第1章 年〜年

日鉄鉱業:日本製鐵からの分離独立と東証一部上場

1939年〜製鉄原料の一元経営を担う全額出資子会社としての発足

日鉄鉱業は1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石など製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金5,000万円で設立された。もとをたどれば、1934年2月に官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄所を中心として日本製鐵が発足した際、政府は炭鉱その他の資源関係もあわせて出資したのに対し、民間側は評価などの都合で工場だけを出資し、鉱山関係を保留していた。5年を経て各社鉱山の評価がおおむね済むと、日本製鐵は工場を中心とする製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分け、別個の経営体とするのが適当だと決めた。二瀬炭鉱ほかを現物出資の主体とし、釜石・倶知安・价川などの鉱山を買収して、全株を日本製鐵が所有する新会社へ一元経営を移した。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [1]1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石等の製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金50,000千円で日鉄鉱業を設立
    • [2]日本製鐵は1934年2月に官営八幡製鉄所ほか民間主要製鉄所を中心に設立され、政府は炭鉱その他の資源関係も出資したが、民間は評価等の都合で工場のみ出資し鉱山関係は保留された
    • [3]5年を経て各社鉱山の評価がほぼ済み、日本製鐵は工場中心の製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分離して別個の経営体とするのが適当と決定した
  • 証券 1954年
    • [4]日本製鐵所有の炭鉱・鉱山による現物出資を主体とし、釜石・倶知安・价川その他の鉱山を買収して日鉄鉱業を設立、全株を日本製鐵が所有した

事業の源流は1899年12月1日にさかのぼり、官営八幡製鉄所のコークス用と一般燃料用の石炭を採掘して供給するため、農商務省告示第98号によって農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が二瀬町に置かれ、稼行が始まった。1910年には事務所を穂波村へ移し、同年3月に旧海軍省の予備炭田だった稲築鉱区の所管も受けている。1934年2月1日の日本製鐵設立でこの炭鉱は同社の所管となり、1939年の日鉄鉱業創立とともに一切が引き継がれた。日本製鐵が全株を持つ会社として生まれたため、生産品のほとんどは日本製鐵へ供給され、民間事業の保護や援助の面でも国策会社の性格を強く与えられた。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [5]二瀬炭鉱は官営八幡製鉄所の骸炭用および一般燃料用の石炭を採掘供給する目的で、1899年12月1日の農商務省告示第98号により農商務省八幡製鉄所二瀬出張所として二瀬町に設置され創業稼行を始めた
    • [6]1910年に現在の穂波村へ事務所を移転するとともに、同年3月に旧海軍省の予備炭田である稲築鉱区が所管に移管された
    • [7]1934年2月1日の日本製鐵創立で二瀬炭鉱は同社の所管となり、日鉄鉱業の創立とともにその一切が引き継がれた
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [8]設立の経緯から生産品はほとんど日本製鐵に供給され、一般民間事業の保護援助等において強く国策会社としての性格を持たされた

創立と同時に、日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長だった吉田健三郎が常務取締役へ、室木隆三郎が日鉄鉱業二瀬鉱業所の初代所長へ就任した。取締役に名を連ねた平生釟三郎は、1941年1月14日以降、代表取締役社長に選任されている。発足直後の6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山とその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いだ。11月には定款を変更して地方鉄道法による運輸業を目的に加え、釜石鉱山鉄道の譲渡を受けて経営にあたり、12月には静鉱業株式会社から長崎県内の鉱区を買収した。この鉱区がのちの神田鉱である。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [9]日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長・吉田健三郎が日鉄鉱業の常務取締役に就任し、創立と同時に室木隆三郎が二瀬鉱業所の初代所長に任命された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
    • [10]平生釟三郎は1939年5月20日に取締役に就任し、代表取締役として1941年1月14日以降社長に選任された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [11]1939年6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山およびその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いで経営にあたった
    • [12]1939年11月に定款を変更して目的事項に地方鉄道法による運輸業を加え釜石鉱山鉄道の譲渡を受け、12月に静鉱業株式会社から長崎県下の同社所有鉱区を買収した
    • [13]1939年12月に買収した長崎県下の鉱区が現在の神田鉱である
参考文献[1]-[13]
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [1]1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石等の製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金50,000千円で日鉄鉱業を設立
    • [2]日本製鐵は1934年2月に官営八幡製鉄所ほか民間主要製鉄所を中心に設立され、政府は炭鉱その他の資源関係も出資したが、民間は評価等の都合で工場のみ出資し鉱山関係は保留された
    • [3]5年を経て各社鉱山の評価がほぼ済み、日本製鐵は工場中心の製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分離して別個の経営体とするのが適当と決定した
    • [8]設立の経緯から生産品はほとんど日本製鐵に供給され、一般民間事業の保護援助等において強く国策会社としての性格を持たされた
    • [11]1939年6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山およびその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いで経営にあたった
    • [12]1939年11月に定款を変更して目的事項に地方鉄道法による運輸業を加え釜石鉱山鉄道の譲渡を受け、12月に静鉱業株式会社から長崎県下の同社所有鉱区を買収した
    • [13]1939年12月に買収した長崎県下の鉱区が現在の神田鉱である
  • 証券 1954年
    • [4]日本製鐵所有の炭鉱・鉱山による現物出資を主体とし、釜石・倶知安・价川その他の鉱山を買収して日鉄鉱業を設立、全株を日本製鐵が所有した
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [5]二瀬炭鉱は官営八幡製鉄所の骸炭用および一般燃料用の石炭を採掘供給する目的で、1899年12月1日の農商務省告示第98号により農商務省八幡製鉄所二瀬出張所として二瀬町に設置され創業稼行を始めた
    • [6]1910年に現在の穂波村へ事務所を移転するとともに、同年3月に旧海軍省の予備炭田である稲築鉱区が所管に移管された
    • [7]1934年2月1日の日本製鐵創立で二瀬炭鉱は同社の所管となり、日鉄鉱業の創立とともにその一切が引き継がれた
    • [9]日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長・吉田健三郎が日鉄鉱業の常務取締役に就任し、創立と同時に室木隆三郎が二瀬鉱業所の初代所長に任命された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
    • [10]平生釟三郎は1939年5月20日に取締役に就任し、代表取締役として1941年1月14日以降社長に選任された

1940年〜海外へ展開した事業所と、終戦で失った在外資産の一切

1939年12月6日、三菱鉱業が持っていた朝鮮の茂山鉱山を鉄鋼国策の見地から共同経営へ移すため、三菱鉱業・日本製鐵との三者共同出資で茂山鉄鉱開発株式会社を設立した。翌1940年は石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収したのを手はじめに、様似石灰石山や尻労石灰石山を買い集めている。大陸では昌平・莱蕪・弧山・武安の各炭鉱と鉱山を開発して北支那採鉱株式会社を立て、北支那製鉄株式会社の原料部門を担った。海南島・セレベス・マライ・フィリッピンの資源開発にも及び、事業所は朝鮮・満州・華北・南方に広がって、1942年には資本金が1億5,000万円となった。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [14]三菱鉱業所有の朝鮮茂山鉱山につき鉄鋼国策の見地から日本製鐵が合弁経営を申し入れ、三菱鉱業・日本製鐵・日鉄鉱業の三者共同出資で1939年12月6日に茂山鉄鉱開発株式会社を設立
    • [15]1940年に石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業株式会社から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収、さらに様似石灰石山・尻労石灰石山等を買収した
  • 証券 1954年
    • [16]支那大陸で昌平・莱蕪・弧山・武安等の各炭鉱・鉱山の開発に当たり、北支那採鉱株式会社を設立して北支那製鉄株式会社の原料部門を担った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [17]海南島・セレベス・マライ・フィリッピン等の資源を開発し、事業所は鮮・満・華・南方に及び、1942年には資本金1億5,000万円となった

増産の要請は内地資源を急速にすり減らした。鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を保ったが、原材料の輸入が窮屈になるにつれ増産の要請は激しくなった。1939年から1945年までに掘り出した鉄鉱石は、釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲など合計9,229千瓲にのぼる。石炭は二瀬と北松で採掘し、二瀬鉱業所の出炭は1941年度の1,207,504瓲が最高だった。経済性を度外視した強行生産のもとで、二瀬炭鉱は乱掘に陥っている。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
    • [18]生産増強の要請にあらゆる努力を払って応えただけに、当社の内地資源は急速な減少を免れなかった
    • [19]鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を維持したが漸減し、各種原材料の輸入が窮屈となるのに比例して当社への増産要請は激しくなった
    • [20]1939年から1945年までに採掘した鉄鉱石は釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲、その他383千瓲の合計9,229千瓲
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [21]二瀬鉱業所としての出炭最高は1941年度の1,207,504瓲
    • [22]二瀬炭鉱は製鉄原料炭として戦時中に当局の要請に応えて大増産を敢行し、そのために乱掘に陥った

外地の各作業所が正式に廃止されたのは、終戦で在外資産をすべて失ったためである。外地鉱業所を失ったうえ復員者も戻り、人員は過剰になった。1945年末までに整理を三次にわたって行い、退職者は1,460名に上った。年が明けた1946年3月には制限会社令による指定を受け、新しい資源を押さえることも経済活動も、厳しい規制の下に置かれた。同じ年に政府が戦時中の国家補償を全面的に打ち切る方針を示したため、1946年末の資産総額476,000千円のうち、在外資産や損失金などいわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた。会社経理応急措置法と会社再建整備法に基づき、新旧勘定の分離と擬制資本の切り捨てによる再建計画に着手した。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [23]終戦とともに在外資産の一切を失い、1946年に在外資産喪失により外地各作業所を正式に廃止した
    • [24]外地鉱業所の喪失・復員に起因する過剰人員のため1945年末までに三次にわたって整理を行い、1,460名が退職した
    • [25]1946年3月、制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保もその他の経済活動も厳格な規制を受けた
    • [26]政府が戦時補償を全面打切とする方針を示し、1946年末の資産総額476,000千円のうち在外資産および損失金等いわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた
    • [27]会社経理応急措置法・会社再建整備法に基づき新旧勘定の分離と擬制資本の切捨てにより本格的な会社再建計画に着手した
参考文献[14]-[27]
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [14]三菱鉱業所有の朝鮮茂山鉱山につき鉄鋼国策の見地から日本製鐵が合弁経営を申し入れ、三菱鉱業・日本製鐵・日鉄鉱業の三者共同出資で1939年12月6日に茂山鉄鉱開発株式会社を設立
    • [15]1940年に石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業株式会社から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収、さらに様似石灰石山・尻労石灰石山等を買収した
  • 証券 1954年
    • [16]支那大陸で昌平・莱蕪・弧山・武安等の各炭鉱・鉱山の開発に当たり、北支那採鉱株式会社を設立して北支那製鉄株式会社の原料部門を担った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [17]海南島・セレベス・マライ・フィリッピン等の資源を開発し、事業所は鮮・満・華・南方に及び、1942年には資本金1億5,000万円となった
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
    • [18]生産増強の要請にあらゆる努力を払って応えただけに、当社の内地資源は急速な減少を免れなかった
    • [19]鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を維持したが漸減し、各種原材料の輸入が窮屈となるのに比例して当社への増産要請は激しくなった
    • [20]1939年から1945年までに採掘した鉄鉱石は釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲、その他383千瓲の合計9,229千瓲
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [21]二瀬鉱業所としての出炭最高は1941年度の1,207,504瓲
    • [22]二瀬炭鉱は製鉄原料炭として戦時中に当局の要請に応えて大増産を敢行し、そのために乱掘に陥った
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [23]終戦とともに在外資産の一切を失い、1946年に在外資産喪失により外地各作業所を正式に廃止した
    • [24]外地鉱業所の喪失・復員に起因する過剰人員のため1945年末までに三次にわたって整理を行い、1,460名が退職した
    • [25]1946年3月、制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保もその他の経済活動も厳格な規制を受けた
    • [26]政府が戦時補償を全面打切とする方針を示し、1946年末の資産総額476,000千円のうち在外資産および損失金等いわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた
    • [27]会社経理応急措置法・会社再建整備法に基づき新旧勘定の分離と擬制資本の切捨てにより本格的な会社再建計画に着手した

1946年〜石灰石とドロマイトを足して立て直した国内事業と上場

終戦から1946年末までは、石炭の供給不足が決定的な要因となって製鉄業が未曾有の減産に陥った。普通圧延鋼材の生産は1945年に40万瓲、1946年には32万瓲まで落ち、鉄鉱石と石灰石・硅石など副原料の需要も激減した。石炭と違って国家の援助はなく、1947年4月から2か月にわたって釜石鉱山は慢性的な怠業に陥り、月24千瓲の生産計画に対して4月の実績は3,154瓲、5月は4,245瓲にとどまった。6月に怠業は終わり、7月10日には鉱石価格が260円から460円へ、翌1948年6月23日には949円へ引き上げられ、鉄鉱石部門は立ち直った。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [28]終戦後より1946年末までは、敗戦に伴う一般的な政治経済情勢と決定的な要因としての石炭供給不足により、製鉄業は未曾有の減産に陥った
    • [29]普通圧延鋼材は1945年に40万瓲、1946年に32万瓲となり、当社の鉄鉱石ならびに石灰石・硅石等の副原料部門の需要は激減した
    • [30]1947年4月から2か月にわたり釜石鉱山は慢性的な怠業状況を呈し、各月の生産計画24千瓲に対して4月実績3,154瓲、5月実績4,245瓲だった
    • [31]1947年6月に怠業状態が終わり、7月10日に鉱石価格が260円から460円(Fe48%)へ引き上げられ、1948年6月23日に949円(Fe50%)へ改訂されて鉄鉱石部門は立ち直った

石炭と鉄鉱石に加えて石灰石とドロマイトを掘るため、日鉄鉱業は1943年2月に東鹿越採石所を開設し、1950年は8月に井倉採石所、10月に津久見採石所、12月に船尾採石所を続けて開設した。1951年10月には羽鶴鉱業所を開設し、翌11月に関東証券の経営へ参画している。鉄鉱では1951年以降、北海道鉱業所で白老・赤沼・本竜の各鉱山を開き、虻田地区の硫化鉱の開発にも入った。石炭では北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱に重液選炭設備を広げ、二瀬潤野鉱にバウム水洗機を据えて、中央鉱の運搬合理化工事を仕上げた。

  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1943年2月に東鹿越採石所、1950年8月に井倉採石所、1950年10月に津久見採石所、1950年12月に船尾採石所を開設
    • [33]1951年10月に羽鶴鉱業所を開設、1951年11月に関東証券株式会社の経営に参画
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [34]1951年以降、北海道鉱業所において白老・赤沼・本竜(鉄鉱石)等の各鉱山を開設し、虻田地区の硫化鉱(埋蔵量500万屯)の開発に乗り出した
    • [35]石炭部門で北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱の重液選炭設備を拡充し、二瀬潤野鉱のバウム水洗機(100屯)および中央鉱の運搬合理化一連工事を完成した

1954年3月3日、日鉄鉱業は東京証券取引所へ新規上場した。上場時の資本金は2億4,800万円、上場株式数は4,960千株で、大株主には八幡製鉄621,000株、富士製鉄579,000株、関東証券493,564株が並ぶ。事業場は二瀬・北松の石炭、釜石・北海道・赤谷の鉄と石灰石、井倉・畑・津久見・船尾・葛生の珪石とドロマイトの10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員は12,000名を数えた。生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどを富士製鉄と八幡製鉄の2社へ納めた。1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し日鉄鉱業が351,980瓲を占め、全国比は43.6%に達した。

  • 証券 1954年
    • [36]日鉄鉱業は1954年3月3日に新規上場した(東京証券取引所第一部に上場)
    • [37]上場時の資本金248,000千円、上場株式数4,960千株、大株主は八幡製鉄621,000株・富士製鉄579,000株・関東証券493,564株ほか
    • [38]事業場は二瀬・北松(石炭)、釜石・北海道・赤谷(鉄、石灰石)、井倉・畑・津久見・船尾・葛生(珪石、ドロマイト)の10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員12,000名
    • [39]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
    • [40]1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し当社351,980瓲、全国比43.6%
参考文献[28]-[40]
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [28]終戦後より1946年末までは、敗戦に伴う一般的な政治経済情勢と決定的な要因としての石炭供給不足により、製鉄業は未曾有の減産に陥った
    • [29]普通圧延鋼材は1945年に40万瓲、1946年に32万瓲となり、当社の鉄鉱石ならびに石灰石・硅石等の副原料部門の需要は激減した
    • [30]1947年4月から2か月にわたり釜石鉱山は慢性的な怠業状況を呈し、各月の生産計画24千瓲に対して4月実績3,154瓲、5月実績4,245瓲だった
    • [31]1947年6月に怠業状態が終わり、7月10日に鉱石価格が260円から460円(Fe48%)へ引き上げられ、1948年6月23日に949円(Fe50%)へ改訂されて鉄鉱石部門は立ち直った
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1943年2月に東鹿越採石所、1950年8月に井倉採石所、1950年10月に津久見採石所、1950年12月に船尾採石所を開設
    • [33]1951年10月に羽鶴鉱業所を開設、1951年11月に関東証券株式会社の経営に参画
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [34]1951年以降、北海道鉱業所において白老・赤沼・本竜(鉄鉱石)等の各鉱山を開設し、虻田地区の硫化鉱(埋蔵量500万屯)の開発に乗り出した
    • [35]石炭部門で北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱の重液選炭設備を拡充し、二瀬潤野鉱のバウム水洗機(100屯)および中央鉱の運搬合理化一連工事を完成した
  • 証券 1954年
    • [36]日鉄鉱業は1954年3月3日に新規上場した(東京証券取引所第一部に上場)
    • [37]上場時の資本金248,000千円、上場株式数4,960千株、大株主は八幡製鉄621,000株・富士製鉄579,000株・関東証券493,564株ほか
    • [38]事業場は二瀬・北松(石炭)、釜石・北海道・赤谷(鉄、石灰石)、井倉・畑・津久見・船尾・葛生(珪石、ドロマイト)の10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員12,000名
    • [39]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
    • [40]1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し当社351,980瓲、全国比43.6%

出典・参考

8件
出典・参考
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
  • 証券 1954年

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