セイノーホールディングス:田口利八氏の田口自動車と西濃トラック運輸
1930年〜萩原町で月賦で購入した中古トラック1台と、大垣への進出
田口利八氏は1930年2月11日、岐阜県益田郡萩原町でフォード製の中古トラック1台を元手に田口自動車を開業した。当初の陣容は電話番の妻の田口このゑ氏と2人だけで、田口利八氏が運転から修理までを1人で担った。車両の値は1,300円で、頭金500円を入れて残りを月賦とする条件を売り手に呑ませた。付近では国鉄高山線の敷設や水力発電所の建設が進み、資材を運ぶ仕事には事欠かなかった。1日の稼ぎは同業の相場10円に対して平均15円、月300円ほどに上り、雇われ運転手の月給60円程度の5倍に相当した。月賦は1年足らずで完済し、1931年には2台目のトラックを導入。雇われの月給とのこの差が、自前の車で独立する決断を後押ししたとみられる。
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [1]1930年2月11日、萩原の新居を事務所にフォード製中古トラック1台で田口自動車を旗揚げ
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [2]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [3]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [4]開業当時、国鉄高山線の建設と関西電力小坂水力発電所の工事が盛んで資材輸送の仕事が多かった
- [5]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [6]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
田口利八氏は1933年4月15日、事業の本拠を飛騨の山あいから岐阜県大垣市へ移した。トラックが4台に増え、飛騨の小さな町の仕事量では車両を回すのに限界が近づいた。従業員には名古屋を推す声もあったものの、田口利八氏は知人のいない大垣を選んだ。決め手は日本の中央という位置、豊富な地下水による工場進出の見込み、人手の得やすさにあった。移転時には運転手と助手が各5人で、飛騨の同業者がトラック2台を携えて合流し、車両は計6台となった。大垣では市内千鳥町の2階建て長屋を2軒分借り、当初から8台分の車庫を設けて事業の拡大に備えた。目先の荷量より立地の将来性を重んじた選択が、のちの社名に冠する西濃の地盤をもたらしたと考えられる。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [7]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [9]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [10]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [11]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [13]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [15]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- 新日本経済 30(3) 1966年 高橋哲夫
- [8]1933年(昭和8年)に大垣へ進出、トラックは4台
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [12]大垣は水資源が豊富で工場立地が見込め、国道・東海道線沿いの日本の中心。進出時は同業者の合流でトラック計6台
- [14]大垣は水資源が豊富で工場立地が見込め、国道・東海道線沿いの日本の中心。進出時は同業者の合流でトラック計6台
参考文献[1]-[15]
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [1]1930年2月11日、萩原の新居を事務所にフォード製中古トラック1台で田口自動車を旗揚げ
- [12]大垣は水資源が豊富で工場立地が見込め、国道・東海道線沿いの日本の中心。進出時は同業者の合流でトラック計6台
- [14]大垣は水資源が豊富で工場立地が見込め、国道・東海道線沿いの日本の中心。進出時は同業者の合流でトラック計6台
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [2]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [3]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [4]開業当時、国鉄高山線の建設と関西電力小坂水力発電所の工事が盛んで資材輸送の仕事が多かった
- [5]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [6]中古トラック1,300円を頭金500円・残り月賦で購入。1日平均15円・月300円を稼ぎ、運転手月給60円程度の時代。妻が電話番、本人が経営者兼運転手兼修理屋。月賦は1年以内に完済し翌1931年に1台追加
- [7]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [9]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [10]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [11]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [13]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- [15]1933年4月15日大垣進出。トラック4台で飛騨の町では限界、名古屋案もあったが日本の真ん中・地下水・工業発展性・人的資源を理由に大垣を選択。運転手・助手各5人、中沢孝吉がトラック2台で合流。大垣市千鳥町の長屋を2軒借り8台分の車庫
- 新日本経済 30(3) 1966年 高橋哲夫
- [8]1933年(昭和8年)に大垣へ進出、トラックは4台
1941年〜資本金18万円の西濃トラック運輸と、14業者の戦時統合
田口利八氏は1941年1月1日、個人経営の田口自動車を西濃トラック運輸株式会社に改組し、初めて社長に就任した。新会社は資本金18万円、トラック20台、従業員約50人の規模だった。改組の発端は戦時統制で、1940年2月の陸運統制令に続き、保有台数に応じて統合を迫る政府方針が9月に示された。田口利八氏は個人経営を続けるため、統合を免れる20台の基準を満たそうと、相場より高い値でトラック1台を追加で取得した。その後に当局は方針を改め、個人経営を年内限りとして翌年からの会社形態を求めた。統制への対応として始まった法人化でも、経営を組織立てて回す契機になったと推察される。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [16]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [17]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [19]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [20]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [22]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [18]19台から1台を買い足して基準を満たしたが法人化の通達で、1941年元日に資本金18万円の西濃トラック運輸に改組(従業員50名・トラック20台)
- [21]19台から1台を買い足して基準を満たしたが法人化の通達で、1941年元日に資本金18万円の西濃トラック運輸に改組(従業員50名・トラック20台)
- [23]19台から1台を買い足して基準を満たしたが法人化の通達で、1941年元日に資本金18万円の西濃トラック運輸に改組(従業員50名・トラック20台)
田口利八氏は1941年3月、同業の大垣トラック合同有限会社を買収して傘下に収めた。規模は従業員40人、トラック17台程度で、田口利八氏は2社を率いる立場となった。企業統合の流れのなかで弱小業者の経営は難しくなり、経営権を売却する会社が増えた。田口利八氏のもとにも複数の売却の打診が寄せられ、そのなかから1社を選んだ。車両と人員を増やして戦時体制を乗り切ることが、買収の狙いだった。1941年12月の開戦後は統制がさらに強まり、業者を組織する事業組合の創設と軍需品輸送の優先が打ち出された。2社合わせて37台という車両数が、翌年の統合会社で主導権を握る下地になったのだろう。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [24]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [25]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [27]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [28]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [29]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [30]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [26]1941年3月、トラック17台の大垣トラック合同有限会社を傘下に。統合会社のトラック93台中37台を田口が保有
1942年3月15日、大垣を中心とする1市5郡の14業者が統合し、資本金90万2,550円、トラック93台の西濃運輸株式会社が発足した。西濃トラック運輸と大垣トラック合同もこの統合会社に吸収され、田口利八氏は自社の独立した経営を失った。根拠は1942年初めの鉄道大臣訓示で、1地区1業者を原則とする集約が全国で進んだ。業者数は最終的に統合前の約10分の1、340まで減少。田口利八氏は合併に反対だったものの、時勢に抗えずに受け入れた。社長には名古屋鉄道の藍川清成氏が就任し、最年少の35歳だった田口利八氏は専務として事実上の経営責任を担った。派閥の生まれる寄り合い所帯を率いた経験が、戦後の分離独立を急がせる伏線になったと思われる。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [31]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [33]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [35]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [37]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [38]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [39]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- 新日本経済 30(3) 1966年 高橋哲夫
- [32]初代社長は名古屋鉄道社長の藍川清成、専務に田口利八。社長が年2回しか出社せず田口が事実上の経営責任者
- [40]初代社長は名古屋鉄道社長の藍川清成、専務に田口利八。社長が年2回しか出社せず田口が事実上の経営責任者
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [34]1942年初頭に一地区一業者への統合方針。西濃トラック運輸と大垣トラック合同も西濃地区14業者・93台の西濃運輸に統合
- [36]1942年初頭に一地区一業者への統合方針。西濃トラック運輸と大垣トラック合同も西濃地区14業者・93台の西濃運輸に統合
参考文献[16]-[40]
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [16]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [17]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [19]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [20]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [22]1940年2月陸運統制令、9月第一次トラック運送統合方針。20台以上なら個人経営可のため高値で1台買い足すも、方針変更で翌年からの会社形態を命じられ、1941年1月1日に西濃トラック運輸(資本金18万円・20台・約50人)を設立し初めて社長に
- [24]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [25]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [27]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [28]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [29]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [30]統合の風潮で弱小業者の経営が難しくなり身売りが増加、自社にも複数の話。戦時体制を乗り切る基盤強化のため1941年3月に大垣トラック合同有限会社(従業員40人・トラック17台程度)を買収し2社を率いた。開戦後は事業組合制度の創設と軍需品輸送最優先の方針
- [31]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [33]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [35]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [37]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [38]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- [39]1942年初めの鉄道大臣訓示で1地区1業者の統合、全国約10分の1の340業者に。3月15日に1市5郡14業者で西濃運輸(資本金90万2,550円・トラック93台)設立、2社を統合させる。合併には反対。社長は名鉄の藍川清成、田口は35歳で専務。派閥ができ経営が難しかった
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [18]19台から1台を買い足して基準を満たしたが法人化の通達で、1941年元日に資本金18万円の西濃トラック運輸に改組(従業員50名・トラック20台)
- [21]19台から1台を買い足して基準を満たしたが法人化の通達で、1941年元日に資本金18万円の西濃トラック運輸に改組(従業員50名・トラック20台)
- [23]19台から1台を買い足して基準を満たしたが法人化の通達で、1941年元日に資本金18万円の西濃トラック運輸に改組(従業員50名・トラック20台)
- [26]1941年3月、トラック17台の大垣トラック合同有限会社を傘下に。統合会社のトラック93台中37台を田口が保有
- [34]1942年初頭に一地区一業者への統合方針。西濃トラック運輸と大垣トラック合同も西濃地区14業者・93台の西濃運輸に統合
- [36]1942年初頭に一地区一業者への統合方針。西濃トラック運輸と大垣トラック合同も西濃地区14業者・93台の西濃運輸に統合
- 新日本経済 30(3) 1966年 高橋哲夫
- [32]初代社長は名古屋鉄道社長の藍川清成、専務に田口利八。社長が年2回しか出社せず田口が事実上の経営責任者
- [40]初代社長は名古屋鉄道社長の藍川清成、専務に田口利八。社長が年2回しか出社せず田口が事実上の経営責任者
1946年〜分散して興した水都産業と、東京―大阪22時間の弾丸便
田口利八氏は1946年11月1日、統合会社から分かれて水都産業株式会社を設立した。中心は旧西濃トラック運輸と旧大垣トラック合同の人員で、資本金18万円、従業員78人、車両38台での再出発。運輸省は小規模業者の乱立を嫌って統合前への復帰に反対し、同業者も混乱を懸念して分離を拒んだ。田口利八氏は統合会社を戦時特例の不自然な形とみなし、身動きの取れない体制では民間の荷主へのサービスが疎かになると見た。発足の席で田口利八氏は会社を船にたとえて『おんぼろ田口丸が、今、荒波にのり出す』と従業員に呼びかけ、積み荷より乗員の安全を優先する覚悟を示した。1947年末の道路運送法で事業は運輸大臣の免許制となり、1948年3月には統合会社の解体方針も決まった。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [41]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [42]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [44]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [46]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [47]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [49]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [43]管轄官庁は統合継続を指導、業者仲間も混乱を恐れて反対。旧2社の社員を中心に1946年11月1日に水都産業を発足(トラック38台)、「オンボロ田口丸」の船出のあいさつ
- [45]管轄官庁は統合継続を指導、業者仲間も混乱を恐れて反対。旧2社の社員を中心に1946年11月1日に水都産業を発足(トラック38台)、「オンボロ田口丸」の船出のあいさつ
- [48]管轄官庁は統合継続を指導、業者仲間も混乱を恐れて反対。旧2社の社員を中心に1946年11月1日に水都産業を発足(トラック38台)、「オンボロ田口丸」の船出のあいさつ
西濃トラック運輸は1948年11月29日、大垣―名古屋58キロの路線免許を受けた。当時のトラック運送は1県内での営業が原則だった。田口利八氏は1947年秋に長距離輸送の構想を当局へ持ち込み、運輸省に20日通って内諾を得た。路線の出先では、到着した荷の戸口配送と帰り荷の集荷を水屋と呼ぶ取扱店に任せるのが通例で、2割程度の手数料を取られた。田口利八氏は水屋任せでは荷受人に西濃の名が伝わらず、配達の責任も持ちきれないとみて、直営の営業所を置く方針を採った。1949年2月に名古屋営業所、1951年3月に東京営業所の土地を取得し、土地は価格より立地を優先して選んだ。戸口までの責任を自社で負う体制が、荷主の信用を長距離路線の集荷力に変えたといえる。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [50]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [52]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [53]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [55]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [56]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [58]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [51]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [54]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [57]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [59]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
西濃トラック運輸は1954年9月、東京―大阪間を22時間で結ぶ弾丸便の運行を始めた。路線は1949年12月に大垣―大阪167キロ、1950年12月に名古屋―東京403キロへ延び、東海道を一本で結んだ。長距離路線の免許を得る同業者が相次ぎ、同じ区間を走る業者との競争が強まった。当時は東京―大阪に足かけ3日かかるのが普通で、田口利八氏は最新鋭の車両と若手の優秀な乗務員をこの便に充てた。大垣や一宮の機屋から東京・大阪の繊維問屋向けの織物では、相場の動きに合わせて途中で引き返す注文にも応じた。1954年に直営店は16に達し、会社は1955年1月の西濃運輸への改称へ進んだ。所要時間という目に見える差で、増える同業路線との違いを荷主に示そうとしたとうかがえる。
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [60]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [63]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [64]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [66]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [67]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [61]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
- [62]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
- [65]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
- [68]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
参考文献[41]-[68]
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- [41]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [42]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [44]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [46]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [47]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [49]戦後も運輸省は統合前への復帰に反対。統合会社は戦時特例で不自然、身動きが取れず民間サービスが疎かになるとして、仲間の反対を押し切り業界で最初に分散。1946年11月1日に水都産業(資本金18万円・従業員78人・車両38台)設立。1947年末の道路運送法で免許制、1948年3月に統合会社解体方針
- [50]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [52]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [53]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [55]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [56]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [58]トラック運送は1県内が建前。1947年秋に長距離構想を陸運事務所・運輸省へ、20日目に内諾。1948年11月29日大垣―名古屋58キロ路線免許。水屋は2割程度の手数料、企業名が浸透せず責任を持てないため直営主義。土地は立地第一、1949年2月名古屋営業所・1951年3月東京営業所を取得
- [60]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [63]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [64]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [66]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- [67]長距離路線免許の同業者が続出し競争意識。1954年9月東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足掛け3日、最新鋭車と若手優秀乗務員。機屋地帯の織物は相場に応じ途中で引き返すことも。1954年に直営店16、1955年1月に西濃運輸へ改称
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- [43]管轄官庁は統合継続を指導、業者仲間も混乱を恐れて反対。旧2社の社員を中心に1946年11月1日に水都産業を発足(トラック38台)、「オンボロ田口丸」の船出のあいさつ
- [45]管轄官庁は統合継続を指導、業者仲間も混乱を恐れて反対。旧2社の社員を中心に1946年11月1日に水都産業を発足(トラック38台)、「オンボロ田口丸」の船出のあいさつ
- [48]管轄官庁は統合継続を指導、業者仲間も混乱を恐れて反対。旧2社の社員を中心に1946年11月1日に水都産業を発足(トラック38台)、「オンボロ田口丸」の船出のあいさつ
- [51]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [54]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [57]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [59]運輸省日参20日目に内諾。1948年10月に水都産業を西濃トラック運輸に改称、11月に大垣―名古屋58キロ免許。水屋では荷主の信頼に応えられないとして直営店方式、1949年2月の名古屋・大須の土地取得から
- [61]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
- [62]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
- [65]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
- [68]1949年12月大垣―大阪167キロ、1950年12月名古屋―東京403キロの免許。1954年9月に東京―大阪22時間の弾丸便、当時は足かけ3日。1954年の直営店は17カ所。1955年に西濃運輸へ改称
出典・参考
3件
- ポケット社史「信頼で世界を結ぶ総合物流商社(西濃運輸)」1991年3月
- 私の履歴書 経済人15「田口利八」(日本経済新聞 1973年6月連載)
- 新日本経済 30(3) 1966年 高橋哲夫