スティール・パートナーズのTOBに対する新株予約権無償割当による買収防衛策の発動

50年守った財務体質はなぜ狙われ、会社は株主平等の枠内で何を差し出したか

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時期 2007年7月
意思決定者 池田章子(社長)・取締役会
論点 敵対的買収防衛と資本政策
概要
2007年、米系投資ファンドのスティール・パートナーズによる全株式取得の公開買付に対し、池田章子社長と取締役会が、差別的行使条件付きの新株予約権無償割当という買収防衛策を発動した経営判断。株主総会の特別決議と最高裁の適法判断を経て、日本で初めて買収防衛策が現実に発動された事例となった。
背景
1958年の更生債務完済以来ほぼ50年守られた無借金・換金性資産温存の財務体質が、2007年3月期末で現預金18億円・土地27億円・投資有価証券84億円・自己資本比率75.75%という割安な貸借対照表を生み、成長投資機会の乏しさとあいまって海外アクティビストの標的になった。
内容
6月24日の定時株主総会で議決権総数の83.4%の特別決議を得て、全株主に1株につき3個の新株予約権を無償割当。スティールは非適格者として行使できず、持株比率は10.25%から2.82%へ希薄化する設計とし、会社がスティール分を現金で取得した。東京地裁・東京高裁・最高裁がいずれも適法と判断した。
含意
法廷闘争には勝ったが、公開買付対応費用・自己新株予約権取得対価・特別損失合計38億円で2008年3月期は19億円の最終赤字に転落した。50年守った財務体質が初めて毀損し、資産価値が株価に映らないという指摘そのものは課題として残った。
筆者の見解

株主平等と企業価値の間で

ブルドックソース事件は、敵対的買収に対する日本企業の防衛が、株主総会の意思と司法の判断という二つの関門を通って初めて許されることを示した先例といえる。会社は、スティールだけを狙い撃つ差別的な仕組みを、全株主への平等な割当という形式と、議決権の8割を超える賛成、そして相手方への現金補償で包み、株主平等原則との衝突をかろうじて避けた。守ったのは、更生法の記憶から50年かけて積み上げた堅実な財務体質そのものであった。もっとも、その堅実さがなぜアクティビストを招いたのかという問いには、防衛の勝利は答えていない。

残るのは、企業価値とは誰のためのものかという問いである。温存された資産は、経営陣にとっては危機に備える安全弁であり、買収者にとっては株主へ還元されるべき余剰であった。最高裁が会社の防衛を認めた一方で、資産が株価に映らないという批判は宙に浮いたまま残り、12年を経て、会社自身が配当倍増によってその批判に応え始めた。敵対的買収を退けた企業が、退けた相手の主張を時間をかけて実装していく——この事件は、防衛の成否だけでは測れない、株主平等と企業価値をめぐる問いを今日にも投げかけているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

更生法の記憶が生んだ財務体質

ブルドックソースの財務体質は、1954年の会社更生法申請という経営破綻の記憶から生まれた。創業家2代目による株式投資の失敗とケチャップ多角化の不振が重なって経営権は創業家を離れ、大蔵省出身の佐藤和雄氏が再建を主導する立場に立った。後年、佐藤氏は、更生法の適用は事業そのものの失敗ではなく創立者の二代目が株に興味を持った個人的な問題であり、これを契機に石橋を叩く堅実な経営体制を取ってきたと語っている。1958年の更生債務完済まで四年をかけた体験が、その後の財務方針を規定する原体験となった[1]

この体験から根づいたのが、利益剰余金を厚く積み、有利子負債を持たず、換金性の高い資産を温存するという運営の型であった。1979年には売上高100億円・経常利益20億円・無借金という高収益体質に到達し、財務の堅実さは同社の代名詞となった。もっとも、その堅実さは裏の顔も抱えていた。ソース単品・関東中心という事業の狭さもこの時期に固まり、1985年以降は売上が120億円前後で頭打ちになる長い停滞を招いた。厚い自己資本と乏しい成長投資機会という組み合わせが、後にアクティビストの目を引く土台になったとみることができる[2]

アクティビストが読んだ貸借対照表

スティール・パートナーズが着目したのは、この堅実さが生んだ貸借対照表であった。2007年3月期末で現預金18億円、土地27億円、投資有価証券84億円という換金性の高い資産を抱え、有利子負債はほぼ無く、自己資本比率は75.75%に達していた。家庭用ソース市場が構造的に縮小し、成長投資の機会が乏しかったため、これらの資産価値は株価に十分反映されず、株式は割安に放置されていた。利益剰余金を厚く積み資産を温存するという50年来の方針が、海外の投資ファンドから見れば、資産が株価に映らない投資対象として映る構造を生んでいた[3]

米系ファンドのスティール・パートナーズは2002年頃から同社株を買い進め、2007年5月までに発行済み株式の10.25%を保有する筆頭株主となっていた。同月18日、スティールは全株式の取得をめざし、1株1,584円での公開買付を開始する。株式の保有そのものは02年に明るみに出ていたものの、その後の接触は少なく、買収提案は同社にとって寝耳に水であった。池田章子社長とスティールのウォーレン・リヒテンシュタイン会長によるトップ会談は決裂し、換金性資産の温存という財務方針は、その資産を狙う買収者との攻防にさらされた[4][5]

決断

新株予約権無償割当という対抗手段

ブルドックソースの経営陣は、スティールの意図や買収後の経営方針に関する回答が不十分で株主共同の利益を損なう可能性があるとして、2007年6月7日に公開買付への反対を表明した。同時に、6月24日の定時株主総会に定款変更と新株予約権無償割当の議案を提出し、特別決議による承認を求める道を選んだ。取締役会決議で足りるはずの新株予約権無償割当を、あえて出席株主の議決権総数の3分の2以上を要する特別決議にかけたのは、その内容がスティールを狙い撃つ買収防衛策の性質を帯びていたためである。総会では会社提案が議決権総数の83.4%の支持を得て可決された[6]

防衛策の中身は、全株主に対し保有株式1株につき3個の新株予約権を無償で割り当てるものであった。行使すれば各株主の持株数は4倍に増える一方、スティールとその関係者は非適格者とされて行使できず、他の株主がすべて行使すればスティールの持株比率は10.25%から2.82%へ沈む設計であった。会社はスティールに割り当てた新株予約権を1個396円で買い取れるものとし、希薄化の代償を現金で手当てする仕組みを添えた。株主平等原則との整合を保ちながら特定株主の比率だけを引き下げる、日本で前例のない差別的行使条件付きの防衛策であった[7][8]

法廷闘争と最高裁の適法判断

スティールは黙って退かなかった。6月13日に新株予約権の発行差止めを求めて東京地裁へ仮処分を申し立て、15日には公開買付価格を1,700円へ引き上げて対抗した。しかし司法は会社側に立つ。東京地裁は6月28日、東京高裁は7月9日に相次いでスティールの申立てを退け、高裁決定はスティールを濫用的買収者と位置づけ、これを差別的に取り扱う防衛策は株主平等原則に反しないと判断した。ブルドックソースは7月11日にこの防衛策を実際に発動し、日本で初めて買収防衛策が現実に動く事例となった[9][10]

発動をめぐって株式市場は混乱した。権利落ち日の基準値段の設定が特異になり、7月5日にブルドック株は始値500円から一時1,370円まで急騰し、翌日以降は連日のストップ安に振れた。前例のない仕組みと司法判断の行方が、価格形成を歪めた。スティールは高裁決定を不服として最高裁へ特別抗告したが、2007年8月7日、最高裁第二小法廷はこれを棄却し、防衛策を適法と認めた。会社法上「ブルドックソース事件」として知られるこの決定によって、株主総会の意思にもとづく買収防衛策の適法性が確立された[11][12]

結果

防衛の代償

法廷闘争には勝ったものの、防衛の代償は小さくなかった。2008年3月期のブルドックソースは、公開買付への対応費用6億69百万円と、スティールから取得した自己新株予約権の対価21億14百万円を負担し、再建中のイカリソース関連の減損損失を含めて合計38億円の特別損失を計上した。結果として当期は19億12百万円の最終赤字に転落する。同時代の週刊東洋経済も、年間営業利益に匹敵する約6億円の訴訟関連費用が発生し、スティールに約21億円を支払い、08年3月期に最終損失19億円を計上したと総括している[13][14]

自己資本比率は前期末の75.75%から69.6%へ下がり、無借金は保ったものの、1958年の更生債務完済以来ほぼ50年守られてきた財務体質は、皮肉にも会社更生法時代の教訓そのものが招いた防衛コストによって、初めて目に見えて削られた。スティールは翌2008年に保有株を全て売却し、他の日本企業への出資も次々に引き下げて日本市場から遠ざかった。週刊東洋経済は、最高裁による買収防衛策の承認が外国人投資家の日本市場離れを加速させる副産物まで遺したと評している。防衛の成功は、財務と市場評価の両面に影を落とした[15][16]

勝ってなお残った課題

攻防のさなか、ブルドックソースは株主向けの説明会で中期経営計画を掲げていた。需要が縮む揚げ物用ソースから液体調味料全体へ事業ドメインを広げ、3工場を2工場へ再編し、2005年に買収したイカリソースとの重複を統合して、最終年度の2013年3月期に営業利益25億円を達成するという構想であった。しかし攻防から3年が過ぎても、中計の各施策はいずれもめどが立たなかった。売上高の9割以上を依然ソースに頼り、住宅地に隣接する鳩ケ谷工場の移転を含む工場再編は凍結され、3工場体制が続いていた[17]

株主に約束した企業価値の向上は、その後も長く課題として残った。とりわけ、換金性資産が株価に反映されないというスティールの指摘そのものは、防衛策では消えなかった。転機は12年後に訪れる。石垣幸俊社長のもと、2019年11月の決算説明会で同社が配当倍増を打ち出すと、アナリストは、古くはスティールから増配要求を受けたはずなのになぜ急に配当を倍増させるのかと問うた。2007年に守り抜いた資産が、退けたはずの相手の主張に沿う形で、還元原資として動き始めた場面であった[18]

出典・参考