セリア:独自発注システムの導入と業界3位への浮上
1997年〜メーカー直送と二か月在庫、大量発注の定石を捨てた発注システム
1997年、山洋エージェンシーはインターネットを使った独自の発注システムを導入した。各店舗に置いた専用端末から発注データを送ると、本社のコンピュータを経由して自動的に各メーカーへ発注書が届き、商品はメーカーから店舗へ直送され、遅くとも翌々日には納品される。輸送費は原則としてメーカーの負担だが、規定の数量に達しない発注はフランチャイズ・直営を問わず店舗側が負う。店を持たずに営業所から商品を配っていた会社が、本部の倉庫を経由しない流れを自前で組んだことになる。同じころ、直営とフランチャイズを合わせて全国約1,000店を抱えていた業界最大手の大創産業は、POSシステムを1店も導入していなかった。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [1]山洋エージェンシーは1997年に独自の発注システムを導入した。
- [2]1997年に導入した発注システムは、インターネットを利用し、各店舗の専用端末機で発注データを送ると本社のコンピュータを経由して自動的に各メーカーへ発注書が届き、メーカーから商品が直送されて遅くとも翌々日には納品される仕組みだった。
- [3]輸送費は原則としてメーカー負担だが、規定の数量に達しない場合はFC・直営を問わず発注した店舗の負担となった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [4]大創産業は直営店とFC店を合わせて全国約1,000店を展開していたが、1999年時点でPOSシステムを1店も導入していなかった。
このシステムの導入に合わせ、1回の発注を二か月分の在庫量の範囲にとどめ、継続的に発注する方法へ切り替えた。採算ラインに乗らない発注は別のアイテムと抱き合わせて数量を満たす。メーカーの側は長期にわたる生産計画と資金計画を立てられ、安定した売り上げを確保できる。大量に発注して仕入単価を切り下げるのが当時の業界の基本手法であり、先行する大創産業は一つの商品を100万個単位で発注して原価を下げていた。河合宏光社長はその逆を選び、『本来、適正な在庫量は、経営の基本サイクルである一か月分。いくら販売力があっても、一つのアイテムが一か月間で売れる量は限られる』という考えから、発注の頻度で在庫を薄く保つ道を採った。発注の回数を増やせば一回あたりの数量は減り、仕入単価は下がらない。それでも在庫の増大や検品漏れというリスクを負わない側を取った判断である。複数のアイテムをまとめて発注すればメーカーの売り上げも伸び、発送コストの軽減も見込めた。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [5]発注システムの導入に伴い、1回の発注を2か月分の在庫量の範囲にとどめ、継続的に発注する方法に切り替えた。
- [6]採算ラインに乗らない場合は、別のアイテムと抱き合わせることで補った。
- [7]この方式によりメーカー側は長期にわたる生産・資金計画が立ち、安定した売り上げを確保できた。
- [9]河合宏光社長は大量発注による仕入れ単価の切り下げという業界の基本手法の逆をいく発想を採り、無理な大量発注は在庫の増大や検品漏れなどリスクが大きいとした。
- [10]複数のアイテムをまとめて発注することでメーカーの売り上げも伸び、店舗からの注文量もまとまるため発送コストの軽減が可能になった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [8]大創産業は一つの商品を生産するのに100万個単位の発注をしていた。
2000年初めの時点で、このシステムに対応したのは仕入先の50%、アイテム数にして約70%にあたる11,000品目だった。各店舗へ卸すインナーボックスのロットも以前の半分以下に減らし、24時間いつでも発注できるようにした結果、店舗は大量の在庫を抱える必要がなくなってバックヤードを縮小できた。発注が頻繁になったことは、そのまま品揃えの変化につながった。売り場を商品で埋め尽くし、非効率であるほど客が愉しめるとした最大手とは、商品を並べる思想が正面から食い違っていた。売価を100円に固定された商売で削れる原価は、仕入単価ではなく在庫と物流の側にあると見切ったことになる。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [11]2000年初め時点で発注システムに対応していたのは仕入先の50%、アイテム数にして約70%にあたる11,000品目だった。
- [12]各店舗に卸すインナーボックスのロットを以前の半分以下に減らし、24時間発注が可能になったため、大量の在庫を抱える必要がなくなりバックヤードを縮小できた。
- [13]頻繁な発注が品揃えの変化につながった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [14]大創産業は売れ筋商品という発想を採らず、店舗に商品を山積みする非効率な売り場こそ顧客が愉しめるとして、大量生産・大量販売で売り場を商品で埋め尽くす方針を採った。
参考文献[1]-[14]
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [1]山洋エージェンシーは1997年に独自の発注システムを導入した。
- [2]1997年に導入した発注システムは、インターネットを利用し、各店舗の専用端末機で発注データを送ると本社のコンピュータを経由して自動的に各メーカーへ発注書が届き、メーカーから商品が直送されて遅くとも翌々日には納品される仕組みだった。
- [3]輸送費は原則としてメーカー負担だが、規定の数量に達しない場合はFC・直営を問わず発注した店舗の負担となった。
- [5]発注システムの導入に伴い、1回の発注を2か月分の在庫量の範囲にとどめ、継続的に発注する方法に切り替えた。
- [6]採算ラインに乗らない場合は、別のアイテムと抱き合わせることで補った。
- [7]この方式によりメーカー側は長期にわたる生産・資金計画が立ち、安定した売り上げを確保できた。
- [9]河合宏光社長は大量発注による仕入れ単価の切り下げという業界の基本手法の逆をいく発想を採り、無理な大量発注は在庫の増大や検品漏れなどリスクが大きいとした。
- [10]複数のアイテムをまとめて発注することでメーカーの売り上げも伸び、店舗からの注文量もまとまるため発送コストの軽減が可能になった。
- [11]2000年初め時点で発注システムに対応していたのは仕入先の50%、アイテム数にして約70%にあたる11,000品目だった。
- [12]各店舗に卸すインナーボックスのロットを以前の半分以下に減らし、24時間発注が可能になったため、大量の在庫を抱える必要がなくなりバックヤードを縮小できた。
- [13]頻繁な発注が品揃えの変化につながった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [4]大創産業は直営店とFC店を合わせて全国約1,000店を展開していたが、1999年時点でPOSシステムを1店も導入していなかった。
- [8]大創産業は一つの商品を生産するのに100万個単位の発注をしていた。
- [14]大創産業は売れ筋商品という発想を採らず、店舗に商品を山積みする非効率な売り場こそ顧客が愉しめるとして、大量生産・大量販売で売り場を商品で埋め尽くす方針を採った。
1997年〜死に筋を扱わない売り場と、ショップ・ワン・オー・オーの店づくり
1997年10月、山洋エージェンシーは「ショップ・ワン・オー・オー」の1号店を新潟県十日町市の十日町シルクモール店として開いた。1998年3月には商業集積施設への出店1号店として、愛知県稲沢市の複合ショッピングセンターに稲沢ハーモニー店を出している。売り場面積270坪のこの店は月商3,000万円を上げ、商品は文具・キッチン用品・化粧品など16のカテゴリーに分類され、使用方法を具体的に提案するディスプレイ・コーナーまで備えた。河合社長が想定した客層は子育てがひと段落した32歳の主婦で、店に持たせようとしたのはおしゃれな雑貨店のイメージだった。安いから寄る店ではなく、雑貨を選びに来る店として設計されている。
- 有価証券報告書【沿革】
- [15]1997年10月、「ショップ・ワン・オー・オー」1号店として「ショップ・ワン・オー・オー十日町シルクモール店」(新潟県十日町市)をオープンした。
- [16]1998年3月、商業集積施設出店1号店として「ショップ・ワン・オー・オー稲沢ハーモニー店」(愛知県稲沢市)をオープンした。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [17]稲沢ハーモニーランド内の店舗は売り場面積270坪で月商3,000万円、商品は文具・キッチン用品・化粧品など16のカテゴリーに分類され、使用方法を提案するディスプレイ・コーナーを備えていた。
- [18]河合宏光社長は子育てがひと段落した32歳の主婦をターゲットとし、おしゃれな雑貨店というイメージを大切にしていると述べた。
当時の100円ショップの集客力は、売れ筋と死に筋を混ぜて並べる宝探し感覚に求められるのが通例だった。山洋エージェンシーはその説明を採らず、死に筋商品を並べるのは『陰で人の悪口を言うのと同じ』として、極力排除する手法を取った。アイテム数は約16,000で、毎月500の新アイテムを投入し続ける一方、少しでも疑問のある商品は実際に自分たちで試してから採否を決めた。販売力を頼って持ち込まれる上代2,000円の商品も、既存の同種アイテムを見劣りさせる危険があるとして仕入れを見送ることがあった。最大手の大創産業も月間500品から600品の新商品を投入していたが、そちらは商品総数2万点を超える品揃えで客を飽きさせないための投入だった。同じ月500という数字でも、品数を積むための投入と、置く品を絞ったうえでの入れ替えでは意味が逆になる。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [19]100円ショップ流行の要因は、売れ筋と死に筋商品の混在による宝探し感覚の演出に求める論調が多かった。
- [20]山洋エージェンシーは死に筋商品を並べることを避け、極力排除する手法を取った。
- [21]アイテム数は約16,000で、毎月500の新アイテムを投入し続け、少しでも疑問のある商品は実際に自分たちで試してから判断した。
- [22]販売力を頼って持ち込まれる上代価格2,000円の商品も、既存の同種アイテムを見劣りさせる危険があるとして仕入れを見送る場合があった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [23]大創産業が販売する新商品の数は月間500品から600品で、その約80%がオリジナル商品、商品総数は2万点を超えていた。
売り場の作り替えは客層の性質を変えた。それまでスーパーで日用品を買っていた層が流れ込み、目的を決めて来店する客が増えて固定客になった。先行する大創産業でも、原価70円で作る安かろう悪かろうの商品から、99円の原価をかけてでも良い品を作る方針へ転じた経緯があった。驚きで売る段階から、必要なものを買いに来る段階へ移れば、客が品質へ向ける視線も変わる。実際に品質の問い合わせやクレームが入るようになり、抗菌の方法を問い合わせてくる客もあった。子ども用品から塩化ビニルを全廃したのも、この時期の対応である。100円だから仕方ないと客に思ってもらえる商売ではなくなっていた。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [24]店づくりの結果、目的買いの客が増え、スーパーで日用品を買っていた人が同社に流れて固定客化した。
- [26]品質に対する問い合わせやクレームが入るようになり、抗菌の方法を問い合わせてきた客もあった。
- [27]山洋エージェンシーは子ども用品から塩ビを全廃した。
- [28]河合宏光社長は、もはや100円だから仕方ないと思ってもらえる時代ではなく、一度買わなければよかったと思わせればすぐに見放されると述べた。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [25]大創産業の矢野博丈は、当時の100円商品の原価設定70円では良い商品はつくれないと考え、99円の原価をかけてでも良い商品をつくる方針へ転換した。
参考文献[15]-[28]
- 有価証券報告書【沿革】
- [15]1997年10月、「ショップ・ワン・オー・オー」1号店として「ショップ・ワン・オー・オー十日町シルクモール店」(新潟県十日町市)をオープンした。
- [16]1998年3月、商業集積施設出店1号店として「ショップ・ワン・オー・オー稲沢ハーモニー店」(愛知県稲沢市)をオープンした。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [17]稲沢ハーモニーランド内の店舗は売り場面積270坪で月商3,000万円、商品は文具・キッチン用品・化粧品など16のカテゴリーに分類され、使用方法を提案するディスプレイ・コーナーを備えていた。
- [18]河合宏光社長は子育てがひと段落した32歳の主婦をターゲットとし、おしゃれな雑貨店というイメージを大切にしていると述べた。
- [19]100円ショップ流行の要因は、売れ筋と死に筋商品の混在による宝探し感覚の演出に求める論調が多かった。
- [20]山洋エージェンシーは死に筋商品を並べることを避け、極力排除する手法を取った。
- [21]アイテム数は約16,000で、毎月500の新アイテムを投入し続け、少しでも疑問のある商品は実際に自分たちで試してから判断した。
- [22]販売力を頼って持ち込まれる上代価格2,000円の商品も、既存の同種アイテムを見劣りさせる危険があるとして仕入れを見送る場合があった。
- [24]店づくりの結果、目的買いの客が増え、スーパーで日用品を買っていた人が同社に流れて固定客化した。
- [26]品質に対する問い合わせやクレームが入るようになり、抗菌の方法を問い合わせてきた客もあった。
- [27]山洋エージェンシーは子ども用品から塩ビを全廃した。
- [28]河合宏光社長は、もはや100円だから仕方ないと思ってもらえる時代ではなく、一度買わなければよかったと思わせればすぐに見放されると述べた。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [23]大創産業が販売する新商品の数は月間500品から600品で、その約80%がオリジナル商品、商品総数は2万点を超えていた。
- [25]大創産業の矢野博丈は、当時の100円商品の原価設定70円では良い商品はつくれないと考え、99円の原価をかけてでも良い商品をつくる方針へ転換した。
1998年〜業界3位への浮上と、飽和を見越した直営出店の抑制
1998年、山洋エージェンシーは売上高70億円・238店舗に達し、100円ショップ業界の3位に立った。ただし業界の構図は上が突出していた。同じころ最大手の大創産業は、売上高を1997年度の485億円から1998年度には750億円へ伸ばし、1998年末の三か月だけで135店を開いている。直営とフランチャイズを合わせた店舗数は全国約1,000店に達していた。3位との差は売上で10倍を超える。同じ100円均一を売りながら、発注数量で原価を下げる土俵には最初から乗れない位置にいたことになる。それでも238店という店数は、設立から11年で全国の営業所網が働いた結果だった。規模を追えない会社が採れる手は、一店あたりの効率を上げることだけである。
- 東洋信託銀行調査月報 1999年3月号(253)
- [29]1998年に売上高70億円・238店舗となり、100円ショップ業界で3位となった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [30]大創産業の売上は1997年度が485億円、1998年度が750億円で、1998年10月から12月の3か月間の出店件数は135店だった。
- [31]大創産業は直営店とFC店を合わせて全国約1,000店のショップ網を持っていた。
1998年7月、本社および物流センターを岐阜県大垣市外渕二丁目に新築して移転した。この社屋は設計から施工まですべて地元企業に発注している。翌1999年9月期の年商は127億5,000万円で、前年の70億円から一年余りで倍近くに伸びた。それを支える従業員は68名にとどまる。フランチャイズ中心の展開と、メーカー直送で本部の倉庫を通さない発注の仕組みが、店数の増加を人員の増加に直結させずに済ませていた。創業から10年あまりで信越から九州まで敷いた営業所は、委託の販売員へ商品を渡す拠点から、フランチャイズ店と直営店を統括する拠点へ役割を変えている。物流センターを本社と同じ敷地に建て直したのも、その転換に合わせた投資だった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [32]1998年7月、岐阜県大垣市外渕2丁目38番地に本社および物流センターを新築移転した。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [33]1998年に完成した本社社屋は、地元への還元として設計から施工まですべて地元企業に発注された。
- [35]1999年9月期時点の従業員数は68名だった。
- 住友信託銀行調査月報 1999年(10)(597)
- [34]1999年9月期の年商は127億5,000万円だった。
業績が伸びる最中に、河合社長は飽和点が目の前にあるという危機感を語っていた。打った手は出店の加速ではなく抑制で、固定費を膨らませる直営店の出店を抑え、三年後の新規事業の立ち上げに向けて資金を蓄える方針を取った。最大手が一日二店のペースで店を開いていた時期に、3位の会社は逆を向いたことになる。並行して、年に一度、120社に及ぶ全仕入先を集めて事業計画を説明し、メーカーとの関係を繋ぎ直した。大量発注を約束できない以上、取引先へ差し出せるのは長期の生産計画が立つという安定だけである。一回の発注量を二か月分に区切って継続的に注文する方式は、その安定を取引先へ渡すための設計でもあった。1997年からの三年で作られたのは店舗網ではなく、店舗と取引先をつなぐ発注の仕組みだった。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [36]河合宏光社長は一向に衰えない業界の勢いに対し「飽和点は目の前」と危機感を募らせていた。
- [37]固定費を膨らませる直営の出店を抑制し、三年後の新規事業立ち上げに向けて力を蓄えていた。
- [39]河合宏光社長は年1回、120社に及ぶ全仕入先を集めて事業計画を説明していた。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [38]大創産業は1999年2月時点で1日2軒のペースで出店していた。
参考文献[29]-[39]
- 東洋信託銀行調査月報 1999年3月号(253)
- [29]1998年に売上高70億円・238店舗となり、100円ショップ業界で3位となった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [30]大創産業の売上は1997年度が485億円、1998年度が750億円で、1998年10月から12月の3か月間の出店件数は135店だった。
- [31]大創産業は直営店とFC店を合わせて全国約1,000店のショップ網を持っていた。
- [38]大創産業は1999年2月時点で1日2軒のペースで出店していた。
- 有価証券報告書【沿革】
- [32]1998年7月、岐阜県大垣市外渕2丁目38番地に本社および物流センターを新築移転した。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [33]1998年に完成した本社社屋は、地元への還元として設計から施工まですべて地元企業に発注された。
- [35]1999年9月期時点の従業員数は68名だった。
- [36]河合宏光社長は一向に衰えない業界の勢いに対し「飽和点は目の前」と危機感を募らせていた。
- [37]固定費を膨らませる直営の出店を抑制し、三年後の新規事業立ち上げに向けて力を蓄えていた。
- [39]河合宏光社長は年1回、120社に及ぶ全仕入先を集めて事業計画を説明していた。
- 住友信託銀行調査月報 1999年(10)(597)
- [34]1999年9月期の年商は127億5,000万円だった。
筆者考察
山洋エージェンシーが1997年に選んだのは、大量発注で仕入単価を下げるという100円均一の定石の逆だった。導入した発注システムは、店舗の端末から本社を経由してメーカーへ発注書を送り、商品をメーカーから店舗へ直送させる。同時に1回の発注を二か月分の在庫の範囲へ抑え、継続して注文する方式に切り替えた。一つの商品を100万個単位で発注して原価を削る大創産業とは、原価を下げる場所が逆である。発注の回数を増やせば一回あたりの数量は減り、仕入単価は下がらない。それでも在庫の増大と検品漏れを負わない側を取った。仕入単価ではなく、在庫と物流にかかる費用を削る道を選んだことになる。
山洋エージェンシーは売り場の作り方も同じ向きへ変えた。当時の100円ショップは売れ筋と死に筋を混ぜた宝探し感覚で客を引くのが通例だったが、この会社は死に筋を極力置かず、上代2,000円の目玉商品すら定番を見劣りさせるとして仕入れを見送っている。1998年の売上高70億円・238店舗は業界3位ながら、同年度に750億円を売った大創産業とは10倍の開きがあった。それでも河合宏光社長は飽和点が目の前にあるとして直営の出店を抑え、年に一度120社の仕入先を集めて事業計画を説明した。最大手が一日二店のペースで出店していた時期の判断である。規模で競わない構えを、業績が伸びている最中に先に決めていた。
1997年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1997年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1998年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1999年09月期 | n/a | 127 | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:住友信託銀行調査月報 (10)
出典・参考
5件
- 有価証券報告書【沿革】
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- 東洋信託銀行調査月報 1999年3月号(253)
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- 住友信託銀行調査月報 1999年(10)(597)