ブルドックソース:三澤屋商店のソース製造と1954年の会社更生法申請
三澤屋商店の製造着手から会社更生法の適用へ
1902年〜卸商からソース製造への転換
英国で生まれたソースという調味料は、明治も半ばを過ぎてから日本に入り、洋食が広まるのにあわせて家庭にも浸透した。ブルドックソースの出発点は、小島仲三郎氏が1902年に東京で開いた食料品卸の三澤屋商店である。仕入れた品を売る商売を3年続けたのち、1905年にソースを自ら造って売り始めたが、小島氏は会社を設けることなく個人営業の形で製造にあたった。後年の記事によれば、これが日本でソースの製造販売を手がけた最初の個人営業だった。卸商が自ら作る側へ回れば、仕入先の値決めから離れ、味の設計を自分で握れる。扱う品を選ぶ商いから売る品を作る商いへ移したこの判断が、以後120年続く専業の起点になった。
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [1]ソースは英国で発祥し、日本へ伝わったのは明治の半ばすぎで、洋食の普及とともに浸透した
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [2]1902年 小島仲三郎が東京で食料品卸商の三澤屋商店を創業
- [3]1905年 ソースの製造販売を開始
- 実業往来 1979年
- [4]明治38年に小島仲三郎が個人営業としてソースの製造販売を始めた
- [5]我が国で初めてソースの製造販売を個人営業として創業した
1926年9月21日、個人企業であった三澤屋商店を母体として、ブルドックソース食品が設立された。本店は東京市京橋区永島町に置かれた。設立にあたって商標はブルドックのマークに改められ、社名もそれに合わせている。犬の顔を瓶に貼り、社名にまで掲げることは、味の評判を作り手の名前へ結び直す手である。個人営業のままでは、店主が替われば商いも途切れる。法人と商標を同時に立てた1926年は、三澤屋商店がソースの会社になった年であった。母体となった三澤屋商店は法人化の後も別に残り、吸収合併されるのは46年後の1972年3月である。設立から46年のあいだ、個人商店と株式会社は同じ屋号のもとで併存し続けた。
- 証券 1973年25巻6号
- [6]1926年9月21日 個人企業であった三澤屋商店を母体としてブルドックソース食品を設立
- [8]設立にあたり商標をブルドックのマークに改めて営業を開始した
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [7]1926年9月 京橋区永島町にブルドックソース食品を設立
- [9]1972年3月 三澤屋商店を吸収合併
本社は1931年12月に京橋区八丁堀、1934年5月に日本橋兜町へと移っており、その翌年の1935年6月、埼玉県に鳩ヶ谷工場が新設された。本社を東京の商業地に置き、生産を郊外に構える配置がここで定まる。鳩ヶ谷工場は、1998年4月に群馬県の館林工場が加わるまで、63年にわたってこの会社の唯一の生産拠点であり続けた。東証二部への上場を申請した1973年の時点でも、事業所は本社と鳩ケ谷工場の二か所にとどまっている。ソースは水分が多く、輸送費のかさむ商品である。拠点を一か所に集めて回す設計は、設備の二重化を避けて原価を下げる一方、売り先を工場から運べる範囲へ縛った。
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1931年12月 本社を京橋区八丁堀へ移転、1934年5月 本社を日本橋兜町へ移転
- [11]1935年6月 埼玉県に鳩ヶ谷工場を新設
- [12]1998年4月 群馬県に館林工場を新設。それまで鳩ヶ谷工場が唯一の生産拠点であった
- 証券 1973年25巻6号
- [13]おもな事業所は本社および鳩ケ谷工場
参考文献[1]-[13]
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [1]ソースは英国で発祥し、日本へ伝わったのは明治の半ばすぎで、洋食の普及とともに浸透した
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [2]1902年 小島仲三郎が東京で食料品卸商の三澤屋商店を創業
- [3]1905年 ソースの製造販売を開始
- [7]1926年9月 京橋区永島町にブルドックソース食品を設立
- [9]1972年3月 三澤屋商店を吸収合併
- [10]1931年12月 本社を京橋区八丁堀へ移転、1934年5月 本社を日本橋兜町へ移転
- [11]1935年6月 埼玉県に鳩ヶ谷工場を新設
- [12]1998年4月 群馬県に館林工場を新設。それまで鳩ヶ谷工場が唯一の生産拠点であった
- 実業往来 1979年
- [4]明治38年に小島仲三郎が個人営業としてソースの製造販売を始めた
- [5]我が国で初めてソースの製造販売を個人営業として創業した
- 証券 1973年25巻6号
- [6]1926年9月21日 個人企業であった三澤屋商店を母体としてブルドックソース食品を設立
- [8]設立にあたり商標をブルドックのマークに改めて営業を開始した
- [13]おもな事業所は本社および鳩ケ谷工場
1940年〜戦時下の商号変更と原料の途絶
1940年10月、社名はブルドック食品へ改められた。さらに1944年3月には、外来語の使用が禁じられたことで三澤工業へと変えられている。設立時に商標として掲げた英語の名を、戦時の統制が社名から外させた形である。商標を製品の名から社名にまで広げた会社にとって、名前を置き換えられることは看板を下ろすことに近い。同じ時期、原料の入手が難しくなり、戦中から戦後の一時期にかけては生産そのものが止まった。商号がブルドック食品へ戻ったのは、敗戦の年の暮れの1945年12月である。三澤工業を名乗った期間は、1年9か月にとどまった。設立から数えて、社名が書き換えられたのはこれで三度目であった。
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1940年10月 ブルドック食品に商号変更
- [15]1944年3月 外来語使用禁止により社名を三澤工業へ商号変更
- [17]1945年12月 再びブルドック食品へ商号変更
- 証券 1973年25巻6号
- [16]原料の入手難から戦中および戦後の一時期は生産を中止した
戦後の食生活の変化は、ソースの需要を押し上げた。需要が著しく変わったのは終戦後で、米軍の進駐によって衣食住の様式が変わったためである。洋食が家庭へ広がれば、卓上に置く調味料の量も増える。原料の入手難が解けたあとの業績は、戦中と戦後の一時期を除いて順調であった。1952年7月、本社は中央区日本橋兜町11番5号へ移り、以後この地が本店となる。生産は鳩ヶ谷、本社は兜町という配置は、このとき固まった。需要が戻る局面で拠点を定めた会社は、次に商品の幅を広げる方向へ動いた。
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [18]ソース需要が著しく変化したのは終戦後で、米軍進駐によって生活様式・衣食住が変化したため
- 証券 1973年25巻6号
- [19]原料の入手難から生産を中止した戦中および戦後の一時期を除いて業績は順調であった
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [20]1952年7月 本社を中央区日本橋兜町11番5号へ移転
1978年時点の区分で見ると、大阪から九州ではウスターソースが7割に上り、関東から東北・北海道では中濃ソースととんかつソースを合わせた濃厚ソースが7割を占めていた。つまりソースの好みは東西で分かれており、東京で濃い味を育てた会社が西で売るには、その違いを乗り越えなければならない。同社はそれでも関西に販売の拠点を設けて関西ブルドックの名で営業したが、関西進出の計画は実らず、これが経営の行き詰まりを招いた一因になったと後年の上場紹介は書いている。味に対する嗜好の相違は根強く、上場した1973年の時点でもなお関西進出は図られていなかった。
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [21]関東から東北・北海道にかけては濃厚ソース(中濃・とんかつソース)が7割、大阪から九州にかけてはウスターソースが7割を占める
- 実業往来 1979年
- [22]関西での販売拠点として関西ブルドックがあった
- 証券 1973年25巻6号
- [23]関西進出計画の失敗などを原因として経営が行き詰まった
- [24]関東と関西の味に対する嗜好の相違が根強いため、いまだに関西進出は図られていない
参考文献[14]-[24]
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1940年10月 ブルドック食品に商号変更
- [15]1944年3月 外来語使用禁止により社名を三澤工業へ商号変更
- [17]1945年12月 再びブルドック食品へ商号変更
- [20]1952年7月 本社を中央区日本橋兜町11番5号へ移転
- 証券 1973年25巻6号
- [16]原料の入手難から戦中および戦後の一時期は生産を中止した
- [19]原料の入手難から生産を中止した戦中および戦後の一時期を除いて業績は順調であった
- [23]関西進出計画の失敗などを原因として経営が行き詰まった
- [24]関東と関西の味に対する嗜好の相違が根強いため、いまだに関西進出は図られていない
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [18]ソース需要が著しく変化したのは終戦後で、米軍進駐によって生活様式・衣食住が変化したため
- [21]関東から東北・北海道にかけては濃厚ソース(中濃・とんかつソース)が7割、大阪から九州にかけてはウスターソースが7割を占める
- 実業往来 1979年
- [22]関西での販売拠点として関西ブルドックがあった
1954年〜多角化と株式投資の失敗が招いた会社更生法
1954年8月、ケチャップ・即席カレー・酢へと商品を広げたことが裏目に出た。会社は同年に会社更生法の適用を申請し、翌1955年3月に適用を受けて更生会社となった。ソースの隣に見える商品へ次々と手を伸ばしたが、原料も販路も設備も、ソースとは別に要る。トマト加工食品への多角化が失敗したというのが、業界に伝わっていた説明であった。本業のソースで失敗したわけではなかったことは、のちの再建で救いになったと同社は振り返っている。専業の会社が隣接する分野へ多角化する局面で、原料と販路のどこまでを共有できるかを見誤った結果であった。
- 実業往来 1979年
- [25]1954年8月にケチャップ・即席カレー・酢へ多角化し過ぎたことが裏目に出た
- [27]1955年3月 会社更生法適用による更生会社となった
- [28]トマト加工食品の多角化に乗り出して失敗したというのが業界に伝わっている説明であった
- [29]本業のソースで失敗したわけではなかったことが救いとなり、1950年代のソース需要の伸びにうまく対応できた
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1954年 会社更生法の適用を申請
多角化の失敗だけが原因ではなかった。1978年当時の社長であった佐藤和雄氏は、更生法の適用に至った経緯を『会社更生法の適用を受けるに至ったのは、事業そのものの失敗ではなかった。創立者の二代目が株に興味をもって、そんな個人的な問題から会社更生法の適用を受けるようになったわけです。』と述べている。事業そのものの失敗ではなく、創立者の二代目が株式に手を出した個人的な問題が引き金であった。当時を知る業界関係者も、多角化の失敗という説明に触れたうえで、株式投資による痛手のほうが大きかったとし、同族会社であったことを理由に挙げていた。同族会社の悪弊が表面化し、監査機能が働かなかった点が原因であったとみられる。創業家の個人資産と会社の資金が分かれていなければ、経営の判断を誰も止められない。ソース事業の収益が健全でも、資本の側から会社は倒れうる。
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [30]会社更生法の適用に至ったのは事業そのものの失敗ではなく、創立者の二代目が株式に手を出した個人的な問題からであった
- [31]会社更生法の適用に至ったのは事業そのものの失敗ではなく、創立者の二代目が株式に手を出した個人的な問題からであった
- 実業往来 1979年
- [32]業界関係者は、更生会社への転落は多角化の失敗もあるが株式投資の痛手が大きく、同族会社であったためと述べた
- [33]同族会社の悪弊が表面化し、監査機能の作用ができなかった点が原因とみられる
更生手続の下では、事業は更生計画の枠内でしか行えない。同社の常務取締役事業企画部長であった仲野奠夫氏は1979年に『三十年三月に更生法が適用されまして、その後は更生法のワク内でしか事業が行えなかったことが、今日のブルドックの礎です』と語り、その制約こそが今日のブルドックの礎になったとした。会社は徹底した社内合理化を進めて減量経営を実践し、関西の販売拠点であった関西ブルドックも1955年に合理化策の一環として閉鎖した。更生法の適用は、同族的な体質を排除する働きもした。堅実な経営方針と、食生活の洋風化による需要の増大とが重なり、再建計画は当初の予定を上回って進む。更生債務を一掃したのは1959年、適用から4年後であった。借入で立て直したのではなく、借入を負えない状態で立て直したことが、以後の無借金経営の起点になった。
- 実業往来 1979年
- [34]更生法の適用後は更生法の枠内でしか事業が行えず、それが今日のブルドックの礎になった(常務取締役事業企画部長 仲野奠夫)
- [35]徹底した社内合理化を押し進め、減量経営を実践した
- [36]1955年に合理化策の一環として関西の販売拠点であった関西ブルドックを閉鎖した
- [37]更生法の適用で同族的体質が排斥されたことも同社にとって幸した
- 証券 1973年25巻6号
- [38]堅実な経営方針の遂行と国民の食生活の洋風化による需要量の増大とが相まって、再建計画は当初予定を上回るほど順調に推移した
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [39]1959年 更生債務を一掃
参考文献[25]-[39]
- 実業往来 1979年
- [25]1954年8月にケチャップ・即席カレー・酢へ多角化し過ぎたことが裏目に出た
- [27]1955年3月 会社更生法適用による更生会社となった
- [28]トマト加工食品の多角化に乗り出して失敗したというのが業界に伝わっている説明であった
- [29]本業のソースで失敗したわけではなかったことが救いとなり、1950年代のソース需要の伸びにうまく対応できた
- [32]業界関係者は、更生会社への転落は多角化の失敗もあるが株式投資の痛手が大きく、同族会社であったためと述べた
- [33]同族会社の悪弊が表面化し、監査機能の作用ができなかった点が原因とみられる
- [34]更生法の適用後は更生法の枠内でしか事業が行えず、それが今日のブルドックの礎になった(常務取締役事業企画部長 仲野奠夫)
- [35]徹底した社内合理化を押し進め、減量経営を実践した
- [36]1955年に合理化策の一環として関西の販売拠点であった関西ブルドックを閉鎖した
- [37]更生法の適用で同族的体質が排斥されたことも同社にとって幸した
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1954年 会社更生法の適用を申請
- [39]1959年 更生債務を一掃
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- [30]会社更生法の適用に至ったのは事業そのものの失敗ではなく、創立者の二代目が株式に手を出した個人的な問題からであった
- [31]会社更生法の適用に至ったのは事業そのものの失敗ではなく、創立者の二代目が株式に手を出した個人的な問題からであった
- 証券 1973年25巻6号
- [38]堅実な経営方針の遂行と国民の食生活の洋風化による需要量の増大とが相まって、再建計画は当初予定を上回るほど順調に推移した
筆者考察
この会社の最初の50年は、作る技術を広げた歴史ではなく、名前を一つへ絞り込んだ歴史である。1902年に食料品卸として出発した三澤屋商店は、3年後には自らソースを作り始め、1926年には商標に掲げたブルドックを社名にまで押し上げた。扱う品の一つでしかなかったソースを、会社そのものの名前と同じものにしたわけである。戦時の統制で三澤工業へ改めさせられた1年9か月は、その絞り込みが外から断たれた唯一の期間だった。製品の名を社名にまで広げた会社にとって、社名の書き換えは看板の掛け替え以上の損失であった。生産が原料難で止まったこの時期を除けば、業績は戦後まで途切れていない。
1954年の行き詰まりは、その絞り込みを自ら緩めたところから来ている。ケチャップ、即席カレー、酢へと広げた商品はいずれもソースの隣にあり、原料も売り先も重なるように見えた。だが会社を倒したのは商品ではなく資本の側で、創業家二代目の株式投資と、それを止められない同族の統治が更生法の適用を招いた。1955年から1959年までの4年間、事業は更生計画の枠内でしか動かせない。その制約が同族の体質を外し、借入を持たない財務と、関西の拠点を閉鎖した販売網とを同時に残した。失ったのは経営の自由で、得たのは経営の規律であった。以後この会社は、失った自由のほうを取り戻そうとはしなかった。
出典・参考
4件
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- 証券 1973年25巻6号
- 野田経済 1978年11月号(佐藤和雄・ブルドックソース社長 インタビュー)
- 実業往来 1979年