スマートフォン向けフィルムタッチセンサーへの単年274億円の集中投資
祖業の技術を単一市場へ賭けるか——鈴木順也社長はスマートフォン需要にどこまで寄せたか
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- 概要
- 2013年4月、日本写真印刷(現・NISSHA)がスマートフォン向けフィルムタッチセンサーへの投資を決め、2014年度に姫路・加賀両工場へ単年274億円を投じた経営判断。鈴木順也社長の主導による、特定市場への集中投資である。
- 背景
- 美術印刷で磨いた写真製版は、フィルムに透明電極を刷る技術として入力装置へ転用でき、立ち上がるスマートフォンの量産需要を取り込めると読んだ。祖業から続く自社技術の応用の延長にあった。
- 内容
- 市場・顧客・方式をひとつへ束ねた集中投資で、2014年度の姫路・加賀両工場合計274億円は1社の年間設備投資として過去最大級であった。同年9月には決算期を3月期から12月期へ改めた。
- 含意
- 2015年以降の新方式台頭と顧客集中で価格が下落し、ディバイス事業の営業利益はほぼ消え、連結でも創業以来初の本格赤字となった。2019年の減損と2020年の希望退職まで尾を引き、本流を医療機器・医薬品CDMOへ移す転換の契機となった。
伸びる市場に賭ける強さと、寄りかかる弱さ
この決断の中心にあるのは、祖業から継いだ技術を大型市場へ賭けるという、同社が繰り返してきた型そのものといえる。写真製版を加飾へ、加飾をタッチセンサーへと応用してきた延長で、スマートフォンという桁違いの需要へ資源を集めた判断には、日本写真印刷らしい一貫性がうかがえる。ただ、これまでの多角化が複数の用途へ技術を配ってきたのに対し、2013年の投資は市場・顧客・方式をひとつへ束ねた点で性格を異にしていた。伸びる市場に賭ける強さと、そこへ寄りかかる弱さは、同じ判断の表と裏であったとみることができる。
その弱さが減損と希望退職として表面化したとき、NISSHAは同じ発想を医療機器・医薬品のCDMOへ向け直した。景気に左右されにくい市場を選び、印刷で培った精密加工を生かす転換は、タッチセンサーの反省の上に立っている。もっとも、買収を重ねるメディカルもまた、のれんの減損という別の重さを抱え込んだ。集中投資の代償が次の一手を促し、その一手がまた新たな課題を伴う——変化を進化に変え続けられるかという問いは、この会社にとってなお開かれたままとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
写真製版が入力装置になるという読み
日本写真印刷の源流は、1929年に京都で創業した美術印刷にある。西陣織や寺社仏閣を題材に写真製版という熟練を要する印刷を磨いた同社は、その技術を紙の外へ応用してきた。1952年の松下電器との取引を足がかりにテレビ筐体の木目転写箔を手がけ、1985年にはフィルム上に透明電極を刷る抵抗膜方式のタッチセンサーを開発した。印刷で培った微細な塗り分けの技術は、家電やゲーム機、やがて携帯電話の入力装置へと移し替えられていった。写真製版を入力装置へ転用できるという読みが、後のスマートフォンへの賭けの土台にあった[1]。
鈴木順也社長は後年、事業の多角化を1960年代から始めたと振り返っている。伝統的な印刷だけでは生き残れないという危機感のもと、自社の技術を深掘りしながら別の市場へ応用してきたという経緯である。既存の製品を既存の市場で売っているだけでは会社は進化しないという経営観は、木目転写箔からタッチセンサーへと事業を継いできた同社の来歴と重なる。スマートフォン向けフィルムタッチセンサーへの集中投資も、この一貫した技術の応用の延長にあった[2]。
1,000億円企業への成長とスマホ需要の取り込み
2007年6月、創業家出身の鈴木順也氏が4代目社長に就任した。第一勧業銀行を経て1998年に日本写真印刷へ入り、取締役・常務・専務・副社長を経ての登板である。就任の前後は北米・欧州・アジアでスマートフォン市場が立ち上がる時期にあたり、フィルム式タッチセンサーの需要が急速に膨らんだ。2008年3月期の連結売上高は1,016億円と初めて1,000億円を超え、ディバイス事業が同社の稼ぎを牽引する主力へ育っていった[3]。
もっとも、その道のりは平坦ではなかった。リーマン・ショック後の2011年3月期と2012年3月期には連結で営業赤字に沈み、2012年3月期の最終損失は287億円に達した。需要の振れが大きいディバイス事業を抱えながら、同社はスマートフォン向けフィルムタッチセンサーの量産技術を磨き、拡大する受注を取りにいく戦略を選んだ。景気の谷を越えた先に見えていたのは、スマートフォンという単一の巨大市場であった[4]。
決断
2014年度・単年274億円という過去最大級の設備投資
2013年4月、日本写真印刷はスマートフォン向けフィルムタッチセンサーへの投資を決めた。生産の主力は姫路工場と加賀工場に置かれ、2014年度には両工場合わせて274億円の設備投資が実行された。1社の年間設備投資としては過去最大級の規模であり、拡大するスマートフォンの量産需要へ一気に応えるための増産投資であった。鈴木順也社長の主導のもと、同社は限られた経営資源を特定の市場へ集中させる道を選んだ[5]。
賭けの対象は、スマートフォンという単一市場にとどまらなかった。受注先も特定の顧客に、方式もフィルムにセンサーを刷るフィルム式に偏っており、市場・顧客・方式の三つがひとつの方向へ束ねられていた。同じ2013年9月、同社は決算期を3月期から12月期へ改め、海外子会社との連結の整合と開示の透明性を高めた。世界の量産に足並みをそろえ、スマートフォンの波を取りにいく体勢が整えられていった[6]。
回復した業績と、賭けの性格
投資の効果は、まず数字の回復として表れた。2014年3月期の連結売上高は1,109億円、翌2015年3月期には1,173億円まで戻し、ディバイス事業はセグメント営業利益135億円を稼ぐ柱へ成長した。スマートフォンの出荷が伸びる間、フィルムタッチセンサーは同社の収益を支え、集中投資はいったん報われたかに見えた。特定市場への賭けは、需要が続く限りにおいて合理的な選択であった[7]。
この集中投資は、鈴木順也社長の経営観とも重なっていた。会社を続けることは変化し続けることだと語る同社長にとって、既存市場に安住せず新しい需要へ資源を振り向ける判断は一貫したものであった。ただ、変化を進化に変えるには、賭けた市場が伸び続けることが前提となる。単一市場・特定顧客・特定方式へ束ねた投資は、その前提が崩れたとき、退路の乏しさとして跳ね返る性格を併せ持っていた[8]。
結果
新方式の台頭と、創業以来初の本格赤字
前提は、2015年から崩れ始めた。スマートフォン向けタッチセンサー市場では新しい方式が台頭し、顧客の集中も重なって価格が下落した。ディバイスセグメントの売上は2016年3月期の640億円・営業利益146億円から、翌期には502億円・営業利益はほぼ消える▲1億円へ急減した。センサーを外づけのフィルムに刷るフィルム式は、パネルに直接組み込む方式に押され、需要も単価も細っていった[9]。
打撃は連結の決算にも及んだ。決算期を3月期から12月期へ改める移行期をはさんで、2017年3月期の連結売上高は1,158億円、営業損失は▲39億円、最終損失は▲74億円となり、同社は創業以来初の本格的な赤字を計上した。美術印刷に始まり、木目転写箔からタッチセンサーへと業態を継ぎ替えながら黒字を守ってきた会社が、特定市場への集中投資の反動を正面から受けた。市場・顧客・方式をひとつに束ねた賭けが、収益の依存の危うさを露わにした[10]。
減損と希望退職——賭けの後始末
賭けの後始末は、数年をかけて帳簿に刻まれた。2017年10月に社名をNISSHA株式会社へ改めた同社は、2019年12月期にスマートフォン向けタッチセンサーの輸出が前年比18%減り、姫路・加賀両工場の稼働率が下がった。デバイスで106億円、産業資材で52億円、合わせて158億円の減損損失を計上し、連結営業損失は▲163億円、最終損失は▲41億円に沈んだ。2014年度に投じた設備の価値が、当初の計画に届かぬまま切り下げられた[11]。
2020年2月には、国内を中心に約250名の希望退職者を募った。半世紀にわたり加飾フィルムとタッチセンサーの量産を担った八千代工場も、前年に跡地を売却して固定資産売却益49億円を計上し、印刷・加飾の旧主力は縮小へ向かった。スマートフォン一本足の危うさを身をもって知った鈴木順也社長は、需要変動の激しいタッチセンサーへの依存を脱し、稼ぎの中心を医療機器・医薬品のCDMOへ移す転換を選ぶ。集中投資の反動が、次の事業構造を用意する契機となった[12][13]。
- 日本写真印刷 有価証券報告書(2008年3月期・連結)
- 日本写真印刷 有価証券報告書(2012年3月期・連結)
- 日本写真印刷 有価証券報告書(2015年3月期・連結)
- 日本写真印刷 有価証券報告書(2017年3月期・連結)
- NISSHA 有価証券報告書(2019年12月期・連結)
- NISSHA公式 成長の軌跡(https://www.nissha.com/company/business/history.html)
- KOIN(2020年1月20日)「グローバル化・多角化を遂げ、更に進化を続けるNISSHA株式会社の経営」
- 日本経済新聞(2021年2月12日)「NISSHA、30年に売上高3000億円目標 医療分野にシフト」