第1章 年〜年

KDDI:DDI・KDD・IDOの合併によるKDDI発足と寄合いの経営体制

2000年〜長距離・国際・携帯を1社にまとめた統合

2000年10月1日、第二電電(DDI)を存続会社としてKDDと日本移動通信(IDO)が合併し、KDDIが発足した。1985年の通信自由化で生まれた新電電各社は、1999年2月にNTTドコモがiモードを投入したころには規模と投資余力の差で引き離されており、非NTT陣営の再編がここで決着した。長距離電話のDDI、国際通信のKDD、関東甲信と東海の携帯電話のIDOという事業も出自も異なる3社が合流し、単純合算で連結売上高2兆630億円、従業員9700人とNTTに次ぐ国内2位の通信会社となった。移動体通信のブランドは、同年7月にIDOとDDI系セルラーが統一した"au"を引き継ぎ、若年層の獲得を事業の中心に置いた。

  • KDDI 有価証券報告書【沿革】
    • [1]2000年10月1日、DDIを存続会社としてKDD・IDOが合併しKDDIが発足した
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号
    • [2]3社の単純合算で連結売上高2兆630億円・従業員9700人となり、NTT(9兆7297億円)に次ぐ国内2位となった

合併の話は、1998年12月にIDOの塚田健雄社長が稲盛和夫氏を訪ねたところから動いた。1996年1月に870万台だった携帯電話の総加入台数は、NTTドコモ420万台に対しDDI系のセルラー各社170万台、IDO110万台で、二つを合わせればドコモの3分の2に届いていた。それが1998年12月には総数3,900万台のうちドコモが2,200万台を占め、セルラー500万台・IDO320万台と3分の1強まで開いた。IDOは営業区域が首都圏と中部圏に限られたまま設備投資がかさみ、1997年3月期に59億円、1998年3月期に385億円の最終赤字を出していた。2001年に始まる次世代携帯電話に郵政省が3グループしか免許を与えない方針を示しており、残る1枠を争える時間は長くなかった。それでも合併が正式に決まるまでには、そこから1年を要した。

  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [3]1998年12月、IDOの塚田健雄社長がDDIの稲盛和夫名誉会長を訪ね、合併を申し入れた
    • [4]1996年1月の携帯電話の総加入台数は870万台で、内訳はNTTドコモ420万台・DDI系セルラー170万台・IDO110万台
    • [5]1998年12月の携帯電話の総加入台数は3,900万台で、内訳はNTTドコモ2,200万台・DDI系セルラー500万台・IDO320万台
    • [6]IDOはサービス地域が首都圏と中部圏に限られ設備投資がかさみ、1997年3月期に最終赤字59億円、1998年3月期に同385億円を出した
    • [7]2001年から始まる次世代携帯電話について、郵政省は3グループにしか免許を与えない方針を示していた
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号
    • [8]3社の合併交渉は長期化し、正式に決まったのは1999年12月だった

発足時の役員は非常勤5人を含めて53人にのぼった。日本テレコムの30人、NTTドコモの28人と比べて多く、常勤48人の内訳は旧DDI25人、旧KDD14人、旧IDO9人で、執行部門はDDI出身者が長なら副にKDD出身者を置く配置となった。合併合意の際に『たすきがけ人事はしない』と決めていた取り決めは守られていない。有利子負債は2兆円あり、営業初日の2000年10月2日の株価は3万5000円安と年初来最安値まで下げた。新会社はDDIの効率経営、トヨタ自動車の国際展開力、KDDの技術力を組み合わせる方針を掲げた『違う者同士を無理に1つにまとめるより、お互いの長所を生かすことが、この会社には得策』(日経ビジネス 2000/10/23)——会長に就任した牛尾治朗が取締役会議長の立場から示した方針である。統合を急がない構えは、寄合いをそのまま抱えて走る構えでもあった。

  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [9]発足時の役員は非常勤5人を含め53人。常勤48人の内訳は旧DDI25人・旧KDD14人・旧IDO9人で「たすきがけ人事はしない」との合意は履行されなかった
    • [10]有利子負債2兆円、営業初日2000年10月2日の株価は3万5000円安の年初来最安値
    • [11]牛尾治朗会長は互いの長所を生かすほうが得策と述べ、DDIの効率経営・トヨタの国際展開力・KDDの技術力の組み合わせを掲げた
参考文献[1]-[11]
  • KDDI 有価証券報告書【沿革】
    • [1]2000年10月1日、DDIを存続会社としてKDD・IDOが合併しKDDIが発足した
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号
    • [2]3社の単純合算で連結売上高2兆630億円・従業員9700人となり、NTT(9兆7297億円)に次ぐ国内2位となった
    • [8]3社の合併交渉は長期化し、正式に決まったのは1999年12月だった
  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [3]1998年12月、IDOの塚田健雄社長がDDIの稲盛和夫名誉会長を訪ね、合併を申し入れた
    • [4]1996年1月の携帯電話の総加入台数は870万台で、内訳はNTTドコモ420万台・DDI系セルラー170万台・IDO110万台
    • [5]1998年12月の携帯電話の総加入台数は3,900万台で、内訳はNTTドコモ2,200万台・DDI系セルラー500万台・IDO320万台
    • [6]IDOはサービス地域が首都圏と中部圏に限られ設備投資がかさみ、1997年3月期に最終赤字59億円、1998年3月期に同385億円を出した
    • [7]2001年から始まる次世代携帯電話について、郵政省は3グループにしか免許を与えない方針を示していた
    • [9]発足時の役員は非常勤5人を含め53人。常勤48人の内訳は旧DDI25人・旧KDD14人・旧IDO9人で「たすきがけ人事はしない」との合意は履行されなかった
    • [10]有利子負債2兆円、営業初日2000年10月2日の株価は3万5000円安の年初来最安値
    • [11]牛尾治朗会長は互いの長所を生かすほうが得策と述べ、DDIの効率経営・トヨタの国際展開力・KDDの技術力の組み合わせを掲げた

2000年〜純増と解約率で開いた差と、北米方式cdma2000の選択

発足直後のKDDIは、旧IDO・DDI系セルラー・ツーカーという3つの携帯電話会社を抱えていた。2000年1月から9月までの携帯電話の純増数は、5月を除くすべての月でJ-フォンがKDDI系を上回っている。解約率も、NTTドコモの2000年3月期1.6%に対してauは同年7月時点で3%を超えていた。優位の根拠として残ったのは通信方式の選び方で、KDDIは次世代に北米方式のcdma2000を採り、すでにauブランドで提供していたcdmaOneを改良する道を選んだ。設備を一から積み直す日欧方式の1兆円に対し、投資は6,000億円で済む見込みだった。もっともこの選択は一度ぐらついており、DDIで次世代の責任者だった小野寺正氏が日欧方式への切り替えを決めた際には、IDO側が稲盛和夫氏へ直訴して方針が戻されている。

  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [12]KDDIは旧IDOとDDI系セルラー、さらにツーカーと3つの携帯電話会社を抱えていた
    • [13]2000年1月から9月までの携帯電話の純増数は、5月を除くすべての月でJ-フォンがKDDIを上回った
    • [14]NTTドコモの2000年3月期の解約率は1.6%、auは2000年7月時点で3%を超えていた(首都圏と中部圏を除く)
    • [15]KDDIは次世代に北米方式(cdma2000)を採用し、auブランドで提供していたcdmaOneを改良する方針を採った
    • [16]cdmaOneの改良による設備投資は6,000億円の見込みで、設備を一から構築する日欧方式は1兆円規模とみられた
  • 日経ビジネス 2001年4月23日号
    • [17]DDIで次世代携帯電話の責任者だった小野寺正氏が日欧方式への切り替えを決めたが、IDO首脳が稲盛和夫氏に直訴し、北米方式へ再度方針転換した

有利子負債2兆円の圧縮は、発足時から投資家が最も問うた点だった。日本テレコムの連結有利子負債が2000年3月期で1,800億円だったのに比べ、KDDIの水準は際立って高かった。会社が示した道筋は、DDI系のセルラー電話会社を合併し、旧IDOの部門を統合したうえで移動体事業を株式公開し、その公開益で負債を圧縮するというものだった。経理を担当した森田敏行取締役は、NTTドコモの時価総額30兆円の10分の1と見ても3兆円の企業価値になると見込んでいた。ただし次世代サービスの設備投資は毎期5,000億円を超える見通しで、負債の圧縮が始まるのは3年後とされた。合併で得た規模は、返済の原資になる前に投資の担保として使われた。

  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [18]合併直後の株価低迷の要因として、経営体制への不透明感・多額の有利子負債・移動体通信事業の不振の3点が挙げられた
    • [19]KDDIの有利子負債は2兆円。日本テレコムの連結有利子負債は2000年3月期で1,800億円だった
    • [20]DDI系セルラー電話会社の合併と旧IDO部門の統合を経て移動体事業を株式公開し、公開益で有利子負債を圧縮する計画だった
    • [21]森田敏行取締役は、NTTドコモの時価総額30兆円の10分の1と見ても3兆円の企業価値になると見込んだ
    • [22]次世代サービスの設備投資は毎期5,000億円を超える見通しで、有利子負債の圧縮が始まるのは3年後とされた
参考文献[12]-[22]
  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [12]KDDIは旧IDOとDDI系セルラー、さらにツーカーと3つの携帯電話会社を抱えていた
    • [13]2000年1月から9月までの携帯電話の純増数は、5月を除くすべての月でJ-フォンがKDDIを上回った
    • [14]NTTドコモの2000年3月期の解約率は1.6%、auは2000年7月時点で3%を超えていた(首都圏と中部圏を除く)
    • [15]KDDIは次世代に北米方式(cdma2000)を採用し、auブランドで提供していたcdmaOneを改良する方針を採った
    • [16]cdmaOneの改良による設備投資は6,000億円の見込みで、設備を一から構築する日欧方式は1兆円規模とみられた
    • [18]合併直後の株価低迷の要因として、経営体制への不透明感・多額の有利子負債・移動体通信事業の不振の3点が挙げられた
    • [19]KDDIの有利子負債は2兆円。日本テレコムの連結有利子負債は2000年3月期で1,800億円だった
    • [20]DDI系セルラー電話会社の合併と旧IDO部門の統合を経て移動体事業を株式公開し、公開益で有利子負債を圧縮する計画だった
    • [21]森田敏行取締役は、NTTドコモの時価総額30兆円の10分の1と見ても3兆円の企業価値になると見込んだ
    • [22]次世代サービスの設備投資は毎期5,000億円を超える見通しで、有利子負債の圧縮が始まるのは3年後とされた
  • 日経ビジネス 2001年4月23日号
    • [17]DDIで次世代携帯電話の責任者だった小野寺正氏が日欧方式への切り替えを決めたが、IDO首脳が稲盛和夫氏に直訴し、北米方式へ再度方針転換した

2001年〜商号をKDDIに改めるまでの1年

会社の形は発足から1年かけて整えられた。2001年3月、セルラー電話会社7社を統合した株式会社エーユーを株式交換で完全子会社とし、地域ごとに分かれていた携帯電話の運営を1社にまとめる。翌4月には商号を株式会社ディーディーアイからKDDI株式会社へ改め、本店を東京都新宿区へ移した。一方で東名阪を営業区域とするツーカー3社の扱いは決まらず、移動体を担当する小野寺正副社長も、新しい世代の方式が立ち上がるまでの暫定的な受け皿と見るにとどまった。そのツーカーの設備投資は2000年度だけで1000億円を超えており、auとの二重のブランドを抱えたまま次の投資期を迎えた。

  • KDDI 有価証券報告書【沿革】
    • [23]2001年3月にセルラー電話会社7社を統合した株式会社エーユーを株式交換で完全子会社化した
    • [24]2001年4月に商号をKDDI株式会社へ改め、本店を東京都新宿区へ移転した
  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [25]ツーカーは「次世代サービスまでのつなぎ役」とされたが2000年度だけで設備投資が1000億円を超えていた

経営体制も1年で組み替えられた。2001年6月、KDDIは執行役員制を導入して50人を超えていた役員を12〜15人に絞り、社長の上に5人いた取締役も3人へ減らす。社長は69歳の奥山雄材氏から53歳の小野寺正副社長へ交代し、稲盛和夫氏と豊田章一郎氏は取締役名誉会長から最高顧問に退任した。合併契約で副社長として処遇すると決まっていた元郵政事務次官の五十嵐三津雄氏が副社長に就任している。京セラにとって小野寺正社長の昇格はDDI主導の運営を示す人事となり、トヨタ自動車は有利子負債2兆円の会社に社長を出す負担を避けた。旧DDI系のPDCと旧IDO系のCDMAという二つの規格が併存する問題は、この体制のもとで2002年3月の一本化へ持ち越された。

  • 日経ビジネス 2001年4月23日号
    • [26]2001年6月に執行役員制を導入して役員を12〜15人に絞り、社長の上の取締役5人を3人に削減、奥山雄材社長から小野寺正副社長へ交代した
    • [27]稲盛和夫氏と豊田章一郎氏は取締役名誉会長から最高顧問へ退き、五十嵐三津雄・元郵政事務次官が副社長に就いた
    • [28]京セラには小野寺氏の昇格がDDI主導を示す人事となり、トヨタは有利子負債2兆円の会社に社長を出すリスクを避けた

小野寺正氏がKDDIの社長に就いたのは、2001年6月である。1948年2月に仙台で生まれ、1970年に東北大学工学部電気工学科を出て日本電信電話公社に入り、無線開発を手掛けた。1984年11月にDDIへ移り、1989年に取締役、1995年に常務、1997年に副社長と携帯電話の技術陣を率いてきた。社内には消去法の人事と評する役員もおり、次の社長候補が見当たらないことを露呈した人事でもあった。衛星携帯電話で資本提携していた米イリジウムが会社更生法を申請したときには、投資家への説明を財務担当者に任せず自ら相手先へ出向いている。引き受けたのは、約2兆円の有利子負債と携帯電話事業の再編だった。合併で寄り合った3社を1つの会社へ作り替える仕事は、ここから始まった。

  • 日経ビジネス 2001年10月29日号
    • [29]小野寺正氏は2001年6月にKDDI社長へ就任した
    • [30]1948年2月宮城県仙台市生まれ。1970年3月東北大学工学部電気工学科卒業、4月日本電信電話公社入社。無線開発を手掛けた
    • [31]1984年11月DDI入社、1989年6月取締役、1995年6月常務、1997年6月副社長、2000年10月KDDI副社長。DDIの携帯電話の技術陣のリーダー的存在だった
    • [33]資本提携していた米イリジウムが会社更生法を申請した際、小野寺氏は投資家への説明を財務担当者に任せず自ら相手先へ出向いた
    • [34]就任時のKDDIは約2兆円の有利子負債の削減と携帯電話事業の再編を課題として抱えていた
  • 日経ビジネス 2001年4月23日号
    • [32]KDDIの役員は小野寺氏の昇格を「消去法の人事」と評し、次の社長候補の不在が指摘された
参考文献[23]-[34]
  • KDDI 有価証券報告書【沿革】
    • [23]2001年3月にセルラー電話会社7社を統合した株式会社エーユーを株式交換で完全子会社化した
    • [24]2001年4月に商号をKDDI株式会社へ改め、本店を東京都新宿区へ移転した
  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
    • [25]ツーカーは「次世代サービスまでのつなぎ役」とされたが2000年度だけで設備投資が1000億円を超えていた
  • 日経ビジネス 2001年4月23日号
    • [26]2001年6月に執行役員制を導入して役員を12〜15人に絞り、社長の上の取締役5人を3人に削減、奥山雄材社長から小野寺正副社長へ交代した
    • [27]稲盛和夫氏と豊田章一郎氏は取締役名誉会長から最高顧問へ退き、五十嵐三津雄・元郵政事務次官が副社長に就いた
    • [28]京セラには小野寺氏の昇格がDDI主導を示す人事となり、トヨタは有利子負債2兆円の会社に社長を出すリスクを避けた
    • [32]KDDIの役員は小野寺氏の昇格を「消去法の人事」と評し、次の社長候補の不在が指摘された
  • 日経ビジネス 2001年10月29日号
    • [29]小野寺正氏は2001年6月にKDDI社長へ就任した
    • [30]1948年2月宮城県仙台市生まれ。1970年3月東北大学工学部電気工学科卒業、4月日本電信電話公社入社。無線開発を手掛けた
    • [31]1984年11月DDI入社、1989年6月取締役、1995年6月常務、1997年6月副社長、2000年10月KDDI副社長。DDIの携帯電話の技術陣のリーダー的存在だった
    • [33]資本提携していた米イリジウムが会社更生法を申請した際、小野寺氏は投資家への説明を財務担当者に任せず自ら相手先へ出向いた
    • [34]就任時のKDDIは約2兆円の有利子負債の削減と携帯電話事業の再編を課題として抱えていた

筆者考察

3社が1つになった2000年10月の時点で、この統合が何を買えるかはおおむね決まっていた。1996年1月の携帯電話870万台のうちNTTドコモは420万台、DDI系セルラーとIDOは合わせて280万台で、差は3分の2にとどまっていた。それが2年11カ月後には3,900万台のうちドコモ2,200万台、両社820万台と3分の1強まで開く。稲盛和夫氏が合併直後の会見で2年前に合併できていればと述べたのは、統合を測る物差しが、追い越せるかどうかから、どこまで離されずに済むかへ変わっていたからだろう。遅れを認めた者どうしの合併は、規模は買えても速さは買えない。

その遅れは、役員53人という形で会社の内側にも現れた。日本テレコム30人、NTTドコモ28人に対する数の多さは、たすきがけをしないという合意を守れなかった結果であり、旧DDI25人・旧KDD14人・旧IDO9人という配り方は、どの出身母体も削られなかったことを意味する。牛尾治朗氏が無理に1つへまとめるより長所を生かすと言ったのは調停として正しいが、調停に要る時間はドコモとの差が開く時間でもあった。役員を12〜15人へ絞るまでに発足から8カ月かかっている。合併で得た規模を動かすには、まず寄合いを解く必要があった。

出典・参考

5件
出典・参考
  • KDDI 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号
  • 日経ビジネス 2000年10月23日号
  • 日経ビジネス 2001年4月23日号
  • 日経ビジネス 2001年10月29日号

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