第1章 年〜年

田辺製薬:田邊屋五兵衞の薬種業から田邊製薬への業態転換

サリチル酸の輸入途絶による問屋資本の製薬転化

1678年〜合薬の製造販売から道修町の薬種中買へ

初代田邊屋五兵衞は、延宝6年、すなわち1678年に大坂・土佐堀で合薬の製造販売を家業として独立開業した。初代は享保2年(1717年)、72歳で隠居するにあたり、手代の伊兵衛を婿養子に迎えて二代五兵衞を名乗らせ、暖簾と薬種のすべてに加えて銀52貫を商いの元手として引き渡した。その時点で家の財産は金子にしておよそ二千両前後と見積もられ、中程度の商人としては十分な財を築いていた。正保3年(1646年)に土佐堀川筋の田邊屋橋南詰で生まれた初代は、慶長年間に朱印船で東南アジアに渡って現地の薬材を多く日本に伝えた大坂の豪商田邊屋又左衞門を祖とする家の出であり、薬材輸入に縁のある家系にありながら、薬を自分で調合して販売する道を選んだ。

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第1節 創業のころ
    • [2]享保2年(1717年)9月、72歳の初代五兵衞は隠居を決意し、手代伊兵衛を婿養子として二代五兵衞を襲名させ、暖簾と薬種一切、営業資金として銀52貫を譲った
    • [3]初代五兵衞の隠退当時の家産は金子に換算しておよそ二千両前後に相当し、中堅商人として蓄財に成功していた
    • [4]初代五兵衞は正保3年(1646年)土佐堀川筋の田邊屋橋南詰に生まれ、その祖は慶長のころ朱印船で東南アジア方面と貿易し薬材を輸入紹介した大坂の豪商田邊屋又左衞門である

唐薬問屋はもともと雑貨も兼ねて扱う問屋で、薬種の取引が盛んになると扱いに通じた専門業者が必要となり、田邊屋も属した薬種中買はこうして問屋の下で取引の実務を受け持つ業者として生まれた。形式上は問屋を介しつつ、中買は自前の店を持ち、積み上げた経験と資金を生かして問屋に劣らない取引をこなし、早い時期から薬種取引の中心を担った。八代将軍徳川吉宗は、和薬が振るわないのは流通の乱れと似せ薬の横行のせいだと考え、享保7年(1722年)に薬種取引の統制に踏み切って、道修町の薬種中買仲間に公認を与えた。五兵衞家が中買を始めたのは寛政3年(1791年)の六代のときで、店は道修町三丁目の借家だった。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第2節 道修町に進出
    • [5]唐薬問屋は和薬問屋と同様に雑貨類を併せて扱う兼業問屋だったが、薬種の取引が盛んになるにつれ格別の注意が要求され、経験と専門知識をもつ取扱業者が必要となった
    • [6]薬種中買は初期の薬種市場のなかに生まれた薬種取扱専門業者で、問屋の下部組織として取引の実務に当たった
    • [7]中買は形のうえでは問屋を通じて取引を行なったが、実際には店舗を構え、豊富な経験と資力を活かして問屋と同様の取引を行ない、早くから薬種取引の主体を占めた
    • [8]享保7年(1722年)、八代将軍吉宗は和薬不振の最大の原因が流通経路の不定と似せ薬の横行にあるとして薬種取引の統制を断行し、道修町の薬種中買が公認された
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第4節 新店舗に移る
    • [9]六代五兵衞が道修町三丁目大和屋伊蔵借家で中買を始めたのは寛政3年(1791年)であった

文政3年(1820年)、九代五兵衞は本天満町の田邊屋治右衛門とともに、対馬藩が釜山から運ぶ朝鮮産薬種の付問屋を引き受けた。朝鮮産薬種は長崎経由の唐薬と経路を異にし、五ヶ所本商人から唐薬問屋を経て中買へ渡る通常の道ではなく、藩指定の売支配から付問屋へという特殊な経路で薬種市場に出された。五兵衞は幕末に至るまでこの兼業を続けている。安政2年(1855年)には、十一代五兵衞が田邊屋利兵衞の斡旋で道修町の家屋敷を親類から譲り受け、借家人から家持となった。間口四間半の店構えで、道修町の通りに面し、三休橋筋から二軒目、現在の本社所在地の一部に当たる。以後この町を離れることなく、薬種問屋の田辺屋五兵衞として明治を迎えた。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第3節 薬種中買と朝鮮産薬種の取扱
    • [10]文政3年(1820年)、九代五兵衞は本天満町の田邊屋治右衛門とともに朝鮮産薬種の付問屋を引き受け、幕末に至るまで兼業した
    • [11]対馬藩の手による朝鮮産薬種の輸入は長崎経由の唐薬とルートを異にし、五ヶ所本商人から唐薬問屋を経て中買へという経路ではなく、藩指定の売支配から付問屋という特殊な経路で薬種市場に出された
    • [12]付問屋とは下売人ともいわれる中買を指し、販売実務は薬種専門業者である付問屋が担当した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第4節 新店舗に移る
    • [13]安政2年(1855年)5月、十一代五兵衞は九代利兵衞の斡旋により道修町の家屋敷を親類譲りで入手し、家持となった
    • [14]新店舗の構えは表口四間半、裏行弐拾間壱尺七寸三分で、道修町の通りに面し三休橋筋から2軒目、現在の当社所在地の一部に位置した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
    • [15]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む
参考文献[1]-[15]
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第1節 創業のころ
    • [2]享保2年(1717年)9月、72歳の初代五兵衞は隠居を決意し、手代伊兵衛を婿養子として二代五兵衞を襲名させ、暖簾と薬種一切、営業資金として銀52貫を譲った
    • [3]初代五兵衞の隠退当時の家産は金子に換算しておよそ二千両前後に相当し、中堅商人として蓄財に成功していた
    • [4]初代五兵衞は正保3年(1646年)土佐堀川筋の田邊屋橋南詰に生まれ、その祖は慶長のころ朱印船で東南アジア方面と貿易し薬材を輸入紹介した大坂の豪商田邊屋又左衞門である
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第2節 道修町に進出
    • [5]唐薬問屋は和薬問屋と同様に雑貨類を併せて扱う兼業問屋だったが、薬種の取引が盛んになるにつれ格別の注意が要求され、経験と専門知識をもつ取扱業者が必要となった
    • [6]薬種中買は初期の薬種市場のなかに生まれた薬種取扱専門業者で、問屋の下部組織として取引の実務に当たった
    • [7]中買は形のうえでは問屋を通じて取引を行なったが、実際には店舗を構え、豊富な経験と資力を活かして問屋と同様の取引を行ない、早くから薬種取引の主体を占めた
    • [8]享保7年(1722年)、八代将軍吉宗は和薬不振の最大の原因が流通経路の不定と似せ薬の横行にあるとして薬種取引の統制を断行し、道修町の薬種中買が公認された
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第4節 新店舗に移る
    • [9]六代五兵衞が道修町三丁目大和屋伊蔵借家で中買を始めたのは寛政3年(1791年)であった
    • [13]安政2年(1855年)5月、十一代五兵衞は九代利兵衞の斡旋により道修町の家屋敷を親類譲りで入手し、家持となった
    • [14]新店舗の構えは表口四間半、裏行弐拾間壱尺七寸三分で、道修町の通りに面し三休橋筋から2軒目、現在の当社所在地の一部に位置した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第3節 薬種中買と朝鮮産薬種の取扱
    • [10]文政3年(1820年)、九代五兵衞は本天満町の田邊屋治右衛門とともに朝鮮産薬種の付問屋を引き受け、幕末に至るまで兼業した
    • [11]対馬藩の手による朝鮮産薬種の輸入は長崎経由の唐薬とルートを異にし、五ヶ所本商人から唐薬問屋を経て中買へという経路ではなく、藩指定の売支配から付問屋という特殊な経路で薬種市場に出された
    • [12]付問屋とは下売人ともいわれる中買を指し、販売実務は薬種専門業者である付問屋が担当した
    • [15]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む

1871年〜十二代五兵衞の洋薬取引と、サリチル酸の一手販売

十二代五兵衞は、嘉永2年(1849年)に十一代五兵衞の長男竹次郎として生まれ、明治4年(1871年)、視力の衰えた父から家督を譲られて襲名した。維新のころには父の代理として店の運営を任され、20歳前後を西欧文明の流入する激動のなかで過ごしている。当時の道修町はなお和漢薬一辺倒で、洋薬は取引の外にあったが、七歳下の弟善三郎と九歳下の弟元三郎とともに、早くから洋薬へ注目した。仕入の場は開港場の横浜で、居留地の外国商館と国内の薬種商の間には引取商と呼ばれる仲介業者が立ち、取引額の2.5%を横浜町会所へ、同じく2.5%を引取商へ払う仕組みだった。懇意な引取商を持たない初めての旅で、五兵衞は29番アーレンス商会の知遇を得る。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第2節 十二代五兵衞の洋薬取引
    • [16]十一代五兵衞は晩年に視力が衰え、明治4年(1871年)家督を長子竹次郎に譲って十二代五兵衞を襲名させた。竹次郎は嘉永2年(1849年)6月生まれ
    • [17]竹次郎は明治維新のころ、視力の衰えた父の代理として店の運営を委ねられ、弱冠20歳で維新の変革と西欧文明の流入という激動の時代を過ごした
    • [18]善三郎は竹次郎の7歳年下、元三郎は9歳年下で、まだ和漢薬一辺倒であった道修町にあって早くから洋薬に注目し、兄の洋薬取引を助けた
    • [19]横浜の洋薬取引では外国商館と国内薬種商の間に引取商と呼ばれる邦人貿易商が立ち、運上金として町会所へ取引額の2.5%、引取商へも2.5%の手数料を支払う仕組であった
    • [20]洋薬取扱を決意した十二代五兵衞は、懇意な邦人引取商もない初めての洋薬仕入で横浜へ出向き、二十九番アーレンス商会の知遇を得て取引の手ほどきを受けた

明治の中ごろ、五兵衞商店は海外の優秀な医薬品を輸入して紹介する商いに力を入れた。その中心にあったのがドイツ・ハイデン社のサリチル酸である。サリチル酸は清酒の腐敗、いわゆる火落ちを防ぐ防腐剤で、明治中期の全国の酒造石高およそ500万石に対し、1石につき10匁という投入量から計算すると潜在需要は5万貫、188トンに達した。同じ一手販売権を狙う同業者があると察知した五兵衞は、人力車を駆って神戸へ急行し、即日契約金を納めて総代理店契約を結んだという。五兵衞は保守的な酒造家を軒並みに訪ねてテストを重ね、近畿一円の大口酒造家と各地の小口酒造家へ売り先を確保するのに10年近くを費やしている。それでも明治30年(1897年)以降のサリチル酸市場で五兵衞商店の優位は揺るがなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
    • [21]明治の中頃西洋医学が盛んになるや、海外の優秀な医薬品を輸入紹介することに力を入れた
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第2節 十二代五兵衞の洋薬取引
    • [22]明治中期の全国の酒造石高はおよそ500万石で、サリチル酸の公定投入量を1石につき10匁とすると潜在需要量は5万貫(188トン)となる
    • [23]同じ条件で一手販売権を狙う同業者があると察知した五兵衞は、直ちに人力車を駆って神戸に急行し、即日契約金を納めてアーレンス商会と総代理店契約を結んだという
    • [24]保守的な酒造家にとってサリチル酸の使用はリスクの多い冒険と受取られ、テストを重ねて納得させるなど、近畿一円の大口酒造家と各地小口酒造家への販売地盤の確保に10年近くの歳月を費やした
    • [25]発売の時期が早く品質が優れていたため、明治30年(1897年)以降のサリチル酸市場で五兵衞商店の優位はまったく揺るがなかった

明治6年(1873年)、大阪の薬業界は輸入薬に贋薬や悪薬が多く混じることを憂え、富商から基金1万5000円を集めて今橋に精々舎を設け、オランダ人ドワルスに薬品の鑑定と製薬法の教授を委嘱した。五兵衞は弟二人とともに率先して入舎したが、洋薬の仕入の場が横浜から神戸へ移って取引量が増えると、商いの繁忙が勉学を許さず、末弟の元三郎だけを残して善三郎とともに退学している。元三郎は明治8年に開設された大阪司薬場の伝習生となり、引き続きドワルスのもとで医薬製造法を学んだ。明治10年(1877年)、西南戦争で薬事行政が多忙となった司薬場が薬学教授を休止すると、元三郎は実際の製薬に取り組むことを決めた。輸入して紹介する商いは、ここで国内生産へ向かう。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第3節 洋薬国産化への努力
    • [26]精々舎は輸入薬に贋薬や悪薬が多く混入していたことから、緒方拙斎・長与専斎らが大阪の富商を説いて基金1万5000円を集め、今橋4丁目に設置し、オランダ人ドワルスに薬品の鑑定・製薬法の教授を委嘱したものである
    • [27]洋薬の仕入の場が横浜から神戸に移って取引量が増加し、商いの繁忙が五兵衞の勉学を許さなくなったため、末弟の元三郎のみを残して善三郎とともに退学し、洋薬取引に専念した
    • [28]精々舎から引続いて明治8年開設の大阪司薬場の伝習生となった元三郎は、師であるドワルスのもとで具体的な医薬製造法を中心に勉学を続けた
    • [29]明治10年(1877年)の西南戦争で薬事行政が多忙となり司薬場が薬学教授を一時休止したため、元三郎は実際の製薬に取組むことを決意した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
    • [30]海外の優秀な医薬品を輸入紹介するに止まらず、更に進んで医薬品の国内生産に転じた
参考文献[16]-[30]
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第2節 十二代五兵衞の洋薬取引
    • [16]十一代五兵衞は晩年に視力が衰え、明治4年(1871年)家督を長子竹次郎に譲って十二代五兵衞を襲名させた。竹次郎は嘉永2年(1849年)6月生まれ
    • [17]竹次郎は明治維新のころ、視力の衰えた父の代理として店の運営を委ねられ、弱冠20歳で維新の変革と西欧文明の流入という激動の時代を過ごした
    • [18]善三郎は竹次郎の7歳年下、元三郎は9歳年下で、まだ和漢薬一辺倒であった道修町にあって早くから洋薬に注目し、兄の洋薬取引を助けた
    • [19]横浜の洋薬取引では外国商館と国内薬種商の間に引取商と呼ばれる邦人貿易商が立ち、運上金として町会所へ取引額の2.5%、引取商へも2.5%の手数料を支払う仕組であった
    • [20]洋薬取扱を決意した十二代五兵衞は、懇意な邦人引取商もない初めての洋薬仕入で横浜へ出向き、二十九番アーレンス商会の知遇を得て取引の手ほどきを受けた
    • [22]明治中期の全国の酒造石高はおよそ500万石で、サリチル酸の公定投入量を1石につき10匁とすると潜在需要量は5万貫(188トン)となる
    • [23]同じ条件で一手販売権を狙う同業者があると察知した五兵衞は、直ちに人力車を駆って神戸に急行し、即日契約金を納めてアーレンス商会と総代理店契約を結んだという
    • [24]保守的な酒造家にとってサリチル酸の使用はリスクの多い冒険と受取られ、テストを重ねて納得させるなど、近畿一円の大口酒造家と各地小口酒造家への販売地盤の確保に10年近くの歳月を費やした
    • [25]発売の時期が早く品質が優れていたため、明治30年(1897年)以降のサリチル酸市場で五兵衞商店の優位はまったく揺るがなかった
    • [21]明治の中頃西洋医学が盛んになるや、海外の優秀な医薬品を輸入紹介することに力を入れた
    • [30]海外の優秀な医薬品を輸入紹介するに止まらず、更に進んで医薬品の国内生産に転じた
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第3節 洋薬国産化への努力
    • [26]精々舎は輸入薬に贋薬や悪薬が多く混入していたことから、緒方拙斎・長与専斎らが大阪の富商を説いて基金1万5000円を集め、今橋4丁目に設置し、オランダ人ドワルスに薬品の鑑定・製薬法の教授を委嘱したものである
    • [27]洋薬の仕入の場が横浜から神戸に移って取引量が増加し、商いの繁忙が五兵衞の勉学を許さなくなったため、末弟の元三郎のみを残して善三郎とともに退学し、洋薬取引に専念した
    • [28]精々舎から引続いて明治8年開設の大阪司薬場の伝習生となった元三郎は、師であるドワルスのもとで具体的な医薬製造法を中心に勉学を続けた
    • [29]明治10年(1877年)の西南戦争で薬事行政が多忙となり司薬場が薬学教授を一時休止したため、元三郎は実際の製薬に取組むことを決意した

1914年〜輸入途絶が押し出した製薬への転化と、株式会社への改組

1914年に始まった欧州大戦は半年から1年で片がつくとみる向きが多く、五兵衞商店もおよそ6か月分の在庫を手元に持っていたため、最初から大きな打撃を受けたのではなかった。ところがドイツの船はまったく来なくなり、連合国の船も海の危険を避けて寄港を控えたため、発注した品はなかなか届かなくなった。一方で既に注文した商品の為替は決済しなければならず、資金繰りに相当苦労している。薬価が1916年前半まで上がり続け、在庫の細った道修町で売り惜しみが広がるなかでも、五兵衞商店は店主の方針によって売り惜しみを一切認めず、実際の需要に基づく商談にはいつも応じた。人命に関わる医薬品を金もうけの道具にしてはならない、と十二代五兵衞が考えていたためである。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第2節 第一次世界大戦と当社
    • [31]大戦勃発当時、当社には通常の在庫としておよそ6カ月分の手持商品があった
    • [32]戦乱に対する見通しとしては6カ月から1年以内に終結するとみるのが一般的であったため、最初から大きな影響を受けたわけではなかった
    • [33]ドイツ船舶の来航が完全にストップし、連合国船舶も海上の危険を避けて入港するものが激減したため、注文した品は容易に入手できなかった
    • [34]発注商品に対する為替の決済を迫られたことから、この資金調達には相当の苦心を要した
    • [35]薬価は大正5年(1916年)の前半まで上昇を続け、業界の悩みは在庫品の減少による売惜しみの横行であったが、当社は店主の方針として売惜しみ行為を一切禁じ、実需に結びついた商談には常に快く応じた
    • [36]得意先本位をモットーとすべきこと、とくに医薬品は人命にかかわるものだけに単なる営利の具として扱うべきでないとする十二代五兵衞の信念に基づくものであった

全国の酒造家が新酒の仕込みを控えてサリチル酸を求めたとき、その輸入もすでに途絶えていた。五兵衞商店は同心町工場の在庫からアスピリン約1500ポンドを割いて重曹で分解し、サリチル酸を回収した。本来の製法を逆向きにたどる採算度外視の非常手段だったが、続いて同心町工場に容量30リットルの加圧釜を数十基並べて石炭酸から高圧法で合成する方法に移り、東京の三共とともにサリチル酸の国産化でひとまず成果を得た。これ以上の増産に同心町工場が耐えられないとみて、同社は1915年、北区本庄川崎町の旧牧場跡3000坪に最新式の製薬工場を建てると決めた。設計は東京帝国大学薬学科を出て十二代五兵衞の四女に入婿した田邊祿寿の創意によるもので、翌1916年5月、主要工場8棟と試験室を備えた本庄工場が完工した。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第2節 第一次世界大戦と当社
    • [37]サリチル酸は清酒防腐剤として十二代五兵衞が国内需要を開拓したものであったが、戦争勃発による輸入途絶は例外ではなかった
    • [38]新酒の仕込期を前にサリチル酸不足に悩む全国の酒造家の要望を受け、同心町工場に在庫中のアスピリン約1500ポンドを割いてサリチル酸を製造した
    • [39]アスピリンを重曹で分解してサリチル酸を回収する方法は、アスピリンの製造工程をまったく逆にたどるという採算を度外視した非常手段であった
    • [40]同心町工場に30リットル容量の加圧釜数十基を備え、石炭酸からサリチル酸を合成する高圧法に踏切り、シュミット式高圧法による東京の三共株式会社と並んでサリチル酸の国産化に一応の成果を挙げた
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第3節 本庄工場の建設
    • [41]同心町工場がこれ以上の増産に耐え得ないと判断した当社は、大正4年(1915年)、北区本庄川崎町3丁目の旧牧場跡3000坪に当時としては最新式の製薬工場を建設することを決定した
    • [42]工場のレイアウトはすべて分家田邊祿寿の創意によるもので、祿寿は大正2年(1913年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業したあと十二代五兵衞の四女シマに入婿した。本庄工場は大正5年(1916年)5月に完工し、主要工場8棟と完備した試験室・実験室を持った

第一次大戦は薬品価格を平時の数十倍まで押し上げ、結果として国内の製薬事業を興隆させた。思惑取引で巨利を得た業者が1918年と1920年の変動でそれを失う一方、大戦中に資本を蓄え、経営の近代化と設備の改善に努めた業者はここを境に飛躍する。最も注目されるのは、蓄積した問屋資本を製薬資本へ速やかに転化させ、局方薬の国産化にとどまらず新薬の開発を競うに至った点だった。五兵衞商店も自社の局方収載品にツル印とライオン印の商標を付し、薬局方が規定するのは品質の最低限度に過ぎないとして、超局方品の提供に全力を傾けると宣言している。取扱商品を確保するために始めた製造は、ここで品質を競う手段に変わった。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第1節 第一次世界大戦と薬業界
    • [43]大戦による医薬品価格の急騰はすさまじく、ものによっては平時の数十倍という高値を呼び、この状況が日本の製薬事業の勃興を強く刺激した
    • [44]思惑取引で巨利を得た業者は大正7年(1918年)と同9年の2度の経済変動でおおむねこれを失ったが、大戦中に資本を蓄積し経営の近代化と営業地盤の強化、設備の改善に努めた業者はこの大戦を境として飛躍の段階へと進んだ
    • [45]最も注目すべき点は、これまでに蓄積した問屋資本を速やかに製薬資本に転化したことであり、単に局方薬の国産化にとどまらず新薬の開発を競うに至ったことである
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第3節 本庄工場の建設
    • [46]薬局方の規定する処は薬品々質の最低限度を要求せるものにして最高の標準を示せるものにあらずとして、局方収載品にツル印またはライオン印の商標を付し、超局方品の提供に全力を傾倒する旨を宣言した

株式組織への改組は同業に遅れ、塩野義三郎商店が1919年、武田長兵衞商店が1925年に済ませたのに対し、株式会社田邊五兵衞商店の創立総会は1933年12月13日であった。資本金は引継資産の評価額385万円に退職引当基金30万円を加えた415万円で、店主個人所有の営業に関する一切を引き継いだ。同時に丁稚・番頭・別家という登用制度を廃し、従業員を職員・準職員・工員の区分に改めている。その後の増資は工場の拡張と結びつき、1935年に460万円、1936年に500万円、1937年に550万円と積み増した。1943年8月には社名を田邊製薬と改めている。戦時下に薬種貿易問屋としての機能が著しく圧縮され、実質は医薬品の製造企業へ転換していたためである。

  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第8節 株式組織に改組
    • [47]大手業者のうち塩野義三郎商店は大正8年(1919年)、武田長兵衞商店は大正14年(1925年)に株式組織へ改組した。当社は昭和8年(1933年)12月13日に創立総会を開催し、株式会社田邊五兵衞商店を創立、同月15日登記を完了した
    • [48]資本金は引継資産の評価額385万円に退職引当基金30万円を加えた総計415万円で、店主個人所有の営業に関する一切を引継いだ
    • [49]株式組織への改組方針が決定した昭和7年(1932年)、改組後の運営を円滑にするためこれまでの丁稚・番頭・別家の登用制度を廃止し、従業員はすべて職員・準職員・工員の区分によることとした
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 戦時統制の時代 第5節 社章・社是の制定と社名の変更
    • [50]昭和10年(1935年)と11年に45万円・40万円を増資して資本金500万円となり、加島工場の新設に当って12年8月にはさらに50万円を増資して550万円とした
    • [51]昭和18年(1943年)8月1日、社名を株式会社田邊五兵衞商店から田邊製薬株式会社に変更した
    • [52]戦時中の当社はそれまでの薬種貿易問屋機能を著しく圧縮され、実質上は医薬品製造企業に転換していたため、この事業内容を明確に示す必要から社名を変更した
参考文献[31]-[52]
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第2節 第一次世界大戦と当社
    • [31]大戦勃発当時、当社には通常の在庫としておよそ6カ月分の手持商品があった
    • [32]戦乱に対する見通しとしては6カ月から1年以内に終結するとみるのが一般的であったため、最初から大きな影響を受けたわけではなかった
    • [33]ドイツ船舶の来航が完全にストップし、連合国船舶も海上の危険を避けて入港するものが激減したため、注文した品は容易に入手できなかった
    • [34]発注商品に対する為替の決済を迫られたことから、この資金調達には相当の苦心を要した
    • [35]薬価は大正5年(1916年)の前半まで上昇を続け、業界の悩みは在庫品の減少による売惜しみの横行であったが、当社は店主の方針として売惜しみ行為を一切禁じ、実需に結びついた商談には常に快く応じた
    • [36]得意先本位をモットーとすべきこと、とくに医薬品は人命にかかわるものだけに単なる営利の具として扱うべきでないとする十二代五兵衞の信念に基づくものであった
    • [37]サリチル酸は清酒防腐剤として十二代五兵衞が国内需要を開拓したものであったが、戦争勃発による輸入途絶は例外ではなかった
    • [38]新酒の仕込期を前にサリチル酸不足に悩む全国の酒造家の要望を受け、同心町工場に在庫中のアスピリン約1500ポンドを割いてサリチル酸を製造した
    • [39]アスピリンを重曹で分解してサリチル酸を回収する方法は、アスピリンの製造工程をまったく逆にたどるという採算を度外視した非常手段であった
    • [40]同心町工場に30リットル容量の加圧釜数十基を備え、石炭酸からサリチル酸を合成する高圧法に踏切り、シュミット式高圧法による東京の三共株式会社と並んでサリチル酸の国産化に一応の成果を挙げた
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第3節 本庄工場の建設
    • [41]同心町工場がこれ以上の増産に耐え得ないと判断した当社は、大正4年(1915年)、北区本庄川崎町3丁目の旧牧場跡3000坪に当時としては最新式の製薬工場を建設することを決定した
    • [42]工場のレイアウトはすべて分家田邊祿寿の創意によるもので、祿寿は大正2年(1913年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業したあと十二代五兵衞の四女シマに入婿した。本庄工場は大正5年(1916年)5月に完工し、主要工場8棟と完備した試験室・実験室を持った
    • [46]薬局方の規定する処は薬品々質の最低限度を要求せるものにして最高の標準を示せるものにあらずとして、局方収載品にツル印またはライオン印の商標を付し、超局方品の提供に全力を傾倒する旨を宣言した
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第1節 第一次世界大戦と薬業界
    • [43]大戦による医薬品価格の急騰はすさまじく、ものによっては平時の数十倍という高値を呼び、この状況が日本の製薬事業の勃興を強く刺激した
    • [44]思惑取引で巨利を得た業者は大正7年(1918年)と同9年の2度の経済変動でおおむねこれを失ったが、大戦中に資本を蓄積し経営の近代化と営業地盤の強化、設備の改善に努めた業者はこの大戦を境として飛躍の段階へと進んだ
    • [45]最も注目すべき点は、これまでに蓄積した問屋資本を速やかに製薬資本に転化したことであり、単に局方薬の国産化にとどまらず新薬の開発を競うに至ったことである
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第8節 株式組織に改組
    • [47]大手業者のうち塩野義三郎商店は大正8年(1919年)、武田長兵衞商店は大正14年(1925年)に株式組織へ改組した。当社は昭和8年(1933年)12月13日に創立総会を開催し、株式会社田邊五兵衞商店を創立、同月15日登記を完了した
    • [48]資本金は引継資産の評価額385万円に退職引当基金30万円を加えた総計415万円で、店主個人所有の営業に関する一切を引継いだ
    • [49]株式組織への改組方針が決定した昭和7年(1932年)、改組後の運営を円滑にするためこれまでの丁稚・番頭・別家の登用制度を廃止し、従業員はすべて職員・準職員・工員の区分によることとした
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 戦時統制の時代 第5節 社章・社是の制定と社名の変更
    • [50]昭和10年(1935年)と11年に45万円・40万円を増資して資本金500万円となり、加島工場の新設に当って12年8月にはさらに50万円を増資して550万円とした
    • [51]昭和18年(1943年)8月1日、社名を株式会社田邊五兵衞商店から田邊製薬株式会社に変更した
    • [52]戦時中の当社はそれまでの薬種貿易問屋機能を著しく圧縮され、実質上は医薬品製造企業に転換していたため、この事業内容を明確に示す必要から社名を変更した

筆者考察

田邊屋が薬を作る会社になったのは、作る力を蓄えたからではなく、売る商いが断たれたからである。1914年に欧州大戦が起きてドイツ船の来航が止まったとき、五兵衞商店の手元には通常どおりの6か月分の在庫しかなかった。道修町の市場は売惜しみで動かなくなったが、店主は売惜しみを一切禁じ、実需のある商談には応じ続けた。得意先を守る方針は、商品をどこから確保するかという難題を自分の側に残した。在庫のアスピリンを重曹で分解してサリチル酸を取り戻すという採算を度外視した手当ては、商人が作り手へ回る最初の一歩だった。

道修町の薬種中買は、問屋の下部組織とされながら自ら店舗を構え、問屋と同じ取引を行う業態だった。田邊屋はそこで百数十年かけて仕入の経路と信用を積んでいる。十二代五兵衞がアーレンス商会の知遇を得たのも、ハイデン社のサリチル酸の一手販売権を人力車で神戸へ走って押さえたのも、蓄えた資力と支払いの律義さがあってのことである。第一次大戦を境に、道修町の有力業者はこの問屋資本を製薬資本へ移し替えた。1933年の株式会社化で丁稚・番頭・別家の登用制度が消え、1943年に社名から五兵衞商店の名が消えたとき、業態の移し替えは形のうえでも終わった。

株式会社改組後の資本金 増資はいずれも本庄工場の拡張と加島工場の新設に充てた(万円)

415 改組時 460 35年7月 500 36年8月 550 37年8月

出典・参考

13件
出典・参考
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第1節 創業のころ
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第2節 道修町に進出
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第4節 新店舗に移る
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)序章 江戸時代の田邊屋 第3節 薬種中買と朝鮮産薬種の取扱
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第2節 十二代五兵衞の洋薬取引
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第1章 業礎の確立 第3節 洋薬国産化への努力
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第2節 第一次世界大戦と当社
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第3節 本庄工場の建設
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第1節 第一次世界大戦と薬業界
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第2章 製薬事業の拡大 第8節 株式組織に改組
  • 田辺製薬三百五年史(田辺製薬、1983年)第3章 戦時統制の時代 第5節 社章・社是の制定と社名の変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」

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