第1章 年〜年

ロッテ:ロッテの創業と新宿チューインガム工場の完成

1948年〜ポマードから転じた大久保の借家のガムと、400~500社から抜け出す新宿の工場

重光武雄氏は1946年、『食べていくため』に「ひかり特殊化学研究所」を起こし、ポマードとクリームなど化粧品の製造を始めた。1922年に韓国の蔚山で生まれた重光武雄氏は、技術者を志して16歳で上京し、早稲田で化学を専攻した。学生時代には進駐軍から得たガムを2つ3つに切り分けて包み直し、高田馬場や新大久保の駅頭で売って学費を稼いだ。翌1947年には、駅頭の商いで売れ行きを知ったガムの製造に転じた。1948年6月、資本金100万円でロッテ株式会社を設立した。製造は化学の素養で補え、ガムが売れる手応えは駅頭の商いで先に得ており、その両方が化粧品から菓子への転換を後押ししたとみられる。

  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [1]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [2]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [5]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [6]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
  • Decide 4(7)(33) 1986年
    • [3]技術者として身を立てるため上京。学生時代、進駐軍のガムを細かく切って包み直し高田馬場・新大久保の駅頭で売るアルバイトをした。早稲田で化学を専攻し、卒業後はアパートで石鹸・ポマードを製造
    • [4]技術者として身を立てるため上京。学生時代、進駐軍のガムを細かく切って包み直し高田馬場・新大久保の駅頭で売るアルバイトをした。早稲田で化学を専攻し、卒業後はアパートで石鹸・ポマードを製造
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
    • [7]ロッテ株式会社は1948年6月に資本金100万円で設立

1948年、24歳の重光武雄氏は大久保の借家で見よう見まねのガム作りを始め、昼に作ったガムを夜の盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社に上り、ほとんどが重光武雄氏と同じ家内工業か、それに近い規模の零細業者だった。やがてハリスが群小メーカーから抜け出して最大手となり、重光武雄氏はハリスを追う目標に定めた。ロッテの主力は子ども向けの風船ガムで、大人向けの板ガムではハリスの後塵を拝した。ガムは進駐軍とともに入ってきた米国の文化で、創業当時は作れば作っただけ売れた。作り手が乱立しても需要が供給を上回り、売り歩く量がそのまま事業の大きさを決めたのだろう。

  • Decide 4(7)(33) 1986年
    • [8]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [9]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [10]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [12]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [11]業界では「板ガムはハリス、ロッテは風船ガム」と言われ、ロッテは子供向け風船ガムが主力で、ハリスの後塵を拝していた
  • 政経人 23(4) 1976年4月「インタビュー――韓国最大のホテル建設で民間外交の絆を 重光武雄」
    • [13]重光武雄氏によれば、創立当時(1948年)は物を作ればいくらでも売れた時代だった

ロッテはチューインガムの量産拠点を、創業の地の大久保に近い新大久保駅のそばの新宿工場に置いた。本社も工場と同じ東京都新宿区の百人町に構えた。創業当時は作った品が端から売れる時代で、ガム製造に着手して以降、事業はほぼ挫折なく拡大を続けた。1958年ごろには、大久保の借家で始めた事業から従業員400~500人を抱える企業に成長した。新宿工場はその後ロッテのガムを一手に生産する工場となり、ピークの1960年代末には2000人近い従業員を抱えた。借家での手作りでは作る端から売れる需要に対して生産量が追いつかず、売り歩いて得た資金を工場に投じて量産へ移ったと推察される。

  • 日経ビジネス 1989年8月28日
    • [14]ガムを一手に生産する新宿工場は新大久保駅に近い。1989年から20年前のピーク時に2000人近い従業員がいた
    • [19]ガムを一手に生産する新宿工場は新大久保駅に近い。1989年から20年前のピーク時に2000人近い従業員がいた
  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [15]ロッテの本社は東京都新宿区百人町
  • Decide 4(7)(33) 1986年
    • [16]ガムは作る後から売れ、ガム製造を始めてから事業はほとんど挫折なく伸長。1958年ごろ東京のロッテは従業員400~500人の企業になっていた
    • [18]ガムは作る後から売れ、ガム製造を始めてから事業はほとんど挫折なく伸長。1958年ごろ東京のロッテは従業員400~500人の企業になっていた
  • 政経人 23(4) 1976年4月「インタビュー――韓国最大のホテル建設で民間外交の絆を 重光武雄」
    • [17]重光武雄氏によれば、創立当時は物を作ればいくらでも売れた
参考文献[1]-[19]
  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [1]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [2]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [5]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [6]重光武雄氏は1922年10月韓国蔚山生まれ、16歳で上京し早稲田高等学院に通う。1946年に「ひかり特殊化学研究所」を起こしポマード・クリームを生産、翌年ガムに転じ1948年にロッテを設立
    • [11]業界では「板ガムはハリス、ロッテは風船ガム」と言われ、ロッテは子供向け風船ガムが主力で、ハリスの後塵を拝していた
    • [15]ロッテの本社は東京都新宿区百人町
  • Decide 4(7)(33) 1986年
    • [3]技術者として身を立てるため上京。学生時代、進駐軍のガムを細かく切って包み直し高田馬場・新大久保の駅頭で売るアルバイトをした。早稲田で化学を専攻し、卒業後はアパートで石鹸・ポマードを製造
    • [4]技術者として身を立てるため上京。学生時代、進駐軍のガムを細かく切って包み直し高田馬場・新大久保の駅頭で売るアルバイトをした。早稲田で化学を専攻し、卒業後はアパートで石鹸・ポマードを製造
    • [8]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [9]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [10]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [12]1948年、24歳で見よう見まねで大久保の借家でガムを作り、昼夜を問わず作っては盛り場で売り歩いた。当時のガムメーカーは400~500社の零細業者で、やがて最大手となるハリスを目標にした。ガムは作る後から売れた
    • [16]ガムは作る後から売れ、ガム製造を始めてから事業はほとんど挫折なく伸長。1958年ごろ東京のロッテは従業員400~500人の企業になっていた
    • [18]ガムは作る後から売れ、ガム製造を始めてから事業はほとんど挫折なく伸長。1958年ごろ東京のロッテは従業員400~500人の企業になっていた
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
    • [7]ロッテ株式会社は1948年6月に資本金100万円で設立
  • 政経人 23(4) 1976年4月「インタビュー――韓国最大のホテル建設で民間外交の絆を 重光武雄」
    • [13]重光武雄氏によれば、創立当時(1948年)は物を作ればいくらでも売れた時代だった
    • [17]重光武雄氏によれば、創立当時は物を作ればいくらでも売れた
  • 日経ビジネス 1989年8月28日
    • [14]ガムを一手に生産する新宿工場は新大久保駅に近い。1989年から20年前のピーク時に2000人近い従業員がいた
    • [19]ガムを一手に生産する新宿工場は新大久保駅に近い。1989年から20年前のピーク時に2000人近い従業員がいた

1954年〜天然チクルの板ガムで挑んだハリスと、懸賞1000万円のセール

ロッテは1950年代半ば、天然チクルを基材にした板ガムで、大人向けの本命市場へ本格的に参入した。業界の色分けは『板ガムはハリス、ロッテは風船ガム』で、ガムの代名詞はハリスだった。1955年前後から菓子の好みが甘さ一辺倒から変わり、ガムの需要は伸びが鈍り始めた。戦後の国産ガムは天然チクルを輸入できず、基材には酢酸ビニール樹脂を用いた。菓子の中でガムの品質を決める核心は、噛み心地にある。噛み心地では天然チクルとの差が大きく、板ガムで首位を獲得しなければハリスとの差は縮まらない局面にあった。需要が頭打ちに向かう中、噛み心地の差を品質として打ち出せる天然チクルは、後発が本命市場に参入する数少ない手段と思われる。

  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [20]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [21]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [23]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [24]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [25]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [26]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
    • [22]当時、ガムといえばハリスで、ハリスはガムの代名詞のようになっていた

ロッテは「天然チクルのロッテ」を広告で前面に押し出し、噛み心地の違いを消費者に訴えた。広告と並行して、販売量に応じて問屋と小売店の利幅を増やす価格政策を組み合わせ、時期によっては利益より売上高の増加を優先した。品目は先発の上位企業と同じ型の商品を次々に重ね、業界からはコピーメーカーとの批判も受けた。1950年代末に出した「グリーンガム」と「クールミントガム」は、1989年時点で2品種合わせて年商2百数十億円の主力商品に育った。1967年には、ガムと言えばロッテと評されるまでに業界の立場が入れ替わった。品質を広告で言い切り、利幅で流通を動かす二本立てが、後発の差別化要因になったと言えそうだ。

  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [27]天然チクルのロッテを徹底して広告宣伝し、販売量に応じて問屋・小売店のマージンを増やす価格政策と組み合わせた。先進上位企業に追い付け追い抜けで同じパターンの品目を広げ、コピーメーカーと指弾された
    • [28]天然チクルのロッテを徹底して広告宣伝し、販売量に応じて問屋・小売店のマージンを増やす価格政策と組み合わせた。先進上位企業に追い付け追い抜けで同じパターンの品目を広げ、コピーメーカーと指弾された
    • [29]天然チクルのロッテを徹底して広告宣伝し、販売量に応じて問屋・小売店のマージンを増やす価格政策と組み合わせた。先進上位企業に追い付け追い抜けで同じパターンの品目を広げ、コピーメーカーと指弾された
  • 日経ビジネス 1989年8月28日
    • [30]1989年時点で約30年前に発売した「クールミントガム」「グリーンガム」の2品種で年商2百数十億円
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
    • [31]1967年時点で、ガムと言えばロッテと言われるようになっていた

1961年、ロッテは1000万円の懸賞を付けた天然チクルセールを打ち、同じ年に「レディ・ホーム・プロパー」(LHP)を発足させた。菓子は問屋を通じて全国50万店へ流れるのが通例で、メーカーと小売店の間の流れは滞りやすく、ハリスの販路も問屋が担った。LHPではパートタイムの主婦が小売店を巡って販売促進と情報収集にあたり、タバコ店や薬局、浴場、ガソリンスタンドにまで販路を開拓した。1959年から1961年の3年間で、業界全体の売上高1.8倍に対しロッテは3倍への拡大。この間にハリスを追い越し、ロッテはガムの業界首位に立った。小売店の店頭を自前で押さえた仕組みが、次に挑むチョコレートの販路にもなったと考えられる。

  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [32]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [33]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [35]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [37]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [38]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
    • [34]ハリスは問屋に全面依存した一方、ロッテはパートの主婦を婦人部隊として販売店を定期訪問させ、タバコ屋・薬局・浴場・ガソリンスタンドへ新規市場を開拓した
    • [36]ハリスは問屋に全面依存した一方、ロッテはパートの主婦を婦人部隊として販売店を定期訪問させ、タバコ屋・薬局・浴場・ガソリンスタンドへ新規市場を開拓した
参考文献[20]-[38]
  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
    • [20]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [21]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [23]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [24]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [25]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [26]昭和30年前後から菓子の嗜好が変わりガム需要が頭打ちに。戦後の国産ガムは酢酸ビニール樹脂を基材とし、天然チクルとは噛み心地に差があった。本命の板ガムでハリスに打ち勝つため、天然チクル基材の板ガム市場へ本格進出
    • [27]天然チクルのロッテを徹底して広告宣伝し、販売量に応じて問屋・小売店のマージンを増やす価格政策と組み合わせた。先進上位企業に追い付け追い抜けで同じパターンの品目を広げ、コピーメーカーと指弾された
    • [28]天然チクルのロッテを徹底して広告宣伝し、販売量に応じて問屋・小売店のマージンを増やす価格政策と組み合わせた。先進上位企業に追い付け追い抜けで同じパターンの品目を広げ、コピーメーカーと指弾された
    • [29]天然チクルのロッテを徹底して広告宣伝し、販売量に応じて問屋・小売店のマージンを増やす価格政策と組み合わせた。先進上位企業に追い付け追い抜けで同じパターンの品目を広げ、コピーメーカーと指弾された
    • [32]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [33]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [35]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [37]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
    • [38]1961年に懸賞1000万円の天然チクルセールを実施し、同年にLHPを発足。婦人をパートで雇い小売店を訪問させ販売促進・情報収集にあたらせた。菓子は問屋経由で全国50万店へ流れパイプが詰まりがち。1959~1961年の3年で業界売上1.8倍に対しロッテは3倍となりハリスを追い越した
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
    • [22]当時、ガムといえばハリスで、ハリスはガムの代名詞のようになっていた
    • [31]1967年時点で、ガムと言えばロッテと言われるようになっていた
    • [34]ハリスは問屋に全面依存した一方、ロッテはパートの主婦を婦人部隊として販売店を定期訪問させ、タバコ屋・薬局・浴場・ガソリンスタンドへ新規市場を開拓した
    • [36]ハリスは問屋に全面依存した一方、ロッテはパートの主婦を婦人部隊として販売店を定期訪問させ、タバコ屋・薬局・浴場・ガソリンスタンドへ新規市場を開拓した
  • 日経ビジネス 1989年8月28日
    • [30]1989年時点で約30年前に発売した「クールミントガム」「グリーンガム」の2品種で年商2百数十億円

出典・参考

5件
出典・参考
  • 日経ビジネス 96号 1973年11月12日
  • 日経ビジネス 1989年8月28日
  • 月刊経済 14(7)(198) 1967年7月
  • 政経人 23(4) 1976年4月「インタビュー――韓国最大のホテル建設で民間外交の絆を 重光武雄」
  • Decide 4(7)(33) 1986年

免責事項およびポリシー