大日本製薬:大阪製薬の設立と大日本製薬の買収
1897年〜道修町の薬業家が資本金10万円で設立した大阪製薬と、東京の大日本製薬の吸収
明治維新の後に和漢薬が衰えて洋薬が広がると、道修町の薬業家は洋薬の輸入と国産化に取り組んだ。輸入品には偽物や粗悪品が混じり、国内の製品も工場の不備から不良品が多かった。国内で使う医薬品の大部分は輸入品で、製薬業の自立と品質の改善が業界の課題だった。1896年12月23日の創業総会で、道修町の薬業家21人を発起人とする大阪製薬株式会社は『不良薬品の横行を防ぎ、純良薬品を供給すること』を目的に掲げた。資本金は10万円、取締役社長は日野九郎兵衛氏で、理学博士の長井長義氏が技術顧問として加わった。株式会社の形を選んだのは、個々の薬種商では負えない工場の建設費を、道修町の総意として出資で賄うためとみられる。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪製薬株式会社の創立」
- [1]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [2]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [4]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [5]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本製薬」
- [3]1897年5月に道修町の薬業家21氏が資本金10万円で大阪製薬を創立。医薬品の大部分が輸入品で粗悪品が横行し、製薬事業の独立と品質改善を目的とした
創立趣旨書は、完全な製薬所を設けて原料を選び抜き、製造を綿密にして純良な薬を安く届ける抱負を掲げた。会社は1897年5月14日に設立登記を終え、同年7月には本店を伏見町3丁目へ移した。翌1898年1月13日には、商標を付けた製品の販売を始めた。製造の拠点は大阪府西成郡鷺洲村大字海老江に置き、ドイツなどの最新機械を備えた敷地9472平方メートルの製薬所が1898年9月末に完成。海老江の製薬所はのちの大阪工場の前身で、1898年のうちに医薬品の製造に入った。原料の精選と周密な製造という趣旨書の約束は、自前の工場なしには守れなかったのだろう。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪製薬株式会社の創立」
- [6]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [7]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [8]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [9]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [10]1898年に大阪市外鷺洲村大字海老江(現大阪工場)に製薬工場を新設して製造を開始
東京の大日本製薬会社は1883年5月2日、日本薬局方の編さんを機に純正医薬品の国産化を掲げ、内務省衛生局の主導で生まれた半官半民の会社で、社長は新田忠純氏だった。製薬長の長井長義氏が製造を率い、ガレヌス製剤や局方試薬を手がけた。その後の業績は伸び悩み、合資会社へ改組しても立て直せず、明治30年代には存続が困難となった。経営の一切を委ねられた大阪製薬は1898年11月1日に合資会社を吸収合併し、3万円を増資して大日本製薬株式会社と改称した。商標権と設備の一切も新会社へ移った。大阪の新興会社にとって、合併は東京で通った社名と長井長義氏ゆかりの技術を得る機会だったと考えられる。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪製薬株式会社の創立」
- [11]1883年5月2日、内務省衛生局主導で大日本製薬会社(新田忠純社長)を資本金10万円で設立。日本薬局方の編さんを機に純正医薬品の国産化を推進
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大日本製薬株式会社の誕生」
- [12]長井長義が製薬長。合資会社に改組後も衰退し明治30年代に存続不能。1898年11月1日に大阪製薬が吸収合併し大日本製薬株式会社に改称、3万円増資で資本金13万円
- [13]長井長義が製薬長。合資会社に改組後も衰退し明治30年代に存続不能。1898年11月1日に大阪製薬が吸収合併し大日本製薬株式会社に改称、3万円増資で資本金13万円
- [14]長井長義が製薬長。合資会社に改組後も衰退し明治30年代に存続不能。1898年11月1日に大阪製薬が吸収合併し大日本製薬株式会社に改称、3万円増資で資本金13万円
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本製薬」
- [15]1898年11月に大日本製薬の商標権および設備一切を買収し社名を改めた
参考文献[1]-[15]
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪製薬株式会社の創立」
- [1]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [2]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [4]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [5]1896年12月23日に大阪製薬の創業総会。発起人21人、資本金10万円、社長日野九郎兵衞、技術顧問長井長義。1897年5月14日登記。輸入洋薬の偽物・粗悪品と国産品の不良が背景
- [6]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [7]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [8]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [9]1897年7月31日本店を伏見町3丁目へ移転、1898年1月13日製品販売開始、同年9月末に海老江の製薬所が完成(敷地9472、ドイツ等の機械)。創立趣旨書に完全な製薬所の設立をうたう
- [11]1883年5月2日、内務省衛生局主導で大日本製薬会社(新田忠純社長)を資本金10万円で設立。日本薬局方の編さんを機に純正医薬品の国産化を推進
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本製薬」
- [3]1897年5月に道修町の薬業家21氏が資本金10万円で大阪製薬を創立。医薬品の大部分が輸入品で粗悪品が横行し、製薬事業の独立と品質改善を目的とした
- [15]1898年11月に大日本製薬の商標権および設備一切を買収し社名を改めた
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [10]1898年に大阪市外鷺洲村大字海老江(現大阪工場)に製薬工場を新設して製造を開始
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大日本製薬株式会社の誕生」
- [12]長井長義が製薬長。合資会社に改組後も衰退し明治30年代に存続不能。1898年11月1日に大阪製薬が吸収合併し大日本製薬株式会社に改称、3万円増資で資本金13万円
- [13]長井長義が製薬長。合資会社に改組後も衰退し明治30年代に存続不能。1898年11月1日に大阪製薬が吸収合併し大日本製薬株式会社に改称、3万円増資で資本金13万円
- [14]長井長義が製薬長。合資会社に改組後も衰退し明治30年代に存続不能。1898年11月1日に大阪製薬が吸収合併し大日本製薬株式会社に改称、3万円増資で資本金13万円
1899年〜海老江の製薬所で始めた無水アルコールの国産化と、大阪薬品試験の合併で整えた3部制
合併から半年後の1899年4月15日、大日本製薬は旧会社の設備を据え付け終えた海老江の製薬所で開業式を挙げた。式には前月に日本初の薬学博士号を受けた顧問の長井長義氏のほか、医学・薬学界の有力者や株主が集まり、生産工程の説明を受けた。旧会社のP印と女神印の商標は、そのまま新会社が受け継いだ。P印の「P」は、薬業を意味するPharmacyの頭文字に由来する。売上高は1899年下期の5万330円から1900年下期の10万8933円へ、利益は5025円から1万1936円へ倍増した。東京で知られた商標と大阪の工場の組み合わせが、この倍増の土台になったと推察される。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大日本製薬株式会社の誕生」
- [16]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- [17]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- [18]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- [20]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [19]P印のPはPharmacyの頭文字
東京への進出に続く積極策として、大日本製薬は1903年1月23日の株主総会で事業目的に酒精の製造と販売を加えた。長井長義氏の指導で準備を進め、1905年2月には設備資金に充てる初の社債3万円を発行した。製薬所内のアルコール工場は1906年3月に完成し、すぐに製造と販売を開始。とりわけ無水アルコールは、それまで全量を輸入していた品の初の国産化で、1911年11月の酒類・醤油品評会で一等銀牌を受けた。日露戦争後の反動不況を乗り切れたのも、アルコールの生産と販売が順調に増えたためだった。局方薬だけでは景気の波を受けやすく、医薬品以外の品目で収益源を分ける狙いがあったと思われる。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「医薬用麻薬の製造」
- [21]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- [22]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- [23]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- [24]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [25]1903年に酒精の製造販売を追加し国内初の無水アルコール製造に成功。日露戦争後の反動不況をアルコールの生産販売の伸びで乗り切った
大阪薬品試験は1888年4月7日に資本金1万円で設立された私立の試験機関である。日本薬局方の施行後、官の衛生試験所が局方所定品しか試験しなくなったため、ほかの薬品も試験して印紙を張る民間会社として生まれた。出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ道修町の薬業家で、資本と経営の両面で大日本製薬との結び付きが強かった。大日本製薬は1908年7月1日にこの試験会社を吸収合併し、製薬所を製薬部、旧大阪薬品試験を試験部とした。翌8月には三島郡豊川村粟生に粉末工場を新設して粉末部とし、資本金24万2500円・従業員約300人の3部制を整えた。合格品に純正の保証を与える試験業務は、品質を売りにする製薬会社の信用も裏づけたのではないか。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪薬品試験株式会社の合併」
- [26]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- [28]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- [29]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- [30]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本製薬」
- [27]日本薬局方の実施後、官営衛生試験所は局方所定品のみ試験したため、それ以外の薬品を試験し印紙を貼る民間会社として大阪薬品試験を設立。1908年7月に吸収合併
参考文献[16]-[30]
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大日本製薬株式会社の誕生」
- [16]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- [17]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- [18]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- [20]1899年4月15日海老江の製薬所で開業式、長井顧問は同年3月に日本初の薬学博士。P印・女神印を継承。1899年下期売上高5万330円・利益5025円、1900年下期売上高10万8933円・利益1万1936円
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [19]P印のPはPharmacyの頭文字
- [25]1903年に酒精の製造販売を追加し国内初の無水アルコール製造に成功。日露戦争後の反動不況をアルコールの生産販売の伸びで乗り切った
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「医薬用麻薬の製造」
- [21]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- [22]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- [23]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- [24]1903年1月23日定款に酒精の製造販売を追加、1905年2月初の社債3万円、1906年3月アルコール工場完成。無水アルコールを初めて国産化し1911年11月酒類・醤油品評会で一等銀牌
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪薬品試験株式会社の合併」
- [26]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- [28]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- [29]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- [30]大阪薬品試験は1888年4月7日資本金1万円で設立、出資者は大阪製薬の発起人とほぼ同じ。1908年7月1日吸収合併し製薬部・試験部・粉末部(同年8月粟生に新設)の3部体制、資本金24万2500円、従業員約300人
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本製薬」
- [27]日本薬局方の実施後、官営衛生試験所は局方所定品のみ試験したため、それ以外の薬品を試験し印紙を貼る民間会社として大阪薬品試験を設立。1908年7月に吸収合併
1914年〜第1次世界大戦の品薄で得た医薬用阿片の指定と、資本金100万円への倍増
1914年7月に第1次世界大戦が始まると、国内供給の70%を占めた海外医薬品の輸入が止まり、薬価が高騰した。政府は同年12月に臨時薬業調査会を設け、委員には社長の日野九郎兵衛氏も加わった。衛生試験所でアヘンアルカロイドの国産化にめどが立ち、政府は1917年に阿片法を一部改正して医薬用阿片の売り下げ制度を整えた。同年10月の内務省令で大日本製薬は製造指定会社4社の1つとなり、海老江の製薬部で製造を始めた。このときの社長は、1915年7月に日野九郎兵衛氏から職を継いだ小磯吉人氏である。調査会に社長を送り込んでいたことが、指定4社に入る足がかりになったとうかがえる。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「医薬用麻薬の製造」
- [31]1914年7月大戦で供給の70%を占めた輸入が停止。同年12月臨時薬業調査会設置(日野社長も委員)。1917年7月阿片法改正、10月内務省令で製造指定4社の1つ、12月医薬用阿片卸売人指定、海老江の製薬部で製造開始
- [32]1914年7月大戦で供給の70%を占めた輸入が停止。同年12月臨時薬業調査会設置(日野社長も委員)。1917年7月阿片法改正、10月内務省令で製造指定4社の1つ、12月医薬用阿片卸売人指定、海老江の製薬部で製造開始
- [34]1914年7月大戦で供給の70%を占めた輸入が停止。同年12月臨時薬業調査会設置(日野社長も委員)。1917年7月阿片法改正、10月内務省令で製造指定4社の1つ、12月医薬用阿片卸売人指定、海老江の製薬部で製造開始
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [33]1917年の阿片法一部改正で製薬用阿片売下げの指定会社となり麻薬の製造を開始
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「新薬・新製剤の本格的開発」
- [35]1915年7月日野九郎兵衛が退任し小磯吉人が第2代社長に就任
資本金は1917年1月に50万円、同年12月には100万円へ倍増した。麻薬の製造で業績は大きく上向き、1918年上期に60万8113円だった売上高は同年下期に208万60円となった。1919年6月には利益から10万円を割いて利息を研究費に充てる研究基金を設け、1920年上期には売上高334万265円・利益83万8652円を記録した。保護法で新しい製薬会社が相次ぎ、新薬の競争が激しくなったため、1921年4月に資本金を200万円へ増やして新薬の開発に入った。1925年3月16日には東京市本郷区駒込動坂町に東京研究所を新設した。麻薬の利益を研究基金と研究所に充当した配分が、昭和の新薬を準備したといえよう。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「医薬用麻薬の製造」
- [36]1917年1月資本金50万円、12月100万円。1918年上期売上高60万8113円→下期208万60円、1920年上期売上高334万265円・利益83万8652円で10割配当。1919年6月研究基金10万円
- [38]1917年1月資本金50万円、12月100万円。1918年上期売上高60万8113円→下期208万60円、1920年上期売上高334万265円・利益83万8652円で10割配当。1919年6月研究基金10万円
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [37]1917年に麻薬の製造を始め業績が大きく伸びた
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「新薬・新製剤の本格的開発」
- [39]保護法で新企業が相次ぎ競争激化、1921年4月資本金200万円に倍増し新薬・新製剤開発へ。ヒドノール(1921)等。1925年3月16日駒込動坂町に東京研究所新設
- [40]保護法で新企業が相次ぎ競争激化、1921年4月資本金200万円に倍増し新薬・新製剤開発へ。ヒドノール(1921)等。1925年3月16日駒込動坂町に東京研究所新設
1926年2月8日に社長の小磯吉人氏が死去し、10日後に取締役の上村長兵衞氏が第3代社長に就任した。大正後半の経済は、1920年からの戦後反動不況と1923年からの震災恐慌を抱えたまま昭和へ移った。大正末期の売上高は100万〜150万円で、利益率は25〜30%を保った。昭和初期には、長井長義氏の指導で40余年造ってきたガレヌス製剤が粗製品の乱売に巻き込まれ、利益率は5%前後へ低下した。1927年に長井長義氏の発見した塩酸エフェドリンを喘息治療剤として発売し、新薬に次の収益源を求めた。上村長兵衞氏の代は、品質の信用だけでは守れない局方薬に代わる製品を探す時期にあたったと推測される。
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「新薬・新製剤の本格的開発」
- [41]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- [42]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- [43]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- [44]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [45]1927年に長井博士の発見した塩酸エフェドリンを喘息治療剤として発売
参考文献[31]-[45]
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「医薬用麻薬の製造」
- [31]1914年7月大戦で供給の70%を占めた輸入が停止。同年12月臨時薬業調査会設置(日野社長も委員)。1917年7月阿片法改正、10月内務省令で製造指定4社の1つ、12月医薬用阿片卸売人指定、海老江の製薬部で製造開始
- [32]1914年7月大戦で供給の70%を占めた輸入が停止。同年12月臨時薬業調査会設置(日野社長も委員)。1917年7月阿片法改正、10月内務省令で製造指定4社の1つ、12月医薬用阿片卸売人指定、海老江の製薬部で製造開始
- [34]1914年7月大戦で供給の70%を占めた輸入が停止。同年12月臨時薬業調査会設置(日野社長も委員)。1917年7月阿片法改正、10月内務省令で製造指定4社の1つ、12月医薬用阿片卸売人指定、海老江の製薬部で製造開始
- [36]1917年1月資本金50万円、12月100万円。1918年上期売上高60万8113円→下期208万60円、1920年上期売上高334万265円・利益83万8652円で10割配当。1919年6月研究基金10万円
- [38]1917年1月資本金50万円、12月100万円。1918年上期売上高60万8113円→下期208万60円、1920年上期売上高334万265円・利益83万8652円で10割配当。1919年6月研究基金10万円
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」
- [33]1917年の阿片法一部改正で製薬用阿片売下げの指定会社となり麻薬の製造を開始
- [37]1917年に麻薬の製造を始め業績が大きく伸びた
- [45]1927年に長井博士の発見した塩酸エフェドリンを喘息治療剤として発売
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「新薬・新製剤の本格的開発」
- [35]1915年7月日野九郎兵衛が退任し小磯吉人が第2代社長に就任
- [39]保護法で新企業が相次ぎ競争激化、1921年4月資本金200万円に倍増し新薬・新製剤開発へ。ヒドノール(1921)等。1925年3月16日駒込動坂町に東京研究所新設
- [40]保護法で新企業が相次ぎ競争激化、1921年4月資本金200万円に倍増し新薬・新製剤開発へ。ヒドノール(1921)等。1925年3月16日駒込動坂町に東京研究所新設
- [41]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- [42]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- [43]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
- [44]1926年2月8日小磯吉人社長死去、10日後に上村長兵衞取締役が第3代社長。戦後反動不況・震災恐慌。売上高は大正末期100万~150万円、利益率は大正末期25~30%から昭和初期5%前後へ。ガレヌス製剤が乱売で打撃
出典・参考
7件
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪製薬株式会社の創立」
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大日本製薬株式会社の誕生」
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「医薬用麻薬の製造」
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「大阪薬品試験株式会社の合併」
- 大日本製薬90年のあゆみ(1987)「新薬・新製剤の本格的開発」
- 会社銀行八十年史(1955)「大日本製薬」
- 企業の歴史:明治百年(1968)「大日本製薬」