ユニチカ:尼崎紡績の設立と綿布生産への拡大
1889年〜尼崎町の有志が調達した資本金50万円と、菊池恭三氏の42番手撚糸
尼崎紡績は1889年6月11日、有限責任尼崎紡績会社の創立願書を兵庫県知事に提出した。発起の動機は、廃藩後に衰えた旧城下町へ近代工業を導入し、旧士族の窮乏を救うことにある。尼崎が阪上綿の主産地だったことも、当時の代表的な近代産業である紡績に目を向けさせた。地元の資金力には限度があり、尼崎側は大阪財界との合作を選んで、加島・木原などの銀行首脳を発起人に迎えた。発起人は尼崎側28名と大阪側17名の計45名となり、発起人会は資本金を50万円、第1期の規模を1万錘と定めた。初代社長には、役員の互選で広岡信五郎氏が就任した。町の有力者の構想を大阪の銀行資本が支えた構図が、紡績経験のない発起人による会社設立を可能にしたとみられる。
- ニチボー75年史(1966) 第1章「工都尼崎の近代工業に先駆した尼崎紡績」
- [1]廃藩後の尼崎町勢挽回と旧士族救済を目的に町の有力者が発起、地元資力の限度から大阪財界と合作し発起人は尼崎28名・大阪17名の45名
- [2]廃藩後の尼崎町勢挽回と旧士族救済を目的に町の有力者が発起、地元資力の限度から大阪財界と合作し発起人は尼崎28名・大阪17名の45名
- [4]廃藩後の尼崎町勢挽回と旧士族救済を目的に町の有力者が発起、地元資力の限度から大阪財界と合作し発起人は尼崎28名・大阪17名の45名
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本紡績」
- [3]1889年6月に資本金50万円で有限責任尼崎紡績会社として設立、阪上綿の主産地に着目し地元と大阪財界の有力者が創立
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [5]発起人会で資本金500,000円・第1期10,000錘に変更、発起人総会後の互選で初代社長に広岡信五郎
- [6]発起人会で資本金500,000円・第1期10,000錘に変更、発起人総会後の互選で初代社長に広岡信五郎
尼崎紡績は工場の技術を、平野紡績の技師だった菊池恭三氏に委ねた。発起委員会は、外国人技師の雇用は費用がかさみ言葉や風俗も異なるとして退け、英国で紡績を修めた工学士の菊池恭三氏を招く案を可決した。平野紡績は英国派遣費の弁償を求め、尼崎紡績は2,000円を支払って1889年9月6日に約定を結んだ。1890年5月30日からは摂津紡績を加えた3社の約定となり、菊池恭三氏は3社の技術を兼務した。紡機は1889年10月5日に三井物産特約の英国プラット・ブラザーズ社製と決め、据付けも外国人を雇わずに日本人の手で進めた。1890年11月25日に試運転、12月20日に製糸を始め、開業は1891年2月13日である。1人の技師を3社で共有する約定は、技術者の乏しい業界で人材を確保する現実的な手段だったと考えられる。
- ニチボー75年史(1966) 第2章「尼崎本社工場の整地から運転開始まで」
- [7]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- [8]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- [11]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- [12]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- ニチボー75年史(1966) 第3章「不出世の人 菊池恭三」
- [9]1889年9月6日の平野・尼崎約定で尼崎紡績が英国派遣費2,000円を弁償、1890年5月30日に摂津紡績を加えた3社約定で菊池恭三は兼務技師
- [10]1889年9月6日の平野・尼崎約定で尼崎紡績が英国派遣費2,000円を弁償、1890年5月30日に摂津紡績を加えた3社約定で菊池恭三は兼務技師
尼崎紡績は払込みの不振から、1891年7月16日の臨時株主総会で資本金を50万円から31万5,000円に減資した。同じ時期に初代社長の広岡信五郎氏は監査役へ移り、2代社長は8代木原忠兵衛氏。開業当初の第1工場は太糸だけを紡ぎ、平野・摂津両社より1梱1円安い売値を目標に販売した。1892年1月には商務支配人の退社を受けて、菊池恭三氏が支配人と技師を兼ねた。株式の大阪株式取引所への上場は1892年2月1日である。同年下半期には英国糸と印度糸の暴騰を受けて、創業以来の活況となった。社内で構想された第2工場は、20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗することを目的とした。太糸の値下げ競争から抜け出すため、輸入品が占める細糸の市場に活路を求めたのだろう。
- ニチボー75年史(1966) 第5章「菊池恭三の社長就任まで」
- [13]1891年7月16日の臨時総会で失権株処理により資本金500,000円を315,000円に減資、広岡信五郎は監査役へ退き8代木原忠兵衛が2代社長、1892年2月1日大阪株式取引所に上場
- [14]1891年7月16日の臨時総会で失権株処理により資本金500,000円を315,000円に減資、広岡信五郎は監査役へ退き8代木原忠兵衛が2代社長、1892年2月1日大阪株式取引所に上場
- [17]1891年7月16日の臨時総会で失権株処理により資本金500,000円を315,000円に減資、広岡信五郎は監査役へ退き8代木原忠兵衛が2代社長、1892年2月1日大阪株式取引所に上場
- ニチボー75年史(1966) 第4章「開業10周年で不動の地位を築く」
- [15]第1工場は太糸のみで平野・摂津より梱当り1円安を目標に販売、1892年下半期は英・印度糸の暴騰で創業以来の活況、第2工場は20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗
- [18]第1工場は太糸のみで平野・摂津より梱当り1円安を目標に販売、1892年下半期は英・印度糸の暴騰で創業以来の活況、第2工場は20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗
- [19]第1工場は太糸のみで平野・摂津より梱当り1円安を目標に販売、1892年下半期は英・印度糸の暴騰で創業以来の活況、第2工場は20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [16]1892年に商務支配人川田斎助の退社で工務・商務支配人制を廃し菊池恭三が支配人兼技師
参考文献[1]-[19]
- ニチボー75年史(1966) 第1章「工都尼崎の近代工業に先駆した尼崎紡績」
- [1]廃藩後の尼崎町勢挽回と旧士族救済を目的に町の有力者が発起、地元資力の限度から大阪財界と合作し発起人は尼崎28名・大阪17名の45名
- [2]廃藩後の尼崎町勢挽回と旧士族救済を目的に町の有力者が発起、地元資力の限度から大阪財界と合作し発起人は尼崎28名・大阪17名の45名
- [4]廃藩後の尼崎町勢挽回と旧士族救済を目的に町の有力者が発起、地元資力の限度から大阪財界と合作し発起人は尼崎28名・大阪17名の45名
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本紡績」
- [3]1889年6月に資本金50万円で有限責任尼崎紡績会社として設立、阪上綿の主産地に着目し地元と大阪財界の有力者が創立
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [5]発起人会で資本金500,000円・第1期10,000錘に変更、発起人総会後の互選で初代社長に広岡信五郎
- [6]発起人会で資本金500,000円・第1期10,000錘に変更、発起人総会後の互選で初代社長に広岡信五郎
- [16]1892年に商務支配人川田斎助の退社で工務・商務支配人制を廃し菊池恭三が支配人兼技師
- ニチボー75年史(1966) 第2章「尼崎本社工場の整地から運転開始まで」
- [7]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- [8]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- [11]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- [12]発起委員会が外国人技師の高費用・不便を避け平野紡績技師の工学士菊池恭三の招聘を可決、プラット社紡機を選定し日本人で据付け、1890年11月25日試運転・12月20日製糸開始・1891年2月13日開業
- ニチボー75年史(1966) 第3章「不出世の人 菊池恭三」
- [9]1889年9月6日の平野・尼崎約定で尼崎紡績が英国派遣費2,000円を弁償、1890年5月30日に摂津紡績を加えた3社約定で菊池恭三は兼務技師
- [10]1889年9月6日の平野・尼崎約定で尼崎紡績が英国派遣費2,000円を弁償、1890年5月30日に摂津紡績を加えた3社約定で菊池恭三は兼務技師
- ニチボー75年史(1966) 第5章「菊池恭三の社長就任まで」
- [13]1891年7月16日の臨時総会で失権株処理により資本金500,000円を315,000円に減資、広岡信五郎は監査役へ退き8代木原忠兵衛が2代社長、1892年2月1日大阪株式取引所に上場
- [14]1891年7月16日の臨時総会で失権株処理により資本金500,000円を315,000円に減資、広岡信五郎は監査役へ退き8代木原忠兵衛が2代社長、1892年2月1日大阪株式取引所に上場
- [17]1891年7月16日の臨時総会で失権株処理により資本金500,000円を315,000円に減資、広岡信五郎は監査役へ退き8代木原忠兵衛が2代社長、1892年2月1日大阪株式取引所に上場
- ニチボー75年史(1966) 第4章「開業10周年で不動の地位を築く」
- [15]第1工場は太糸のみで平野・摂津より梱当り1円安を目標に販売、1892年下半期は英・印度糸の暴騰で創業以来の活況、第2工場は20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗
- [18]第1工場は太糸のみで平野・摂津より梱当り1円安を目標に販売、1892年下半期は英・印度糸の暴騰で創業以来の活況、第2工場は20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗
- [19]第1工場は太糸のみで平野・摂津より梱当り1円安を目標に販売、1892年下半期は英・印度糸の暴騰で創業以来の活況、第2工場は20〜42番手の撚糸で輸入外国糸に対抗
1893年〜福本元之助氏の第2工場建設と、菊池恭三氏の社長就任
1892年12月の大株主の相談会は第2工場の新設を急ぐ意見でまとまり、慎重論の8代木原忠兵衛社長は退任した。1893年1月6日、30歳に満たない福本元之助氏が3代社長に選ばれ、資本金を63万円に増資して社債も発行することを決めた。第2工場は1894年末に全運転に入り、加わった設備は精紡15,516錘と撚糸5,096錘。日清戦争後の反動で、第3工場の建設中だった尼崎紡績は資金繰りが悪化した。福本元之助社長と取締役の菊池恭三氏は日本勧業銀行総裁の河島醇氏を説き、12万5,000円の融資を得た。勧業銀行は機械償却と損失補塡の積立てを貸付の条件とし、尼崎紡績は1898年7月16日に定款を改めて応じた。配当に偏っていた利益処分が積立て中心に改まり、財務の基盤が固まったと推察される。
- ニチボー75年史(1966) 第5章「菊池恭三の社長就任まで」
- [20]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [21]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [23]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [24]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [25]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- ニチボー75年史(1966) 第4章「開業10周年で不動の地位を築く」
- [22]1894年末に第2工場全設備が運転し精紡15,516錘・撚糸5,096錘を加える
1901年5月27日の重役会で、菊池恭三氏が4代社長に選ばれた。前任の福本元之助氏は、生家の逸身銀行が取付け騒ぎを起こした責任を負って辞任した。尼崎紡績は取引銀行を逸身銀行から住友銀行に替え、7月には営業担当の田代重右衛門氏を取締役に加えた。資本家でない経営者出身の役員は、菊池恭三氏に次いで田代重右衛門氏が2人目にあたる。同じころ太糸紡績は石炭と工賃の高騰で採算が悪化し、1902年6月に紡績聯合会は大合同の調査委員を設けた。平野紡績は1902年に摂津紡績へ合併され、摂津紡績は1907年に郡山紡績も合併した。中細糸に軸足を置く尼崎紡績は太糸各社の合同に加わらず、技術者出身の社長の下で単独の経営を続けたと思われる。
- ニチボー75年史(1966) 第5章「菊池恭三の社長就任まで」
- [26]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- [27]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- [28]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- [29]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- ニチボー75年史(1966) 第7章「尼崎紡績の主力 津守工場に移る」
- [30]明治30年代の太糸紡績は石炭・工賃高で採算悪化、1902年6月3日に紡聯が大合同調査委員を設置、平野紡績は同年7月摂津紡績に合併
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [31]1902年摂津紡績が平野紡績を合併、1907年摂津紡績が郡山紡績を合併し資本金1,735,000円
日露戦争の開戦直後、尼崎紡績は米綿の高騰と細糸相場の低迷に直面した。開戦から半年ほどで軍用注文と輸出が市況を押し上げ、42番手撚糸「雉子」の相場は1904年11月に182円をつけた。尼崎紡績は1900年上半期から年2割の配当を続けながら、社内留保を積み増した。1905年下半期末の積立金と繰越金は83万6,313円で、払込資本金75万円を上回る額である。1905年1月には未払込の25万円を減資して資本金75万円の全額払込みとし、同年下半期から配当は年4割となった。精紡設備は1898年の第3工場完成から約10年間増えず、既存設備の更新と償却、作業の改善で不況期に対処した。1906年2月の重役会は、積立金を財源に42番手撚糸向けの2万錘を増設する方針を決めた。
- ニチボー75年史(1966) 第6章「明治後期の隆盛」
- [32]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [33]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [34]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [35]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [36]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [38]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- ニチボー75年史(1966) 第7章「尼崎紡績の主力 津守工場に移る」
- [37]1898年の第3工場完成以来約10年間精紡設備は増減なく、既存設備の更新・償却と作業改善で対処
参考文献[20]-[38]
- ニチボー75年史(1966) 第5章「菊池恭三の社長就任まで」
- [20]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [21]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [23]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [24]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [25]1892年12月の100株以上株主相談会で第2工場新設論が勝ち木原社長辞任、1893年1月6日福本元之助が3代社長・資本金630,000円への増資と社債募集を決議、日清戦後の反動で勧銀総裁河島醇を説き125,000円融資、勧銀の条件に沿い1898年7月16日定款改正
- [26]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- [27]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- [28]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- [29]1901年5月27日重役会で福本元之助が逸身銀行の責任を負い辞任し菊池恭三が後任社長、取引銀行に住友銀行を加え、7月に田代重右衛門を取締役に選任(経営者出身役員の2人目)
- ニチボー75年史(1966) 第4章「開業10周年で不動の地位を築く」
- [22]1894年末に第2工場全設備が運転し精紡15,516錘・撚糸5,096錘を加える
- ニチボー75年史(1966) 第7章「尼崎紡績の主力 津守工場に移る」
- [30]明治30年代の太糸紡績は石炭・工賃高で採算悪化、1902年6月3日に紡聯が大合同調査委員を設置、平野紡績は同年7月摂津紡績に合併
- [37]1898年の第3工場完成以来約10年間精紡設備は増減なく、既存設備の更新・償却と作業改善で対処
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [31]1902年摂津紡績が平野紡績を合併、1907年摂津紡績が郡山紡績を合併し資本金1,735,000円
- ニチボー75年史(1966) 第6章「明治後期の隆盛」
- [32]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [33]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [34]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [35]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [36]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
- [38]開戦前後は米綿高と細糸安、1904年11月に42手撚182円、1900年上半期以来年2割配当、1905年下半期末の積立金・繰越金836,313円が払込資本750,000円を上回る、1905年1月減資で750,000円全額払込み・配当年3割から年4割、1906年2月に積立金で20,000錘増設を決定
1907年〜津守工場の広幅綿布「大安」と、東京紡績合併で得た資本金644万円
尼崎紡績の織布の始まりは、1906年9月に発起した別会社の東洋紡織にある。東洋紡織は資本金200万円で紡機約3万錘と織機500台を計画し、社長は菊池恭三氏。工務部長の広瀬茂一氏は英米の紡織工業を調べたのち、1907年9月から東洋紡織の工務部長を兼ね、大阪・津守の工場建設に専念した。尼崎紡績は1908年5月に東洋紡織を合併して津守工場とし、1909年下半期から三幅綿布の生産が記録に現れた。1909年には津守工場の広幅綿布に商標「大安」を登録した。当時の広幅綿布は英国からの輸入品が中心で、日本の綿布輸出額が輸入額を初めて上回ったのは1909年である。第2工場の撚糸が輸入細糸に向けた手だったのと同じく、津守の広幅綿布は輸入綿布を国内市場から押し出す狙いを担った。
- ニチボー75年史(1966) 第6章「明治後期の隆盛」
- [39]1906年9月15日に東洋紡織の発起人会、資本金2,000,000円・紡機約30,000錘・織機500台、創立委員長に菊池恭三
- [40]1906年9月15日に東洋紡織の発起人会、資本金2,000,000円・紡機約30,000錘・織機500台、創立委員長に菊池恭三
- ニチボー75年史(1966) 第7章「尼崎紡績の主力 津守工場に移る」
- [41]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- [42]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- [44]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- [45]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [43]1906年東洋紡織創立(社長菊池恭三)、1908年尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場と命名、1909年津守工場の広幅綿布に商標「大安」を登録
尼崎紡績は1914年8月1日に東京紡績を合併し、資本金を500万円から644万円とした。合併比率は東京紡績の50円払込株5株に対し、尼崎紡績の25円払込株3株である。橋場工場を視察して東京紡績の苦境を知った取締役の広瀬茂一氏が、取締役の福本元之助氏に話を持ち込んだ。福本元之助氏は、大阪周辺に偏った工場立地を改めて東京での販路と官庁との連絡の足場を得られるとして、合併を唱えた。尼崎紡績は前年12月に社員を印度と中国へ派遣し、綿糸布の輸出販路の拡大に着手していた。臨時株主総会は1914年6月6日に合併を決議し、東京紡績の深川と橋場の2工場が加わって設備は倍増した。大戦前夜の不況下で実現した設備倍増は、1915年以降の好況で尼崎紡績の拡大を支える基盤となった。
- ニチボー75年史(1966) 大正編第1章「第1次世界大戦前後の尼崎紡績」
- [46]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [47]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [48]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [49]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [50]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [52]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [51]1914年6月の臨時株主総会で東京紡績の合併を決議し、東京紡績を合併して資本金を増加
第1次世界大戦で英国綿製品の東洋向け輸出が滞り、尼崎紡績の印度向け綿布輸出は1915年上半期から大きく増えた。1915年6月、菊池恭三氏は尼崎紡績に加えて摂津紡績の社長も兼ねた。尼崎紡績は1916年2月1日に日本紡績を合併し、資本金を754万円とした。同年7月には大戦下の事業拡張に向けた増資を決め、1917年3月に資本金は1,250万円となった。1917年1月には、綿紡以外の事業の負担を本体に負わせないため、絹糸と羊毛の紡績を担う別会社の日本絹毛紡績を設立した。摂津紡績との合併契約を承認したのは、1917年6月25日の定時株主総会である。中細糸を主力とする尼崎紡績と、太糸に偏った摂津紡績とが一つになれば、両社の製品構成は互いの手薄な番手を補い合った。
- ニチボー75年史(1966) 大正編第1章「第1次世界大戦前後の尼崎紡績」
- [53]1915年上半期に尼崎紡績製品の印度向け輸出が伸張、英国品は大戦で東洋市場から減退、1915年6月から菊池恭三が尼崎・摂津両紡績の社長を兼任
- [54]1915年上半期に尼崎紡績製品の印度向け輸出が伸張、英国品は大戦で東洋市場から減退、1915年6月から菊池恭三が尼崎・摂津両紡績の社長を兼任
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [55]1916年2月尼崎紡績が日本紡績を合併し資本金7,540,000円、1917年1月日本絹毛紡績創立(資本金7,500,000円・社長菊池恭三)
- ニチボー75年史(1966) 大正編第3章「摂津紡績を合併して大日本紡績と改称するまで」
- [56]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
- [57]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
- [58]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
- [59]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
参考文献[39]-[59]
- ニチボー75年史(1966) 第6章「明治後期の隆盛」
- [39]1906年9月15日に東洋紡織の発起人会、資本金2,000,000円・紡機約30,000錘・織機500台、創立委員長に菊池恭三
- [40]1906年9月15日に東洋紡織の発起人会、資本金2,000,000円・紡機約30,000錘・織機500台、創立委員長に菊池恭三
- ニチボー75年史(1966) 第7章「尼崎紡績の主力 津守工場に移る」
- [41]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- [42]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- [44]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- [45]広瀬茂一は1906年11月に英米派遣、1907年9月東洋紡織工務部長兼務で津守工場建設に専念、1908年に尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場、1909年下半期から三幅綿布生産、1909年に綿布輸出が輸入を上回る、広幅綿布は輸入綿布の駆逐を狙う
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- [43]1906年東洋紡織創立(社長菊池恭三)、1908年尼崎紡績が東洋紡織を合併し津守工場と命名、1909年津守工場の広幅綿布に商標「大安」を登録
- [51]1914年6月の臨時株主総会で東京紡績の合併を決議し、東京紡績を合併して資本金を増加
- [55]1916年2月尼崎紡績が日本紡績を合併し資本金7,540,000円、1917年1月日本絹毛紡績創立(資本金7,500,000円・社長菊池恭三)
- ニチボー75年史(1966) 大正編第1章「第1次世界大戦前後の尼崎紡績」
- [46]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [47]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [48]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [49]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [50]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [52]1914年8月1日合併期日で東京紡績を合併し資本金5,000,000円を6,440,000円に、東京紡績50円払込株5株に尼崎紡績25円払込株3株、広瀬茂一が苦境を知り福本元之助が東京の販路・官庁連絡の足場として合併論、1913年12月に倉田敬三を印度・中国へ派遣、設備倍増が1915年以降の躍進の活力
- [53]1915年上半期に尼崎紡績製品の印度向け輸出が伸張、英国品は大戦で東洋市場から減退、1915年6月から菊池恭三が尼崎・摂津両紡績の社長を兼任
- [54]1915年上半期に尼崎紡績製品の印度向け輸出が伸張、英国品は大戦で東洋市場から減退、1915年6月から菊池恭三が尼崎・摂津両紡績の社長を兼任
- ニチボー75年史(1966) 大正編第3章「摂津紡績を合併して大日本紡績と改称するまで」
- [56]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
- [57]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
- [58]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
- [59]1916年7月28日の総会で増資決議、1917年3月に資本金12,500,000円、日本絹毛紡績は綿紡以外の負担回避のため別会社、1917年6月25日総会で摂津紡績との合併契約承認、中細糸の尼崎と太糸の摂津で製品の補完
出典・参考
11件
- ニチボー75年史(1966) 第1章「工都尼崎の近代工業に先駆した尼崎紡績」
- ニチボー75年史(1966) 年譜
- ニチボー75年史(1966) 第2章「尼崎本社工場の整地から運転開始まで」
- ニチボー75年史(1966) 第3章「不出世の人 菊池恭三」
- ニチボー75年史(1966) 第5章「菊池恭三の社長就任まで」
- ニチボー75年史(1966) 第4章「開業10周年で不動の地位を築く」
- ニチボー75年史(1966) 第7章「尼崎紡績の主力 津守工場に移る」
- ニチボー75年史(1966) 第6章「明治後期の隆盛」
- ニチボー75年史(1966) 大正編第1章「第1次世界大戦前後の尼崎紡績」
- ニチボー75年史(1966) 大正編第3章「摂津紡績を合併して大日本紡績と改称するまで」
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本紡績」