第2章 年〜年

日鉄鉱業:伊王島鉱業所の閉山による石炭生産からの撤退

有明開発の中断から鳥形山・日比共同製錬への資源配分

1955年〜重油攻勢のもとで縮んだ石炭と、幸袋工作所による機械事業への足がかり

石炭に6割を預けた収益構造

1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%で、収益の3分の2を石炭が担っていた。掘った原料のほとんどは日本製鐵を分割した八幡製鉄と富士製鉄へ納めており、製鉄用原料の供給に特化した体制は創立時のまま残っていた。石炭が売れるかぎり安定を約束する体制だが、燃料の主役が代われば逃げ場がない。1961年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、石炭は重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった。1962年には原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた。1963年度までに炭価を1,200円引き下げる合理化計画も、重油価格の大幅な低下には追いつかなかった。

  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [1]1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%
  • 証券 1954年
    • [2]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
    • [3]石炭は関連産業の需要不振に加え、昭和36年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、エネルギー源としての重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった
    • [5]昭和38年度までの炭価1,200円引き下げ目標の合理化計画は、世界的な重油供給過剰傾向、海上運賃の低迷、自由化を目前にした国内石油各社の激しいシェア争いなどの結果、重油価格が大幅に低下して到底石炭の太刀打ちできるものではなかった
  • 資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも」
    • [4]昭和37年(1962年)に原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた
発祥の二瀬を閉じる

政府は1962年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、11月、目標年次1967年度の生産規模5,500万t、閉山年産規模累計約1,200万tという合理化を目指す石炭対策大綱を決定した。これが第1次石炭対策だが、結局は閉山促進の効果しかもたらさなかった。日鉄鉱業では1961年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、8月までに希望退職者を含む266名が退職している。1962年12月には炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、1963年1月15日、二瀬鉱業所を廃止した。1899年12月に官営製鉄所二瀬出張所として発足してから64年、総出炭量は4,500万3,000tに達していた。石炭の売上構成比は1960年3月期の60.2%から1962年3月期には49.2%へ低下した。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
    • [6]政府は昭和37年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、その答申をまって11月に目標年次42年度の生産規模5,500万t、生産能率38.6t、閉山年産規模累計約1,200万tという大規模な合理化を目指す「石炭対策大綱」を決定した
    • [7]これが第1次石炭対策であり、その後の相次ぐ政府の石炭対策の先導をつとめたが、それも結局は閉山促進効果しかもたらさなかった
    • [8]昭和36年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、6月に日職連と臨時労使協議会を開催して人員整理を提案、8月には希望退職者を含め266名が退職した
    • [9]昭和37年12月、減員進捗による保安面への影響と予期しない炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、38年1月15日に二瀬鉱業所を廃止した
    • [10]明治32年12月の官営製鉄所二瀬出張所としての発足以来64年、二瀬鉱業所の総出炭量は4,500万3,000t
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [11]石炭の売上構成比は1960年3月期60.2%、1962年3月期49.2%
炭鉱機械の会社を製鉄用機械へ振り替える

1956年5月、日鉄鉱業は炭鉱機械メーカーであった幸袋工作所へ資本参加し、機械事業へ進出した。幸袋工作所は明治20年代から炭鉱機械を製造してきた会社で、経営への参画は同社の要請によるものだった。ただし石炭が縮めば炭鉱機械も縮む。1959年には主力製品を製鉄用機械、とくにコークス炉の炉回り機械とライン装置機械へ移し、八幡製鉄所からの幹部派遣も求めて受注の拡大を図った。1963年5月には再度の要請を受けて全面的に経営を引き受けている。売上額は1960年代半ばに年間30億円前後まで伸び、その80〜90%を圧延関係を含む製鉄用機械が占めた。掘る会社が作る会社を抱えたのは、石炭という鉱種ではなく製鉄という取引先に軸足を残す選び方だったのだろう。

  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1956年5月、炭鉱機械メーカーであった㈱幸袋工作所に資本参加することにより機械事業へ進出
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「幸袋工作所の経営」
    • [13]明治20年代から炭鉱機械を製造してきた株式会社幸袋工作所については、その要請により昭和31年5月に経営に参画した
    • [14]昭和34年に主力製品を製鉄用機械、特にコークス炉の炉回り機械及びライン装置機械に移行させ、八幡製鉄所の幹部の派遣も求めて受注の拡大を図った
    • [15]再び要請を受けて昭和38年5月に幸袋工作所の経営を全面的に引き受けた
    • [16]幸袋工作所の売上額は昭和40年代の半ばには年間30億円前後にまで伸び、その80〜90%は圧延関係を含めた製鉄用機械が占めている
参考文献[1]-[16]
  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [1]1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%
  • 証券 1954年
    • [2]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
    • [3]石炭は関連産業の需要不振に加え、昭和36年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、エネルギー源としての重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった
    • [5]昭和38年度までの炭価1,200円引き下げ目標の合理化計画は、世界的な重油供給過剰傾向、海上運賃の低迷、自由化を目前にした国内石油各社の激しいシェア争いなどの結果、重油価格が大幅に低下して到底石炭の太刀打ちできるものではなかった
    • [6]政府は昭和37年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、その答申をまって11月に目標年次42年度の生産規模5,500万t、生産能率38.6t、閉山年産規模累計約1,200万tという大規模な合理化を目指す「石炭対策大綱」を決定した
    • [7]これが第1次石炭対策であり、その後の相次ぐ政府の石炭対策の先導をつとめたが、それも結局は閉山促進効果しかもたらさなかった
    • [8]昭和36年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、6月に日職連と臨時労使協議会を開催して人員整理を提案、8月には希望退職者を含め266名が退職した
    • [9]昭和37年12月、減員進捗による保安面への影響と予期しない炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、38年1月15日に二瀬鉱業所を廃止した
    • [10]明治32年12月の官営製鉄所二瀬出張所としての発足以来64年、二瀬鉱業所の総出炭量は4,500万3,000t
  • 資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも」
    • [4]昭和37年(1962年)に原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [11]石炭の売上構成比は1960年3月期60.2%、1962年3月期49.2%
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1956年5月、炭鉱機械メーカーであった㈱幸袋工作所に資本参加することにより機械事業へ進出
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「幸袋工作所の経営」
    • [13]明治20年代から炭鉱機械を製造してきた株式会社幸袋工作所については、その要請により昭和31年5月に経営に参画した
    • [14]昭和34年に主力製品を製鉄用機械、特にコークス炉の炉回り機械及びライン装置機械に移行させ、八幡製鉄所の幹部の派遣も求めて受注の拡大を図った
    • [15]再び要請を受けて昭和38年5月に幸袋工作所の経営を全面的に引き受けた
    • [16]幸袋工作所の売上額は昭和40年代の半ばには年間30億円前後にまで伸び、その80〜90%は圧延関係を含めた製鉄用機械が占めている

1958年〜有明炭鉱に投じた100億円と、私企業の限界という中断理由

海を埋めて竪坑を打つ

有明炭鉱の探査は1952年4月に始まり、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した。炭層はほぼ水平で理論可採埋蔵炭量は約4億t、炭質は硫黄分のきわめて少ない粘結性の瀝青炭で、原料炭として最適とみられていた。ただし鉱区は全部が海底にあり、軟弱な第四紀層が厚く積もっているため、陸上の炭鉱と同じ開発はできない。海を埋め立てて陸地を造り、竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を延ばす方式を採っている。基礎的な開発費が多額になるため、最初から年産200万t計画という規模で設計された。人工島は1958年10月に着手し、予定より7か月早く1960年3月に竣工して、工事費は約4億2,000万円を要した。埋立はその後も拡張され、総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円に達した。

  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [17]有明炭鉱は昭和27年4月に探査を開始し、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した
    • [18]炭層の傾斜は5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は粘結性の瀝青炭で硫黄分がきわめて少なく原料炭として最適
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発基本計画の概要(第1次基本計画)」
    • [19]鉱区は全部が海底であり軟弱な第四紀層が厚いため、海を埋め立てて陸地を造り竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を進める方式を採った
    • [20]基礎的な開発費が余りに多額なため、普通の陸上炭鉱のような小規模では到底成立たず、最初から年産200万t計画という大がかりなものになった
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「人工島の築造とその拡張」
    • [21]昭和33年10月に人工島の構築に着手し、予定より7か月早い35年3月に竣工した。工事費は約4億2,000万円
    • [22]拡張を重ねた有明の埋立の総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円
水が工期と工費を膨らませる

1965年11月の時点でも、第1立坑は367m、第2立坑は309mまでしか掘り進めていなかった。井筒が岩盤に達してから出水が工事を阻み、坑底から50〜60mの長孔をさく岩して薬液で止水し、そのうえで掘るという手順を重ねていた。見学した技術者は、200万t出炭時に毎分30〜40tの排水が要るとすれば、ポンプの電力費だけで少なくとも年1億円に上ると見積もった。1966年9月、現地から従来の計画では到底行けないという見方が上がった。毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3で見込まねばならず、1972年に120万t出炭・総工費180億円としていた計画は、出炭が1975年から1976年へずれ、総工費は100億円程度増えるという見通しに変わった。

  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [23]第1立坑は排気・原炭搬出用、第2立坑は内径7.5m・深さ377mで入気・人員材料搬入用、工事は前者が367m、後者が309mまで進捗(1965年11月3日の見学時点)
    • [24]立坑開さくで井筒が岩盤に到達して以後、出水のため工事が難行した
    • [25]坑底より50〜60mの長孔さく岩を行い、薬液注入で止水してから掘さくした
    • [26]同行者の概算で、200万t出炭時に排水量を30〜40t/minとすると、ポンプの電力費だけで年間1億円を下らない
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
    • [27]前年の9月に有明の現地から、従来の計画ではとても行けそうもないという見方が出た
    • [28]毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3と見込まねばならず、昭和47年に120万t出炭・総工費180億円という計画は、出炭が50年か51年になり総工費も100億円程度増えるという見通しに変わった
私企業の限界と決めて石炭をやめる

1967年12月2日の役員会で、有明開発工事の一時中断の方針が決まった。着手から15年余、投下した資金は100億円近くに達し、全社従業員の明日の希望と目されていた事業である。中断の理由は、石炭の現況が既に私企業の限界にきていて将来の見通しが全然たたないこと、そして坑内の状況が予想したより悪く、工期も延び金もかかることの二つだった。残る炭鉱も続かなかった。1970年3月10日、嘉穂炭鉱が累積赤字8億円のなかで閉山する。伊王島では労務者の充足難が続き、第4区の炭量も確保できず、社内各部門の収益による赤字補填も限度に達した。1972年3月、伊王島と柚木は同時に閉山し、同年6月、日鉄鉱業は石炭生産部門から撤退した。1899年の二瀬出張所から数えて73年続いた祖業が、ここで終わっている。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
    • [29]昭和42年12月2日の役員会において、有明開発工事の一時中断の方針を決定した
    • [30]開発に着手して既に15年余を経過し、その間100億円近い資金を投下して全社従業員の明日の希望と目されていた有明炭鉱開発だった
    • [31]中断の理由は、石炭の現況がすでに私企業の限界にきていることと将来の見透しが全然たたないこと、坑内の状況が予想したより悪く工期も延び金もかかることの二つ
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「嘉穂の斉々たる閉山」
    • [32]嘉穂炭鉱は累積赤字8億円の中での炭量枯渇により、昭和45年3月10日をもって閉山した
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「伊王島・柚木も閉山」
    • [33]伊王島では依然労務者の充足難に苦しみ、第4区の炭量も確保できずに不安定な生産を続けており、同炭鉱への社内各部門からの収益による赤字補塡も限度となった
    • [34]伊王島炭鉱と柚木炭鉱は昭和47年3月に同時閉山した
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1972年6月、伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退
参考文献[17]-[35]
  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [17]有明炭鉱は昭和27年4月に探査を開始し、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した
    • [18]炭層の傾斜は5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は粘結性の瀝青炭で硫黄分がきわめて少なく原料炭として最適
    • [23]第1立坑は排気・原炭搬出用、第2立坑は内径7.5m・深さ377mで入気・人員材料搬入用、工事は前者が367m、後者が309mまで進捗(1965年11月3日の見学時点)
    • [24]立坑開さくで井筒が岩盤に到達して以後、出水のため工事が難行した
    • [25]坑底より50〜60mの長孔さく岩を行い、薬液注入で止水してから掘さくした
    • [26]同行者の概算で、200万t出炭時に排水量を30〜40t/minとすると、ポンプの電力費だけで年間1億円を下らない
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発基本計画の概要(第1次基本計画)」
    • [19]鉱区は全部が海底であり軟弱な第四紀層が厚いため、海を埋め立てて陸地を造り竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を進める方式を採った
    • [20]基礎的な開発費が余りに多額なため、普通の陸上炭鉱のような小規模では到底成立たず、最初から年産200万t計画という大がかりなものになった
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「人工島の築造とその拡張」
    • [21]昭和33年10月に人工島の構築に着手し、予定より7か月早い35年3月に竣工した。工事費は約4億2,000万円
    • [22]拡張を重ねた有明の埋立の総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
    • [27]前年の9月に有明の現地から、従来の計画ではとても行けそうもないという見方が出た
    • [28]毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3と見込まねばならず、昭和47年に120万t出炭・総工費180億円という計画は、出炭が50年か51年になり総工費も100億円程度増えるという見通しに変わった
    • [29]昭和42年12月2日の役員会において、有明開発工事の一時中断の方針を決定した
    • [30]開発に着手して既に15年余を経過し、その間100億円近い資金を投下して全社従業員の明日の希望と目されていた有明炭鉱開発だった
    • [31]中断の理由は、石炭の現況がすでに私企業の限界にきていることと将来の見透しが全然たたないこと、坑内の状況が予想したより悪く工期も延び金もかかることの二つ
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「嘉穂の斉々たる閉山」
    • [32]嘉穂炭鉱は累積赤字8億円の中での炭量枯渇により、昭和45年3月10日をもって閉山した
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「伊王島・柚木も閉山」
    • [33]伊王島では依然労務者の充足難に苦しみ、第4区の炭量も確保できずに不安定な生産を続けており、同炭鉱への社内各部門からの収益による赤字補塡も限度となった
    • [34]伊王島炭鉱と柚木炭鉱は昭和47年3月に同時閉山した
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1972年6月、伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退

1968年〜石灰石・砕石への集中と、日比共同製錬による銅製錬への進出

伸ばす事業を石灰石と砕石に集中する

1968年1月の所長会議で、小林社長は有明開発の中断経緯に触れたのち、今後の方向を示した。鉄鉱石・硫化鉱・硫黄にも大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い以上、将来伸ばしていけるのは石灰石と砕石以外にないという判断である。石類は年産約1,000万tを採掘しており、これを2,000万tへ引き上げる。高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産と砕石を加える筋書きだった。日鉄鉱業は10年以上、年6億〜8億円を投じて非鉄金属の探鉱を続けていたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社であるため有望な鉱区を持たず、無いところを探しても見つからないのではないかという疑いが社長にはあった。石灰石の売上構成比は1955年3月期の4.5%から1966年3月期に16.1%、1970年3月期には20.3%へ上がった。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
    • [36]昭和43年1月の所長会議の冒頭において、小林社長は有明炭鉱開発の中断経緯に詳しく触れたのち今後の方向を述べた
    • [37]鉄鉱石・硫化鉱・硫黄についても大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い現状で、将来伸ばしていくのは石灰石、砕石以外にないと小林社長が述べた
    • [38]石類は年産約1,000万屯を採掘しており、できるならこれを2,000万屯に持っていきたいと小林社長が述べた
    • [39]具体的には高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産や砕石を加える
    • [40]日鉄鉱業は10年以上、年に6億〜8億円程度を使って毎年非鉄金属の探鉱をしてきたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社だったため他の非鉄金属会社に比べて有望な鉱区をもっておらず、ないところをいくら探しても見つからないのではないかと小林社長は述べた
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [41]石灰石の売上構成比は1955年3月期4.5%、1962年3月期11.9%、1966年3月期16.1%、1970年3月期20.3%
君津の高炉に間に合わせる

鳥形山の開発は1967年12月に決定し、生産開始を1971年度、第1期計画を第1年次320万t、第3年次以降520万tと定めた。1969年3月に本格的な開発工事へ入り、工期をわずか2年に絞ったのは、君津製鉄所の稼働に合わせてタイムリミットを設けたためである。同製鉄所は1971年9月に予定された第3高炉の火入れで、一挙に年産1,000万t体制へ上がることになっていた。所要石灰石の全量供給を引き受けていた以上、遅れは許されない。完成までは津久見と尻屋の2山から応援送鉱を行い、1968年度から1972年度までに合計236万7,518tを振り向けた。1971年4月、鳥形山鉱業所が開設される。高度成長で各産業の生産設備が大型化し、石灰石とドロマイトの需要が急激に拡大した時期である。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発決定までの事情」
    • [42]鳥形山の開発計画は昭和42年12月に決定し、生産開始は昭和46年度より、第1期計画は第1年次320万t、第2年次480万t、第3年次以降520万t
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
    • [43]昭和44年3月から本格的開発工事を開始し、46年出鉱を目標にわずか2年間という短期間に工期をしぼったのは、ひたすら君津製鉄所の稼働状況に合わせてタイムリミットを設けたためであった
    • [44]君津製鉄所は昭和46年9月に予定される第3高炉の火入れによって一挙に年産1,000万t体制にスケールアップすることとなっていた
    • [45]鳥形山完成までの間、君津製鉄所向け石灰石を津久見・尻屋の2山からの応援送鉱でカバーし、昭和43年度から47年度までの合計は2,367,518t
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1971年4月、鳥形山鉱業所を開設
  • 資源処理技術 1989年「特別講演 日本の石灰石および砕石の現状と将来」(菊池登・佐藤敏人)
    • [47]昭和40年代に日本経済の高度成長期に入り、各産業共生産設備の大型化が積極的に推進され、旺盛な需要に応えて石灰石、ドロマイトとも需要が急激に拡大した
銅を掘るだけでなく製錬まで持つ

1968年11月1日、日鉄鉱業は三井金属鉱業との共同出資で日比共同製錬を設立した。1971年10月1日に古河鉱業が加わり、翌1972年1月22日に玉野製錬所が操業を開始した。操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年だった。銅精鉱を売る側から、製錬して地金にする側へ参入した。銅鉱石の売上構成比は1955年3月期の5.5%から1970年3月期の20.4%へ上がり、鉄鉱石10.3%を超えた。釜石鉱山は低品位の鉄が主体で、鉄鉱石のみでは大幅赤字が避けられなかった。オイルショック後の1974年に赤字へ転落するまで収益を保てたのは、鉄と銅の2本の柱があったからである。1955年3月期に90億円だった売上高は、1978年3月期には576億円になっている。掘る鉱種を入れ替えることで、製鉄原料の供給者という立場は変えずに済ませたのだろう。

  • 資源と素材 1993年「玉野製錬所における銅製錬(日比共同製錬(株))」(佐々木健次)
    • [48]日比共同製錬(株)は昭和43年11月1日、三井金属鉱業(株)と日鉄鉱業(株)の共同出資により設立
    • [49]昭和46年10月1日に古河鉱業(株)が参加し、昭和47年1月22日に玉野製錬所の操業を開始
    • [50]操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年、粗銅101,000t/年、硫酸285,000t/年
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [51]銅鉱石の売上構成比は1955年3月期5.5%、1970年3月期20.4%(同期の鉄鉱石は10.3%)
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「閉山提案とその実施」
    • [52]釜石鉱山は低品位でしかも坑内採掘のうえ選鉱を要するため、鉄鉱石のみの生産では大幅赤字が避けられなかった
    • [53]オイルショック後の昭和49年に赤字に転落するまで収益を維持し得たのは、銅鉱床の開発により鉄と銅という二本の柱があってこそだった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [54]1978年3月期の売上高576億円、経常利益8億円(単体)
参考文献[36]-[54]
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
    • [36]昭和43年1月の所長会議の冒頭において、小林社長は有明炭鉱開発の中断経緯に詳しく触れたのち今後の方向を述べた
    • [37]鉄鉱石・硫化鉱・硫黄についても大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い現状で、将来伸ばしていくのは石灰石、砕石以外にないと小林社長が述べた
    • [38]石類は年産約1,000万屯を採掘しており、できるならこれを2,000万屯に持っていきたいと小林社長が述べた
    • [39]具体的には高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産や砕石を加える
    • [40]日鉄鉱業は10年以上、年に6億〜8億円程度を使って毎年非鉄金属の探鉱をしてきたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社だったため他の非鉄金属会社に比べて有望な鉱区をもっておらず、ないところをいくら探しても見つからないのではないかと小林社長は述べた
    • [43]昭和44年3月から本格的開発工事を開始し、46年出鉱を目標にわずか2年間という短期間に工期をしぼったのは、ひたすら君津製鉄所の稼働状況に合わせてタイムリミットを設けたためであった
    • [44]君津製鉄所は昭和46年9月に予定される第3高炉の火入れによって一挙に年産1,000万t体制にスケールアップすることとなっていた
    • [45]鳥形山完成までの間、君津製鉄所向け石灰石を津久見・尻屋の2山からの応援送鉱でカバーし、昭和43年度から47年度までの合計は2,367,518t
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [41]石灰石の売上構成比は1955年3月期4.5%、1962年3月期11.9%、1966年3月期16.1%、1970年3月期20.3%
    • [51]銅鉱石の売上構成比は1955年3月期5.5%、1970年3月期20.4%(同期の鉄鉱石は10.3%)
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発決定までの事情」
    • [42]鳥形山の開発計画は昭和42年12月に決定し、生産開始は昭和46年度より、第1期計画は第1年次320万t、第2年次480万t、第3年次以降520万t
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1971年4月、鳥形山鉱業所を開設
  • 資源処理技術 1989年「特別講演 日本の石灰石および砕石の現状と将来」(菊池登・佐藤敏人)
    • [47]昭和40年代に日本経済の高度成長期に入り、各産業共生産設備の大型化が積極的に推進され、旺盛な需要に応えて石灰石、ドロマイトとも需要が急激に拡大した
  • 資源と素材 1993年「玉野製錬所における銅製錬(日比共同製錬(株))」(佐々木健次)
    • [48]日比共同製錬(株)は昭和43年11月1日、三井金属鉱業(株)と日鉄鉱業(株)の共同出資により設立
    • [49]昭和46年10月1日に古河鉱業(株)が参加し、昭和47年1月22日に玉野製錬所の操業を開始
    • [50]操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年、粗銅101,000t/年、硫酸285,000t/年
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「閉山提案とその実施」
    • [52]釜石鉱山は低品位でしかも坑内採掘のうえ選鉱を要するため、鉄鉱石のみの生産では大幅赤字が避けられなかった
    • [53]オイルショック後の昭和49年に赤字に転落するまで収益を維持し得たのは、銅鉱床の開発により鉄と銅という二本の柱があってこそだった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [54]1978年3月期の売上高576億円、経常利益8億円(単体)

筆者考察

日鉄鉱業が1970年代に生き延びたのは、掘る場所を変えたからではなく、掘る鉱種を入れ替えたからである。1955年3月期に売上の65.0%を占めた石炭は、製鉄所へ原料を納めるという創立以来の役割そのものだった。その石炭が重油に置き換えられたとき、会社に残された道は二つしかない。石炭で粘るか、同じ製鉄所に別のものを納めるか。有明炭鉱に投じた100億円は前者の答えであり、15年をかけて海底炭田に竪坑を打ち続けた末、出水と工費の膨張を前に1967年12月に中断された。この失敗の重さが、後者を選ぶ理由を会社の内側に作った。

1968年1月、小林社長が所長会議で示した方針は、探鉱の的を絞り直すというものだった。非鉄金属に年6億〜8億円を投じても有望な鉱区は出ない、製鉄原料の鉱山会社という生い立ちがそもそも当たりを引きにくくしている、という自己診断である。代わりに選ばれた石灰石と砕石は、鉄鋼の増産がそのまま需要になる鉱種だった。鳥形山の工期を2年に絞った理由が君津製鉄所の第3高炉の火入れに間に合わせることだったのは、この会社が誰に向かって商売しているかを何より正確に示している。納める相手は変えず、納めるものだけを石炭から石灰石と銅へ替えた。

売上に占める石炭の比率 1955年3月期〜1970年3月期(単体)(%)

65 55年3月期 60.2 60年3月期 49.2 62年3月期 33.1 66年3月期 22 70年3月期
  • 出所は上場会社総覧 1956年版・会社年鑑 1971年版。

1955年〜1978年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1955年03月期 単体 90 n/a 7 n/a 4 4.4% n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 130 n/a 15 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 152 +16.9% 10 n/a n/a n/a 八茎鉱業所を開設(1957/04)
1959年03月期 単体 132 ▲13.2% n/a n/a 3 2.3% n/a
1960年03月期 単体 140 +6.1% n/a n/a 3 2.1% n/a
1961年03月期 単体 155 +10.7% n/a n/a 7 4.5% n/a
1962年03月期 単体 151 ▲2.6% n/a n/a 3 2.0% n/a
1963年03月期 単体 149 ▲1.3% n/a n/a 5 3.4% n/a
1964年03月期 単体 159 +6.7% n/a n/a 8 5.0% n/a
1965年03月期 単体 166 +4.4% n/a n/a 6 3.6% 長尾山採石所を開設(1964/07)
1966年03月期 単体 180 +8.4% n/a n/a 7 3.9% 久原採石所を開設(1965/10)
1967年03月期 単体 205 +13.9% n/a n/a 16 7.8% n/a
1968年03月期 単体 215 +4.9% n/a n/a 15 7.0% n/a
1969年03月期 単体 234 +8.8% n/a n/a 9 3.8% n/a
1970年03月期 単体 272 +16.2% n/a n/a 14 5.1% n/a
1971年03月期 単体 260 ▲4.4% n/a 16 15 5.8% n/a
1972年03月期 単体 269 +3.5% n/a 6 6 2.2% n/a
1973年03月期 単体 314 +16.7% n/a 5 4 1.3% n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a イラン・カレザリ銅鉱山の操業を開始(1975/03)
1976年03月期 単体 512 n/a n/a 9 4 0.8% n/a
1977年03月期 単体 563 +10.0% n/a 27 6 1.1% n/a
1978年03月期 単体 576 +2.3% n/a 8 5 0.9% n/a

出所:上場会社総覧、会社年鑑

出典・参考

19件
出典・参考
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「幸袋工作所の経営」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発基本計画の概要(第1次基本計画)」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「人工島の築造とその拡張」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「嘉穂の斉々たる閉山」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「伊王島・柚木も閉山」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発決定までの事情」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「閉山提案とその実施」
  • 上場会社総覧(1956年版)
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 証券 1954年
  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
  • 資源処理技術 1989年「特別講演 日本の石灰石および砕石の現状と将来」(菊池登・佐藤敏人)
  • 資源と素材 1993年「玉野製錬所における銅製錬(日比共同製錬(株))」(佐々木健次)
  • 資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも」

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