第2章 年〜年

NTT:公社民営化と新電電3社の参入による事業の切り出し

NTT株の上場から移動体通信の分離へ

1985年〜株式会社化による第一種・第二種の線引き

独占の裏づけを法律ごと組み替える

新たな法体系のもとでは、通信の設備を自ら持って提供する側と、その設備を借りて使う側とが分けられた。前者に当たる第一種電気通信事業者には、日本電信電話のほか、自前の設備を備える第二電電なども入り、競争の体制が組まれる。後者の第二種事業者は付加価値通信を営む者で、届け出さえすれば参入でき、海外にも門戸が開かれた。電電公社がこの枠組みで日本電信電話株式会社へ移ったのは、1985年4月1日である。とはいえ真藤恒社長は、この株式会社を中途半端な存在だと説明しており、その理由は、当面の事業が独占を前提に動くことと、会社法には5年以内、電気通信事業法には3年以内の見直し条項が付いていたことにあった。真藤氏は、法律の姿としては当時の米国よりも自由化の可能性が大きいと評している。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年9月号 真藤恒(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1985年7月11日講演要旨)
    • [1]新法体系は通信設備を提供する事業を第一種電気通信事業者と位置づけ
    • [2]第二電電・第三電電が第一種事業者として認可され競争体制へ
    • [3]VANなど第二種電気通信事業者は届け出だけで自由、国際的にも開放
    • [4]1985年4月1日 電電公社が新法体系の下で株式会社となる
    • [5]社長は新会社を「中途半端なもの」で実質上の事業は当分独占体系のままと説明
    • [6]会社法は5年以内、電気通信事業法は3年以内に見直す条項
    • [7]法律の姿としては当時の米国より自由化の可能性が大きいとの評価
長距離料金を四度引き下げる

競争が最初に現れたのは料金であった。公社時代の料金体系は、負担力の強い企業が使う長距離通話を高くし、その黒字で近距離通話の赤字を埋める形で、国会の承認を得て決められていた。真藤氏が総裁に就いてからの4年間に長距離料金は4回引き下げられ、最も遠い区間の3分間720円は400円になり、夜間は約半額の220円となった。午後8時から10時の時間帯が、午前10時から11時に代わって通話の最も混む時間になった。料金を下げた結果、通話の分布が動いたのである。真藤氏の読みでは、この変化は長距離の料金がどれほど高かったかの表れであり、値下げすれば客が確実に増えることの裏付けでもあった。ただ、近距離や市内の通話でどれほどの赤字を抱えているのか、日本電信電話には正確に測る手段がなく、その設備とノウハウを米国から急いで取り入れようとしていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年9月号 真藤恒(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1985年7月11日講演要旨)
    • [8]公社時代の料金は国会承認制で、長距離の黒字が近距離の赤字を埋める体系
    • [9]過去4年間に4回の長距離料金引き下げ、最遠距離3分720円を400円へ、夜間は約半額の220円
    • [10]最ふくそう時間帯が午前10〜11時から午後8〜10時へ移動
    • [11]値下げによる通話増を長距離料金の割高さの証拠と評価
    • [12]近距離・市内の赤字を正確に計測する仕組みがなく米国から設備・ノウハウを導入中
国有独占の発想を社員から抜く

1988年初め、民営化から約3年を経た時点で仕上がりを問われた真藤氏は『できあがるもんか。永久にでき上がりゃせんよ』と答えた。国有の独占だった公社時代に身についた自分中心の発想を改め、世の中を軸に動く組織へ移っていくのが企業のあるべき姿だ、というのがその根拠である。全社員に宛てた手紙の題は「脚下照顧」で、社内から世間を見る目を、世間から社内を見る目へ切り替えるよう求めた。現場ではなく高級管理職の知恵こそが技術と組織を根本から変えうるとして、真藤氏はその層を名指しで批判した。コストとは人と物の動きを金額に表したものにすぎない。だから合理化によるコスト削減を経営の出発点に置く以上、仕事の進め方に潜む弱点を洗い出して生産性を上げるほかないと真藤氏は説いた。

  • 日経ビジネス 1988年1月4日号
    • [13]民営化に完成はなく永久に変わり続けるとする社長の認識
    • [14]国有独占下で身についた自分本位の発想を、世の中本位へ改める必要
    • [15]社員全員に「脚下照顧」と題する手紙を出し、世の中から会社を見るよう要求
    • [16]技術と組織を根本から変えるのは高級管理職の知恵だとする管理職層への批判
    • [17]経営の出発点は合理化によるコスト削減であり、コストは人と物の動きの金銭表示という説明
参考文献[1]-[17]
  • 証券アナリストジャーナル 1985年9月号 真藤恒(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1985年7月11日講演要旨)
    • [1]新法体系は通信設備を提供する事業を第一種電気通信事業者と位置づけ
    • [2]第二電電・第三電電が第一種事業者として認可され競争体制へ
    • [3]VANなど第二種電気通信事業者は届け出だけで自由、国際的にも開放
    • [4]1985年4月1日 電電公社が新法体系の下で株式会社となる
    • [5]社長は新会社を「中途半端なもの」で実質上の事業は当分独占体系のままと説明
    • [6]会社法は5年以内、電気通信事業法は3年以内に見直す条項
    • [7]法律の姿としては当時の米国より自由化の可能性が大きいとの評価
    • [8]公社時代の料金は国会承認制で、長距離の黒字が近距離の赤字を埋める体系
    • [9]過去4年間に4回の長距離料金引き下げ、最遠距離3分720円を400円へ、夜間は約半額の220円
    • [10]最ふくそう時間帯が午前10〜11時から午後8〜10時へ移動
    • [11]値下げによる通話増を長距離料金の割高さの証拠と評価
    • [12]近距離・市内の赤字を正確に計測する仕組みがなく米国から設備・ノウハウを導入中
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号
    • [13]民営化に完成はなく永久に変わり続けるとする社長の認識
    • [14]国有独占下で身についた自分本位の発想を、世の中本位へ改める必要
    • [15]社員全員に「脚下照顧」と題する手紙を出し、世の中から会社を見るよう要求
    • [16]技術と組織を根本から変えるのは高級管理職の知恵だとする管理職層への批判
    • [17]経営の出発点は合理化によるコスト削減であり、コストは人と物の動きの金銭表示という説明

1987年〜政府保有株の放出による上場と株価の低迷

政府保有株を市場へ放出する

1987年2月9日、日本電信電話の株式が東京証券取引所第一部に上場された。発行済株式総数1560万株はすべて大蔵大臣が保有しており、上場に際して売り出されたのは165万株、これとは別に一般競争入札で20万株が売却されている。1986年3月期の営業収益は4兆9313億円で、うち電話収入が4兆2337億円と85.9%を占め、従業員は30万1069人であった。1株当たりの当期純利益は9015円、1株当たりの株主資本は22万2225円で、配当は5000円を継続する方針が示された。政府保有株の売却代金は国の歳入に入るため、放出のたびに市場で流通する株式は増えていく。上場によって何がどれだけ動くかを決める権限は、会社の側にほとんど無かった。

  • 証券 1987年39巻4号(457号)
    • [18]1987年2月9日 東京証券取引所第一部へ上場(大阪・名古屋ほか7取引所へ同時申請)
    • [19]発行済株式総数1560万株を大蔵大臣が100%保有
    • [20]売出し165万株、別に一般競争入札方式で20万株を売却
    • [21]1986年3月期 営業収益4兆9313億円、うち電話収入4兆2337億円(85.9%)
    • [22]1986年6月30日現在の従業員数30万1069人
    • [23]1986年3月期の1株当たり当期純利益9015円、1株当たり株主資本22万2225円
    • [24]収益状況を勘案のうえ5000円配当を継続する配当方針
  • 日経ビジネス 1989年6月19日号
    • [25]政府保有株の放出が進むほど市場で流通する株式が増える構造
リクルート事件で会長を失う

1988年、真藤恒会長がリクルート事件で辞任した。同年6月に社長を継いでいた山口開生氏は、翌年のインタビューで、前会長の辞任によって次に打つ手の発想に違いは出るかもしれないが、大きな方向は変わっていないと述べている。事件が民営化路線の後退を招いたという見方についても、具体的な影響はないと否定した。むしろ山口氏が不満を示したのは規制の所在であった。それまで国会で議論して決めていた料金などの事項は、民営化の後にすべて郵政省へ移り、確かに郵政省の力が強くなったと語っている。手続きは国会より審議会のほうが簡単で小回りも利くはずなのに、そうなっていないというのが同氏の見立てである。経営の自由を得る代わりに、監督の相手が国会から官庁へ替わった。

  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [26]1988年 真藤恒会長がリクルート事件で辞任
  • 日経ビジネス 1989年6月19日号
    • [27]1988年6月社長就任の山口開生氏は前会長辞任後も大きな方向は変わらないと説明
    • [28]リクルート事件による民営化路線の後退という見方を具体的影響はないと否定
    • [29]国会で決めていた料金などの事項が民営化後は郵政省へ移り権限が強まったとの認識
    • [30]審議会のほうが手続きは簡単で小回りも利くはずだという社長の見方
株価の下落を説明できずにいる

上場からほどなく、株価は下落に転じた。1989年の時点で山口氏は、経常利益が落ちているわけではなく、料金を値下げできたのも体力があるからで、体質はむしろ強固になっていると述べ、『売り出してすぐの株価は何だったんだ、いったい何が株価を決めているんだ』と語っている。株主への還元にも制約があった。株主優遇策を打つには政府の了承がまず要り、利益の還元もその範囲に限られる点を、同氏は問題視した。配当を上積みしても約7割は筆頭株主の国に流れ、一般株主が得るのは1株か2株分にすぎないからである。株価は1991年に100万円を下回った。その後の持ち直しで批判も静まったと、後任の児島仁社長は振り返っている。

  • 日経ビジネス 1989年6月19日号
    • [31]上場後に株価が低迷、業績は変わらず経常利益も落ちていないとの社長の説明
    • [32]売り出し直後の株価と現在の株価の差を説明できないとする社長の述懐
    • [33]株主優遇策には政府の了解が必要で、その制約に問題があるとの社長の認識
    • [34]配当を増やすと7割ほどが国へ渡り、一般株主には1株分か2株分しか回らない
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [35]1991年 株価が100万円を割り込む
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [36]株価が100万円割れの状態から回復し非難の大合唱も一段落したとの社長の説明
参考文献[18]-[36]
  • 証券 1987年39巻4号(457号)
    • [18]1987年2月9日 東京証券取引所第一部へ上場(大阪・名古屋ほか7取引所へ同時申請)
    • [19]発行済株式総数1560万株を大蔵大臣が100%保有
    • [20]売出し165万株、別に一般競争入札方式で20万株を売却
    • [21]1986年3月期 営業収益4兆9313億円、うち電話収入4兆2337億円(85.9%)
    • [22]1986年6月30日現在の従業員数30万1069人
    • [23]1986年3月期の1株当たり当期純利益9015円、1株当たり株主資本22万2225円
    • [24]収益状況を勘案のうえ5000円配当を継続する配当方針
  • 日経ビジネス 1989年6月19日号
    • [25]政府保有株の放出が進むほど市場で流通する株式が増える構造
    • [27]1988年6月社長就任の山口開生氏は前会長辞任後も大きな方向は変わらないと説明
    • [28]リクルート事件による民営化路線の後退という見方を具体的影響はないと否定
    • [29]国会で決めていた料金などの事項が民営化後は郵政省へ移り権限が強まったとの認識
    • [30]審議会のほうが手続きは簡単で小回りも利くはずだという社長の見方
    • [31]上場後に株価が低迷、業績は変わらず経常利益も落ちていないとの社長の説明
    • [32]売り出し直後の株価と現在の株価の差を説明できないとする社長の述懐
    • [33]株主優遇策には政府の了解が必要で、その制約に問題があるとの社長の認識
    • [34]配当を増やすと7割ほどが国へ渡り、一般株主には1株分か2株分しか回らない
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
    • [26]1988年 真藤恒会長がリクルート事件で辞任
    • [35]1991年 株価が100万円を割り込む
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [36]株価が100万円割れの状態から回復し非難の大合唱も一段落したとの社長の説明

1988年〜投資の自由が生んだ子会社148社と移動体通信の分離

10日に1社の速さで子会社を設立する

民営化と引き換えに日本電信電話が得たものの一つが、投資の自由であった。1985年4月以降、真藤社長自らの指揮で10日間に1社の速さで子会社が設けられ、新規事業開発室は目標を日立製作所に置き、グループ会社500社を目指すと語っていた。真藤氏自身の整理では、子会社は3種類に分かれる。最も数が多いのは回線を使って付加価値通信を営む第二種事業者で、5%や10%の少数出資で参加し、技術者を送り込む。これは回線を使う客を育てて通信量を増やすためのもので、全体の8割を占めた。次が主導権を握る本当の子会社で、固定資産を高度利用して4兆6000億円の借入金を返す財源を作るNTT都市開発がこれに当たり、大小合わせても20社に満たなかった。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [37]通信市場への新電電参入と引き換えに投資の自由を得る
    • [38]1985年4月以降、社長自らの指揮で10日間に1社のペースで子会社を設立
    • [39]新規事業開発室が日立製作所を目標にグループ会社500社を掲げる
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号
    • [40]第二種事業者への5〜10%の少数出資と技術者派遣
    • [41]回線を使う客を育てて通信量を増やす関連会社が全体の8割
    • [42]NTT都市開発など主導権を持つ子会社は大小合わせて20社未満、4兆6000億円の借入金返済財源が目的
子会社同士が値下げで食い合う

1990年度のグループは売上高1兆300億円、経常利益530億円で、どちらも過去最高を更新し、1991年時点の子会社・関連会社は148社を数えた。しかし同じ市場に複数の子会社が重なって参入する事態も起きていた。子会社の新設は1987年度を境に急に細り、1990年度はわずか2社にとどまった。ネットワークサービスや情報処理では日本情報通信とNTT PCコミュニケーションズなどグループ内の会社どうしが値下げでぶつかり、首都圏のテレマーケティングでも3社が競合して整理統合の対象に挙がった。1985年度に設立された日本情報通信は黒字に届くまで5年かかり、1991年3月期までに累積損失が130億円に達している。明確な戦略のないまま子会社を増やし過ぎた、というのがグループを統括する岩崎昇三副社長の見方である。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [43]子会社・関連会社148社、1990年度の売上高1兆300億円・経常利益530億円で過去最高
    • [44]同一事業領域で子会社同士の競合が生じ成長が難しいとして統合再編の4原則を提示
    • [45]子会社設立は1987年度を境に急停止、1990年度の新設は2社
    • [46]日本情報通信・NTT PCコミュニケーションズなどが仲間内で価格引き下げ競争
    • [47]テレマーケティング3社が首都圏で競合し整理統合の対象に
    • [48]日本情報通信は設立から営業黒字まで5年、1991年3月期までの累積損失130億円
    • [49]グループ事業統括副社長が戦略なしに子会社を作りすぎたと総括
育った移動体通信を本体から出す

1990年3月、政府はNTTの経営形態の見直しを決定した。本体の分割論議は5年先送りとなったが、実行事項に移動体通信サービスの分離が含まれた。移動体通信は1990年度に税引前利益400億円を計上しており、発展が期待できる分野であったから、社内では大激論になったと児島仁社長は述べている。分離は1992年6月の株主総会でまず全国1社として行い、1年後をめどに中央会社と8地域会社の9社へ分ける段取りになった。人員の側も動いており、かつて32万9000人いた従業員は2割以上減って26万人弱となり、次の目標は23万人に置かれた。日本電信電話は成長部門を切り出しながら、全国1社体制を守ることを使命だと主張し続けた。守る対象は事業の範囲ではなく、網の一体性のほうへ移っていた。

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [50]1990年3月 政府がNTTの経営形態見直しについて決定
    • [51]本体の分割論議は5年先送りとし、移動体通信サービスの分離を実行事項に
    • [52]移動体通信事業は1990年度に税引前利益400億円、分離は社内で大激論
    • [53]1992年6月の株主総会で全国1社として分離、1年後をめどに中央会社と8地域会社の9社へ
    • [54]従業員は32万9000人から2割以上減の26万人弱、目標は23万人
    • [55]全国1社体制の維持は財務的に苦しい選択だが使命だとする社長の説明
参考文献[37]-[55]
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [37]通信市場への新電電参入と引き換えに投資の自由を得る
    • [38]1985年4月以降、社長自らの指揮で10日間に1社のペースで子会社を設立
    • [39]新規事業開発室が日立製作所を目標にグループ会社500社を掲げる
    • [43]子会社・関連会社148社、1990年度の売上高1兆300億円・経常利益530億円で過去最高
    • [44]同一事業領域で子会社同士の競合が生じ成長が難しいとして統合再編の4原則を提示
    • [45]子会社設立は1987年度を境に急停止、1990年度の新設は2社
    • [46]日本情報通信・NTT PCコミュニケーションズなどが仲間内で価格引き下げ競争
    • [47]テレマーケティング3社が首都圏で競合し整理統合の対象に
    • [48]日本情報通信は設立から営業黒字まで5年、1991年3月期までの累積損失130億円
    • [49]グループ事業統括副社長が戦略なしに子会社を作りすぎたと総括
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号
    • [40]第二種事業者への5〜10%の少数出資と技術者派遣
    • [41]回線を使う客を育てて通信量を増やす関連会社が全体の8割
    • [42]NTT都市開発など主導権を持つ子会社は大小合わせて20社未満、4兆6000億円の借入金返済財源が目的
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [50]1990年3月 政府がNTTの経営形態見直しについて決定
    • [51]本体の分割論議は5年先送りとし、移動体通信サービスの分離を実行事項に
    • [52]移動体通信事業は1990年度に税引前利益400億円、分離は社内で大激論
    • [53]1992年6月の株主総会で全国1社として分離、1年後をめどに中央会社と8地域会社の9社へ
    • [54]従業員は32万9000人から2割以上減の26万人弱、目標は23万人
    • [55]全国1社体制の維持は財務的に苦しい選択だが使命だとする社長の説明

筆者考察

民営化で日本電信電話が手にしたのは、経営の自由であると同時に、値下げを断り続けられない立場であった。公社時代の料金は国会の承認で決まり、長距離を高くして市内の赤字を埋める配分は政策として与えられていた。競争が入ると、その配分はそのまま競争相手の狙い目になる。第二電電は長距離だけを取りに来て、赤字の市内網を維持する義務は日本電信電話に残った。最も遠い区間の3分720円は400円へ、さらに240円へと下がり、1991年3月の値下げだけで2300億円の減収となって、当時およそ4000億円だった経常利益の半分以上が吹き飛ぶ計算になった。自由化とは、儲かる区間から順に値段を削られることでもあった。

同じことが事業の単位でも起きた。投資の自由を得た日本電信電話は10日に1社の速さで子会社を作り、148社まで増やしたが、増えたのは新しい市場ではなく、身内どうしがぶつかる市場だった。一方で、育った移動体通信は、本体の分割論を5年先送りする取引の代償として切り出されることになる。稼ぎ頭を出し、赤字の市内網を抱え、料金は下げ続ける。1987年2月に株を買った投資家は、この順序で会社の中身が薄くなっていくのを見ていた。株価が100万円を割ったのは業績が崩れたからではない。会社の形を決めるのが経営ではないという事実が、値段のほうに出ただけである。

最も遠い区間の長距離通話料(3分間・昼間) 民営化の年から児島仁の社長就任まで(円)

400 1985 240 1991
  • 1981年の水準720円から4回の引き下げを経て1985年7月時点で400円(夜間は約半額の220円)。1991年4月時点の最高料金は3分240円で、数年以内に200円までの引き下げを表明していた。
  • 出所は証券アナリストジャーナル 1985年9月号 真藤恒「日本電信電話」、日経ビジネス 1991年4月29日号「編集長インタビュー 児島仁氏」。

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
  • 証券アナリストジャーナル 1985年9月号 真藤恒(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1985年7月11日講演要旨)
  • 証券 1987年39巻4号(457号)
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号
  • 日経ビジネス 1989年6月19日号
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号

免責事項およびポリシー