日東紡績:日東紡績の創立とグラスファイバーの工業化
絹糸紡績の技術によるグラスファイバー工業化
1898年〜絹糸紡績2社の合併と、スフ・綿紡への原料の拡張
日東紡績の前史は、福島県内で別々に始まった2つの絹糸紡績会社にある。1898年2月、郡山市の岩代紡績所で郡山絹糸紡績が絹糸紡績の操業を始めた。1918年4月には福島市に地元資本で福島精練製糸が設立され、これが法的な創立にあたる。1923年4月1日、福島精練製糸が片倉製糸紡績の岩代紡績所を買収し、商号を日東紡績株式会社へ変更した。買収された岩代紡績所は片倉製糸の絹糸紡績部門であり、合併後の日東紡績はその分離独立という性格を持っていた。日東の名は日本の紡績を意味し、日は東から昇るという願いを込めて付けられた。昭和の初期まで、日東紡績は絹糸紡績だけを手がけた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [1]1898年2月 郡山市の岩代紡績所で郡山絹糸紡績が絹糸紡績の操業を始めた
- [2]1918年4月 福島市に地元資本で福島精練製糸が設立され、これが法的な創立である
- [5]「日東」は「日本」と同義で日本の紡績を意味し、日は東から昇るという願いを込めて名付けられた
- [6]昭和の初期はもっぱら絹紡専業会社としての地位を固めた
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [3]1923年4月1日 福島精練製糸が片倉製糸紡績の岩代紡績所を買収し、商号を日東紡績株式会社へ変更した
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [4]日東紡績は片倉製糸の絹糸紡績部門が分離独立したものである
絹紡専業から原料を広げる最初の一歩はレーヨンだった。絹から入った同社が、レーヨンと綿という異なる原料へ対象を広げたのがこの時期である。まず1933年12月、福島工場がレーヨン・ステープルの製造に入り、国内で初めて自社技術によるスフ綿の本格生産が始まった。1937年には3月に富久山工場を本格工場として新たに建て、レーヨン・ステープルの国内企業化で先頭に立った。4月の伊丹工場新設で染色加工が加わり、紡績から織布、加工までを一貫して手がける体制ができて、品質の評判も高まった。10月には名古屋紡績を合併して新潟工場を取得し、ここで綿紡績に初めて参入したが、原料が替わっても紡績・織布・加工の工程はそのまま生かせるとの読みが、この拡張の裏にあった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [7]1933年12月 福島工場でレーヨン・ステープルの製造を開始した
- [9]1937年3月 レーヨン・ステープルの本格工場として富久山工場を新設し、国内のレーヨン・ステープル企業化に先鞭をつけた
- [10]1937年4月 伊丹工場を新設して染色加工を開始した
- [13]名古屋紡績の吸収合併で新潟工場を取得し、このときより綿紡績に進出した
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [8]日本で初めて自社技術によりスフ綿の本格生産を開始した
- [11]紡績・織布・加工の一貫生産体制をとり、品質的に高い評判を得ていた
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [12]1937年10月 名古屋紡績株式会社を合併した
満州事変と上海事変を機に国際情勢が緊迫し、綿花や羊毛を輸入しにくくなると、政府はスフを国策の繊維として後押しするようになった。とはいえ作り手は十数社まで増え、出来の悪い品が多かったため、スフといえば粗悪品を指すかのように言われた。スフを国策繊維の地位へ押し上げたのは、日東紡が自社技術を手放したことだった。1940年、同社は同業の各社を全国から富山工場へ呼んで全技術を無償で見せ、1983年の時点なら十数億円のノウハウ料に当たる中身を、国家的な見地から無料で渡した。戦時統制で1943年に全国約100社の綿紡が10社へ集約されたとき、日東紡は近藤紡・寺田紡など8社を統合して10社の一角を占めた。化繊が主の会社が綿紡10社に加わるのは異例で、それは技術力が評価されたためだったという。
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [14]満州事変・上海事変を契機とした国際緊張の高まりとともに綿花・羊毛の輸入が困難となり、スフは国策繊維として政府の支持を受けるようになった
- [15]スフの同業は十数社に増えたが品質劣悪なものが多く、スフは粗悪品の代名詞のようにいわれていた
- [16]1940年 全国の同業社を富山工場に招き、無償で全技術の公開を行った
- [17]無償公開した技術は1983年時点で十数億円のノウハウ料に匹敵する内容だった
- [18]1943年 全国の綿紡約100社が戦時統制で10社に整理統合された際、近藤紡・寺田紡など8社を企業統合して綿紡10社のひとつに入った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [19]日東紡績はいわゆる10大紡の一つとして終戦を迎えた
参考文献[1]-[19]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [1]1898年2月 郡山市の岩代紡績所で郡山絹糸紡績が絹糸紡績の操業を始めた
- [2]1918年4月 福島市に地元資本で福島精練製糸が設立され、これが法的な創立である
- [5]「日東」は「日本」と同義で日本の紡績を意味し、日は東から昇るという願いを込めて名付けられた
- [6]昭和の初期はもっぱら絹紡専業会社としての地位を固めた
- [7]1933年12月 福島工場でレーヨン・ステープルの製造を開始した
- [9]1937年3月 レーヨン・ステープルの本格工場として富久山工場を新設し、国内のレーヨン・ステープル企業化に先鞭をつけた
- [10]1937年4月 伊丹工場を新設して染色加工を開始した
- [13]名古屋紡績の吸収合併で新潟工場を取得し、このときより綿紡績に進出した
- [19]日東紡績はいわゆる10大紡の一つとして終戦を迎えた
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [3]1923年4月1日 福島精練製糸が片倉製糸紡績の岩代紡績所を買収し、商号を日東紡績株式会社へ変更した
- [12]1937年10月 名古屋紡績株式会社を合併した
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [4]日東紡績は片倉製糸の絹糸紡績部門が分離独立したものである
- [8]日本で初めて自社技術によりスフ綿の本格生産を開始した
- [11]紡績・織布・加工の一貫生産体制をとり、品質的に高い評判を得ていた
- [14]満州事変・上海事変を契機とした国際緊張の高まりとともに綿花・羊毛の輸入が困難となり、スフは国策繊維として政府の支持を受けるようになった
- [15]スフの同業は十数社に増えたが品質劣悪なものが多く、スフは粗悪品の代名詞のようにいわれていた
- [16]1940年 全国の同業社を富山工場に招き、無償で全技術の公開を行った
- [17]無償公開した技術は1983年時点で十数億円のノウハウ料に匹敵する内容だった
- [18]1943年 全国の綿紡約100社が戦時統制で10社に整理統合された際、近藤紡・寺田紡など8社を企業統合して綿紡10社のひとつに入った
1938年〜ガラス長繊維とロックウールの自社技術による工業化
1938年、米国のオーエンス・コーニング社がガラス繊維を開発し、1983年時点で同社と世界の市場を2社で分け合っていた日東紡も、同じ1938年にガラス長繊維とロックウールの製法を独自の技術で確立した。本格的な生産に移ったのは翌1939年で、その2月に富久山工場でグラスファイバーの量産が始まり、1940年2月には新たに設けた東京工場で岩綿をつくり出して、国内の鉱物繊維の先駆けとなった。片倉元社長は、衣料繊維の会社が無機質の繊維に進出した理由を問われ、こう答えたという『日東紡は繊維会社だから、繊維化できるものは何にでも取り組んでみたかった』。有機から無機へ原料が変わっても、細い糸に仕立てて織る工程には共通点があった。
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [20]日東紡績が企業化に成功した1938年に米国のオーエンス・コーニング社もガラス繊維の開発に成功し、1983年時点で両社が世界の市場を二分していた
- [21]1938年 日本で初めてガラス長繊維およびロックウールの製造方法を自社技術で完成した
- [22]1939年 ガラス長繊維とロックウールの本格生産を開始した
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1939年2月 富久山工場でグラスファイバーの量産を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [24]1940年2月 東京工場を新設して岩綿の製造を開始し、岩綿・ガラス繊維など鉱物繊維の国内における先駆者となった
戦時の企業統合のなかで、日東紡は昭光紡績・日東毛糸・泊紡績を合併し、トヨタ自動車からは和歌山工場などを買い取って規模を広げた。この時期、ガラス長繊維とロックウールを最初に買ったのは軍で、どちらも海軍の電気絶縁材や断熱材に使われた。1944年2月には鉱物繊維を社名に入れて日東砿工業株式会社と改めたが、1946年5月に日東紡績の名に戻している。終戦直前の1945年4月、主力の富久山工場が爆撃を受けて大きな被害を出した。戦後の復興は富久山工場の損害によって出遅れ、一応のめどが立ったのは1950年から1951年にかけてのことだった。繊維・建材・ガラスという現在の原型は、この時点で一応できあがっていた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [25]太平洋戦争中の企業統合で昭光紡績・日東毛糸・泊紡績を合併し、トヨタ自動車から和歌山工場等を買収するなど拡張を続けた
- [27]1944年2月 社名を日東砿工業株式会社に変更し、1946年5月に日東紡績株式会社へ復帰した
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [26]戦時中、ガラス長繊維とロックウールはいずれも海軍向けの電気絶縁材および断熱材として使用された
- [28]1945年4月 主力の富久山工場が爆撃され大きな被害を受けた
- [29]戦後の復興はやや出遅れたが、1950年から1951年には一応のめどが立った
- [30]繊維・建材・ガラスという現在の原型は戦前にできあがっていた
戦後のガラス長繊維には、納入先も製法も定まっていなかった。引っ張り強度・耐熱性・電気絶縁性・耐薬品性という特性は分かっていたが、民需の確立を見るまでは困難な時期が続いた。樹脂の発達に伴ってガラス長繊維と合成樹脂を組み合わせたFRPが生まれると、日東紡は原料を供給するだけでなく、自らボートやヘルメットを作って販売し、需要を喚起した。1955年3月には東京工場でガラス繊維強化プラスチック板の製造を開始し、グラスライトの商品名で売り出した。これがのちの建材部門の出発点になった。1960年7月には東京工場で塩化ビニールタイルの製造を始め、グラスライトに代えてファイロン社との技術提携による日東紡ファイロンを出している。素材メーカーが完成品まで手を伸ばしたのは、買い手を育てるためだった。
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [31]ガラス長繊維はFRPの用途が広がる以前、当初はその需要も製法もなかった
- [32]ガラス長繊維は引っ張り強度・耐熱性・電気絶縁性・耐薬品性の特性を持つが、戦後は民需の確立を見るまで困難な時期を経た
- [33]日東紡績はFRPの需要喚起のため自らボートやヘルメットをつくり販売した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [34]1955年3月 東京工場でガラス繊維強化プラスチック板(商品名グラスライト)の製造を開始した
- [35]グラスライトの製造開始が建材部門の出発点となった
- [36]1960年7月 東京工場で塩化ビニールタイルの製造を始め、グラスライトに代わってファイロン社との技術提携による「日東紡ファイロン」が登場した
参考文献[20]-[36]
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [20]日東紡績が企業化に成功した1938年に米国のオーエンス・コーニング社もガラス繊維の開発に成功し、1983年時点で両社が世界の市場を二分していた
- [21]1938年 日本で初めてガラス長繊維およびロックウールの製造方法を自社技術で完成した
- [22]1939年 ガラス長繊維とロックウールの本格生産を開始した
- [26]戦時中、ガラス長繊維とロックウールはいずれも海軍向けの電気絶縁材および断熱材として使用された
- [28]1945年4月 主力の富久山工場が爆撃され大きな被害を受けた
- [29]戦後の復興はやや出遅れたが、1950年から1951年には一応のめどが立った
- [30]繊維・建材・ガラスという現在の原型は戦前にできあがっていた
- [31]ガラス長繊維はFRPの用途が広がる以前、当初はその需要も製法もなかった
- [32]ガラス長繊維は引っ張り強度・耐熱性・電気絶縁性・耐薬品性の特性を持つが、戦後は民需の確立を見るまで困難な時期を経た
- [33]日東紡績はFRPの需要喚起のため自らボートやヘルメットをつくり販売した
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1939年2月 富久山工場でグラスファイバーの量産を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [24]1940年2月 東京工場を新設して岩綿の製造を開始し、岩綿・ガラス繊維など鉱物繊維の国内における先駆者となった
- [25]太平洋戦争中の企業統合で昭光紡績・日東毛糸・泊紡績を合併し、トヨタ自動車から和歌山工場等を買収するなど拡張を続けた
- [27]1944年2月 社名を日東砿工業株式会社に変更し、1946年5月に日東紡績株式会社へ復帰した
- [34]1955年3月 東京工場でガラス繊維強化プラスチック板(商品名グラスライト)の製造を開始した
- [35]グラスライトの製造開始が建材部門の出発点となった
- [36]1960年7月 東京工場で塩化ビニールタイルの製造を始め、グラスライトに代わってファイロン社との技術提携による「日東紡ファイロン」が登場した
1949年〜上場後の設備拡張と、同業で唯一の赤字転落
売上高は1951年3月期に105億9千万円だったのが、1960年4月期には214億円と倍になり、1965年4月期には346億円まで伸びた。この間の動きを追うと、まず1949年5月に東京・大阪・名古屋・新潟の各証券取引所へ株式を上場している。綿紡織は1950年10月の静岡工場新設で拡大し、合繊紡績の生産は1956年10月に郡山工場で、1958年11月に富久山工場で始まった。1955年には、皺がよらず縮みもしない高級加工綿服地の日東紡ダンセットを出し、繊維業界で評判を呼んだ。1963年には連続自動紡績方式NASSが完成した。これによって紡績・織布・晒・染色仕上加工の各工程の能率が上がり、品質も高級化した。原料の幅を広げながら、同時に加工の度合いも上げていった時期である。
- 会社年鑑(1986年版ほか)
- [37]売上高は1951年3月期105億9千万円、1960年4月期214億円、1965年4月期346億円
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [38]1949年5月 東京・大阪・名古屋・新潟の各証券取引所に株式を上場した
- [40]1956年10月 郡山工場、1958年11月 富久山工場で合繊紡績の生産を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [39]1950年10月 静岡工場を新設した
- [41]1955年に発表した「日東紡ダンセット」は皺にならず縮まない高級加工綿服地として繊維界の話題をさらった
- [42]1963年 連続自動紡績方式NASSを完成し、紡績・織布・晒・染色仕上加工の各工程で高能率化と品質の高級化を進めた
繊維以外の収益源は建材だった。1962年、鈴鹿工場と千葉工場を新設し、鈴鹿ではメラミン化粧板メラニット、千葉では吸音天井板ミネラートンの製造を開始した。ロックウールを使った天井板は、不燃・吸音・断熱の特性を活かした製品として日本で初めて製造販売に踏み切ったものだった。売り込みには苦労したが、建物の高層化に伴う不燃規制の強化が需要を押し上げた。1965年9月、日東紡は千葉・東京の両工場を分離して日東紡建材株式会社を設立し、建材事業を別法人へ移した。繊維・建材・ガラスの三本の柱は、これでそれぞれ独立した運営単位になった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [43]1962年 鈴鹿工場と千葉工場を新設し、鈴鹿でメラミン化粧板(商品名メラニット)、千葉で吸音天井板(商品名ミネラートン)の製造を開始した
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [44]1962年4月 千葉工場で不燃吸音天井板ミネラートン、同年8月 鈴鹿工場でメラミン化粧板の生産を開始した
- [47]1965年9月 千葉・東京両工場を分離して日東紡建材株式会社を設立した
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [45]日本で初めて不燃・吸音・断熱の特性を活かしたロックウール製天井板の製造販売に進出した
- [46]建物の高層化に伴う不燃規制の強化により天井板の需要が急速に拡大した
昭和40年不況のさなかでも同業他社の業績は堅調で、赤字に陥ったのは日東紡だけだった。1966年4月期の同社は、売上高330億円に対し36億3千万円の純損失を計上し、一気に無配となった。損失の原因は、綿紡部門の合理化の不徹底、主力のスフ部門が膨らみすぎて相場の変動を吸収できなかったこと、合成繊維進出の失敗が重なったことにあった。日本興業銀行の取締役だった長島武夫氏は同じ1965年12月に常務取締役として日東紡へ移っており、のちに社長となる同氏はこの年を『紡績会社のなかで一番早く転んでしまった』と振り返っている。売上を14年で3倍に伸ばした拡張は、ここで止まった。
- 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
- [48]昭和40年に同業他社が順調だったなかで赤字に転落したのは日東紡績だけだった
- [50]昭和40年の大幅赤字は、綿紡の合理化が不徹底だったこと、主力のスフ部門が過大で市況の動向に対応できなかったこと、合繊進出の失敗が重なったためだった
- 会社年鑑(1986年版ほか)
- [49]1966年4月期 売上高330億円・当期純損失36億3千万円
- 日本企業要覧 1980年版
- [51]1965年12月 日本興業銀行の取締役だった長島武夫氏が日東紡績へ常務取締役として入社した
参考文献[37]-[51]
- 会社年鑑(1986年版ほか)
- [37]売上高は1951年3月期105億9千万円、1960年4月期214億円、1965年4月期346億円
- [49]1966年4月期 売上高330億円・当期純損失36億3千万円
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- [38]1949年5月 東京・大阪・名古屋・新潟の各証券取引所に株式を上場した
- [40]1956年10月 郡山工場、1958年11月 富久山工場で合繊紡績の生産を開始した
- [44]1962年4月 千葉工場で不燃吸音天井板ミネラートン、同年8月 鈴鹿工場でメラミン化粧板の生産を開始した
- [47]1965年9月 千葉・東京両工場を分離して日東紡建材株式会社を設立した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [39]1950年10月 静岡工場を新設した
- [41]1955年に発表した「日東紡ダンセット」は皺にならず縮まない高級加工綿服地として繊維界の話題をさらった
- [42]1963年 連続自動紡績方式NASSを完成し、紡績・織布・晒・染色仕上加工の各工程で高能率化と品質の高級化を進めた
- [43]1962年 鈴鹿工場と千葉工場を新設し、鈴鹿でメラミン化粧板(商品名メラニット)、千葉で吸音天井板(商品名ミネラートン)の製造を開始した
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- [45]日本で初めて不燃・吸音・断熱の特性を活かしたロックウール製天井板の製造販売に進出した
- [46]建物の高層化に伴う不燃規制の強化により天井板の需要が急速に拡大した
- 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
- [48]昭和40年に同業他社が順調だったなかで赤字に転落したのは日東紡績だけだった
- [50]昭和40年の大幅赤字は、綿紡の合理化が不徹底だったこと、主力のスフ部門が過大で市況の動向に対応できなかったこと、合繊進出の失敗が重なったためだった
- 日本企業要覧 1980年版
- [51]1965年12月 日本興業銀行の取締役だった長島武夫氏が日東紡績へ常務取締役として入社した
1898年〜1965年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 105 | n/a | 23 | 22.3% | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 157 | +48.5% | 14 | 9.1% | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 118 | ▲24.9% | 6 | 5.8% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 124 | +5.0% | 7 | 5.7% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 114 | ▲8.1% | 1 | 1.3% | n/a |
| 1956年04月期 | 単体 | 137 | +21.0% | 3 | 2.2% | n/a |
| 1957年04月期 | 単体 | 173 | +25.5% | 6 | 3.9% | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 168 | ▲2.8% | 3 | 1.9% | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 140 | ▲16.7% | 0 | 0.3% | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 214 | +52.7% | 5 | 2.8% | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 224 | +4.7% | 4 | 2.2% | n/a |
| 1962年04月期 | 単体 | 240 | +7.1% | 3 | 1.3% | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | 263 | +9.6% | 2 | 0.9% | n/a |
| 1964年04月期 | 単体 | 333 | +26.6% | 3 | 1.1% | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | 346 | +3.9% | 3 | 0.9% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
6件
- 日東紡績 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- 会社年鑑(1986年版ほか)
- 「日東紡績。量追わず質求めた「特化作戦」開花」日経ビジネス 1979年8月27日号
- 鈴木慎二「日東紡績 品質本位に商品の特化を推進」証券アナリストジャーナル 1983年2月号
- 日本企業要覧 1980年版