右京区へ移転
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- [27]1982年5月の3社吸収合併で福田吉孝が代表取締役社長、川北太一が代表取締役常務。福田吉孝は1981年5月に大朝地所(現マルトー)代表取締役社長
- [28]1982年5月の3社吸収合併で福田吉孝が代表取締役社長、川北太一が代表取締役常務。福田吉孝は1981年5月に大朝地所(現マルトー)代表取締役社長
アイフルの融資残高は、1975年の7億円から1984年には653億円となり、約92倍に拡大した。その途上の1983年に、貸金業の規制等に関する法律が制定された。アイフルは同法にもとづき1984年3月に貸金業の登録を受け、登録番号は近畿財務局長(1)第00218号、更新は3年ごとである。福田吉孝氏は、同法の制定を機に1984年にサラ金パニックと呼ばれる業界の大変動が起き、アイフルも大きな打撃を受けたと振り返った。店舗は182店から100店へ、社員数は1,208人から677名へ減少した。貸付を急速に拡大した時期と法規制の強化が重なったことが、次章で述べる縮小の条件になったとうかがえる。
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)
- [29]融資残高は1975年の7億円から1984年に653億円へ約92倍。1983年の貸金業法制定を機に1984年にサラ金パニックが起き、店舗182店→100店、融資残高653億円→379億円、社員1,208人→677名に縮小
- [32]融資残高は1975年の7億円から1984年に653億円へ約92倍。1983年の貸金業法制定を機に1984年にサラ金パニックが起き、店舗182店→100店、融資残高653億円→379億円、社員1,208人→677名に縮小
- [33]融資残高は1975年の7億円から1984年に653億円へ約92倍。1983年の貸金業法制定を機に1984年にサラ金パニックが起き、店舗182店→100店、融資残高653億円→379億円、社員1,208人→677名に縮小
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [30]1984年3月、貸金業の規制等に関する法律の制定により貸金業の登録を実施(3年毎更新、登録番号 近畿財務局長(1)第00218号)
- [31]1984年3月、貸金業の規制等に関する法律の制定により貸金業の登録を実施(3年毎更新、登録番号 近畿財務局長(1)第00218号)
参考文献[17]-[33]
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- [17]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [18]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [19]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [22]1978年2月、個人経営から法人経営への脱却による企業信用力の強化のため京都市左京区に株式会社丸高を設立し、北九州地区3店舗・京都市1店舗で営業開始。1980年1月に本店を京都市西京区へ移転
- [24]1982年5月、資金需要の増加に伴う資本調達力の強化と全国への事業展開のため、丸高(存続会社)が大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併し、商号をアイフル株式会社に変更、本店を京都市右京区へ移転
- [25]1982年5月、資金需要の増加に伴う資本調達力の強化と全国への事業展開のため、丸高(存続会社)が大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併し、商号をアイフル株式会社に変更、本店を京都市右京区へ移転
- [26]1982年5月、資金需要の増加に伴う資本調達力の強化と全国への事業展開のため、丸高(存続会社)が大朝・山勝産業・丸東の3社を吸収合併し、商号をアイフル株式会社に変更、本店を京都市右京区へ移転
- [30]1984年3月、貸金業の規制等に関する法律の制定により貸金業の登録を実施(3年毎更新、登録番号 近畿財務局長(1)第00218号)
- [31]1984年3月、貸金業の規制等に関する法律の制定により貸金業の登録を実施(3年毎更新、登録番号 近畿財務局長(1)第00218号)
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- [20]福田吉孝は1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長、1980年4月に丸高・丸東・山勝産業の取締役。川北太一は1978年2月に丸高の代表取締役社長
- [21]福田吉孝は1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長、1980年4月に丸高・丸東・山勝産業の取締役。川北太一は1978年2月に丸高の代表取締役社長
- [23]福田吉孝は1976年2月に株式会社大朝を設立し代表取締役社長、1980年4月に丸高・丸東・山勝産業の取締役。川北太一は1978年2月に丸高の代表取締役社長
- [27]1982年5月の3社吸収合併で福田吉孝が代表取締役社長、川北太一が代表取締役常務。福田吉孝は1981年5月に大朝地所(現マルトー)代表取締役社長
- [28]1982年5月の3社吸収合併で福田吉孝が代表取締役社長、川北太一が代表取締役常務。福田吉孝は1981年5月に大朝地所(現マルトー)代表取締役社長
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)
- [29]融資残高は1975年の7億円から1984年に653億円へ約92倍。1983年の貸金業法制定を機に1984年にサラ金パニックが起き、店舗182店→100店、融資残高653億円→379億円、社員1,208人→677名に縮小
- [32]融資残高は1975年の7億円から1984年に653億円へ約92倍。1983年の貸金業法制定を機に1984年にサラ金パニックが起き、店舗182店→100店、融資残高653億円→379億円、社員1,208人→677名に縮小
- [33]融資残高は1975年の7億円から1984年に653億円へ約92倍。1983年の貸金業法制定を機に1984年にサラ金パニックが起き、店舗182店→100店、融資残高653億円→379億円、社員1,208人→677名に縮小
出典・参考
3件
- 有価証券報告書 第29期(2006年3月期)沿革
- 有価証券報告書 第31期(2008年3月期)役員の状況
- 証券アナリストジャーナル 1997年9月号 別冊付録 アイフル(福田吉孝)