第2章 年〜年

田辺製薬:特別経理会社からの縮小均衡による再建と独創的新薬

ニッパスの価格崩落からアミノ酸の独創薬へ

1949年〜ドッジラインの資金難と、ニッパス・テラマイシンが与えた猶予

戦後の財務整理は、1946年の特別経理会社の指定に始まり、1948年9月に再建整備計画が認可されて資本金を415万円から3000万円へ増額し、同年11月に指定を解除されて一区切りがついた。賃金の遅配は1949年1月に始まり、8月には40%が支払われないままとなった。ドッジラインで日銀券の発行高が絞られた同年、販売は伸び悩み、代金の回収率も落ちて資金繰りが詰まっていた。経営陣は5月、十三・柏原の両工場を閉じ、希望退職を募り、人件費を30%減らすことを柱とした合理化案を労働組合に示した。組合は、再建の要は経営を根本から改めることにあるとし、19項目の要望を付けて案を受け入れた。希望退職の317名に定年に当たる59名を加えた退職者は、総従業員約1400名のうち27%を占めた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
    • [1]1946年に特別経理会社の指定を受け、1948年9月に再建整備計画の申請が認可されて資本金を415万円から3000万円へ増額、同年11月に指定を解除された
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 戦争被害と再建への道程 第1節 復興への努力
    • [2]昭和24年1月から賃金の遅払いという事態を余儀なくされ、月を追うごとに悪化して同年8月には40%未払いという状況を迎えた
    • [3]経済安定9原則とドッジラインの実施で昭和24年(1949年)1月から日銀券発行高は急速に収縮し、当社の販売は停滞、代金回収率は低下して資金繰りは行詰りをみせた
    • [4]昭和24年5月、経営陣は十三・柏原両工場の閉鎖と集中生産方式の採用、希望退職者の募集、人件費の30%節減を骨子とした合理化案を労働組合に提示し、組合は会社再建の基本が経営の抜本的刷新にあるとして19項目の要望事項を提示したうえで同調した
    • [5]希望退職者の募集で317名が退社を希望し、満55歳定年制により該当者59名が退社して、退職者は総従業員約1400名の27%に達した

抗結核薬ニッパスの研究に着手したのは1948年8月、東京研究所の研究テーマとしてで、東京大学の菅沢重彦教授の指導を仰いだ。当時の同社は給与の支給も遅れ、研究用の機器や薬品を買う資金にも事欠く状態にあり、研究雑誌の購読冊数を減らすなどして捻出した資金で開発を進めている。1949年春、オルトトルイジンを出発原料とする合成に成功し、翌1950年5月に発売した。1947年当時の結核患者は300万人を超えて死因の第1位を占め、死亡率は人口10万人当たり187人に達していた。1951年9月には、ニッパスの製造工程における品質管理を評価され、昭和電工・八幡製鉄・富士製鉄とともに第1回デミング賞実施賞を受けている。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第2節 抗結核薬ニッパスの開発
    • [6]当社はスウェーデンにおけるパス開発の文献に着目し、昭和23年(1948年)8月、東京研究所の研究テーマとして東京大学菅沢重彦教授の指導を仰いだ
    • [7]当時の当社は経営状態がきわめて悪く、給与の支給も遅延し研究用の機器や薬品の購入資金にも事欠く状況にあったため、研究雑誌の購読冊数を減らすなど血のにじむような節減に努め、捻出した資金で研究を進めた
    • [8]昭和24年(1949年)の春、オルトトルイジンを出発原料とする合成に成功し、昭和25年5月に抗結核薬ニッパスを発売した
    • [9]昭和22年当時の結核患者数は実に300万人を超え、死因の第1位を占め、その死亡率は人口10万人当り187人に達していた
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第3節 チャールズ・ファイザー社との提携
    • [10]昭和26年(1951年)9月、製造工程における品質管理の普及および実施の功績を認められ、昭和電工・八幡製鉄・富士製鉄の各社とともに第1回デミング賞実施賞を受賞した。最も顕著な成果を挙げたのはニッパスの製造における工程管理であった

1950年1月の民間貿易再開に備えて海外の有力な抗生物質を探していた同社は、ファイザー社が1949年に発見した広範囲抗生物質テラマイシンを最も有望とみて、戦前から有力な代理店として取引のあったヒュースキン社に契約仲介を依頼した。ヒュースキン社がファイザー社の有力な取引商社でもあったことから交渉は急速に進み、1950年8月に日本での一手販売契約を結び、10月から輸入販売を始めている。1953年には米チャールス・ファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立し、テラマイシンをそこで生産した。自社で合成したニッパスと導入したテラマイシンの二製品が、危機に瀕していた業績を好転させている。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第3節 チャールズ・ファイザー社との提携
    • [11]昭和25年(1950年)1月の民間貿易再開に備えて海外の有力な抗生物質製剤の輸入販売を計画していた当社は、ファイザー社のテラマイシンが最も有望であるとの情報を得て、数十年来の取引関係があり太平洋戦争勃発までは当社の有力な代理店であったヒュースキン社に一手販売契約締結仲介を依頼した
    • [12]ヒュースキン社がファイザー社の有力な取引商社であったことから交渉は急速に進展し、昭和25年8月に日本におけるテラマイシンおよびその製剤の一手販売契約を締結、同年10月から輸入販売を開始した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
    • [13]1953年、米チャールス・ファイザー社と同額共同出資でファイザー田辺株式会社を設立し、抗生物質テラマイシンを生産した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第2節 抗結核薬ニッパスの開発
    • [14]経営苦境を救い業績好転の契機をもたらしたのは、昭和25年5月に発売した抗結核薬ニッパスと、ファイザー社との提携によって同年10月に発売した広範囲抗生物質テラマイシンであった
参考文献[1]-[14]
    • [1]1946年に特別経理会社の指定を受け、1948年9月に再建整備計画の申請が認可されて資本金を415万円から3000万円へ増額、同年11月に指定を解除された
    • [13]1953年、米チャールス・ファイザー社と同額共同出資でファイザー田辺株式会社を設立し、抗生物質テラマイシンを生産した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 戦争被害と再建への道程 第1節 復興への努力
    • [2]昭和24年1月から賃金の遅払いという事態を余儀なくされ、月を追うごとに悪化して同年8月には40%未払いという状況を迎えた
    • [3]経済安定9原則とドッジラインの実施で昭和24年(1949年)1月から日銀券発行高は急速に収縮し、当社の販売は停滞、代金回収率は低下して資金繰りは行詰りをみせた
    • [4]昭和24年5月、経営陣は十三・柏原両工場の閉鎖と集中生産方式の採用、希望退職者の募集、人件費の30%節減を骨子とした合理化案を労働組合に提示し、組合は会社再建の基本が経営の抜本的刷新にあるとして19項目の要望事項を提示したうえで同調した
    • [5]希望退職者の募集で317名が退社を希望し、満55歳定年制により該当者59名が退社して、退職者は総従業員約1400名の27%に達した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第2節 抗結核薬ニッパスの開発
    • [6]当社はスウェーデンにおけるパス開発の文献に着目し、昭和23年(1948年)8月、東京研究所の研究テーマとして東京大学菅沢重彦教授の指導を仰いだ
    • [7]当時の当社は経営状態がきわめて悪く、給与の支給も遅延し研究用の機器や薬品の購入資金にも事欠く状況にあったため、研究雑誌の購読冊数を減らすなど血のにじむような節減に努め、捻出した資金で研究を進めた
    • [8]昭和24年(1949年)の春、オルトトルイジンを出発原料とする合成に成功し、昭和25年5月に抗結核薬ニッパスを発売した
    • [9]昭和22年当時の結核患者数は実に300万人を超え、死因の第1位を占め、その死亡率は人口10万人当り187人に達していた
    • [14]経営苦境を救い業績好転の契機をもたらしたのは、昭和25年5月に発売した抗結核薬ニッパスと、ファイザー社との提携によって同年10月に発売した広範囲抗生物質テラマイシンであった
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第3節 チャールズ・ファイザー社との提携
    • [10]昭和26年(1951年)9月、製造工程における品質管理の普及および実施の功績を認められ、昭和電工・八幡製鉄・富士製鉄の各社とともに第1回デミング賞実施賞を受賞した。最も顕著な成果を挙げたのはニッパスの製造における工程管理であった
    • [11]昭和25年(1950年)1月の民間貿易再開に備えて海外の有力な抗生物質製剤の輸入販売を計画していた当社は、ファイザー社のテラマイシンが最も有望であるとの情報を得て、数十年来の取引関係があり太平洋戦争勃発までは当社の有力な代理店であったヒュースキン社に一手販売契約締結仲介を依頼した
    • [12]ヒュースキン社がファイザー社の有力な取引商社であったことから交渉は急速に進展し、昭和25年8月に日本におけるテラマイシンおよびその製剤の一手販売契約を締結、同年10月から輸入販売を開始した

1953年〜ニッパスの価格崩落と、経営常務会が敷いた縮小均衡

ニッパスの価格は発売直後の1950年10月期に100グラム当たり1600円だったが、同業他社の相次ぐ発売と増産によって1952年には650円、1953年10月期には430円まで下がった。同社の生産量は1950年の月平均3.7トンから1953年には15.2トンへ増えており、量産と原料価格の低下による原価引下げでは値下がりを吸収できなかった。値下げ競争は1953年秋にビタミン剤の景品付特売となって現れ、やがて治療薬へも波及して割増・値引・手形期限の延長へ進む。需要を上回る生産を問屋在庫と売掛金の増加で吸収したため、売上が伸びても回収は伸びず、資金繰りが圧迫された。再建のきっかけとみえた製品は、発売から3年余りで主力としての妙味を失っていた。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第5節 再度経営危機に立った当社
    • [15]ニッパスの価格は昭和25年(1950年)10月期に100グラム当り1600円であったが、同業他社の相次ぐ発売・増産により27年には650円、28年10月期には430円にまで下がった
    • [16]ニッパスの生産量は昭和25年の月平均3.7トンから26年8.6トン、27年11.8トン、28年15.2トンと増加した(ニッパスカルシウムを含む)
    • [17]生産過剰からくる値下げ競争は昭和28年(1953年)秋にビタミン剤の景品付特売となって現われ、その後治療薬にも波及するとともに割増、値引、手形期限の延長へと進行した
    • [18]需要を上回る生産を問屋在庫と売掛金の増加で吸収したため、売上増の割に回収は伸悩み、メーカーの資金繰りは大きく圧迫された
    • [19]小野田工場従業員辛苦の結晶ともいうべきニッパスは、当社再建のきっかけを与えるかに見えただけで、発売後3年余りで早くも主力製品としての妙味を失いつつあった

1953年12月末、田辺製薬は会社運営の最高機関として経営常務会を常設し、翌1954年1月に社内業務機構を全面的に改革した。構成員は社長の田邊五兵衞氏と副社長の田邊祿寿氏ら5名で、毎期の予算案と決算報告のほか、資金計画・人事権・経営権の一切を合議に集中させる場である。打ち出された再建方策は、過大な売掛金の回収と過剰在庫の圧縮、回転の鈍い商品の取扱中止、原価高で採算に乗らない品目の製造中止、冗費と人件費の緊縮、そして再建が進むまでの無配からなる、徹底した縮小均衡だった。この計画は三和・東海・日本勧業各銀行からの協調融資を受けて動き出した。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 経営危機の克服と企業基盤の確立 第2節 会社再建への苦闘
    • [20]昭和28年(1953年)12月末、経営の近代化を図って再建への道を開くため、当社は会社運営の最高機関として経営常務会を常設することとし、翌29年1月に社内業務機構の全面的改革を行なった
    • [21]経営常務会の構成員は社長田邊五兵衞・副社長田邊祿寿・専務取締役高田正夫・常務取締役手島志郎と事務局長の取締役平林忠雄で、毎期の予算案・決算報告を処理し、資金計画・人事権・経営権など一切を集中統轄した
    • [22]再建方策は、過大売掛金の回収と過剰在庫の圧縮、回転の鈍い一部商品の取扱中止、原価高で採算の取れない品目の製造中止による縮小均衡、冗費および人件費の緊縮、再建が進むまでの利益配当の中止からなる
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 転換期における質的発展への指向 第2節 量的拡大から質的発展への転換
    • [23]三和・東海・日本勧業各銀行からの協調融資を受けて再建計画がスタートした

田辺製薬は1951年から、化学合成で得られるDL-アミノ酸を酵素で光学分割する方法を重要テーマに掲げた。米国立衛生研究所が豚の腎臓のアシラーゼによる不斉加水分解に成功していたが、工業化は困難と判断し、麹菌が産出するタカジアスターゼ中のアシラーゼを使う方法へ切り替えて1953年に研究を完成させている。1955年には世界で初めて酵素的分割法の工業化に成功し、L-メチオニン製剤ネストンl注射液を発売した。翌1956年にはL-リジンの酵素的分割の工業化研究に対し厚生省から試験研究費の交付を受け、1957年にこれを製造発売した。1959年にはL-トリプトファンが続いている。緊縮の裏側で、輸入品の模倣から出発した製薬事業が世界で最初の技術を持つに至った。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第4節 研究開発の成果
    • [24]当社研究陣は昭和26年(1951年)から、合成法で得られるDL-アミノ酸の酵素による光学的分割法を重要テーマとして掲げた
    • [25]アメリカ国立衛生研究所がN-アシル-DL-アミノ酸を豚の腎臓アシラーゼで不斉加水分解しL体のみを取出すことに成功していたが、当社はスケールアップによる工業化は実用面で困難と判断し、麹菌から産出するタカジアスターゼ中のアシラーゼを使用する光学分割法を検討して昭和28年に研究を完成した
    • [26]昭和30年(1955年)には世界で初めて酵素的分割法の工業化に成功し、同年7月にL-メチオニン製剤ネストンl注射液として発売した
    • [27]昭和31年(1956年)にはL-リジンの酵素的分割の工業化研究に対し厚生省より試験研究費の交付を受け、翌32年にL-リジンを製造発売した
    • [28]昭和34年(1959年)にはL-トリプトファンを、引続いてL-フェニルアラニン、L-バリンなどの必須アミノ酸およびアスパラギン酸製剤が次々と製造発売された
参考文献[15]-[28]
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第5節 再度経営危機に立った当社
    • [15]ニッパスの価格は昭和25年(1950年)10月期に100グラム当り1600円であったが、同業他社の相次ぐ発売・増産により27年には650円、28年10月期には430円にまで下がった
    • [16]ニッパスの生産量は昭和25年の月平均3.7トンから26年8.6トン、27年11.8トン、28年15.2トンと増加した(ニッパスカルシウムを含む)
    • [17]生産過剰からくる値下げ競争は昭和28年(1953年)秋にビタミン剤の景品付特売となって現われ、その後治療薬にも波及するとともに割増、値引、手形期限の延長へと進行した
    • [18]需要を上回る生産を問屋在庫と売掛金の増加で吸収したため、売上増の割に回収は伸悩み、メーカーの資金繰りは大きく圧迫された
    • [19]小野田工場従業員辛苦の結晶ともいうべきニッパスは、当社再建のきっかけを与えるかに見えただけで、発売後3年余りで早くも主力製品としての妙味を失いつつあった
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 経営危機の克服と企業基盤の確立 第2節 会社再建への苦闘
    • [20]昭和28年(1953年)12月末、経営の近代化を図って再建への道を開くため、当社は会社運営の最高機関として経営常務会を常設することとし、翌29年1月に社内業務機構の全面的改革を行なった
    • [21]経営常務会の構成員は社長田邊五兵衞・副社長田邊祿寿・専務取締役高田正夫・常務取締役手島志郎と事務局長の取締役平林忠雄で、毎期の予算案・決算報告を処理し、資金計画・人事権・経営権など一切を集中統轄した
    • [22]再建方策は、過大売掛金の回収と過剰在庫の圧縮、回転の鈍い一部商品の取扱中止、原価高で採算の取れない品目の製造中止による縮小均衡、冗費および人件費の緊縮、再建が進むまでの利益配当の中止からなる
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 転換期における質的発展への指向 第2節 量的拡大から質的発展への転換
    • [23]三和・東海・日本勧業各銀行からの協調融資を受けて再建計画がスタートした
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第4節 研究開発の成果
    • [24]当社研究陣は昭和26年(1951年)から、合成法で得られるDL-アミノ酸の酵素による光学的分割法を重要テーマとして掲げた
    • [25]アメリカ国立衛生研究所がN-アシル-DL-アミノ酸を豚の腎臓アシラーゼで不斉加水分解しL体のみを取出すことに成功していたが、当社はスケールアップによる工業化は実用面で困難と判断し、麹菌から産出するタカジアスターゼ中のアシラーゼを使用する光学分割法を検討して昭和28年に研究を完成した
    • [26]昭和30年(1955年)には世界で初めて酵素的分割法の工業化に成功し、同年7月にL-メチオニン製剤ネストンl注射液として発売した
    • [27]昭和31年(1956年)にはL-リジンの酵素的分割の工業化研究に対し厚生省より試験研究費の交付を受け、翌32年にL-リジンを製造発売した
    • [28]昭和34年(1959年)にはL-トリプトファンを、引続いてL-フェニルアラニン、L-バリンなどの必須アミノ酸およびアスパラギン酸製剤が次々と製造発売された

1965年〜量的拡大からの転換と、スモン訴訟が消した最終損益

各種アミノ酸と持続型活性ビタミンB1が研究開発部門から生まれ、大阪・小野田両工場の拡充と東京工場の建設で原末から製剤までを一貫して造る体制ができたのは、再建に費やした10年のあいだである。その10年で売上高は1955年度の34億1600万円から1965年度の349億9700万円へと10倍強に伸び、業界第2位の座も取り戻した。その一方で、設備へ資金を急いで注ぎ、売上の伸びで運転資金もかさんだため、増資を毎年重ねても外部からの借り入れが急速に膨らむのは避けられなかった。1965年初めの医薬品市場では各社がそろって量産体制を築いた結果、供給が過剰となって販売競争が激しさを増しており、同社はここで量を追うことをやめ、質の改善と充実に軸足を移した。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 転換期における質的発展への指向 第2節 量的拡大から質的発展への転換
    • [29]この間、研究開発部門を強化して各種アミノ酸、持続型活性ビタミンB1をはじめ数多くの独創的な新製品を開発し、大阪工場・小野田工場の整備拡大と東京工場の新設によって各工場が原末から製剤に至る一貫生産体制を整えた
    • [30]売上高は昭和30年(1955年)度の34億1600万円から40年度には349億9700万円へと約10倍強に増加し、売上高では業界第2位の地位を回復した
    • [31]設備資金の急速な投下や売上高急上昇に伴う運転資金の増加などにより、累年の増資にもかかわらず外部負債の急増を免れることはできなかった
    • [32]昭和40年(1965年)初めごろは各製薬企業の量産体制が整ったこともあって医薬品全般にわたって供給過剰の状態となり、販売競争は次第に熾烈の度を加えていた
    • [33]当社は内外の情勢を勘案し、これまでの量的拡大を抑制してよりいっそうの質的改善と充実を図ることを決意し、その具体策として昭和42年6月に営業本部の再編成に着手した

100社以上が約200種近くのキノホルム含有製剤を売っていた当時、同社もその一つであるエマホルムを扱っていた。1970年8月、新潟大学の椿忠雄教授の調査報告がスモンとキノホルムの深い関連を明らかにすると、厚生省は9月8日、キノホルムとこれを含む医薬品を当面販売させないよう通知した。同社はただちにエマホルムの販売を止めた。翌1971年7月21日には、エマホルムを飲んでスモンにかかったとする岡山県井原市の患者2名が、同社と国、医師を相手取り5000万円の損害賠償を求める訴えを起こした。1979年3月、社長の平林忠雄氏が風邪から肺炎を併発して急逝し、松原一郎氏が社長に就任する。新社長は、病因の究明は徹底的に貫き、判決を求めて争う原告以外の患者は経済的に救済する方針を掲げた。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 経営基盤を揺るがすスモン問題
    • [34]昭和45年(1970年)8月7日、新聞各紙がスモンとキノホルムの間に深い関連があるとの新潟大学椿忠雄教授の調査報告を報道し、厚生省は9月8日にキノホルム及びブロキシキノリン並びにこれらを含有する医薬品の販売を当分の間中止させる旨を通知した
    • [35]この通知が出された当時、わが国では100社以上から約200種近くのキノホルム含有製剤が販売されていたが、当社も他社と同様ただちにキノホルム製剤エマホルムなどの販売中止措置をとった
    • [36]昭和46年(1971年)7月21日、岡山県井原市の患者2名がエマホルムの服用によりスモンに罹患したとして、当社・国・医師を相手に5000万円の損害賠償を求めて提訴した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第4章 第1次3カ年計画の着手 第2節 新体制田辺の発足
    • [37]平林忠雄社長は昭和54年(1979年)1月下旬に風邪から肺炎を併発し、3月4日に死去した。同日夜の緊急役員会で松原一郎が代表取締役社長に就任した
    • [38]松原社長はスモン訴訟に対する会社の基本方針として、スモンの病因究明すなわち真実の究明は徹底的に貫き通し、他方で判決を求めて争う原告以外のスモン患者については経済的救済をする方針を示した

経常利益は1979年4月期の70億円から1980年4月期の86億円、1981年4月期の115億円へ伸びたが、当期純損益は同じ3期で4億円の赤字、39億円の赤字、42億円の赤字が続いた。スモン関係の特別損失を計上したためで、第76期と第77期は無配となる。売上高はその間も980億円から1145億円へ伸び続けており、主力事業が停滞したわけではない。1979年に和解へ踏み切り、同年には医薬品副作用被害救済基金法も成立した。負担を5年かけて吸収した結果、1982年4月期には当期純利益33億円を計上して配当が復活し、1984年4月期の売上高は1431億円に達している。

  • 会社年鑑 1986年版「田辺製薬」
    • [39]田辺製薬の経常利益は1979年4月期70億円、1980年4月期86億円、1981年4月期115億円、当期純利益は同3期でそれぞれ-4億円、-39億円、-42億円(単体)
    • [41]田辺製薬の売上高は1979年4月期980億円、1980年4月期1061億円、1981年4月期1145億円(単体)
    • [43]田辺製薬の1982年4月期の当期純利益は33億円(単体)
    • [44]田辺製薬の1984年4月期の売上高は1431億円(単体)
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第4章 第1次3カ年計画の着手 第2節 新体制田辺の発足
    • [40]スモン関係特別損失金の負担により第76期・第77期は無配となり、第78期に配当が復活した
    • [42]昭和54年(1979年)に和解に踏切り、同年に医薬品副作用被害救済基金法が成立した
参考文献[29]-[44]
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 転換期における質的発展への指向 第2節 量的拡大から質的発展への転換
    • [29]この間、研究開発部門を強化して各種アミノ酸、持続型活性ビタミンB1をはじめ数多くの独創的な新製品を開発し、大阪工場・小野田工場の整備拡大と東京工場の新設によって各工場が原末から製剤に至る一貫生産体制を整えた
    • [30]売上高は昭和30年(1955年)度の34億1600万円から40年度には349億9700万円へと約10倍強に増加し、売上高では業界第2位の地位を回復した
    • [31]設備資金の急速な投下や売上高急上昇に伴う運転資金の増加などにより、累年の増資にもかかわらず外部負債の急増を免れることはできなかった
    • [32]昭和40年(1965年)初めごろは各製薬企業の量産体制が整ったこともあって医薬品全般にわたって供給過剰の状態となり、販売競争は次第に熾烈の度を加えていた
    • [33]当社は内外の情勢を勘案し、これまでの量的拡大を抑制してよりいっそうの質的改善と充実を図ることを決意し、その具体策として昭和42年6月に営業本部の再編成に着手した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 経営基盤を揺るがすスモン問題
    • [34]昭和45年(1970年)8月7日、新聞各紙がスモンとキノホルムの間に深い関連があるとの新潟大学椿忠雄教授の調査報告を報道し、厚生省は9月8日にキノホルム及びブロキシキノリン並びにこれらを含有する医薬品の販売を当分の間中止させる旨を通知した
    • [35]この通知が出された当時、わが国では100社以上から約200種近くのキノホルム含有製剤が販売されていたが、当社も他社と同様ただちにキノホルム製剤エマホルムなどの販売中止措置をとった
    • [36]昭和46年(1971年)7月21日、岡山県井原市の患者2名がエマホルムの服用によりスモンに罹患したとして、当社・国・医師を相手に5000万円の損害賠償を求めて提訴した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第4章 第1次3カ年計画の着手 第2節 新体制田辺の発足
    • [37]平林忠雄社長は昭和54年(1979年)1月下旬に風邪から肺炎を併発し、3月4日に死去した。同日夜の緊急役員会で松原一郎が代表取締役社長に就任した
    • [38]松原社長はスモン訴訟に対する会社の基本方針として、スモンの病因究明すなわち真実の究明は徹底的に貫き通し、他方で判決を求めて争う原告以外のスモン患者については経済的救済をする方針を示した
    • [40]スモン関係特別損失金の負担により第76期・第77期は無配となり、第78期に配当が復活した
    • [42]昭和54年(1979年)に和解に踏切り、同年に医薬品副作用被害救済基金法が成立した
  • 会社年鑑 1986年版「田辺製薬」
    • [39]田辺製薬の経常利益は1979年4月期70億円、1980年4月期86億円、1981年4月期115億円、当期純利益は同3期でそれぞれ-4億円、-39億円、-42億円(単体)
    • [41]田辺製薬の売上高は1979年4月期980億円、1980年4月期1061億円、1981年4月期1145億円(単体)
    • [43]田辺製薬の1982年4月期の当期純利益は33億円(単体)
    • [44]田辺製薬の1984年4月期の売上高は1431億円(単体)

筆者考察

田辺製薬は戦後に二度、資金繰りで追い詰められている。一度目は1949年のドッジラインで、賃金の4割が未払いとなり、従業員の27%が会社を去った。二度目は1953年、自社で合成した抗結核薬ニッパスの価格が3年で100グラム1600円から430円へ下がったときである。生産量を月3.7トンから15.2トンへ増やしても、値下がりは原価の低下を上回った。量産で先行した製品が、同業の量産が揃った瞬間に採算を失う。経営常務会が1954年に敷いた縮小均衡は、この構造から降りるという決定だった。

緊縮の裏側で続いていたのが、アミノ酸の光学分割である。化学合成ではL体だけを取り出せないという制約に対し、麹菌の酵素を使う方法を1953年に完成させ、1955年に世界で初めて工業化した。輸入品の模倣から出発した製薬事業が、ここで世界最初の技術を持つ会社へ変わる。売上高は1955年度の34億円から1965年度の350億円へ伸び、業界第2位に戻った。だが1970年に始まるスモン訴訟は、その先で3期続けて最終損益を消す。経常利益が115億円に達した1981年4月期に42億円の赤字を出したのは、過去に売った薬の代価だった。

売上高 1952年4月期から1984年4月期まで(単体)(億円)

21 52年4月期 32 55年4月期 53 60年4月期 293 65年4月期 425 70年4月期 831 76年4月期 1,061 80年4月期 1,431 84年4月期

1946年〜1988年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年04月期 単体 21 n/a 2 n/a 2 9.5% n/a
1953年04月期 単体 31 +47.6% 3 n/a 2 6.5% n/a
1954年04月期 単体 34 +9.7% 3 n/a 1 2.9% n/a
1955年04月期 単体 32 ▲5.9% 2 n/a 1 3.1% n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年04月期 単体 35 n/a 2 n/a n/a n/a n/a
1958年04月期 単体 36 +2.9% 4 n/a n/a n/a n/a
1959年04月期 単体 46 +27.8% n/a n/a n/a n/a n/a
1960年04月期 単体 53 +15.2% n/a n/a n/a n/a n/a
1961年04月期 単体 65 +22.6% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年04月期 単体 93 +43.1% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年04月期 単体 148 +59.1% n/a n/a 11 7.4% n/a
1964年04月期 単体 222 +50.0% n/a n/a 9 4.1% n/a
1965年04月期 単体 293 +32.0% n/a n/a 10 3.4% n/a
1966年04月期 単体 350 +19.5% n/a n/a 11 3.1% n/a
1967年04月期 単体 370 +5.7% n/a n/a 12 3.2% n/a
1968年04月期 単体 378 +2.2% n/a n/a 12 3.2% n/a
1969年04月期 単体 389 +2.9% n/a n/a 14 3.6% n/a
1970年04月期 単体 425 +9.3% n/a n/a 17 4.0% n/a
1971年04月期 単体 490 +15.3% n/a 33 21 4.3% n/a
1972年04月期 単体 528 +7.8% n/a 37 23 4.4% n/a
1973年04月期 単体 587 +11.2% n/a 39 24 4.1% n/a
1974年04月期 単体 689 +17.4% n/a 45 26 3.8% n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年04月期 単体 831 n/a n/a 30 17 2.0% n/a
1977年04月期 単体 884 +6.4% n/a 29 15 1.7% n/a
1978年04月期 単体 935 +5.8% n/a 43 20 2.1% n/a
1979年04月期 単体 980 +4.8% n/a 70 ▲4 ▲0.4% n/a
1980年04月期 単体 1,061 +8.3% n/a 86 ▲39 ▲3.7% n/a
1981年04月期 単体 1,145 +7.9% n/a 115 ▲42 ▲3.7% n/a
1982年04月期 単体 1,246 +8.8% n/a 127 33 2.6% n/a
1983年04月期 単体 1,355 +8.7% n/a 136 53 3.9% n/a
1984年04月期 単体 1,431 +5.6% n/a 120 44 3.1% n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:上場会社総覧 1956年版 半期合算、上場会社総覧 1959年版 半期合算、会社年鑑 1963年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算、会社年鑑 1976年版 半期合算、会社年鑑 1986年版

出典・参考

11件
出典・参考
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 戦争被害と再建への道程 第1節 復興への努力
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第2節 抗結核薬ニッパスの開発
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第3節 チャールズ・ファイザー社との提携
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第5節 再度経営危機に立った当社
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 経営危機の克服と企業基盤の確立 第2節 会社再建への苦闘
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 転換期における質的発展への指向 第2節 量的拡大から質的発展への転換
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 再建計画の挫折 第4節 研究開発の成果
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 経営基盤を揺るがすスモン問題
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第4章 第1次3カ年計画の着手 第2節 新体制田辺の発足
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
  • 会社年鑑 1986年版「田辺製薬」

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