経営機構の改革と三事業部制への移行
電子顕微鏡専業の急成長が生んだ「巨大化のひずみ」
日本電子は、第二次大戦後の混乱期に電子顕微鏡の国産化をめざして生まれた技術者集団を母体とする。海軍の技術士官だった風戸健二らが終戦直後に研究を始め、1949年に会社として発足すると、戦前から技術を蓄えていた日立製作所などの先発大企業を、走査電子顕微鏡の早期商品化や100万ボルト超高圧機の開発で追い抜いていった。電子顕微鏡は、物質を原子に近い倍率で観察する高額な研究設備であり、官公庁や大学、先端的な製造業の研究所を主な顧客とする。1970年代初頭の日本電子は、この分野で国内首位、世界でも有数のメーカーとなっていた。
販売面でも、専業の中堅企業には不相応なほどの海外網を築いていた。1955年に初めてフランスの原子力研究所へ電子顕微鏡を輸出して以来、徹底したアフターサービスを信用の土台に輸出を広げ、欧米を中心とする7カ国に現地法人を構え、各地に約200人の技術者を駐在させていた。製品の輸出先は1971年10月に50カ国を超えるまでに広がり、売上に占める輸出の比率も高かった。狭い国内市場だけでは成り立たない理科学機器を、世界を相手に売る会社になっていた。
しかし、専業メーカーとしての急成長は、組織の内側にひずみを生んでいた。世界的な技術競争を勝ち抜くには社内に高い技術水準が欠かせず、同社は技術的な成果をあげた専門家を次々と管理職へ登用してきた。その結果、製品開発の力と組織を動かす管理の力との差が広がり、労使関係や次世代の経営者の育成といった面でも課題が表に出始めた。創業者がみずからの技術観と求心力で全体を率いるという、ベンチャー譲りの経営のかたちが、そのまま通用する規模を会社は超えつつあった。
市場の面でも転機が近づいていた。主力の透過電子顕微鏡はすでに成熟期に入り、買い手が官公庁・大学に限られる特殊な市場だけでは、これ以上の大きな成長を描きにくくなっていた。さらなる成長には、量産と一般市場を見据えた新しい事業の柱が要る。内部の組織のひずみと外部の市場の頭打ちが同時に迫るなかで、風戸社長はこの局面を、規模の拡大そのものがもたらす「巨大化のひずみ」への対応を迫られた経営上の転換点ととらえた。
オーナー経営からの脱却と三事業部制・民需多角化
1973年、風戸社長は、ほかでもない自分が築いてきた経営体制そのものの見直しに着手した。まず、最高意思決定機関であった常務会を廃止し、社長を議長として、役員に加えて本部長・事業部長級までが顔をそろえる合議の場を毎週設けた。経営上の課題をその場で一つひとつ諮るこの方式は、判断を社長個人に集中させてきたそれまでのやり方を、意識して多くの幹部へ開いていく試みであった。オーナー社長の会社としては、異例なほど徹底した協議の仕組みであった。
組織も大きく組み替えた。総務・財務などを担う管理本部と、人事・教育・労務を担う人事本部を分けて設け、国内営業を強化する部署も新たに置いた。そのうえで、電子光学や分析機器といった事業を理科学機械事業部に束ね、これに医用機器とビデオの各事業を加えた三事業部制へ移行した。将来は事業ごとに独立採算で責任を持つ体制への移行を見据えたもので、電子顕微鏡という一本足から、複数の柱で立つ会社への組み替えを意図していた。
あわせて、65歳社長定年制の導入と、取締役を計画的に育てていく方針が示された。当時56歳の風戸社長にとって、これはおよそ10年以内の引退を自ら期限として区切るものであった。長く「日本電子といえば風戸」と評されてきたワンマン社長が、後継者の育成と権限の分散に正面から踏み込んだことに、社内の幹部はとまどいも見せたという。改革は、創業者の求心力に支えられた経営をあえて手放そうとする、いわば自己否定をはらむものであった。
これら一連の改革が見据えていたのは、一品生産・特殊市場を中心とする官公庁向け(官需型)の事業から、量産と一般市場を視野に入れた民需型へと多角化を進めることであった。風戸社長には、企業はときに既存の枠組みを壊すような大胆な一手を打たなければ活力を失う、という持論があった。安定した基盤を持つ会社があえて内側から変革の渦を起こそうとした点に、この経営判断の際立った特徴がある。
石油危機と多角化の試練、そして専業の強みへの回帰
もっとも、この体制刷新は、まもなく外部環境の急変に直面する。1973年11月以降の鉱工業生産の落ち込みは1975年2月まで続き、変動相場制への移行も重なって、輸出に多くを頼る同社の事業環境は不安定になった。変動相場制のもとでは為替差損も収益を圧迫し、高度成長期のような右肩上がりの売上拡大は望めなくなった。攻めの体制づくりと景気後退とが、ほぼ同時に訪れた格好であった。
日本電子は、売上の規模に対して人員が過剰になったと判断し、会社の存続を優先して人員を売上に見合う規模へ減らす方針を決めた。1974年3月末に2,568名であった従業員を翌年3月末に1,900名規模へ縮小する計画のもと、業務の一部を別会社へ移して関係する従業員を出向させ、労働組合とは身分や組合員資格を保障する協約を1974年6月に結んだ。拡大を前提に増員を重ねてきた経営からの、明確な転換であった。
民需・一般市場をねらった多角化も、思惑どおりには進まなかった。とりわけビデオ関連の事業は根づかず、電子顕微鏡で見せた先行開発の強みを、性格の異なる大衆市場でそのまま再現することの難しさを示す結果となった。攻めの多角化の一部は、こうして実を結ばないまま整理されていく。
一方で、理科学計測機器を軸に医用機器・産業機器を加えた多軸の事業構成と、合議による意思決定や計画的な世代交代という1973年の選択は、その後の日本電子の骨格として残った。創業以来の機動力を保ちながら、巨大化に伴う保守化を避けるという当時の問題意識は、第1次石油危機を越えたのちも、リーマンショック後の再建や半導体計測装置への集中投資に至るまで、転換点のたびに繰り返し問われていくことになる。
- フランス原子力研究所へ電子顕微鏡を初輸出(輸出第1号)
- 製品の輸出国が50カ国を超える
- 常務会を廃止し合議制へ。三事業部制・65歳社長定年制を導入
- 第1次石油危機下で減量経営に着手(従業員2,568名→1,900名規模へ)
1973年の経営刷新は、財務的な危機ではなく、急成長そのものが生んだ組織のひずみへの対応であった点に特徴がある。背景と決断は当時の日経ビジネスの報道(1973年5月14日号「日本電子」ケーススタディ)に依拠し、その後の石油危機下の減量経営など結果の事実は社史・有価証券報告書で裏付けている。多角化の一部は実を結ばなかったが、専業の強みに軸足を置き直すという判断軸は、以後の日本電子へ受け継がれた。