第一屋製パン:第一屋菓子店の創業と第一屋製パンの設立
1947年〜大田区東六郷の焼け跡に開いた第一屋と、委託製パンから入った東京都指定の配給パン工場
細貝義雄氏は1946年末に米軍横須賀基地のベーカリーを辞め、1947年6月1日にアイスキャンデーの店「第一屋」を開店した。店を構えたのは大田区東六郷の焼け跡で、細貝義雄氏は小学校を出てから20年あまりパンを手掛けた職人である。場所を決める前に、細貝義雄氏は雑色駅前で始発から夜10時まで乗降客を数え、1日約1600人と確かめた。借地は駅前の54坪で坪100円、冷凍機の代金は値上げを求められて合計24万円。開店前夜の試作品は1本2円50銭で売り、夕方の退勤時には店内に客が詰めかけた。パンの窯を置く資金も電力の許可もまだ無く、小さな設備で夏に現金を得られる品を先に選んだとみられる。
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ35-38
- [1]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [3]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [4]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [5]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [2]小学校卒業後20余年パン職人。戦後大田区東六郷の焼け跡に個人経営で「第一屋」の屋号の店を持ちアイスキャンデーを始めた
アイスキャンデーの季節が過ぎる前に、細貝義雄氏は委託製パンを秋からの本業に定めた。当初は芋菓子を売る計画だったものの、ヤミ物資の取締りが厳しくなり、材料の入手が見込めなくなった。1947年7月17日からパンの切符配給制が始まると聞き、細貝義雄氏は蒲田の食糧営団に通って同年10月に代位販売店の看板を得た。委託製パンは家庭に配給された小麦粉を預かって焼く仕事で、粉100匁からコッペパン3個をつくると加工賃は3円60銭になる。細貝義雄氏はアイスキャンデーの盛りが過ぎた8月下旬から、委託製パンの店の準備に本腰を入れた。本職の技能を小さな設備で生かせる商売だったことが、転換を後押ししたのだろう。
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [6]1947年6月中旬に委託製パンを知り、7月に一般配給で取扱店ができると店の客から聞いた。ヤミの取締りで菓子製造は見込めなくなった
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ35-38
- [7]1947年7月17日からパン切符配給制。芋菓子はヤミ取締りで材料入手が困難。10月上旬に食糧営団第十六パン代位販売店の看板。委託加工は粉100匁でコッペ3個・加工賃3円60銭
- [8]1947年7月17日からパン切符配給制。芋菓子はヤミ取締りで材料入手が困難。10月上旬に食糧営団第十六パン代位販売店の看板。委託加工は粉100匁でコッペ3個・加工賃3円60銭
- [9]1947年7月17日からパン切符配給制。芋菓子はヤミ取締りで材料入手が困難。10月上旬に食糧営団第十六パン代位販売店の看板。委託加工は粉100匁でコッペ3個・加工賃3円60銭
- 新日本経済 32(9) 1968年
- [10]アイスキャンデーの盛りが過ぎた8月下旬に委託パン加工店の開業へ本腰を入れた
細貝義雄氏は燃料の制約から電気窯を選び、1947年12月28日に電気工事を終えて翌年元日からパンを焼き始めた。石炭や薪は配給されず、小麦粉1貫匁あたり30円の加工賃では、ヤミの燃料を使うと採算が合わない。電力使用の許可を得るため、細貝義雄氏は藤沢製作所から12キロワットの窯とミキサーを購入し、アイスキャンデーの利益を使い切った。年末は賃餅つきで22俵をつき、工事の完了まで資金をつないだ。細貝義雄氏は1948年8月に個人経営の第一屋を合資会社第一屋に改組した。同じ1948年には包装紙を印刷してパンを包み、同業者の注目を得た。委託加工の量が増えるなかで、取引先の食糧公団に対して事業の体裁を整える必要が生じたと推察される。
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [11]燃料は配給されず加工賃1貫匁30円ではヤミ燃料が引き合わず電気竈を選択。1947年12月28日にスタート。1948年8月合資会社第一屋。1948年に包装紙を印刷
- [12]燃料は配給されず加工賃1貫匁30円ではヤミ燃料が引き合わず電気竈を選択。1947年12月28日にスタート。1948年8月合資会社第一屋。1948年に包装紙を印刷
- [16]燃料は配給されず加工賃1貫匁30円ではヤミ燃料が引き合わず電気竈を選択。1947年12月28日にスタート。1948年8月合資会社第一屋。1948年に包装紙を印刷
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ35-38
- [13]電力使用許可のため藤沢製作所の12kW窯とミキサーを購入し資金が底をつく。12月に賃餅22俵。12月28日に配電工事完了、1948年元日から製パン
- [14]電力使用許可のため藤沢製作所の12kW窯とミキサーを購入し資金が底をつく。12月に賃餅22俵。12月28日に配電工事完了、1948年元日から製パン
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [15]1947年5月個人経営で第一屋を創設、1948年8月合資会社第一屋に改組
参考文献[1]-[16]
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ35-38
- [1]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [3]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [4]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [5]1946年末に米軍横須賀海軍基地のベーカリーを退職。雑色駅の乗降客約1600人を調べ、駅前54坪を坪100円で借地。冷凍機は計24万円。1947年6月1日開店、前夜に1本2円50銭で販売
- [7]1947年7月17日からパン切符配給制。芋菓子はヤミ取締りで材料入手が困難。10月上旬に食糧営団第十六パン代位販売店の看板。委託加工は粉100匁でコッペ3個・加工賃3円60銭
- [8]1947年7月17日からパン切符配給制。芋菓子はヤミ取締りで材料入手が困難。10月上旬に食糧営団第十六パン代位販売店の看板。委託加工は粉100匁でコッペ3個・加工賃3円60銭
- [9]1947年7月17日からパン切符配給制。芋菓子はヤミ取締りで材料入手が困難。10月上旬に食糧営団第十六パン代位販売店の看板。委託加工は粉100匁でコッペ3個・加工賃3円60銭
- [13]電力使用許可のため藤沢製作所の12kW窯とミキサーを購入し資金が底をつく。12月に賃餅22俵。12月28日に配電工事完了、1948年元日から製パン
- [14]電力使用許可のため藤沢製作所の12kW窯とミキサーを購入し資金が底をつく。12月に賃餅22俵。12月28日に配電工事完了、1948年元日から製パン
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [2]小学校卒業後20余年パン職人。戦後大田区東六郷の焼け跡に個人経営で「第一屋」の屋号の店を持ちアイスキャンデーを始めた
- [6]1947年6月中旬に委託製パンを知り、7月に一般配給で取扱店ができると店の客から聞いた。ヤミの取締りで菓子製造は見込めなくなった
- [11]燃料は配給されず加工賃1貫匁30円ではヤミ燃料が引き合わず電気竈を選択。1947年12月28日にスタート。1948年8月合資会社第一屋。1948年に包装紙を印刷
- [12]燃料は配給されず加工賃1貫匁30円ではヤミ燃料が引き合わず電気竈を選択。1947年12月28日にスタート。1948年8月合資会社第一屋。1948年に包装紙を印刷
- [16]燃料は配給されず加工賃1貫匁30円ではヤミ燃料が引き合わず電気竈を選択。1947年12月28日にスタート。1948年8月合資会社第一屋。1948年に包装紙を印刷
- 新日本経済 32(9) 1968年
- [10]アイスキャンデーの盛りが過ぎた8月下旬に委託パン加工店の開業へ本腰を入れた
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [15]1947年5月個人経営で第一屋を創設、1948年8月合資会社第一屋に改組
1950年〜蒲田・川崎に展開した直売店10店と、工場の全焼で決めた鉄筋工場
1952年7月にパンが自由販売へ移ると、第一屋は川崎・蒲田の商店街に直売店を並べて売り場を自前で確保した。小麦粉の統制撤廃を機に中小のホームベーカリーが各地に現れ、競争が激しくなった。細貝義雄氏は統制解除の前から川崎を販売の地盤と定め、1日平均2軒ほどの販売店を獲得した。1951年7月に小美屋百貨店の出張売店、8月に東田店を開設し、この2店の盛況から直売店10店の計画を立てた。1953年は1月の大島店に続き、古市場・南河原・大鳥居・蒲田駅西口・同東口と開店を重ね、計画をほぼ達成した。同年末の直売店9店の1日の売上げは合計50万円。直売店は売上げに加え、得意先の開拓と地域の消費者の好みを知る拠点にもなった。
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [17]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [20]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [21]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [22]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [23]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [18]1952年の小麦粉統制撤廃でパンも自由販売となり、中小ホームベーカリーが出現し競争激化、直売店を設置
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [19]1952年7月の統制解除を待たず川崎を地盤に販売店獲得の外交、1日平均2軒ほど獲得
1952年4月、事業の拡大期にあった第一屋の工場が全焼した。細貝義雄氏はこの年、工場の復旧と川崎方面の得意先開拓、大島店の開店準備、本店工場の整備、金策を同時に進めた。同年9月には電化工場が稼働し、製造設備の水準が上がった。合資会社の資本金は1952年に200万円へ増資され、従業員は100人前後の陣容である。自由販売を見越し、細貝義雄氏は1952年から従業員の増員計画を立てて学卒者の採用を始めた。細貝義雄氏は後年、生産と売上げが好調な一方で、事業の拡大が速すぎて毎年資金繰りに苦しんだと振り返った。焼失した工場の復旧費が拡大期の設備資金と運転資金に重なり、負担が二重になったと思われる。
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [24]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [25]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [26]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [29]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [27]1952年に資本金200万円へ増資。自由販売移行のころ従業員は100人前後
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [28]1952年から従業員の増員計画を立て学卒者の採用を開始
1953年9月に工場が再び全焼し、細貝義雄氏は燃えない鉄筋の本格工場を建てると決めた。機械類は焼け残り、製造はほどなく再開できた。細貝義雄氏は稼働中の工場に近い大田区東六郷2丁目に1500坪の用地を取得し、自ら基本設計を手掛けた。工事は1954年7月に着工し、建屋と設備にそれぞれ約3000万円を勧業銀行の融資で充当した。1954年12月、合資会社の資本金を400万円へ増資。新工場は鉄筋3階建て・建坪320坪で運行窯2基を据え、1日に小麦粉400袋を使う規模を備える。蒲田工場は1955年1月に鉄筋コンクリートの工場として完成し、設備の近代化を果たした。
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [30]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [31]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [32]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [33]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [34]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [35]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [36]1955年1月蒲田工場を鉄筋コンクリートに増改築し設備を近代化
参考文献[17]-[36]
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [17]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [20]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [21]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [22]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [23]1952年7月自由販売移行前に小美屋出店・東田店開設、直売店10店計画。1953年に大島・古市場・南河原・大鳥居・蒲田西口・東口を開店し計画をほぼ実現。年末に9店の日商計50万円
- [24]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [25]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [26]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [29]1952年4月工場全焼と復旧、得意先開拓、大島店開店準備、本店工場整備と金策が重なる。同年9月電化工場稼働。事業が伸びすぎて毎年資金繰りに苦しんだと回想
- [30]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [31]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [32]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [33]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [34]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- [35]1953年9月工場再全焼、機械は無事。東六郷2丁目に1500坪取得、1954年7月着工・1955年1月竣工。建屋・設備各約3000万円を勧業銀行融資。1954年12月資本金400万円。新工場は鉄筋3階建て建坪320坪、運行窯2基、日産400袋
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [18]1952年の小麦粉統制撤廃でパンも自由販売となり、中小ホームベーカリーが出現し競争激化、直売店を設置
- [27]1952年に資本金200万円へ増資。自由販売移行のころ従業員は100人前後
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [19]1952年7月の統制解除を待たず川崎を地盤に販売店獲得の外交、1日平均2軒ほど獲得
- [28]1952年から従業員の増員計画を立て学卒者の採用を開始
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [36]1955年1月蒲田工場を鉄筋コンクリートに増改築し設備を近代化
1955年〜鉄筋工場で出直した第一屋製パンと、麻布・三鷹の買収工場
第一屋製パン株式会社の発足は1955年7月で、細貝義雄氏が合資会社第一屋を株式会社に改組したものである。株式会社の資本金は400万円、決算は年1回6月で、翌1956年6月期に1300万円の利益を計上して3割の配当を出した。1956年の年間売上高は3億9400万円だった。改組の前、細貝義雄氏は蒲田新工場の落成時に業界紙の取材で『私のところでは品物はほとんど現金で買うし、ひとさまに迷惑をかけてはいないつもりです』と答えた。新工場が本格稼働した時点で従業員は約280名に増え、幹部として外部から人材も迎え入れた。銀行融資と増資を重ねる規模に達し、出資と責任の形を株式会社に改める必要が生じたと考えられる。
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [37]合資会社第一屋を1955年7月に株式組織に改組し第一屋製パン株式会社とした
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [38]1955年に資本金400万円の株式組織に変更。年1回6月決算、翌年6月期に1300万円の利益、配当3割
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [39]株式会社設立時の1956年の年間売上高3億9400万円
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [40]1955年の新工場落成時、パンニュースに「品物はほとんど現金で買う」と談話。稼働時従業員約280名、株式会社改組までに幹部入社
- [41]1955年の新工場落成時、パンニュースに「品物はほとんど現金で買う」と談話。稼働時従業員約280名、株式会社改組までに幹部入社
株式会社となった第一屋製パンは、工場を新設せず既存の工場を買収して生産能力を増やした。改組の翌年から事業が急拡大し、蒲田工場の能力だけでは需要に追いつかなくなった。1956年6月に横浜市南区弘明寺の工場を旭電機から買収したのが、横浜工場の始まりにあたる。1957年11月には東京都港区麻布の工場を西武鉄道から買収し、麻布工場を開設した。横浜への進出は、細貝義雄氏が1954年10月の横浜営業所着工の時点で構想していた新工場の計画に沿った。1958年9月には資本金を2400万円に増資した。既存の建屋と設備を引き継げば、蒲田工場のように用地の取得から竣工まで待たずに能力を足せると判断したようだ。
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [42]株式組織変更の翌年から事業が急速に伸び設備の増強に迫られ、既存工場を買収
- [43]株式組織変更の翌年から事業が急速に伸び設備の増強に迫られ、既存工場を買収
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [44]1956年6月横浜市南区弘明寺の工場を旭電機から買収し横浜工場。1957年11月麻布の工場を西武鉄道から買収。1958年9月資本金2400万円
- [47]1956年6月横浜市南区弘明寺の工場を旭電機から買収し横浜工場。1957年11月麻布の工場を西武鉄道から買収。1958年9月資本金2400万円
- 株式会社年鑑 1964年版「第一屋製パン」
- [45]1957年11月現麻布工場を西武鉄道(株)より買収
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [46]1954年10月横浜青木橋に横浜営業所着工、その時点で横浜新工場の構想
1959年2月、第一屋製パンは三福パンから東京都三鷹市の工場を買収し、都内の西側に生産拠点を設けた。三鷹工場は同年6月に稼働し、1962年1月には板橋工場も加わった。細貝義雄氏は創業当初から『パン屋は、道路が整備されれば必ず伸びる』と見込み、配送の範囲を広げてきた。1962年時点で工場は蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5つを数え、販売網は直売店17と東京周辺の小売店約3400に及ぶ。同じ1962年時点の従業員は1500名で、300名を収容する寄宿舎を2棟持った。資本金は1961年9月に4800万円、1962年5月に6000万円と増資を重ねた。5工場を支える設備資金を賄うため、細貝義雄氏は次に株式市場からの調達を探ったと推測される。
- 株式会社年鑑 1964年版「第一屋製パン」
- [48]1959年2月現三鷹工場を三福パン(株)より買収
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [49]1959年6月三鷹工場。細貝社長は設立当初「パン屋は、道路が整備されれば必ず伸びる」と直感し行動半径を広げた。1962年1月板橋工場
- [50]1959年6月三鷹工場。細貝社長は設立当初「パン屋は、道路が整備されれば必ず伸びる」と直感し行動半径を広げた。1962年1月板橋工場
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [51]1962年時点で蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5工場、直売店17、小売店約3400。1961年9月資本金4800万円、1962年5月6000万円。従業員1500名、300名収容の寄宿舎2棟
- [52]1962年時点で蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5工場、直売店17、小売店約3400。1961年9月資本金4800万円、1962年5月6000万円。従業員1500名、300名収容の寄宿舎2棟
- [53]1962年時点で蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5工場、直売店17、小売店約3400。1961年9月資本金4800万円、1962年5月6000万円。従業員1500名、300名収容の寄宿舎2棟
参考文献[37]-[53]
- 新日本経済 29(11) 1965年
- [37]合資会社第一屋を1955年7月に株式組織に改組し第一屋製パン株式会社とした
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- [38]1955年に資本金400万円の株式組織に変更。年1回6月決算、翌年6月期に1300万円の利益、配当3割
- [42]株式組織変更の翌年から事業が急速に伸び設備の増強に迫られ、既存工場を買収
- [43]株式組織変更の翌年から事業が急速に伸び設備の増強に迫られ、既存工場を買収
- [51]1962年時点で蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5工場、直売店17、小売店約3400。1961年9月資本金4800万円、1962年5月6000万円。従業員1500名、300名収容の寄宿舎2棟
- [52]1962年時点で蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5工場、直売店17、小売店約3400。1961年9月資本金4800万円、1962年5月6000万円。従業員1500名、300名収容の寄宿舎2棟
- [53]1962年時点で蒲田・板橋・三鷹・麻布・横浜の5工場、直売店17、小売店約3400。1961年9月資本金4800万円、1962年5月6000万円。従業員1500名、300名収容の寄宿舎2棟
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- [39]株式会社設立時の1956年の年間売上高3億9400万円
- [44]1956年6月横浜市南区弘明寺の工場を旭電機から買収し横浜工場。1957年11月麻布の工場を西武鉄道から買収。1958年9月資本金2400万円
- [47]1956年6月横浜市南区弘明寺の工場を旭電機から買収し横浜工場。1957年11月麻布の工場を西武鉄道から買収。1958年9月資本金2400万円
- [49]1959年6月三鷹工場。細貝社長は設立当初「パン屋は、道路が整備されれば必ず伸びる」と直感し行動半径を広げた。1962年1月板橋工場
- [50]1959年6月三鷹工場。細貝社長は設立当初「パン屋は、道路が整備されれば必ず伸びる」と直感し行動半径を広げた。1962年1月板橋工場
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- [40]1955年の新工場落成時、パンニュースに「品物はほとんど現金で買う」と談話。稼働時従業員約280名、株式会社改組までに幹部入社
- [41]1955年の新工場落成時、パンニュースに「品物はほとんど現金で買う」と談話。稼働時従業員約280名、株式会社改組までに幹部入社
- [46]1954年10月横浜青木橋に横浜営業所着工、その時点で横浜新工場の構想
- 株式会社年鑑 1964年版「第一屋製パン」
- [45]1957年11月現麻布工場を西武鉄道(株)より買収
- [48]1959年2月現三鷹工場を三福パン(株)より買収
出典・参考
7件
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ35-38
- おいしさにまごころこめて 第一パン45年のあゆみ(1994) コマ48-52
- 株式会社年鑑 1964年版「第一屋製パン」
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「第一屋製パン」
- 野田経済 12月10日(849) 1962年
- 新日本経済 29(11) 1965年
- 新日本経済 32(9) 1968年