第2章 年〜年

日東紡績:グラスファイバー織物とソーラトンの工場新設

36億円の赤字から始めたコーマー糸と不燃建材への特化

1966年〜コスト中心主義から品質重視経営への転換

転んだ理由を品質に見つける

赤字の原因をどこに置くかで、その後の10年が決まった。1966年4月期の純損失36億3千万円について、日東紡が下した診断は市況でも不況でもなく自社の品質だった。のちに社長となる長島武夫氏は、転落までの経営をこう振り返っている『それまでは経営者はコスト、コストとばかり言っていた。そのため、品質は悪かった。だから、不況がきて需要が減ると、まずわが社の商品から切られてしまう。それに、コスト優先で工場が荒れてしまった』。買い手が減産する局面でどの供給者の注文を減らすかを決めるのは買い手であり、供給者の側は品質でしか順番を変えられない。1965年12月には日本興業銀行の取締役だった長島氏が常務取締役として入社し、1970年12月に取締役副社長、1978年7月に取締役社長へ就任している。

  • 会社年鑑(1986年版ほか)
    • [1]1966年4月期 当期純損失36億3千万円
  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [2]日東紡績はコスト優先で品質が悪化していたことを昭和40年の赤字の原因とみなした
  • 日本企業要覧 1980年版
    • [3]1965年12月 長島武夫氏が日本興業銀行の取締役から日東紡績の常務取締役へ入社した
    • [4]長島武夫氏は1970年12月に取締役副社長、1978年7月に取締役社長へ就任した
量を追うのをやめる

日東紡はこの転落を受けて、コスト中心主義から品質重視経営へ経営の軸を移した。狙ったのは、好況の年に大きく稼ぐよりも、不況の年に大赤字を出さない体質だった。量の拡大は高度成長のさなかに打ち切り、絞ってきた設備投資も品質向上のためなら惜しまないことにした。客が他社品を断ってまで手に取る商品があれば不況の打撃は最小限で済むという読みで、長島氏によれば、規模に比べた投資額は同業で最も多かったのではないかという。付加価値が高く相場に振られにくい商品へ絞る方針は、その後も引き継がれた。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [5]昭和40年の赤字転落を機に、コスト中心主義から品質重視経営へ転換した
    • [6]好況時に大きく利益が出るよりも、不況時に大幅な赤字が出ない不況抵抗力のある会社にすることを目標とした
    • [7]40年以降、量を追うのはやめ、抑えていた設備投資は品質改善のためならドシドシ行った
    • [8]日東紡の商品なら他を断ってでも買うと言われる商品をつくれば、不況になっても被害は最小限に食い止められると考えた
    • [9]規模から見れば同業のなかで最も多く投資したのではないかと長島社長は述べている
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [10]品質・機能に最重点を置き、付加価値が高くなるべく相場の影響を受けにくい商品に特化することを基本方針としている
祖業の絹紡をやめる

年商300億円台の日東紡には、手がける製品すべての品質を引き上げるだけの設備投資の余力はなかった。品質向上を掲げても全品目で一律に進めるのは無理で、対象を絞った範囲に限って近代化する特化作戦がとられた。繊維では綿に的を定め、合成繊維系と絹紡績から手を引き、一部で事業にしていた合成皮革もやめた。郡山で1898年に始まった絹糸紡績もここで事業から外れ、戦前に開発したアクリロニトリル系繊維は、無機繊維へ投資を振り向けたために企業化されなかった。品質で選ばれる会社を目指すには、品目を絞るほかに道がなかったのである。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [11]全製品の品質を向上するには設備投資も多額になり、日東紡績の規模では無理だった
    • [12]商品の的をしぼり近代化を進める「特化」作戦を取った
    • [13]繊維部門では事業化していた合繊系と絹紡績を中止し、一部事業化していた合成皮革もやめて的を綿にしぼった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [14]1898年2月 郡山市の岩代紡績所で郡山絹糸紡績が絹糸紡績の操業を始めた
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [15]戦前に開発したアクリルニトリル系繊維は、投資の重点を無機繊維分野に置いたため企業化しなかった
参考文献[1]-[15]
  • 会社年鑑(1986年版ほか)
    • [1]1966年4月期 当期純損失36億3千万円
  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [2]日東紡績はコスト優先で品質が悪化していたことを昭和40年の赤字の原因とみなした
    • [5]昭和40年の赤字転落を機に、コスト中心主義から品質重視経営へ転換した
    • [6]好況時に大きく利益が出るよりも、不況時に大幅な赤字が出ない不況抵抗力のある会社にすることを目標とした
    • [7]40年以降、量を追うのはやめ、抑えていた設備投資は品質改善のためならドシドシ行った
    • [8]日東紡の商品なら他を断ってでも買うと言われる商品をつくれば、不況になっても被害は最小限に食い止められると考えた
    • [9]規模から見れば同業のなかで最も多く投資したのではないかと長島社長は述べている
    • [11]全製品の品質を向上するには設備投資も多額になり、日東紡績の規模では無理だった
    • [12]商品の的をしぼり近代化を進める「特化」作戦を取った
    • [13]繊維部門では事業化していた合繊系と絹紡績を中止し、一部事業化していた合成皮革もやめて的を綿にしぼった
  • 日本企業要覧 1980年版
    • [3]1965年12月 長島武夫氏が日本興業銀行の取締役から日東紡績の常務取締役へ入社した
    • [4]長島武夫氏は1970年12月に取締役副社長、1978年7月に取締役社長へ就任した
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [10]品質・機能に最重点を置き、付加価値が高くなるべく相場の影響を受けにくい商品に特化することを基本方針としている
    • [15]戦前に開発したアクリルニトリル系繊維は、投資の重点を無機繊維分野に置いたため企業化しなかった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [14]1898年2月 郡山市の岩代紡績所で郡山絹糸紡績が絹糸紡績の操業を始めた

1967年〜コーマー糸9割への設備の載せ替え

工場の売却資金で工場を建設する

綿へ的を絞った後の設備更新は、売却と新設の組み合わせで回った。子会社のうち熊本県の中央紡績と名古屋市の新洋紡績の2社は、1967年に手放している。1970年には和歌山県の海南工場を売った資金で和歌山工場を新たに建て、1976年1月には富山県に泊第2工場を設けた。そこでは綿糸1梱に要する人員が0.9人で済み、当時の綿紡績工場のなかでも最新鋭だった。この間に売上高は1967年4月期の336億円から1974年4月期の837億円へ増えた。押し上げたのは紡錘の台数ではなく、糸1本の単価の上昇である。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [16]綿紡績の近代化はスクラップ・アンド・ビルド方式で進められた
    • [17]1967年 熊本県の中央紡績と名古屋市の新洋紡績という子会社2社を売却した
    • [18]1970年 和歌山県の海南工場を売却し、その資金で和歌山工場を建設した
    • [19]1976年1月 富山県に泊第2工場を建設した
    • [20]泊第2工場は1梱生産するのに必要な人員が0.9人という、綿紡績工場では最新鋭の工場だった
  • 会社年鑑(1986年版ほか)
    • [21]売上高は1967年4月期336億円、1974年4月期837億円
高級糸一本へ照準を合わせる

高級糸のコーマー糸に絞って設備を順々にそれ向けへ入れ替え、品質を高めていった日東紡は、1979年には綿紡績の9割をコーマー糸が占めるに至り、大手紡績10社で比率が最も高くなった。綿糸の大半が向かった先は肌着メリヤスで、糸の質がそのまま評価を決める分野だったからである。グンゼやカタクラなど名の知れたメリヤスメーカーが1983年時点で主原糸としていたのも、日東紡の綿糸だった。何を作れるかではなく、誰がその品質に値段を付けるかで的を決めたことになる。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [22]綿紡績では高級糸であるコーマー糸一本に照準を合わせた
    • [23]設備を逐次切り替えて品質向上を進め、1979年時点で綿紡績に占めるコーマー糸の割合は9割に達した
    • [24]コーマー糸の比率は大手紡績会社10社のなかで最も高い
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [25]糸質の良さがそのまま評価されるのは肌着メリヤス分野であるため、綿糸はほとんどこの分野に特化した
    • [26]1983年時点で日東紡績の綿糸はグンゼ・カタクラなど著名メリヤスの主原糸となっていた
川下へ出ずに川下と組む

同じ時期、繊維各社は糸売りからの脱皮を課題に掲げ、東レや帝人といった大手合繊メーカーは子会社方式でファッションビジネスへ相次いで進出していた。繊維の最終商品まで握ることで、糸という市況商品から抜け出し、経営を安定させる狙いである。日東紡はこの川下作戦を自らは展開しなかった。代わりに、メリヤス肌着のグンゼ、厚木ナイロン工業、片倉工業といった衣料メーカーへ綿糸を納めた。長島氏はその理由をこう述べている『われわれのような中堅紡績会社が直接、川下に出ていっても、果たして既存の有力なメーカーと対等以上に勝負できるかどうか。それよりメーカーはメーカーに徹し、有力な川下メーカーと手を結んだ方が得策』。この結果、綿糸は商品取引所や仲間売りの流通経路を通らず、相場に左右される度合いが小さくなった。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [27]繊維各社は糸売りからの脱皮を経営課題とし、東レ・帝人など大手合繊メーカーは子会社方式でファッションビジネスへ相次いで進出した
    • [28]繊維の最終商品まで握ることで市況商品からの脱皮を図り、経営を安定させる狙いがあった
    • [29]日東紡績は自らは川下作戦を展開しなかった
    • [30]日東紡績の綿糸のほとんどはグンゼ・厚木ナイロン工業・片倉工業といった衣料メーカーへ納められた
    • [31]日東紡績の綿糸は商品取引所・仲間売りなどの流通経路を通らず、相場に左右されることがあまりなかった
参考文献[16]-[31]
  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [16]綿紡績の近代化はスクラップ・アンド・ビルド方式で進められた
    • [17]1967年 熊本県の中央紡績と名古屋市の新洋紡績という子会社2社を売却した
    • [18]1970年 和歌山県の海南工場を売却し、その資金で和歌山工場を建設した
    • [19]1976年1月 富山県に泊第2工場を建設した
    • [20]泊第2工場は1梱生産するのに必要な人員が0.9人という、綿紡績工場では最新鋭の工場だった
    • [22]綿紡績では高級糸であるコーマー糸一本に照準を合わせた
    • [23]設備を逐次切り替えて品質向上を進め、1979年時点で綿紡績に占めるコーマー糸の割合は9割に達した
    • [24]コーマー糸の比率は大手紡績会社10社のなかで最も高い
    • [27]繊維各社は糸売りからの脱皮を経営課題とし、東レ・帝人など大手合繊メーカーは子会社方式でファッションビジネスへ相次いで進出した
    • [28]繊維の最終商品まで握ることで市況商品からの脱皮を図り、経営を安定させる狙いがあった
    • [29]日東紡績は自らは川下作戦を展開しなかった
    • [30]日東紡績の綿糸のほとんどはグンゼ・厚木ナイロン工業・片倉工業といった衣料メーカーへ納められた
    • [31]日東紡績の綿糸は商品取引所・仲間売りなどの流通経路を通らず、相場に左右されることがあまりなかった
  • 会社年鑑(1986年版ほか)
    • [21]売上高は1967年4月期336億円、1974年4月期837億円
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [25]糸質の良さがそのまま評価されるのは肌着メリヤス分野であるため、綿糸はほとんどこの分野に特化した
    • [26]1983年時点で日東紡績の綿糸はグンゼ・カタクラなど著名メリヤスの主原糸となっていた

1974年〜石油ショック後の減量と不燃建材への集中

「死に札」と呼ばれる

繊維業界の構造不況は以前から取り沙汰されていたが、表面に一気に噴き出したのは1973年の石油ショックによってである。1975年4月期の経常欠損は、富士紡績133億円、大和紡績89億円、敷島紡績73億円、日東紡績71億円に達し、売上規模が500億円から800億円程度にとどまる4社としては桁外れの赤字幅だった。株式市場はこの4社をまとめて「死に札」と語呂で呼び、立ち直りなど望めないのだから投資は避けるべき銘柄だと見なした。反対に、生き残る側と目された東洋紡績・日清紡績・鐘紡・倉敷紡績の4社は「とにかく」と呼ばれた。日東紡にとっては、1965年に品質重視へ転じて10年後の二度目の赤字だった。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [32]オイル・ショックにより、それ以前からささやかれていた繊維の構造不況が一気に表面化した
    • [33]1975年4月期に富士紡績133億円、大和紡績89億円、敷島紡績73億円、日東紡績71億円の経常欠損を出した
    • [34]この4社の売上規模はいずれも500億〜800億円程度だった
    • [35]株式市場では敷島紡・日東紡・富士紡・大和紡を「死に札」と呼び、立ち直りの見通しがないから投資を避けよという意味で用いた
    • [36]「とにかく」は東洋紡績・日清紡績・鐘紡・倉敷紡績を指し、とにかく生き残るから投資してもよい銘柄とされた
  • 会社年鑑(1986年版ほか)
    • [37]1976年4月期 経常損失42億2,900万円・当期純損失49億9,500万円
人も借金も在庫も減らす

1976年から1978年までの3年間、日東紡は生き残り作戦と称して徹底した減量経営を進めた。3年間で人員は8,500人から6,000人へ約23%減り、借入金も24%ほど減額できた。目指したのは規模の回復ではなく、筋肉質の企業にすることだった。1975年4月期には棚卸資産回転日数が83.6日まで膨らんでいたが、在庫の圧縮でこれを押し戻した。ただし人員整理は行っていない。1965年に転んだ際、従業員の側から再建のための生産性向上運動と合理化運動が起こり、その力で立ち直った経緯があったためだと長島氏は述べている。二度目の危機で人員を削減しなかったことが、戻る速さを支えた。

  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [38]1976年から1978年にかけて「生き残り作戦」を展開し、徹底的な減量経営を進めた
    • [39]3年間に人員は8,500人から6,000人へ約23%減少し、借入金も24%ほど減額できた
    • [40]減量経営の狙いは筋肉質の企業にすることにあった
  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [41]棚卸資産回転日数は1975年4月期に83.6日だった
    • [42]日東紡績は赤字転落時も人員整理を行わなかった
    • [43]昭和40年の赤字時に従業員側から再建のための生産性向上運動・合理化運動が起こり、その力で立ち直ったため人員整理をしなかったと長島社長は述べている
不燃建材へ集中する

同じ絞り込みは繊維以外でも進んだ。1965年当時、日東紡はすでに建材とグラスファイバーで業界上位の供給者となっていたが、扱う品目を広げ過ぎていた。非繊維部門を再編したうえで、高付加価値製品の開発へ的を絞った。最初に製品化したのがロックウールを使った天井板ミネラートンで、ビル用の高級天井板の代表銘柄となった。次いで床材のステップロン、難燃性カーペットのダンペットへ展開し、いずれにも耐火・断熱・吸音の特性を持たせた。建物の高層化に伴う不燃規制の強化と省エネルギー対策の推進が需要を押し上げ、1965年当時は売上の17%だった非繊維部門は1978年4月期に37%へ伸びた。1977年4月期、日東紡は「死に札」4社のなかで唯一の黒字会社に転じている。

  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [44]1965年当時すでに建材・グラスファイバーで業界に確固たる地位を築いていたが、やや事業を拡大し過ぎたきらいがあった
    • [45]非繊維部門を再編成するとともに、高付加価値製品の開発に的を絞った
    • [46]最初に製品化したロックウールをベースにした天井板「ミネラートン」はビル用高級天井板の代表銘柄となった
    • [47]床材「ステップロン」、難燃性カーペット「ダンペット」へ展開し、いずれも耐火・断熱・吸音の特性を持たせた
    • [49]1965年当時は売上の17%だった建材・グラスファイバーの非繊維部門が1978年4月期に37%へ伸びた
    • [50]1977年4月期に「死に札」4社のなかで唯一の黒字会社へ転換した
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [48]建物の高層化に伴う不燃規制の強化および省エネ対策の推進により需要が急速に拡大した
参考文献[32]-[50]
  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
    • [32]オイル・ショックにより、それ以前からささやかれていた繊維の構造不況が一気に表面化した
    • [33]1975年4月期に富士紡績133億円、大和紡績89億円、敷島紡績73億円、日東紡績71億円の経常欠損を出した
    • [34]この4社の売上規模はいずれも500億〜800億円程度だった
    • [35]株式市場では敷島紡・日東紡・富士紡・大和紡を「死に札」と呼び、立ち直りの見通しがないから投資を避けよという意味で用いた
    • [36]「とにかく」は東洋紡績・日清紡績・鐘紡・倉敷紡績を指し、とにかく生き残るから投資してもよい銘柄とされた
    • [41]棚卸資産回転日数は1975年4月期に83.6日だった
    • [42]日東紡績は赤字転落時も人員整理を行わなかった
    • [43]昭和40年の赤字時に従業員側から再建のための生産性向上運動・合理化運動が起こり、その力で立ち直ったため人員整理をしなかったと長島社長は述べている
    • [44]1965年当時すでに建材・グラスファイバーで業界に確固たる地位を築いていたが、やや事業を拡大し過ぎたきらいがあった
    • [45]非繊維部門を再編成するとともに、高付加価値製品の開発に的を絞った
    • [46]最初に製品化したロックウールをベースにした天井板「ミネラートン」はビル用高級天井板の代表銘柄となった
    • [47]床材「ステップロン」、難燃性カーペット「ダンペット」へ展開し、いずれも耐火・断熱・吸音の特性を持たせた
    • [49]1965年当時は売上の17%だった建材・グラスファイバーの非繊維部門が1978年4月期に37%へ伸びた
    • [50]1977年4月期に「死に札」4社のなかで唯一の黒字会社へ転換した
  • 会社年鑑(1986年版ほか)
    • [37]1976年4月期 経常損失42億2,900万円・当期純損失49億9,500万円
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
    • [38]1976年から1978年にかけて「生き残り作戦」を展開し、徹底的な減量経営を進めた
    • [39]3年間に人員は8,500人から6,000人へ約23%減少し、借入金も24%ほど減額できた
    • [40]減量経営の狙いは筋肉質の企業にすることにあった
    • [48]建物の高層化に伴う不燃規制の強化および省エネ対策の推進により需要が急速に拡大した

1966年〜1978年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1966年04月期 単体 330 n/a n/a n/a ▲36 ▲11.0% n/a
1967年04月期 単体 336 +1.8% n/a n/a 1 0.4% n/a
1968年04月期 単体 403 +19.9% n/a n/a 2 0.6% n/a
1969年04月期 単体 431 +6.9% n/a n/a 4 1.1% n/a
1970年04月期 単体 466 +8.1% n/a n/a 5 1.1% n/a
1971年04月期 単体 491 +5.4% n/a n/a 4 0.9% n/a
1972年04月期 単体 515 +4.9% n/a n/a 3 0.6% n/a
1973年04月期 単体 571 +10.9% n/a n/a 8 1.4% n/a
1974年04月期 単体 837 +46.6% n/a n/a 31 3.7% n/a
1975年04月期 単体 659 ▲21.3% n/a n/a ▲20 ▲3.1% n/a
1976年04月期 単体 796 +20.9% n/a ▲42 ▲49 ▲6.3% n/a
1977年04月期 単体 915 +15.0% n/a 13 13 1.5% n/a
1978年04月期 単体 917 +0.1% 26 7 5 0.6% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

5件
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
  • 会社年鑑(1986年版ほか)
  • 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
  • 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
  • 日本企業要覧 1980年版

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