塩野義三郎(初代)
経歴1878〜1931年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1878年主要役職の状況(推定含む目安)1931年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 塩野義製薬 | 1878 | 創業(道修町3丁目12番地で薬種問屋・塩野義三郎商店を開業。店主) | ||
| 1888 | 大阪薬品試験会社 設立発起人 | ||||
| 1919 | 株式会社塩野義商店 社長(個人商店と塩野製薬所を合わせて株式会社に改組) | ||||
| 1920 | 平取締役に退き、義一と改名(長男正太郎が二代義三郎を襲名して社長に就任) | ||||
| 1931 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1854年に大阪・道修町の薬種中買、二代塩野屋吉兵衛氏の三男として生まれ、12歳から父の店で商いの見習いを積んだ。1878年3月に道修町3丁目で薬種問屋を開業し、塩野義三郎商店の店主として和漢薬から洋薬への転換と自家新薬の製造を進めた。1919年の株式会社化で社長に就任したが翌1920年に退き、長男の正太郎氏が二代義三郎を襲名して経営を継いだ。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
初代塩野義三郎氏は1854年、大阪・道修町で薬種中買を営む二代塩野屋吉兵衛氏の三男に生まれ、12歳から父の店で商いの見習いを始めた。1870年には神戸の中国人商館へ麝香の仕入れに出向き、居留地で洋薬が取引される様子を見ている。生家は漢薬が主力だったが、叔父の塩野宗三郎氏が洋薬の取扱業者として地位を高めるのを間近にし、洋薬の先行きに注目していた。
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「義三郎の生い立ち」「商売見習い」(本文.txt L536–L609)
- [5]安政元年三月十七日、道修町薬種商二代塩野屋吉兵衛の三男として出生。十二歳から父のもとで商売見習い。明治三年に神戸の中国の商館源泰号へ麝香の買い付けに行き、見習い時代に神戸居留地で道修町の洋薬業者が商館と取引する様子を見聞。生家は漢薬が主だったが、叔父塩野宗三郎の洋薬取扱業者としての地位が上がるのを見て洋薬の将来性を感じていた
- [6]安政元年三月十七日、道修町薬種商二代塩野屋吉兵衛の三男として出生。十二歳から父のもとで商売見習い。明治三年に神戸の中国の商館源泰号へ麝香の買い付けに行き、見習い時代に神戸居留地で道修町の洋薬業者が商館と取引する様子を見聞。生家は漢薬が主だったが、叔父塩野宗三郎の洋薬取扱業者としての地位が上がるのを見て洋薬の将来性を感じていた
- [7]安政元年三月十七日、道修町薬種商二代塩野屋吉兵衛の三男として出生。十二歳から父のもとで商売見習い。明治三年に神戸の中国の商館源泰号へ麝香の買い付けに行き、見習い時代に神戸居留地で道修町の洋薬業者が商館と取引する様子を見聞。生家は漢薬が主だったが、叔父塩野宗三郎の洋薬取扱業者としての地位が上がるのを見て洋薬の将来性を感じていた
独立の元手は父からの贈与である。1877年1月に創業資金1万2,000円を受け、同年10月には本家の西隣にあたる道修町3丁目12番地の家屋敷を自身の名義で得て、買値の2倍に及ぶ修築費を投じた。1878年3月17日、24歳の誕生日に合わせてこの地で薬種問屋を開業し、塩野義三郎商店の店主となった。現在も塩野義製薬の本社が置かれている場所である。当初の商品は沈香・麝香・薬用人参などの高価な和漢薬が中心で、兄の三代吉兵衛氏らが出資する組合商いの形をとった。
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「義三郎の創業」(本文.txt コマ33)
- [8]明治十年一月に父吉左衛門から創業資金一万二千円と家買請・道具料千五百円の贈与を受け、同年十月に本家の西隣の道修町三丁目十二番地の家屋舗を義三郎名義で買い受けた。家屋舗の買請は七百八十二円余、修築改造費は千五百六十二円余で、父から「派手に過ぎる」と注意された
- [9]明治十年一月に父吉左衛門から創業資金一万二千円と家買請・道具料千五百円の贈与を受け、同年十月に本家の西隣の道修町三丁目十二番地の家屋舗を義三郎名義で買い受けた。家屋舗の買請は七百八十二円余、修築改造費は千五百六十二円余で、父から「派手に過ぎる」と注意された
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「明治十一年三月十七日」「義三郎の創業」(本文.txt コマ20–33)
- [10]明治十一年(1878)三月十七日、初代塩野義三郎は二十四歳の誕生日を期して道修町三丁目十二番地に薬種問屋を創業。現在の塩野義製薬株式会社本社の所在地
- [12]明治十一年(1878)三月十七日、初代塩野義三郎は二十四歳の誕生日を期して道修町三丁目十二番地に薬種問屋を創業。現在の塩野義製薬株式会社本社の所在地
- 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
- [11]1878年3月に大阪・道修町で創業、1919年6月に株式会社塩野義商店へ改組
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「初商い」「組合商い」(本文.txt コマ34–36)
- [13]開業当初の取り扱いの主力は和漢薬で高貴薬に重点を置き、沈香・麝香・薬用人参は銘柄も多かった。発足当初から二人以上が共同で事業を営む組合商いの形態をとり、出資者には兄の塩野吉兵衛が含まれた
滑り出しは順調ではなかった。1882年度に2,185円、1883年度に794円と2年続けて赤字を計上し、予算を組み直して損失の縮小に努めた。転機は1886年で、和漢薬の取り扱いをやめ、扱う品を洋薬に絞った。同年に洋薬商の団体である開成組へ加わり、翌1887年には年間の利益が1,000円台に乗った。1888年には道修町の薬業者が共同で設けた大阪薬品試験会社の発起人に名を連ねた。帳簿も大福帳から複式簿記へ切り替え、自ら簿記を学んだうえで1891年の決算から複式の計算書を作らせた。
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「苦節十年」(本文.txt コマ37)
- [14]明治十五年度に二千百八十五円余、十六年度に七百九十四円余と二年連続の大幅赤字。義三郎は赤字幅の減少のため予算の見直しなどに苦心した
- [15]明治十五年度に二千百八十五円余、十六年度に七百九十四円余と二年連続の大幅赤字。義三郎は赤字幅の減少のため予算の見直しなどに苦心した
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「義三郎の方向転換」「大福帳から複式簿記へ」(本文.txt L948–L1046)
- [16]明治十九年に和漢薬の取り扱いをやめてもっぱら洋薬を取り扱うことにした。同年、洋薬商の団体である開成組に加入。洋薬に転じた十九年から利益が尻上がりとなり、二十年から年間一千円の大台に到達
- [17]明治十九年に和漢薬の取り扱いをやめてもっぱら洋薬を取り扱うことにした。同年、洋薬商の団体である開成組に加入。洋薬に転じた十九年から利益が尻上がりとなり、二十年から年間一千円の大台に到達
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「大阪薬品試験会社設立」(本文.txt コマ46)
- [18]明治二十一年に大阪薬種卸仲買商仲間が私立試験所の設立を願い出て、同年四月に大阪薬品試験会社が設立認可。義三郎はその設立発起人に名を連ねた
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「簿記の習得」(本文.txt L1040–L1066)
- [19]創業以来の大福帳式の営業帳簿をやめて複式簿記の採用を準備し、義三郎自身が複式簿記を習得するところから始めた。二十四年から複式帳簿となり、損益勘定表は二十四年十二月の決算から作成
次に手をつけたのは仕入れと製造である。1897年秋から外国商館を介さない直輸入を試み、遅くとも1900年までに実現させた。1909年8月には、東京帝国大学で薬学を修めた次男の長次郎氏が試製した制酸剤アンタチヂンを、店として初めての自家新薬として売り出した。1910年2月には大阪・海老江に塩野製薬所を開設して長次郎氏を所長に据え、問屋に製薬の部門を加えた。工場の経営は塩野義三郎商店の帳簿と切り離し、長次郎氏に委ねている。のちの淀川工場である。
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「直輸入を開始」(本文.txt L1171–L1219)
- [20]外国商館の手をへるばかりでは低廉な原価で市場に供給できないと考え、明治三十年の秋から直輸入を試み、三十年代のはじめ、遅くとも三十三年までに結実していた
- [21]外国商館の手をへるばかりでは低廉な原価で市場に供給できないと考え、明治三十年の秋から直輸入を試み、三十年代のはじめ、遅くとも三十三年までに結実していた
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「アンタチヂン」(本文.txt L1474–L1530)
- [22]明治四十年七月に東京帝国大学医学部薬学科を卒業した次男長次郎が試製した制酸剤アンタチヂンは、塩野義三郎商店がはじめて発売する新薬第一号。明治四十二年八月五日に業界紙「薬業時論」に半ページ広告
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「塩野製薬所の建設」(本文.txt L1579–L1604)
- [23]明治四十二年秋から海老江に新工場を建設、四十三年一月に完成し二月一日から「塩野製薬所」として作業を開始。長次郎が所長。のちの淀川工場の前身で、塩野義が名実ともに製薬部門を持った。工場の経営は塩野義三郎商店と切り離して行われた
- [24]明治四十二年秋から海老江に新工場を建設、四十三年一月に完成し二月一日から「塩野製薬所」として作業を開始。長次郎が所長。のちの淀川工場の前身で、塩野義が名実ともに製薬部門を持った。工場の経営は塩野義三郎商店と切り離して行われた
- [25]明治四十二年秋から海老江に新工場を建設、四十三年一月に完成し二月一日から「塩野製薬所」として作業を開始。長次郎が所長。のちの淀川工場の前身で、塩野義が名実ともに製薬部門を持った。工場の経営は塩野義三郎商店と切り離して行われた
1919年6月、長男の正太郎氏が管掌していた塩野義三郎商店と長次郎氏の塩野製薬所を合わせ、資本金150万円の株式会社塩野義商店を設けた。初代義三郎氏はこの株式会社の社長に就任したが、翌1920年には平取締役に退いて名を義一と改め、正太郎氏が二代義三郎を襲名して社長を継いだ。個人商店の開業から41年で、経営は息子の代に移ったことになる。1931年12月28日、池田の隠居所で77歳の生涯を閉じた。
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「個人経営から会社経営に」(本文.txt L2300–L2345)
- [26]大正八年、正太郎の管掌してきた薬種問屋・塩野義三郎商店と長次郎の主宰してきた塩野製薬所とを合併し、六月五日に資本金百五十万円の株式会社塩野義商店を設立。社長に初代義三郎、取締役に正太郎・長次郎ら。創業以来四十一年目で個人営業時代が終わった
- [29]大正八年、正太郎の管掌してきた薬種問屋・塩野義三郎商店と長次郎の主宰してきた塩野製薬所とを合併し、六月五日に資本金百五十万円の株式会社塩野義商店を設立。社長に初代義三郎、取締役に正太郎・長次郎ら。創業以来四十一年目で個人営業時代が終わった
- 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
- [27]1878年3月に大阪・道修町で創業、1919年6月に株式会社塩野義商店へ改組
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)「二代義三郎の襲名」(本文.txt L2365–L2366, L5324)
- [28]初代義三郎は平取締役として第一線から引退し、名を義一と改めた(六十七歳)。このときから正太郎は二代義三郎と名乗る。二代義三郎は大正九年に塩野義商店の二代社長に就任
- [30]初代義三郎は平取締役として第一線から引退し、名を義一と改めた(六十七歳)。このときから正太郎は二代義三郎と名乗る。二代義三郎は大正九年に塩野義商店の二代社長に就任
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)(本文.txt L3257–L3260)
- [31]昭和六年十二月二十八日、池田の隠居所で余生を送っていた義一翁が、散歩後に気分が悪くなり翌日七十七歳の生涯を閉じた
参考文献2件
参考文献
- 塩野義製薬『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年)
- 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】
事実根拠:出所(塩野義製薬)