山下長
経歴1919〜1940年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1919年主要役職の状況(推定含む目安)1940年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 高千穂製作所(現オリンパス) | 1919 | 創業 | ||
| 1934 | — | ||||
| 1939 | 異動 | ||||
| 1940 | 退任 | ||||
| 日真光学 | 1940 | 設立 |
創業ストーリー
創業ストーリー
山下長氏は1889年4月に奄美大島の名瀬で生まれ、第三高等学校から東京帝国大学の法科へ進み1915年に卒業した。在学中から、本郷で体温計を作りながら仲間と顕微鏡の試作に取り組む寺田新太郎氏の作業場に通い、その仕事に強い関心を寄せていた。卒業後は弁護士を開業したが、同郷の松方家との縁から実業界へ転じ、大企業への就職の勧めを断って、松方五郎氏の常盤商会へ入った。
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)創業者山下長
- [1]山下は、明治二二年四月八日、鹿児島県奄美大島の名瀬に生まれ、第三高等学校から東京帝国大学法学部法律学科に学び、大正四年卒業した
- [2]寺田新太郎は東京本郷三丁目で体温計の製造販売に従事し、加藤嘉吉・神藤新吉と協力して顕微鏡製作に乗り出した。山下は大学在学中から寺田の作業場に出入りして、その仕事に深い興味と関心を示していた
- [3]山下は卒業後ただちに弁護士を開業。山下家は松方正義の遠縁にあたり、その紹介で実業界への転身を決意した。川崎造船所・日本瓦斯電気など松方系企業への就職をすすめられたがいずれも断り、松方五郎の経営する常盤商会への就職を望んだ
常盤商会で砂糖の輸入を担当した山下長氏は、東南アジアへの出張の折に寺田新太郎氏らの顕微鏡をジャワのオランダ人医師に見せ、外国製との差が大きいと知らされた。この時から、輸入品に劣らない国産の顕微鏡を作ることを目標に定めた。砂糖相場の高騰で常盤商会に大きな利益をもたらした功績への報いとして、山下長氏は松方五郎社長に顕微鏡会社の設立資金を求めた。折から寺田新太郎氏の体温計工場の建設が住宅地の規制で許されなかったため、幡ヶ谷に土地を求めて新会社にまとめる案を出した。
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)創業者山下長
- [4]常盤商会で砂糖の輸入業務を担当し東南アジアに渡った山下は、寺田からエムカテラ顕微鏡をジャワのオランダ人医師に見せるよう頼まれた。外国製品と比較して国産顕微鏡が遠く及ばないことを知らされ、外国製顕微鏡に劣らない国産顕微鏡をつくりたいとの夢を抱きはじめた
- [5]常盤商会で砂糖の輸入業務を担当し東南アジアに渡った山下は、寺田からエムカテラ顕微鏡をジャワのオランダ人医師に見せるよう頼まれた。外国製品と比較して国産顕微鏡が遠く及ばないことを知らされ、外国製顕微鏡に劣らない国産顕微鏡をつくりたいとの夢を抱きはじめた
- [6]山下の担当する砂糖輸入の業務は国内糖価の暴騰で常盤商会に莫大な利益をもたらし、松方社長は特別な褒賞を与えようとした。山下は顕微鏡をつくる会社を設立したいとして資金援助を求めた。寺田の体温計工場は住宅地指定のため警視庁が建設を許可せず、山下は新しく土地をもとめて新会社を設立することを提案した。新工場の地には幡ヶ谷が選ばれた
- [7]山下の担当する砂糖輸入の業務は国内糖価の暴騰で常盤商会に莫大な利益をもたらし、松方社長は特別な褒賞を与えようとした。山下は顕微鏡をつくる会社を設立したいとして資金援助を求めた。寺田の体温計工場は住宅地指定のため警視庁が建設を許可せず、山下は新しく土地をもとめて新会社を設立することを提案した。新工場の地には幡ヶ谷が選ばれた
1919年10月12日、資本金30万円で高千穂製作所が発足し、30歳の山下長氏は専務取締役に就任した。社長の川上謙三郎氏は日常の業務に関わらず、筆頭株主の山下長氏が実際の経営を担った。工場は顕微鏡を作る光学部と、寺田製作所の設備を引き継いだ体温計の計器部の2部門で始まった。1920年3月には養蚕の検査などに使う600倍の顕微鏡「旭号」を世に出し、翌年には商標を「オリンパス」として登録した。
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)創業時の工場概況
- [8]大正八年一〇月一二日、高千穂製作所が創立。資本金三〇万円、取締役社長川上謙三郎、専務取締役山下長。時に山下長は三〇才。山下は「専務として事実上会社を統べ」、川上は日常の業務にたずさわらない名目的な社長とみられる。株式は山下一、〇〇〇株、寺田新太郎八〇〇株。光学部は顕微鏡、計器部は体温計の製作にあたり、寺田製作所の設備一切を引きついだ
- [9]大正八年一〇月一二日、高千穂製作所が創立。資本金三〇万円、取締役社長川上謙三郎、専務取締役山下長。時に山下長は三〇才。山下は「専務として事実上会社を統べ」、川上は日常の業務にたずさわらない名目的な社長とみられる。株式は山下一、〇〇〇株、寺田新太郎八〇〇株。光学部は顕微鏡、計器部は体温計の製作にあたり、寺田製作所の設備一切を引きついだ
- [10]大正八年一〇月一二日、高千穂製作所が創立。資本金三〇万円、取締役社長川上謙三郎、専務取締役山下長。時に山下長は三〇才。山下は「専務として事実上会社を統べ」、川上は日常の業務にたずさわらない名目的な社長とみられる。株式は山下一、〇〇〇株、寺田新太郎八〇〇株。光学部は顕微鏡、計器部は体温計の製作にあたり、寺田製作所の設備一切を引きついだ
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)最初の顕微鏡旭号
- [11]大正九年三月、ライツ四番型を原型とする六〇〇倍乾燥系顕微鏡を送り出し旭号と名づけた。主として養蚕用に使われ原蚕種試験所に納入された。商標オリンパスは大正九年一一月に出願され翌一〇年二月四日に登録された
しかし戦後不況と輸入品の値下げが重なり、創立から3年間でレンズの研究費は資本金とほぼ同じ約30万円に達した。山下長氏は兼務していた常盤商会を辞めて顕微鏡に専念し、1923年2月の臨時株主総会で、体温計の計器部を森下仁丹側の赤線検温器へ移すことを決めた。その後、大株主となった森下仁丹と工場や敷地を巡って対立し、1928年の提訴を経て1929年の和解で不良資産の整理にこぎつけた。
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)
- [12]創立の翌大正九年には第一次大戦後の不況が吹きはじめ、ドイツ製品がダンピングを行なった。光学部の顕微鏡はレンズの研究に多大の費用を要し、三年間に約三〇万円という資本金と同額くらいの赤字を出した
- [13]事態が重大となったので山下は兼職の常盤商会を辞任し、光学部の建設に努力した。危機回避の非常手段として体温計製作の計器部を分離して森下仁丹に委譲することとし、大正一二年二月二五日の臨時株主総会で高千穂製作所計器部と赤線検温器の合併がきめられた
- [14]計器部委譲に伴い大株主となった森下仁丹とわが社との間に工場建物・工場敷地をめぐる問題が生じ、提訴は昭和三年に行なわれ、一年後の四年に和解による解決をみた。仁丹との係争解決により不良資産の整理を行なうことが出来た
高級顕微鏡の完成と海軍の指定工場としての納入で黒字に転じた1934年3月、山下長氏は専務のまま空席だった社長を兼ねた。その後も1934年の幹部社員の集団退社や1938年の役員改選の混乱で経営が揺らぎ、1939年4月には安宅商会の資本と経営の参加を受け入れ、社長の座を安宅商会専務の茶谷保三郎氏へ渡した。山下長氏は1940年10月5日に代表取締役を辞して日真光学を興し、終戦後まで顕微鏡を作り続け、1959年2月5日に69歳で死去した。
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)
- [15]国産最高級顕微鏡の完成、指定工場として海軍への定期的納入、一般需要の拡大から待望の黒字決算を実現したのを機会に、昭和九年三月一日、専務取締役山下長は専務取締役のまま社長に就任した。長く空席だった社長に就任した
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)安宅商会の経営参加
- [16]昭和九年、幹部社員が連袂退社して顕微鏡製作の新会社八洲光学を設立した(八洲事件)。昭和一三年一一月二七日の定時株主総会で取締役の改選が行なわれ経営は急速に悪化した。昭和一四年四月二五日の臨時株主総会で安宅商会の資本ならびに経営参加が決まり、代表取締役社長茶谷保三郎(安宅商会専務取締役)、代表取締役山下長らが選任された
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)山下長の退陣
- [17]昭和一五年一〇月五日、代表取締役山下長の辞任が行なわれた。日本真空興業を改組して日真光学株式会社を設立し、その社長に就任した。わが社退任時、五一才。山下は終戦後まで顕微鏡生産をつづけたが、昭和三四年二月五日病歿した。享年六九才
参考文献2件
参考文献
- 50年の歩み改訂再版(オリンパス光学工業, 1969年)
- オリンパス 公式サイト「沿革」
事実根拠:出所(オリンパス)