塩野義製薬:初代塩野義三郎の薬種問屋創業と塩野製薬所の建設
1878年〜道修町で開いた和漢薬の薬種問屋と、神戸の商館から仕入れた洋薬
塩野義製薬の起点は、1878年3月に大阪の道修町で開いた和漢薬の個人商店である。店主は初代塩野義三郎氏で、満24歳の誕生日の3月17日に独立し、薬種問屋の店を構えた。塩野家の家業は「塩野屋」を号し、寛文年間から続く老舗。初代塩野義三郎氏はこの家業を土台にしつつ、自らの名を冠した塩野義三郎商店として商いを始め、当初は和漢薬だけを扱った。塩野義製薬は1968年を創業90周年とし、この独立の日を会社の始まりに数えた。老舗の家業で扱い慣れた生薬の商いから入ったことで、独立直後から仕入れ先と得意先を確保しやすかったとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [1]寛文から続く老舗「塩野屋」を基礎に、初代塩野義三郎が1878年3月、大阪・道修町で個人商店として和漢薬の販売を始めた
- [3]寛文から続く老舗「塩野屋」を基礎に、初代塩野義三郎が1878年3月、大阪・道修町で個人商店として和漢薬の販売を始めた
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [2]1878年3月17日、初代塩野義三郎が満24歳の誕生日に薬種問屋として独立。塩野義三郎商店は当初和漢薬を扱い、1968年が創業90周年
- [4]1878年3月17日、初代塩野義三郎が満24歳の誕生日に薬種問屋として独立。塩野義三郎商店は当初和漢薬を扱い、1968年が創業90周年
- [5]1878年3月17日、初代塩野義三郎が満24歳の誕生日に薬種問屋として独立。塩野義三郎商店は当初和漢薬を扱い、1968年が創業90周年
初代塩野義三郎氏は1886年、神戸にある外国の商館から洋薬を仕入れ、商いの中心を和漢薬から洋薬へ切り替えた。国内で西洋医学が発達し、それに伴って洋薬の需要が見込めたことが転換の理由である。仕入れた品はタンナルビンをはじめとする海外の新薬で、いずれも輸入品であった。和漢薬から出発した塩野義三郎商店は、この洋薬への転換を経て事業を段階的に大きくした。開業から8年での転換は、店の品ぞろえを輸入新薬へ広げる判断でもあった。商館を介した仕入れでは、扱う品目と価格の決め手を商館側に委ねる取引であったと推察される。
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [6]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [7]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [8]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [10]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [9]塩野義三郎商店は和漢薬の取扱いから洋薬に転じて逐次発展した
初代塩野義三郎氏は1892年2月、研究所を大阪市北区相生町に新設した。輸入洋薬が国内に入ったことに刺激され、医薬の研究が盛んになった時期にあたる。1968年の記述も、塩野義三郎商店が明治中期の段階で製薬事業に手を付けていたことを伝える。1897年ごろからは仲介を経ず、欧米の商社と直接に取引するようになった。直取引で仕入れた外国の製品を、初代塩野義三郎氏は日本の市場へ紹介した。研究所で薬を調べる力を備えたことが、海外の製品を自ら選んで持ち込む直取引の前提になったと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [11]輸入洋薬の刺激で医薬研究が勃興し、1892年2月に大阪市北区相生町へ研究所を設立。1897年ごろから外国商社と直取引し製品を日本に紹介
- [12]輸入洋薬の刺激で医薬研究が勃興し、1892年2月に大阪市北区相生町へ研究所を設立。1897年ごろから外国商社と直取引し製品を日本に紹介
- [15]輸入洋薬の刺激で医薬研究が勃興し、1892年2月に大阪市北区相生町へ研究所を設立。1897年ごろから外国商社と直取引し製品を日本に紹介
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [13]明治中期にはすでに製薬事業に着手。1897年ごろから欧米の商社と直取引を行った
- [14]明治中期にはすでに製薬事業に着手。1897年ごろから欧米の商社と直取引を行った
参考文献[1]-[15]
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [1]寛文から続く老舗「塩野屋」を基礎に、初代塩野義三郎が1878年3月、大阪・道修町で個人商店として和漢薬の販売を始めた
- [3]寛文から続く老舗「塩野屋」を基礎に、初代塩野義三郎が1878年3月、大阪・道修町で個人商店として和漢薬の販売を始めた
- [6]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [7]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [8]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [10]西洋医学の発達に応じ、1886年から神戸の商館を通じて洋薬の取扱いに切り替え、タンナルビン等の新薬を輸入
- [11]輸入洋薬の刺激で医薬研究が勃興し、1892年2月に大阪市北区相生町へ研究所を設立。1897年ごろから外国商社と直取引し製品を日本に紹介
- [12]輸入洋薬の刺激で医薬研究が勃興し、1892年2月に大阪市北区相生町へ研究所を設立。1897年ごろから外国商社と直取引し製品を日本に紹介
- [15]輸入洋薬の刺激で医薬研究が勃興し、1892年2月に大阪市北区相生町へ研究所を設立。1897年ごろから外国商社と直取引し製品を日本に紹介
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [2]1878年3月17日、初代塩野義三郎が満24歳の誕生日に薬種問屋として独立。塩野義三郎商店は当初和漢薬を扱い、1968年が創業90周年
- [4]1878年3月17日、初代塩野義三郎が満24歳の誕生日に薬種問屋として独立。塩野義三郎商店は当初和漢薬を扱い、1968年が創業90周年
- [5]1878年3月17日、初代塩野義三郎が満24歳の誕生日に薬種問屋として独立。塩野義三郎商店は当初和漢薬を扱い、1968年が創業90周年
- [9]塩野義三郎商店は和漢薬の取扱いから洋薬に転じて逐次発展した
- [13]明治中期にはすでに製薬事業に着手。1897年ごろから欧米の商社と直取引を行った
- [14]明治中期にはすでに製薬事業に着手。1897年ごろから欧米の商社と直取引を行った
1908年〜アンタチヂンで始めた自家製造と、海老江に建てた塩野製薬所
初代塩野義三郎氏は1908年ごろ、サリチル酸と蒼鉛類を中心とする塩類を自ら製造し始めた。医学の進歩につれて新薬の需要が増え、輸入品だけに依存しない国内生産へ力を移した。自社で最初に送り出した新薬は、制酸剤の胃腸薬アンタチヂンであった。1968年の社史記述によれば、製薬を営む会社の基礎は1908年の本格的な製薬研究への着手にある。問屋として輸入新薬を売りながら、塩野義三郎商店は自ら薬をつくる側の事業を併せ持つことになった。輸入新薬の販売で需要の大きい品目をつかんでいたことが、自家製造の品目選びに生きたのだろう。
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [16]新薬需要の増大から輸入新薬のみに頼らず国内生産に力を注ぎ、1908年ごろサリチル酸・蒼鉛類等の塩類の自家製造に着手、最初の新薬として制酸剤胃腸薬アンタチヂンを創製
- [17]新薬需要の増大から輸入新薬のみに頼らず国内生産に力を注ぎ、1908年ごろサリチル酸・蒼鉛類等の塩類の自家製造に着手、最初の新薬として制酸剤胃腸薬アンタチヂンを創製
- [18]新薬需要の増大から輸入新薬のみに頼らず国内生産に力を注ぎ、1908年ごろサリチル酸・蒼鉛類等の塩類の自家製造に着手、最初の新薬として制酸剤胃腸薬アンタチヂンを創製
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [19]1908年に本格的な製薬研究に取り組み、製薬会社としての基礎ができた
- [20]1908年に本格的な製薬研究に取り組み、製薬会社としての基礎ができた
初代塩野義三郎氏は1909年に塩野製薬所を設け、店にあった研究所と製薬部をそこへ移して生産規模の拡大を狙った。塩野製薬所は1910年、淀川河畔の海老江(大阪市西淀川区)に完成し、のちに淀川工場と呼ばれた。完成とともに自社製品の製造が始まり、製品は塩酸キニーネ、アンタチヂン、サリチル酸ソーダの3品。強心利尿剤のヂギタミンと塩酸キニーネも、塩野製薬所の設置を機に製造が始まった。1955年の時点でも、この2品目は使われ続けていた。店の一角で始めた塩類の製造を専用の建屋へ出したことで、のちの大戦期の国産化を受け止める生産の足場が先にできていたと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [21]1909年に塩野製薬所(のちの淀川工場)を設置し研究所と製薬部を移して生産を拡充。ヂギタミン・塩酸キニーネ等の製造をこの時開始し、1955年時点でも使用
- [24]1909年に塩野製薬所(のちの淀川工場)を設置し研究所と製薬部を移して生産を拡充。ヂギタミン・塩酸キニーネ等の製造をこの時開始し、1955年時点でも使用
- [25]1909年に塩野製薬所(のちの淀川工場)を設置し研究所と製薬部を移して生産を拡充。ヂギタミン・塩酸キニーネ等の製造をこの時開始し、1955年時点でも使用
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [22]1910年、大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に塩野製薬所(のちの淀川工場)を完成し自社製品の製造を開始。製品は塩酸キニーネ、サリチル酸ソーダ、アンタチヂン
- [23]1910年、大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に塩野製薬所(のちの淀川工場)を完成し自社製品の製造を開始。製品は塩酸キニーネ、サリチル酸ソーダ、アンタチヂン
大正初期までの国内の製薬業は基礎が固まらず、輸入薬品に大きく依存した。第一次世界大戦が始まると、ドイツ製を中心に薬品の輸入が止まった。初代塩野義三郎氏は国産化に経営の力を集中し、大戦中に不足の著しかった炭酸マグネシアとブロームの自給を目指した。その拠点が、赤穂(兵庫県)に設けた分工場での苦汁工業である。大戦以降はヂキタミン、パラヌトリン、塩酸シノメニンを中心に製薬事業を広げた。このころから生産は大量生産の段階へ移り、1919年6月の株式組織への改組へとつながった。
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [26]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- [28]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- [29]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- [31]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [27]第一次世界大戦以来ドイツからの薬品輸入が途絶し、ヂキタミン(強心利尿剤、1955年資料ではヂギタミン)・パラヌトリン・塩酸シノメニンを中心に製薬事業を進展
- [30]第一次世界大戦以来ドイツからの薬品輸入が途絶し、ヂキタミン(強心利尿剤、1955年資料ではヂギタミン)・パラヌトリン・塩酸シノメニンを中心に製薬事業を進展
参考文献[16]-[31]
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- [16]新薬需要の増大から輸入新薬のみに頼らず国内生産に力を注ぎ、1908年ごろサリチル酸・蒼鉛類等の塩類の自家製造に着手、最初の新薬として制酸剤胃腸薬アンタチヂンを創製
- [17]新薬需要の増大から輸入新薬のみに頼らず国内生産に力を注ぎ、1908年ごろサリチル酸・蒼鉛類等の塩類の自家製造に着手、最初の新薬として制酸剤胃腸薬アンタチヂンを創製
- [18]新薬需要の増大から輸入新薬のみに頼らず国内生産に力を注ぎ、1908年ごろサリチル酸・蒼鉛類等の塩類の自家製造に着手、最初の新薬として制酸剤胃腸薬アンタチヂンを創製
- [21]1909年に塩野製薬所(のちの淀川工場)を設置し研究所と製薬部を移して生産を拡充。ヂギタミン・塩酸キニーネ等の製造をこの時開始し、1955年時点でも使用
- [24]1909年に塩野製薬所(のちの淀川工場)を設置し研究所と製薬部を移して生産を拡充。ヂギタミン・塩酸キニーネ等の製造をこの時開始し、1955年時点でも使用
- [25]1909年に塩野製薬所(のちの淀川工場)を設置し研究所と製薬部を移して生産を拡充。ヂギタミン・塩酸キニーネ等の製造をこの時開始し、1955年時点でも使用
- [26]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- [28]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- [29]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- [31]大正初期まで製薬業は輸入薬品に依存。欧州大戦で輸入が杜絶し国産化に傾注、炭酸マグネシア・ブローム不足から兵庫県赤穂に分工場を設け苦汁工業に着手。このころ大量生産に移行し1919年6月に株式組織へ改組
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」
- [19]1908年に本格的な製薬研究に取り組み、製薬会社としての基礎ができた
- [20]1908年に本格的な製薬研究に取り組み、製薬会社としての基礎ができた
- [22]1910年、大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に塩野製薬所(のちの淀川工場)を完成し自社製品の製造を開始。製品は塩酸キニーネ、サリチル酸ソーダ、アンタチヂン
- [23]1910年、大阪市西淀川区海老江の淀川河畔に塩野製薬所(のちの淀川工場)を完成し自社製品の製造を開始。製品は塩酸キニーネ、サリチル酸ソーダ、アンタチヂン
- [27]第一次世界大戦以来ドイツからの薬品輸入が途絶し、ヂキタミン(強心利尿剤、1955年資料ではヂギタミン)・パラヌトリン・塩酸シノメニンを中心に製薬事業を進展
- [30]第一次世界大戦以来ドイツからの薬品輸入が途絶し、ヂキタミン(強心利尿剤、1955年資料ではヂギタミン)・パラヌトリン・塩酸シノメニンを中心に製薬事業を進展
出典・参考
2件
- 会社銀行八十年史(1955年)「塩野義製薬」
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「塩野義製薬」