第1章 年〜年

不二家:洋菓子店「不二家」の開店と関東大震災による店舗焼失

1910年〜25歳の藤井林右衛門氏が元町に開いた洋菓子店と、渡米で持ち帰った喫茶の型

1910年11月16日、藤井林右衛門氏は25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で「不二家洋菓子舗」を開店した。当時の菓子は和菓子が主流で、外国人や西洋風の客層に向けた洋菓子の専門店は先例の少ない業態だった。発端は義兄の杉浦弥一郎氏の勧めで、フランス人の食料品店で長く菓子を作っていた職人を雇えば開業できるという話。藤井林右衛門氏は洋菓子がいずれ日本人に好まれると見込み、元町の空き店舗を取得して開業の準備を進めた。店名の「不二家」は、創業者の姓から取った「藤」に富士山と「二つとない」の意味を重ねた命名である。創業時に作ったプラムケーキに砂糖衣と銀玉を施した菓子は、後に不二家がクリスマスケーキの元祖と呼ばれる起点になった。

  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [1]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [3]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [4]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [5]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
  • 政経人 24(11) 1977年「企業一族物語――不二家」
    • [2]1910年11月に横浜元町で洋菓子舗を創業。当時は和菓子全盛で、外国人やハイカラ層を狙った先駆けだった
  • 政経人 51(5) 2004年5月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(3) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [6]1910年11月の創業時、プラムケーキにフォンダンの砂糖衣と銀玉を付けたものが不二家のクリスマスケーキの源流

開店から2年後の1912年9月、藤井林右衛門氏は横浜港から米国へ渡った。店は開業の翌年、筋向かいの2階家を借り受けて売場を広げた。それでも藤井林右衛門氏は洋菓子だけではいずれ行き詰まると考え、本場の事情を見て技術を習得することにした。渡米の目的は洋菓子と喫茶、料理の製造技術の修得である。修業先を決めずにロサンゼルスへ入った藤井林右衛門氏は、皿洗いやホテルのポーター、うどんの屋台で生活費を得た。働く中で、米国の経営者が人員と時間を合理的に管理する姿を目にした。白い大理石のカウンターを備えた喫茶店にも入り、日本で同じ格の喫茶店を持つと決めた。

  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [7]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [8]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [9]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [11]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [12]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [13]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)「不二家」
    • [10]1912年9月、藤井林右衛門が洋菓子・喫茶・料理製造技術の修得のため渡米

1913年7月に帰国した藤井林右衛門氏は、隣の店舗を取得して元町の店を拡張し、喫茶室「ソーダ・ファウンテン」を新設した。シカゴの業者から直輸入した大理石のカウンターで出したのは、果汁にソーダ水を注いだ飲み物。客が飲食した品をレジで自己申告する精算の方式も話題を呼んだ。1922年1月には支店の第1号として伊勢佐木町店を開設し、『最高の店で、最良のものを』という方針で鏡や照明、らせん階段まで内装を整えた。開店と同時にシュークリームを発売し、1922年ごろにはバタークリームで飾るショートケーキも工夫した。伊勢佐木町店は1年足らずで建築費を回収している。1959年の記事も、不二家の出発点を洋菓子店と喫茶室の併営として紹介した。米国で見た喫茶の型を店舗の標準に据えたことが、後の多店化の原型になったとみられる。

  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [14]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [15]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [16]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [17]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [19]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
  • 政経人 51(5) 2004年5月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(3) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [18]1922年頃、スポンジにバタークリームをサンドして飾るショートケーキを工夫した
  • 事務と経営 11(117) 1959年6月号「家庭に愛されて伸びる企業 不二家社長 藤井誠司氏にきく」鶴見和子
    • [20]1910年に横浜で小さな洋菓子店とティー・ルームを始めたのが不二家の起点
参考文献[1]-[20]
  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [1]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [3]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [4]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [5]1910年11月16日、藤井林右衛門が25歳の誕生日に横浜市中区元町2丁目で不二家洋菓子舗を開店。義兄杉浦弥一郎の勧めで元仏人食料品店の菓子職人を雇って開業。店名は藤・富士・不二を重ねた
    • [7]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [8]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [9]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [11]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [12]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [13]1911年に筋向かいの2階家を借りて拡張。洋菓子だけでは行き詰まると考え、1912年9月に渡米。ロサンゼルスで皿洗い・ポーター・うどん屋台で働き、米国経営の合理主義と大理石カウンターの喫茶店に触れた
    • [14]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [15]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [16]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [17]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
    • [19]1913年7月帰国、隣接店を取得して拡張し、シカゴから輸入した大理石カウンターの喫茶室ソーダ・ファウンテンを新設。1922年1月に支店第1号の伊勢佐木町店を開設し、シュークリーム等を発売、1年足らずで建築費を回収
  • 政経人 24(11) 1977年「企業一族物語――不二家」
    • [2]1910年11月に横浜元町で洋菓子舗を創業。当時は和菓子全盛で、外国人やハイカラ層を狙った先駆けだった
  • 政経人 51(5) 2004年5月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(3) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [6]1910年11月の創業時、プラムケーキにフォンダンの砂糖衣と銀玉を付けたものが不二家のクリスマスケーキの源流
    • [18]1922年頃、スポンジにバタークリームをサンドして飾るショートケーキを工夫した
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)「不二家」
    • [10]1912年9月、藤井林右衛門が洋菓子・喫茶・料理製造技術の修得のため渡米
  • 事務と経営 11(117) 1959年6月号「家庭に愛されて伸びる企業 不二家社長 藤井誠司氏にきく」鶴見和子
    • [20]1910年に横浜で小さな洋菓子店とティー・ルームを始めたのが不二家の起点

1923年〜開店28日目の銀座店を焼いた関東大震災と、合名会社不二家への改組

1923年8月5日、藤井林右衛門氏は銀座6丁目に銀座店を開設し、東京へ進出した。伊勢佐木町店の繁盛を受け、横浜の商人にとどまらず東京で事業を大きくする狙いである。銀座店は1階に売場とソーダ・ファウンテン、製菓室を置き、2階を食堂、3階を店員の宿舎とした。後年の資料は、銀座店の開設を不二家チェーンの第一歩と位置づけている。開店から27日後の9月1日に関東大震災が起き、元町店と伊勢佐木町店、開店28日目の銀座店の3店が焼失した。37歳の藤井林右衛門氏は被災を天災として受け止め、再起の準備に移った。銀座店は製菓室を店内に置いており、店舗の焼失は製造の停止も意味したと思われる。

  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [21]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [22]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [23]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [25]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [26]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)「不二家」
    • [24]1923年8月の銀座店開設を不二家チェーンの第一歩と記す

震災後、藤井林右衛門氏は北品川の元酒店の2階家を借り、焼釜を据えてアンパンやジャムパン、シュークリームの製造を始めた。製品は荷車に積み、1個5銭均一で店員に盛り場で販売させた。焼失を免れた喫茶店へ製品を大量に卸し、利益を積み上げた。1924年5月には火災保険金を元手に銀座と伊勢佐木町の跡地へバラックを建て、品川の工場で作った製品の販売を再開。元町店は再開せず、銀座と伊勢佐木町の2店を本拠とし、昭和に入ってすぐ3店目の大森店を開設した。震災の痛手から立ち直った藤井林右衛門氏は、昭和に入ると新製品の開発に取り組んだ。保険金が入るまで店舗の再建を待ち、先に製造と卸で現金を得た順序は、米国で学んだ合理主義に沿う判断だったと推察される。

  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [27]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [28]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [29]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [30]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [31]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [32]関東大震災の痛手から立ち直った藤井林右衛門が、昭和に入って新商品の開発を目指した

1930年3月、不二家は個人経営から合名会社不二家に改組した。藤井林右衛門氏は10万円を出資し、社長に就任している。店舗を増やした以上は個人商店の域を出る必要がある、というのが藤井林右衛門氏の判断である。同年5月には、地階を工場、1階を売場と喫茶室、2階を食堂とした鉄筋コンクリート造の新宿店を開設した。1931年3月には銀座西7丁目に地下1階・地上5階の銀座工場を建設し、関西で初めての店舗として大阪の心斎橋店も開設している。改組後の藤井林右衛門氏は、幹部や社員の意見を求めるチームワークの経営に改めた。1935年には鶴見工場を開設し、製造の拠点も店舗の外へ広がった。店舗と工場を併せ持つ事業を藤井家の家計から切り分ける必要が、改組の背景にあったと考えられる。

  • 証券 14(7) 1962年
    • [33]沿革: 1930年3月 合名会社不二家に改組
  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [34]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
    • [35]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
    • [36]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
    • [37]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [38]合名会社にしてからは幹部・社員の意見を求めるチームワーク経営を心掛けた
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)「不二家」
    • [39]1930年合名会社に改組、1935年に鶴見工場を開設
参考文献[21]-[39]
  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [21]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [22]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [23]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [25]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [26]1923年8月5日に銀座6丁目に銀座店を開設(1階売場・喫茶・製菓室、2階食堂、3階宿舎)。9月1日の関東大震災で元町・伊勢佐木町・開店28日目の銀座の3店を焼失
    • [27]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [28]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [29]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [30]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [31]震災後、北品川に焼釜を据えてパン・菓子を製造し1個5銭均一で行商、焼け残った喫茶店へ卸売。1924年5月に保険金で銀座・伊勢佐木町にバラックを建て再開、元町は再開せず、昭和初めに大森店を開設
    • [34]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
    • [35]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
    • [36]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
    • [37]1930年3月に10万円を出資して合名会社不二家を設立し社長に就任、同年5月に新宿店、1931年3月に銀座工場を建設し大阪に心斎橋店を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)「不二家」
    • [24]1923年8月の銀座店開設を不二家チェーンの第一歩と記す
    • [39]1930年合名会社に改組、1935年に鶴見工場を開設
  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [32]関東大震災の痛手から立ち直った藤井林右衛門が、昭和に入って新商品の開発を目指した
    • [38]合名会社にしてからは幹部・社員の意見を求めるチームワーク経営を心掛けた
  • 証券 14(7) 1962年
    • [33]沿革: 1930年3月 合名会社不二家に改組

1937年〜資本金20万円の第二不二家で得た株式会社と、沼津工場のボイラー1基からの再建

合名会社の時代に、不二家は店頭の菓子から量産品へ製造の幅を広げた。1934年にバニラ・コーヒー・チョコレートの3つの風味を持つ「フランス・キャラメル」を発売し、1935年3月に横浜市鶴見区で鶴見工場を建設した。銀座工場の一角には卸部を置き、デパートや一流の専門店への卸売を始めた。1937年には沼津工場で練乳の生産を開始した。1938年6月、資本金20万円の株式会社第二不二家が設立された。第二不二家は同年9月に合名会社不二家を合併し、12月に商号を株式会社不二家へ改めた。上場後の不二家は、この1938年を登記上の設立年としている。工場と卸を抱えた事業には、出資者が無限責任を負う合名会社より資本を増やしやすい株式会社の組織が要ったのだろう。

  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [40]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [41]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [42]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [43]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
  • 証券 14(7) 1962年
    • [44]1938年6月株式会社第二不二家設立(資本金200千円)、9月合名会社不二家を吸収合併、12月商号を株式会社不二家に変更
  • 証券アナリストジャーナル 6(4/5) 1968年 藤井五郎
    • [45]1938年6月資本金20万円で第二不二家設立、9月合名会社を合併、12月現社名に改称。1938年が登記上の設立時
    • [46]1938年6月資本金20万円で第二不二家設立、9月合名会社を合併、12月現社名に改称。1938年が登記上の設立時

株式会社に改めた直後から、不二家の事業は戦時統制で縮小を迫られた。国家総動員法の下で公定価格が定められ、1940年には砂糖を含む生活必需品10品目に切符制が敷かれた。キャラメルやチョコレートに欠かせない砂糖の入手が難しくなり、藤井林右衛門氏は事業の縮小に踏み切った。太平洋戦争の開戦後は代用甘味の菓子を作り、それも尽きるとふりかけや乾燥バナナ、最後は玩具を店頭に並べた。製菓の機械は供出され、工場は軍用の小型モーターの製作所に転じた。応召した店員40名は全員が戦死している。1945年には空襲で東京・横浜・大阪の店舗と工場の大半を焼失し、沼津工場も終戦1カ月前の空襲で被災した。

  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [47]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [48]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [49]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [53]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
  • 事務と経営 11(117) 1959年6月号「家庭に愛されて伸びる企業 不二家社長 藤井誠司氏にきく」鶴見和子
    • [50]『不二家五十年の歩み』によれば、戦中は代用菓子からふりかけ・乾燥バナナ・玩具へ、機械供出で工場は軍用小型モーター製作所に、応召店員40名全員戦死
    • [51]『不二家五十年の歩み』によれば、戦中は代用菓子からふりかけ・乾燥バナナ・玩具へ、機械供出で工場は軍用小型モーター製作所に、応召店員40名全員戦死
    • [52]『不二家五十年の歩み』によれば、戦中は代用菓子からふりかけ・乾燥バナナ・玩具へ、機械供出で工場は軍用小型モーター製作所に、応召店員40名全員戦死

終戦後、不二家は大森・新宿・京都四条の3店を早くに再開した。1945年11月ごろからは手元の練乳でアイスクリームを作り、1939年ごろに藤井林右衛門氏が確保したチョコレートを少しずつかけて販売している。1946年には心斎橋店と銀座2丁目店・6丁目店をバラックで再開し、京都四条店と横浜店は米軍の接収で閉鎖した。藤井林右衛門氏は『甘味に飢えている人々のお役に少しでも立ちたい』として、焼け残ったボイラー1基を使って沼津工場を再建し、水アメの生産から始めた。統制の緩和後、水アメと練乳の需要は生産量を上回った。1948年11月、63歳の藤井林右衛門氏は社長を次男の藤井誠司氏に譲り、取締役会長に就任している。藤井誠司氏の下で、不二家は1949年からの食料品の統制緩和を受けて菓子の製造販売を立て直した。

  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [54]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [56]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [57]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [58]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [59]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
  • 事務と経営 11(117) 1959年6月号「家庭に愛されて伸びる企業 不二家社長 藤井誠司氏にきく」鶴見和子
    • [55]終戦の年に大森店を開き、11月頃から練乳と1939年頃に買い置いたチョコでアイスクリームを販売。1949-50年の統制緩和でドーナツ、1952年にミルキーを発売。藤井誠司は1948年社長就任
    • [60]終戦の年に大森店を開き、11月頃から練乳と1939年頃に買い置いたチョコでアイスクリームを販売。1949-50年の統制緩和でドーナツ、1952年にミルキーを発売。藤井誠司は1948年社長就任
参考文献[40]-[60]
  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
    • [40]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [41]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [42]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [43]1934年フランス・キャラメル発売、1935年3月鶴見工場建設、銀座工場に卸部を設置しデパート・専門店へ卸売、1937年沼津工場で練乳生産開始、1938年6月伊勢佐木町に資本金20万円の株式会社第二不二家を設立
    • [47]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [48]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [49]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [53]国家総動員法で公定価格、1940年に砂糖など10品目の切符制。砂糖の入手難で事業を縮小、1945年の空襲で大半の店と工場を焼失、沼津工場も終戦1カ月前に被災
    • [54]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [56]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [57]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [58]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
    • [59]終戦後に大森・新宿・京都四条を再開、1946年に心斎橋・銀座2丁目・6丁目をバラックで再開、京都四条・横浜は米軍接収。沼津工場をボイラー1基から再建し水アメを生産。1948年11月に次男誠司に社長を譲り会長に
  • 証券 14(7) 1962年
    • [44]1938年6月株式会社第二不二家設立(資本金200千円)、9月合名会社不二家を吸収合併、12月商号を株式会社不二家に変更
  • 証券アナリストジャーナル 6(4/5) 1968年 藤井五郎
    • [45]1938年6月資本金20万円で第二不二家設立、9月合名会社を合併、12月現社名に改称。1938年が登記上の設立時
    • [46]1938年6月資本金20万円で第二不二家設立、9月合名会社を合併、12月現社名に改称。1938年が登記上の設立時
  • 事務と経営 11(117) 1959年6月号「家庭に愛されて伸びる企業 不二家社長 藤井誠司氏にきく」鶴見和子
    • [50]『不二家五十年の歩み』によれば、戦中は代用菓子からふりかけ・乾燥バナナ・玩具へ、機械供出で工場は軍用小型モーター製作所に、応召店員40名全員戦死
    • [51]『不二家五十年の歩み』によれば、戦中は代用菓子からふりかけ・乾燥バナナ・玩具へ、機械供出で工場は軍用小型モーター製作所に、応召店員40名全員戦死
    • [52]『不二家五十年の歩み』によれば、戦中は代用菓子からふりかけ・乾燥バナナ・玩具へ、機械供出で工場は軍用小型モーター製作所に、応召店員40名全員戦死
    • [55]終戦の年に大森店を開き、11月頃から練乳と1939年頃に買い置いたチョコでアイスクリームを販売。1949-50年の統制緩和でドーナツ、1952年にミルキーを発売。藤井誠司は1948年社長就任
    • [60]終戦の年に大森店を開き、11月頃から練乳と1939年頃に買い置いたチョコでアイスクリームを販売。1949-50年の統制緩和でドーナツ、1952年にミルキーを発売。藤井誠司は1948年社長就任

出典・参考

8件
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)「不二家」
  • 事務と経営 11(117) 1959年6月号「家庭に愛されて伸びる企業 不二家社長 藤井誠司氏にきく」鶴見和子
  • 証券アナリストジャーナル 6(4/5) 1968年 藤井五郎
  • 政経人 51(3) 2004年3月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(1) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
  • 政経人 51(5) 2004年5月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(3) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
  • 政経人 51(4) 2004年4月号「熱き創業者魂の軌跡 藤井林右衛門(2) 洋菓子産業を育てた男」若山三郎
  • 証券 14(7) 1962年
  • 政経人 24(11) 1977年「企業一族物語――不二家」

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