セリア:岐阜の移動販売業から100円ショップ常設店への転換
1985年〜クリーニング店の主人が選んだ委託方式の移動販売
セリアの創業者である河合宏光氏は、家業のクリーニング店を手伝っていた37歳のころ、偶然に目にした100円均一の催事の集客力に関心を持ち、この商売に参入した。始めたのは日曜日だけの商いで、各地のスーパーの催事場などを回って100円均一の商品を売る形だった。売り場も在庫の置き場も持たず、量販店が客寄せのために空けた催し場を借りるだけの参入である。扱う品は日用の雑貨で、値段が一律であるから接客に商品知識も要らない。1987年10月に法人を起こした後も、事業の中身は販売員への委託方式による移動販売のままだった。資本も商売の経験も持たない者が、他人の集客力に相乗りして始められる数少ない商いだった。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [1]河合宏光は家業のクリーニング店を手伝っていた37歳のころ、100円均一の催事を見かけ、その集客力に関心を持ったことが100円ショップ業界に参入する契機となった。
- [2]創業当初は日曜日のみ各地のスーパーの催事場などを回る移動販売だった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [3]1987年10月に株式会社山洋エージェンシーを設立し、100円均一商品の販売員への委託方式による移動販売を開始した。
100円均一そのものは新しい商売ではなかった。1970年代から量販店の催し場や店頭で数日間だけ開かれ、プラスチックの洗面器やポリ袋、文具のような実用的な安物を並べる客寄せの催事として定着していた。ところが1973年の石油ショックで原材料が高騰すると商品が集まらなくなり、催事は一度途絶えている。再び各地で目につくようになるのは1990年前後で、このころから100円均一は催事販売から大型店のインショップへ、さらに商店街の路面店へと形を変えて広がっていった。先行したのは広島県東広島市の大創産業で、1992年にはインショップ50カ所、路面店58店、催事関係を含めれば190カ所を数え、年商は62億円に達していた。
- 長銀総研エル 1994年11巻6号「爆発的に伸びる一〇〇円ショップの大創産業」西木田恭生
- [4]1970年代の100円均一セールは量販店の催し場で数日間開かれ、プラスチック製の洗面器やポリ袋、文具などの実用品を並べる客寄せ催事だった。
- [5]1973年の石油ショック後、原油価格の高騰で商品集めが困難となり、100円均一セールは続けられなくなった。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [6]100円均一の販売形態は催事販売から大型店のインショップ、さらに商店街などの路面店へと広がり、その動きは1989年ごろから活発化した。
- [7]大創産業は1992年時点で年商62億円、西日本を中心にインショップ50カ所、路面店58店、催事関係を含めて190カ所で100円均一ショップを展開していた。
1987年10月、河合氏は岐阜県大垣市に株式会社山洋エージェンシーを設立した。資本金は1,000万円で、事業は100円均一商品の販売員への委託方式による移動販売である。販売員を直接雇わずに委託で回す形は、売り上げの多寡にかかわらず発生する人件費を抱えずに済む。1989年5月には大垣市本今に本社を新築して移転し、同じ月に株式会社かわせと初のフランチャイズ契約を結んだ。直営で店を構えるのではなく、他人の資本と人手で面を広げる方法を、法人化から二年足らずで選んでいる。店舗を自前で出すには投下資本が要り、均一価格の商売は数を売らなければ利益が出ない。先行する大創産業がフランチャイズに踏み出したのも、この資金の壁を越えるためだった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [8]1987年10月、岐阜県大垣市に株式会社山洋エージェンシーを設立した。
- [9]設立時の資本金は10百万円で、100円均一商品の販売員への委託方式による移動販売を開始した。
- [10]1989年5月、岐阜県大垣市本今5丁目74番地に本社を新築移転し、同月に株式会社かわせ(岐阜県大垣市)と初のフランチャイズ契約を締結した。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [11]大創産業は店舗を自前で出すには投下資本が必要で、100円商品は数を売らなければ利益が出ず多店舗化の資金がないというジレンマから、FC店の展開に踏み切った。
参考文献[1]-[11]
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [1]河合宏光は家業のクリーニング店を手伝っていた37歳のころ、100円均一の催事を見かけ、その集客力に関心を持ったことが100円ショップ業界に参入する契機となった。
- [2]創業当初は日曜日のみ各地のスーパーの催事場などを回る移動販売だった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [3]1987年10月に株式会社山洋エージェンシーを設立し、100円均一商品の販売員への委託方式による移動販売を開始した。
- [8]1987年10月、岐阜県大垣市に株式会社山洋エージェンシーを設立した。
- [9]設立時の資本金は10百万円で、100円均一商品の販売員への委託方式による移動販売を開始した。
- [10]1989年5月、岐阜県大垣市本今5丁目74番地に本社を新築移転し、同月に株式会社かわせ(岐阜県大垣市)と初のフランチャイズ契約を締結した。
- 長銀総研エル 1994年11巻6号「爆発的に伸びる一〇〇円ショップの大創産業」西木田恭生
- [4]1970年代の100円均一セールは量販店の催し場で数日間開かれ、プラスチック製の洗面器やポリ袋、文具などの実用品を並べる客寄せ催事だった。
- [5]1973年の石油ショック後、原油価格の高騰で商品集めが困難となり、100円均一セールは続けられなくなった。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [6]100円均一の販売形態は催事販売から大型店のインショップ、さらに商店街などの路面店へと広がり、その動きは1989年ごろから活発化した。
- [7]大創産業は1992年時点で年商62億円、西日本を中心にインショップ50カ所、路面店58店、催事関係を含めて190カ所で100円均一ショップを展開していた。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [11]大創産業は店舗を自前で出すには投下資本が必要で、100円商品は数を売らなければ利益が出ず多店舗化の資金がないというジレンマから、FC店の展開に踏み切った。
1989年〜店より先に敷いた営業所と物流センターの網
山洋エージェンシーが最初に置いたのは店ではなく営業所だった。1989年6月に長野県東筑摩郡朝日村へ松本営業所を開き、翌1990年11月には塩尻市へ営業所と物流センターを新築して移している。1991年10月に千葉県松戸市の東京営業所、1992年3月に新潟県北蒲原郡聖籠町の新潟営業所、同年9月に静岡県袋井市の静岡営業所と続いた。営業所は委託の販売員へ商品を渡し、催事場を回らせるための拠点である。店を持たないまま商圏だけを広げる形で、岐阜から信越・関東・東海へ順に足場を移した。この時期は100円均一の販売形態が催事から大型店のインショップ、路面店へと動き始めた局面にあたる。
- 有価証券報告書【沿革】
- [12]1989年6月に長野県東筑摩郡朝日村へ松本営業所を開設し、1990年11月に長野県塩尻市へ松本営業所および物流センターを新築移転した。
- [13]1991年10月に千葉県松戸市へ東京営業所、1992年3月に新潟県北蒲原郡聖籠町へ新潟営業所、1992年9月に静岡県袋井市豊沢へ静岡営業所を開設した。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [14]100円均一の販売形態は催事販売から大型店のインショップ、商店街の路面店へと出現し、その動きは1989年ごろからより活発化した。
東西への展開は1990年代半ばに一段と早まった。1993年9月に大阪府堺市の大阪営業所、1996年3月には鹿児島県姶良郡加治木町の鹿児島営業所を開いている。1995年10月には静岡営業所と物流センターを袋井市小山へ新築して移し、東海の在庫拠点を建て替えた。設立から九年で、営業所は信越から九州まで並んだことになる。店舗を一つも構えないまま全国へ拠点を敷いた会社が、この時点の山洋エージェンシーだった。100円均一は仕入と物流のコストを極力切り詰めることで初めて成り立つ商売であり、在庫を置く場所の配置がそのまま採算を左右した。一品あたりの粗利が数十円しかない商いでは、岐阜の本社から遠い商圏ほど輸送の距離が利益を食う。営業所と物流センターを対で建てたのは、その距離を縮めて物流コストを低減する狙いがあったと推定される。
- 有価証券報告書【沿革】
- [15]1993年9月に大阪府堺市へ大阪営業所、1996年3月に鹿児島県姶良郡加治木町へ鹿児島営業所を開設した。
- [16]1995年10月、静岡県袋井市小山に静岡営業所および物流センターを新築移転した。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [17]100円均一ショップは仕入れコスト、物流コストを極力切り詰めることで成り立つ商売である。
規模の差は、そのまま調達力の差として現れた。1992年の時点で、100円ショップ業界の競合で先行していた大創産業(ダイソー)は、国内メーカー120社、海外メーカー20社と直接取引し、約3,000アイテムを揃えて、標準的な20坪の店に1,000品を並べていた。並ぶ商品にメーカーの在庫処分品や倒産品はほとんど無く、大半が100円均一で売るために作られた商品である。一つの商品を100万個単位で発注し、ときには取引先の生産ライン建設資金まで負担して共同で作らせる調達が、100円ショップの多店舗展開を可能にしたインフラであった。100円という売価から逆算すれば、原価を下げる手は発注数量を積み、仕入れコストを低減すること以外に方法は見当たらない。先行企業である大創産業は、年商62億円の販売力を担保にして、その数量を工場へ約束できた。営業所を並べたばかりの後発であるセリアに、同じ土俵で数量を競う余地は無かった。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [18]大創産業は1992年時点で国内メーカー120社、海外メーカー20社と直接取引し、取扱品目は約3,000アイテム、標準的な20坪の店で約1,000商品を揃えていた。
- [19]大創産業の商品はメーカーの倉庫在庫や倒産会社の流失品といったバッタ商品が3%もなく、大半が100円均一ショップでの販売を意図して作られた商品だった。
- [21]大創産業の1992年の年商は62億円だった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [20]大創産業は一つの商品を生産するのに100万個単位で発注し、ときには相手工場の生産ライン建設資金まで負担して共同生産した。
参考文献[12]-[21]
- 有価証券報告書【沿革】
- [12]1989年6月に長野県東筑摩郡朝日村へ松本営業所を開設し、1990年11月に長野県塩尻市へ松本営業所および物流センターを新築移転した。
- [13]1991年10月に千葉県松戸市へ東京営業所、1992年3月に新潟県北蒲原郡聖籠町へ新潟営業所、1992年9月に静岡県袋井市豊沢へ静岡営業所を開設した。
- [15]1993年9月に大阪府堺市へ大阪営業所、1996年3月に鹿児島県姶良郡加治木町へ鹿児島営業所を開設した。
- [16]1995年10月、静岡県袋井市小山に静岡営業所および物流センターを新築移転した。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [14]100円均一の販売形態は催事販売から大型店のインショップ、商店街の路面店へと出現し、その動きは1989年ごろからより活発化した。
- [17]100円均一ショップは仕入れコスト、物流コストを極力切り詰めることで成り立つ商売である。
- [18]大創産業は1992年時点で国内メーカー120社、海外メーカー20社と直接取引し、取扱品目は約3,000アイテム、標準的な20坪の店で約1,000商品を揃えていた。
- [19]大創産業の商品はメーカーの倉庫在庫や倒産会社の流失品といったバッタ商品が3%もなく、大半が100円均一ショップでの販売を意図して作られた商品だった。
- [21]大創産業の1992年の年商は62億円だった。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [20]大創産業は一つの商品を生産するのに100万個単位で発注し、ときには相手工場の生産ライン建設資金まで負担して共同生産した。
1994年〜催事から常設店へ、量販店の軒先からロードサイドへ
移動販売そのものを続けにくくする変化が、1991年に起きた。大規模小売店舗法の改正で量販店の営業時間が延び、その店先で商いをしていた100円均一の業者も閉店時刻を合わせざるを得なくなる。店が開いているのに催事の側だけ早く畳んで帰るわけにはいかず、移動販売は人手の面から立ち行かなくなった。大創産業が固定店舗へ移ったのもこの改正が契機であり、業態の担い手は一斉に店を持つ側へ動いている。1994年には広島市の商店街に開いた100円ショップが連日にぎわい、新聞や雑誌が繰り返し取り上げるまでになっていた。客寄せの添え物だった100円均一が、それ自体を目当てに客が来る売り場へ変わりつつあった。場所を借りて回る側から、場所を構える側へ移らなければ、この変化に乗れない。
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [22]1991年の大規模小売店舗法改正で営業時間を延長するスーパーが増え、店先で移動店舗を開いていた100円商売も営業時間の延長を余儀なくされた。
- [23]大創産業は大店法改正を契機として移動販売から固定販売へ進出した。
- 長銀総研エル 1994年11巻6号「爆発的に伸びる一〇〇円ショップの大創産業」西木田恭生
- [24]1994年時点で広島市の本通り商店街に開店した100円ショップは常ににぎわい、100円均一ショップは新聞・雑誌・テレビで繰り返し紹介されていた。
1994年2月、山洋エージェンシーは常設店の1号店として「100円ショップ長崎屋岐阜店」を岐阜市に開いた。量販店の売り場の一角を借りる形で、他人の集客力に乗る構えは催事のときと変わっていない。変わったのは、数日で撤収する催事から、閉店まで商品を並べ続ける売り場になったことである。催事なら売れ残りを次の会場へ運べば済んだが、常設店では棚に残った品がそのまま採算を削る。売れ行きの良し悪しが日ごとに表れる代わりに、何をどれだけ並べるかの判断が毎日の仕事になった。委託の販売員に催事場を任せていたころとは、必要な管理の細かさが違う。店舗展開を始めてからの五年で、店数は400を数えるまでになった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [25]1994年2月、常設店舗1号店として「100円ショップ長崎屋岐阜店」(岐阜県岐阜市)をオープンした。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [26]山洋エージェンシーは店舗展開を開始してから5年で400店を数えるまでになり、年商も倍々で増えた。
1996年8月には、ロードサイド出店の1号店として「100円ショップ上越高田店」を新潟県上越市に開いた。量販店の軒先を離れ、単独で客を集める店を構えたことになる。インショップは家主の集客に依存する代わりに賃料と売り場の制約を負い、路面店はその逆で、自前で客を呼べなければ成り立たない。この二つを1994年から1996年にかけて相次いで試したことで、会社は催事の請負から小売業へ立場を移した。100円均一の販売形態が催事から大型店のインショップ、路面店へと順に広がった道筋を、岐阜の一社が三年で辿り直したことになる。ただし店を構えた分だけ、賃料と人件費という固定費が採算に載る。売価を100円に縛られたまま固定費を負う商売で利益を残すには、仕入か在庫のどちらかに手を入れるほかない。
- 有価証券報告書【沿革】
- [27]1996年8月、ロードサイド出店1号店として「100円ショップ上越高田店」(新潟県上越市)をオープンした。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [28]100円均一の販売形態は催事販売から大型店のインショップ、さらに商店街などの路面店へと出現してきた。
参考文献[22]-[28]
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- [22]1991年の大規模小売店舗法改正で営業時間を延長するスーパーが増え、店先で移動店舗を開いていた100円商売も営業時間の延長を余儀なくされた。
- [23]大創産業は大店法改正を契機として移動販売から固定販売へ進出した。
- 長銀総研エル 1994年11巻6号「爆発的に伸びる一〇〇円ショップの大創産業」西木田恭生
- [24]1994年時点で広島市の本通り商店街に開店した100円ショップは常ににぎわい、100円均一ショップは新聞・雑誌・テレビで繰り返し紹介されていた。
- 有価証券報告書【沿革】
- [25]1994年2月、常設店舗1号店として「100円ショップ長崎屋岐阜店」(岐阜県岐阜市)をオープンした。
- [27]1996年8月、ロードサイド出店1号店として「100円ショップ上越高田店」(新潟県上越市)をオープンした。
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」
- [26]山洋エージェンシーは店舗展開を開始してから5年で400店を数えるまでになり、年商も倍々で増えた。
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- [28]100円均一の販売形態は催事販売から大型店のインショップ、さらに商店街などの路面店へと出現してきた。
筆者考察
河合宏光氏が選んだのは、店を持たない100円均一だった。家業のクリーニング店を手伝っていた37歳のころに催事の集客力を見てこの商売に参入し、日曜だけスーパーの催事場を回るところから始めている。1987年に法人を起こした後も事業の中身は販売員への委託方式による移動販売で、直営の店は一つも構えなかった。代わりに置いたのが営業所である。1989年の松本を皮切りに東京・新潟・静岡・大阪・鹿児島へ広げ、松本と静岡では物流センターを対で建てた。営業所は委託の販売員へ商品を渡し、催事場を回らせるための拠点である。売り場ではなく在庫の置き場から先に全国へ配ったことになる。一品あたりの粗利が数十円しかない商いでは、商品が動く距離がそのまま利益を削るからだ。
この順序が効いたのは、100円均一が催事から店へ移る時期と重なったからである。1991年の大規模小売店舗法改正で量販店の営業時間が延び、店先を借りて商う移動販売は続けにくくなった。先行する大創産業も同じ契機で固定販売へ移っている。山洋エージェンシーは1994年に長崎屋岐阜店で常設店に入り、1996年には上越高田店でロードサイドへ出た。ただし店を構えれば賃料と人件費が固定費として乗る。売価が100円に縛られた商売でそれを吸収する道は仕入単価を下げるか在庫を薄くするかの二つしかない。1992年の大創産業は国内外140社と直接取引して約3,000アイテムを揃えており、発注数量で先行企業に並べる見込みはなかった。後発に残されたのは後者だけだった。
- 100円ショップ長崎屋岐阜店
出典・参考
5件
- 有価証券報告書【沿革】
- 戦略経営者 1992年7巻10号「顧客を味方にした百円商法 大創産業」
- 長銀総研エル 1994年11巻6号「爆発的に伸びる一〇〇円ショップの大創産業」西木田恭生
- JMAマネジメントレビュー 1999年5号「大創産業」峰如之介
- 東海総研MANAGEMENT 2000年5月号(152)「企業最前線 株式会社山洋エージェンシー」