第1章 年〜年

NTT:日本電信電話公社の発足と独占の正当性の失効

積滞160万個の解消による公社体制の根拠喪失

1952年〜加入電話の積滞を抱えて発足した公社の使命

電信電話事業を国から引き継ぐ

1952年8月、逓信省と電気通信省から電信電話事業を引き継ぎ、日本電信電話公社が発足した。翌9月には国際電信電話株式会社法が施行され、国内通信を公社が、国際通信を国際電信電話が担う体制が固まった。公社に課された仕事は、戦災で傷んだ通信網を建て直し、全国へ電話を行き渡らせることにあった。もっとも、発足した時点で電話は申し込んでもすぐには付かない財であり、事業用は優先して開設されたものの、家庭用では二、三年待たされることがまれではなかった。長距離も回線が足りず、交換手に申し込んでから数時間待つ状態が長く続いた。1953年には電話料金が改正され、公社は電信電話事業の合理的能率的な経営体制が確立したと位置づけたが、行列そのものは縮まらなかった。

  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [1]1952年8月 日本電信電話公社の発足
    • [2]1952年9月 国際電信電話株式会社法の施行
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [3]家庭用電話は申込から二、三年待ち、事業用は優先的に開設
    • [4]長距離電話は回線数が少なく交換手への申込から数時間待ち
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [5]1953年 電話料金の改正と合理的能率的経営体制の確立
五ヵ年計画で設備を積み増す

公社が行列を縮めるために据えたのは、五ヵ年計画という設備投資の枠組みである。第一次から第三次までの計画によって、電話の加入者総数は1956年の240万から1964年末には633万へ増え、電話機数ではアメリカ、イギリスに次いで世界第三位となった。電話局には自動交換機が入り、交換手が回線をつなぐ作業は徐々に減って、交換手を通さないダイヤル直通の地域も急速に広がった。それでも生活水準の向上と人口の都市集中に伴って申し込みは殺到し、架設してもらえない電話は1966年に160万個へ達している。1973年度から始まる第五次五ヵ年計画は、計画の終わる時点で積滞をゼロにすることを目標に置いた。建設が需要に追いつかない構図は、計画を重ねるほど設備を増やす理由になった。

  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [6]電話加入者総数 1956年240万→1964年末633万
    • [7]電話機数で米英に次ぐ世界第三位
    • [10]1966年 架設待ちの電話160万個
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [8]自動交換機の導入による交換作業の縮小
    • [9]ダイヤル直通地域の急速な拡大
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
    • [11]1973年度から1977年度までの第五次五ヵ年計画は計画終了時の積滞ゼロを目標に設定
住宅用の電話が過半を占める

1971年度、公社は決算で赤字に落ち込んだ。公社の説明は景気の低迷による事業用通話収入の減少であったが、需要の構成そのものも変わっていた。1952年の時点で、設置された電話のうち事務用が93.8%を占め、住宅用は6.2%しかなかった。この比率は1972年度に入れ替わり、住宅用が53.2%と半分を超えた。ところが住宅用は、事業用に比べて使われる回数がおよそ4分の1にとどまり、1台1日当たりの平均利用回数も1958年の9.8回が1971年には5.5回まで減った。回線を敷いて保つための費用は利用の多寡にかかわらず一定であり、損益の分かれ目とされた電話機1台1月当たり4000円から5000円の水準に、住宅用は届かなかった。このため住宅用の電話は、1台増えるたびに赤字を広げる方向に働いた。使命を果たすほど収支は悪くなる構図だった。

  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
    • [12]昭和46年度(1971年度)の決算が赤字に転落
    • [13]公社の説明は景気の低迷による事業用通話収入の減少
    • [14]昭和27年(1952年)の設置電話は事務用93.8%・住宅用6.2%
    • [15]昭和47年度(1972年度)は住宅用53.2%・事務用46.8%と逆転の見通し
    • [16]住宅用電話の利用回数は事業用の約4分の1(公社サンプル調査)
    • [17]1台1日平均の利用回数 昭和33年9.8回→昭和46年5.5回
    • [18]電話機1台1月当たりの損益分岐点は4000〜5000円
    • [19]住宅用は1台設置するごとに赤字要因が増える収支構造
参考文献[1]-[19]
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [1]1952年8月 日本電信電話公社の発足
    • [2]1952年9月 国際電信電話株式会社法の施行
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [3]家庭用電話は申込から二、三年待ち、事業用は優先的に開設
    • [4]長距離電話は回線数が少なく交換手への申込から数時間待ち
    • [8]自動交換機の導入による交換作業の縮小
    • [9]ダイヤル直通地域の急速な拡大
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [5]1953年 電話料金の改正と合理的能率的経営体制の確立
    • [6]電話加入者総数 1956年240万→1964年末633万
    • [7]電話機数で米英に次ぐ世界第三位
    • [10]1966年 架設待ちの電話160万個
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
    • [11]1973年度から1977年度までの第五次五ヵ年計画は計画終了時の積滞ゼロを目標に設定
    • [12]昭和46年度(1971年度)の決算が赤字に転落
    • [13]公社の説明は景気の低迷による事業用通話収入の減少
    • [14]昭和27年(1952年)の設置電話は事務用93.8%・住宅用6.2%
    • [15]昭和47年度(1972年度)は住宅用53.2%・事務用46.8%と逆転の見通し
    • [16]住宅用電話の利用回数は事業用の約4分の1(公社サンプル調査)
    • [17]1台1日平均の利用回数 昭和33年9.8回→昭和46年5.5回
    • [18]電話機1台1月当たりの損益分岐点は4000〜5000円
    • [19]住宅用は1台設置するごとに赤字要因が増える収支構造

1970年〜随意契約と天下りが結んだ電電ファミリーの調達

随意契約が調達の9割を占める

規定のうえでは競争入札が原則で随意契約は例外だったが、実際には随意契約が90%以上を占め、競争入札は10%未満にとどまった。こうして問われたのが公社の資材調達である。公社は原価計算に金利負担まで織り込み、そのうえに適正な利潤という名目でおよそ10%を価格に載せると明言していた。調達先が偏るなか、取引先の側では通信機器・電話工事・電線の主要各社の役員に公社出身者が並び、大明電話工業は役員11人中9人、電話工事会社5社は社長のうち4人が公社出身だった。売上に占める公社への依存度は通信機器で50%、電話工事で95%、電線で20%に達し、発注の増減がそのまま各社の資金計画を左右した。

  • 日経ビジネス 1976年9月13日号
    • [20]資材購入は競争入札が原則だが随意契約が90%以上、競争入札は10%未満
    • [21]購入価格の原価計算に金利負担を織り込み
    • [22]公社は適正利潤として価格のほぼ10%を保証すると公言
    • [23]通信機器・電話工事・電線の主要各社に公社出身役員が在籍
    • [24]大明電話工業は役員11人のうち9人が公社出身
    • [25]電話工事業界は5社のうち4社の社長が公社出身
    • [26]公社への売上依存度は通信機器50%・電話工事95%・電線20%
    • [27]建設投資の削減で通信機器の発注は交換機30%・電話機10%減、各社の資金計画見直しへ
累積赤字で「第二の国鉄」と並べられる

1976年、公社の累積赤字は4565億円に達し、値上げ法案は国会でたなざらしとなって、建設投資の削減から通信機器各社の苦境を訴える声が出はじめた。当時の公社はしばしば国鉄と並べて論じられ、赤字部門を抱えた公共企業体が立ち行かなくなる「第二の国鉄」になるのではないかと問われている。電報は1963年度の9461万通を頂点に減り続け、番号案内は1回の問い合わせに30円かかるのに市内通話料は7円で、差額は公社の持ち出しになった。合理化の成果が無かったわけではない。100加入当たりの月間故障率は0.9回と米国の4.8回を大きく下回り、ダイヤル化率は99%に達していた。それでも従業員1人当たりの事業収入は601万円にとどまり、米国の958万円には届かなかった。

  • 日経ビジネス 1976年9月13日号
    • [28]1976年時点の累積赤字4565億円
    • [29]電話料金値上げ法案の停滞と建設投資削減による関連業界の苦境
    • [33]100加入当たり月間故障率0.9回(米国4.8回)、ダイヤル化率99%
    • [34]従業員1人当たり事業収入601万円(米国958万円)
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
    • [30]赤字部門を抱える公共企業体として国鉄と対比され「第二の国鉄」論が出る
    • [31]電報通数は昭和38年度9461万通をピークに減少
    • [32]番号案内は1回の問い合わせにコスト30円、市内通話料7円との差は公社の持ち出し
行列が消えて建設の理由を失う

1970年代後半、公社は年間500万台の電話端末を設置する敷設ピッチで積滞を解消し、需給は逆転した。行列が消えると敷設のピッチは落ち、年間の新規加入台数は約半分の200万台へ激減している。ここで問われたのは経営の巧拙ではなく、公共企業体が独占でインフラを建設するという使命そのものであった。申し込めばすぐ加入できるのなら、その使命はすでに終わったという声が大きくなる。料金の格差も論拠に使われ、長距離通信料金は米国の一に対して日本国内が九という開きにあり、通信コストの高さが日本企業の国際競争力を損なうというのが自由化を求める側の論点だった。公社は建設すべき対象を失ったところで、存続の理由を問われた。

  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [35]1970年代後半 年間500万台の敷設ピッチで積滞解消・需給逆転
    • [36]1970年代後半 年間新規加入台数が約半分の200万台へ激減
    • [37]積滞解消による公社の存在意義の問い直し
    • [38]公共企業体が独占でインフラ建設を担う使命は終わったとの論
    • [39]日米の長距離通信料金格差 米国1対日本9
    • [40]通信コスト高が日本企業の国際競争力を損なうという自由化論
参考文献[20]-[40]
  • 日経ビジネス 1976年9月13日号
    • [20]資材購入は競争入札が原則だが随意契約が90%以上、競争入札は10%未満
    • [21]購入価格の原価計算に金利負担を織り込み
    • [22]公社は適正利潤として価格のほぼ10%を保証すると公言
    • [23]通信機器・電話工事・電線の主要各社に公社出身役員が在籍
    • [24]大明電話工業は役員11人のうち9人が公社出身
    • [25]電話工事業界は5社のうち4社の社長が公社出身
    • [26]公社への売上依存度は通信機器50%・電話工事95%・電線20%
    • [27]建設投資の削減で通信機器の発注は交換機30%・電話機10%減、各社の資金計画見直しへ
    • [28]1976年時点の累積赤字4565億円
    • [29]電話料金値上げ法案の停滞と建設投資削減による関連業界の苦境
    • [33]100加入当たり月間故障率0.9回(米国4.8回)、ダイヤル化率99%
    • [34]従業員1人当たり事業収入601万円(米国958万円)
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
    • [30]赤字部門を抱える公共企業体として国鉄と対比され「第二の国鉄」論が出る
    • [31]電報通数は昭和38年度9461万通をピークに減少
    • [32]番号案内は1回の問い合わせにコスト30円、市内通話料7円との差は公社の持ち出し
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [35]1970年代後半 年間500万台の敷設ピッチで積滞解消・需給逆転
    • [36]1970年代後半 年間新規加入台数が約半分の200万台へ激減
    • [37]積滞解消による公社の存在意義の問い直し
    • [38]公共企業体が独占でインフラ建設を担う使命は終わったとの論
    • [39]日米の長距離通信料金格差 米国1対日本9
    • [40]通信コスト高が日本企業の国際競争力を損なうという自由化論

1981年〜真藤恒の就任による電電語の追放から非電話系への転換

外から合理化の技師を迎える

1980年12月21日、石川島播磨重工業の相談役だった真藤恒氏が、首相官邸で鈴木善幸首相から公社総裁への就任を要請された。翌1981年1月に第5代総裁となった真藤氏は、公社で初の民間出身の総裁である。人選は第二次臨時行政調査会の会長を務めた土光敏夫氏が、日本興業銀行相談役の中山素平氏と相談して決めたと伝えられる。真藤氏は九州帝国大学工学部の造船科を出て播磨造船所に入り、石川島播磨重工業の社長として「ドクター合理化」と呼ばれた技術者であった。就任が決まった当日、官邸の廊下で記者から受けた最初の質問は「あなたは誰ですか」であり、公社の広報部長は経歴を大至急調べるよう部下に指示している。33万人の職員を抱える組織に、外から来た合理化の技師が座った。

  • 日経ビジネス 1984年1月9日号
    • [41]1980年12月21日 首相官邸で鈴木首相から電電公社総裁就任を要請
    • [43]人選は土光敏夫第二臨調会長が中山素平日本興業銀行相談役と相談して決定
    • [45]就任決定当日に記者から受けた最初の質問は「あなたは誰ですか」
    • [46]公社広報部長が真藤氏の経歴を大至急調べるよう指示
    • [47]電電公社の職員は33万人
  • 日経ビジネス 1981年6月15日号
    • [42]1981年1月 日本電信電話公社第5代総裁に就任、初の民間出身総裁
  • 証券 1987年39巻4号(457号)
    • [44]1934年九州帝国大学工学部造船科卒、播磨造船所入社、1972年石川島播磨重工業社長、「ドクター合理化」と呼ばれる
公社の言葉づかいを入れ替える

真藤氏が最初に手を付けたのは、公社の内側だけで通じる言葉づかいであった。就任の翌月、電子交換機が故障して電話がつながらなくなったとき、電話局のテープは「ただいま電話がふくそうしてご迷惑をおかけしております」と流した。真藤氏は担当者を呼びつけ、翌日から「ただいま交換機が故障しており」という言い方に改めさせている。故障で30分以上不通になると事故として扱われるため、40分の不通を25分と報告する例もあり、これも同じ発想として戒められた。出張は日帰りに改め、料亭での宴会をやめ、幹部の出勤は始業の30分前へ動いた。世間からの批判については、『拒否ベースでモノを聞くな。受け入れベースで聞け』と社内に繰り返し求めた。

  • 日経ビジネス 1984年1月9日号
    • [48]1981年2月 電子交換機の故障時に電話局が「ふくそう」と案内、真藤総裁が翌日から「故障」と言い換えさせる
    • [49]「電電語でしゃべるな、日本語で話せ」が総裁語録として社内に広まる
    • [50]30分以上の不通が事故扱いになるため40分の不通を25分と報告する例があり、電電語の発想として戒められた
    • [51]総裁の日帰り出張・料亭宴会の廃止・幹部の30分前出勤への変化
  • 日経ビジネス 1981年6月15日号
    • [52]批判を受け止める姿勢を社内に求めた総裁の指示
電話以後のサービスを主力にする

電話事業について真藤氏が『電話はもう山に登ってしまった』と述べたのは1981年6月で、同氏は事業の性格を情報産業へ移していくべきだとした。独占を支えてきた公衆電気通信法も見直しの対象である。原則禁止を原則自由へ切り替える方向で郵政省と話し合っていることを、真藤氏は明かした。収入に占める電話の比重も、6割程度、あるいは半分にまで落としたい考えだった。社内の検討は、自動車電話や携帯電話など無線系の移動電話と、コンピューター通信・ファクシミリ通信・映像通信の二つへ分かれた。とりわけ電話・画像・データをデジタル方式で一元化する統合デジタルサービス(INS)に研究開発の重点が置かれ、1984年9月、公社は東京・三鷹と武蔵野の両地区でモデル実験を開始した。電話を配り終えた組織が次に何で食べるかという問いに、公社は答えを出す前に民営化を迎えた。

  • 日経ビジネス 1981年6月15日号
    • [53]総裁が「電話はもう山に登ってしまった」として情報産業への変革を掲げる
    • [54]公衆電気通信法を原則禁止から原則自由の体系へ改める方向で郵政省と協議
    • [55]電話収入の比重を全体の6割ないし半分へ落とす意向
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [56]無線系移動電話への事業拡大の志向
    • [57]コンピューター通信・ファクシミリ通信・映像通信の検討
    • [58]統合デジタルサービス(INS)への研究開発の重点配分
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [59]1984年9月 INSモデル実験を東京・三鷹、武蔵野地区で開始
参考文献[41]-[59]
  • 日経ビジネス 1984年1月9日号
    • [41]1980年12月21日 首相官邸で鈴木首相から電電公社総裁就任を要請
    • [43]人選は土光敏夫第二臨調会長が中山素平日本興業銀行相談役と相談して決定
    • [45]就任決定当日に記者から受けた最初の質問は「あなたは誰ですか」
    • [46]公社広報部長が真藤氏の経歴を大至急調べるよう指示
    • [47]電電公社の職員は33万人
    • [48]1981年2月 電子交換機の故障時に電話局が「ふくそう」と案内、真藤総裁が翌日から「故障」と言い換えさせる
    • [49]「電電語でしゃべるな、日本語で話せ」が総裁語録として社内に広まる
    • [50]30分以上の不通が事故扱いになるため40分の不通を25分と報告する例があり、電電語の発想として戒められた
    • [51]総裁の日帰り出張・料亭宴会の廃止・幹部の30分前出勤への変化
  • 日経ビジネス 1981年6月15日号
    • [42]1981年1月 日本電信電話公社第5代総裁に就任、初の民間出身総裁
    • [52]批判を受け止める姿勢を社内に求めた総裁の指示
    • [53]総裁が「電話はもう山に登ってしまった」として情報産業への変革を掲げる
    • [54]公衆電気通信法を原則禁止から原則自由の体系へ改める方向で郵政省と協議
    • [55]電話収入の比重を全体の6割ないし半分へ落とす意向
  • 証券 1987年39巻4号(457号)
    • [44]1934年九州帝国大学工学部造船科卒、播磨造船所入社、1972年石川島播磨重工業社長、「ドクター合理化」と呼ばれる
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [56]無線系移動電話への事業拡大の志向
    • [57]コンピューター通信・ファクシミリ通信・映像通信の検討
    • [58]統合デジタルサービス(INS)への研究開発の重点配分
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [59]1984年9月 INSモデル実験を東京・三鷹、武蔵野地区で開始

筆者考察

公社の32年は、事業を育てた歴史ではなく、与えられた宿題を片付けた歴史である。1952年に引き継いだのは、申し込んでも二、三年は付かない電話と、交換手に頼んで数時間待つ長距離回線だった。五ヵ年計画を三度重ねて加入者は240万から633万へ増えたが、架設を待つ行列はかえって伸び、1966年には160万個がまだ順番を待っていた。建設が需要に追いつかないあいだ、公社は投資を続ける理由を誰にも説明せずに済んだ。独占は、宿題が終わらないことによって正当化されていたのである。1970年代後半に年間500万台の敷設で行列が消えたとき、その正当化の根拠も一緒に消えた。

宿題を片付ける速さは、同時に収支を蝕んだ。1952年に設置電話の93.8%を占めていた事務用は、20年で住宅用に過半を譲り、1台1日当たりの利用回数は9.8回から5.5回へ落ちる。回線の建設費と維持費は使われようが使われまいが同じだけかかるから、あまり鳴らない電話を1台増やすことは、1台ぶんの赤字を増やすことに等しかった。1971年度の赤字転落は景気のせいにされたが、原因は使命の側にあった。1981年に外から来た真藤恒氏が、電話はもう山に登ってしまったと言い切ったのは、登り切った山から先に道が無いという意味である。公社が非電話系へ向かったのは、技術の見通しがあったからではなく、電話という商品の伸びしろが尽きたからだった。

電話1台1日当たりの平均利用回数 住宅用が事務用を追い越すまでの13年(回)

9.8 1958 5.5 1971
  • 昭和33年(1958年)9.8回、昭和46年(1971年)5.5回。この間に設置電話に占める住宅用の比率は6.2%から過半へ移った。
  • 出所は日経ビジネス 1973年3月5日号「日本電信電話公社『第二の国鉄』か『情報社会の花形』か」(公社サンプル調査)。

出典・参考

8件
出典・参考
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
  • 日経ビジネス 1976年9月13日号
  • 日経ビジネス 1981年6月15日号
  • 日経ビジネス 1984年1月9日号
  • 証券 1987年39巻4号(457号)

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